頭が痛い。あまり眠れなかったせいだろうか。朝からずっと、思考に靄がかかっているみたいだ。
 卓くんには、今朝教室で顔を合わせてすぐに、柚島に行けなくなったことを伝えて謝った。家族で急遽出かけることになったから、と。わたしがお母さんに嘘をついてしまったせいだとは、どうしても言えなかった。
 卓くんは一言も責めることなく頷いて、「また次の機会に行こう」と言ってくれた。わたしは強張る頬を持ち上げ、どうにか笑みを返すので精いっぱいだった。

 かんちゃんとは、その日の朝も時間が合わず、会うことはなかった。それにほっとしていたのだけれど、朝のホームルームで、わたしたちのクラスの体育の先生が、インフルエンザにかかって休みだとの報告があった。そのため、今日の体育は三組四組と合同で行うらしい。
 ずんとお腹の底に重たいものが沈むのを感じながら、わたしはその報告を聞いていた。
 三組にはかんちゃんがいる。せめて今日ぐらいは、顔を合わせたくなかったのに。まだ柚島に行けなくなったショックが鮮烈に残っている今、かんちゃんの前でいつもどおりの笑顔を作れるのか、自信がなかった。

「七海ちゃん、今日体調悪いんじゃない?」
 憂鬱な気分で体操服に着替えていたとき、ふと理沙ちゃんからそんな声を向けられた。
 え、と訊き返しながら彼女のほうを見ると、理沙ちゃんは心配そうに眉を寄せて、
「なんか顔色悪いし、朝から元気ないよ。きついなら、今日は見学したら?」
「あ、ううん。大丈夫、ぜんぜん」
 わたしはあわてて笑みを作ると、顔の前で手を振る。そこでまた、こめかみがズキンと痛んだ。歪みそうになる顔を隠すよう、いそいでロッカーのほうを向き直る。
「でも」
「大丈夫だよ、本当に」
 言い募りかけた理沙ちゃんをさえぎった声は、思いのほか強い調子になってしまった。
 体操服を手にとろうと伸ばした腕が、なんだか重たい。気持ちが沈んでいるせいだと思っていたけれど、それだけではないのかもしれない。たしかに理沙ちゃんの言うように、顔色が悪い自覚はあった。
 今日は無理しないほうがいいと、心のどこかから声がする。だけどわたしは聞こえない振りをして、体操服に腕を通した。
 ――七海には無理だろ。
 ふいに耳の奥によみがえってきたかんちゃんの声に、逆らうみたいに。

 できるだけかんちゃんとは顔を合わせないようにしようと思いながら更衣室を出たのに、グラウンドのほうへ歩いていく途中で、前方にその姿を見つけた。
 しかもちょうどかんちゃんもこちらを見ていて、気づかない振りをする間もなく、目が合ってしまった。
 わたしの姿を認めたかんちゃんの眉間に、かすかに皺が寄る。きっとわたしが体操服を着ているからだ。数週間前、たまたまかんちゃんと帰り道でいっしょになったとき、わたしはかんちゃんから、今後の体育は見学するよう強めに言われていた。はじめてバスケに参加できたことがうれしくて、思わずそれをかんちゃんに話してしまったから。また倒れたらどうすんの、と心底あきれた顔でかんちゃんは言った。
 そのときのことを思い出して、きゅっと心臓が縮こまる。こめかみのあたりが鈍く疼く。
 けれど目が合った以上、無視するわけにもいかなかった。隣を歩いていた理沙ちゃんに、「ちょっと先に行ってて」と告げ、わたしはあらためてかんちゃんのほうを向き直ると、

「かんちゃん」
 笑顔が強張っていませんように。祈りながら、わたしはかんちゃんの前に立つ。
「そっか。今日は三組四組といっしょなら、かんちゃんともいっしょか」
 気持ちとは裏腹に、喉を通った声は驚くほど明るかった。へらへらと、慣れたように顔がゆるむのがわかる。染みついているのだと感じた。かんちゃんの前では、こんなふうに気持ちを押しつぶして、ただ笑顔を作るのが。
 ――そんな自分に、ふいに、吐き気がするほどの嫌悪感を覚えた。

「なんで」
「ん?」
「なんで体操服着てんの、おまえ」
 不快そうに眉をひそめたかんちゃんが、低く吐き捨てる。怒っているのはすぐにわかった。わたしが体育に参加しようとしているからではない。わたしが、体育は見学しろと言ったかんちゃんの言葉を無視しているから。
 わたしが無視していいはずがない、かんちゃんの言葉を。
「え? なんでって、体育だから」
「参加すんの?」
「うん。体調もいいし」
 思えばずっと、そうだった。わたしが生徒会に入ることを告げたとき。体育の授業に参加していることを告げたとき。かんちゃんはいつも、不快そうに眉をひそめていた。わたしはそれを、心配してくれているのだと思った。そう思おうとした。かすかに覚えた違和感は、いつも、見ない振りをして。

「だから」
 わたしの言葉を聞いたかんちゃんが、顔をしかめる。強まった語気には、隠す気もない苛立ちがこもっていた。
「見学しろっつってんじゃん。今はよくても、体育したら悪くなるかもしれないだろ」
「やだ。体育したいもん」
 それでもわたしはへらりと笑って、軽い調子で返す。深刻になりそうな空気を振り払うように。いつものように。
 かんちゃんと喧嘩に、ならないように。
「したいもん、じゃなくてさあ」
 だけどかんちゃんは、わたしの返答によりいっそうイライラした様子で頭を掻く。その心底あきれた、物分かりの子どもに言い聞かせるような声を、聞いたときだった。
 急に、頭の中でなにかが弾ける音がした。

「おまえ、いい加減用心するとか覚えろよ。何回それで体調崩してると思ってんの」
「いいんだよ」
 それがわたしの言った言葉だと、一瞬わからなかった。考えるより先に、唇からすべり出ていた。
「は?」とかんちゃんが顔をしかめる。
 ずっと怖くて仕方がなかったはずのその表情に、今は不思議なほど胸の底が冷えていくのを感じた。その冷たさに押されるまま、声があふれる。
「体調、悪くなってもいい。それでも体育がしたいの」
 一瞬、かんちゃんが不意を突かれたように目を見張った。
 その表情に、今までずっと見ない振りをしていた違和感が、目の前で容赦なく形作られていく。

「……は?」
 返ってきたかんちゃんの声は、今まで聞いたことがないぐらい冷たかった。
「なに言ってんの、おまえ」
 なにか理解しがたいものを見るような目で、かんちゃんがわたしの顔を見る。わたしが今、どんな表情をしているのかはわからない。だけどもう、笑顔なんてぜんぜん作れていないのはわかった。息が苦しい。
「いいわけないじゃん。体調崩してまで体育するって、ただのバカだろ」
 バカ。かんちゃんからそう言われたのは、たぶんはじめてだ。
 だけどかんちゃんが、わたしのことをずっとそんなふうに思っていたことは知っている。知っていた。ずっと。これも、見ない振りをしていただけで。
「じゃあ、バカでいいよ。うん、わたしバカだ」
 自分がなにを言っているのか、よくわからなかった。ただ胸の奥でふくらんだ冷たさが喉元までせり上がってきて、それがそのまま声になっていた。
「七海」
 ――ああ、だめだ。
 心のどこかで叫ぶ声がする。だけど止まらない。目の前で表情を歪めるかんちゃんに、よりいっそう胸の奥の冷たさがふくらんでいく。息が詰まる。これ以上彼の顔を見ていることすら耐え難くなって、わたしがかんちゃんから目を逸らしたとき、

「いいじゃん、もう」
 ふいに後ろから声がした。振り返ると、いつからいたのか、卓くんがすぐ傍に立っていた。
「やりたいって言ってるんだから」
 卓くんが見ていたのは、かんちゃんのほうだった。困ったような笑顔で、軽く首を傾げた卓くんは、
「させてあげれば。ほんとに体調もいいみたいだし」
 子どもの喧嘩をなだめるみたいな穏やかな口調で、卓くんが言う。

 そんな卓くんのほうへ視線を移したかんちゃんが、なにか言い返しかけたのがわかった。けれどちょうどそのとき、グラウンドから声がした。招集をかける先生の声だった。
「あ、授業始まるよ」
 それを聞いて、わたしは心底ほっとした。ふたりへ早口に告げ、踵を返す。
 かんちゃんがまだ、なにか言いたげな顔をしていたのは気づいていた。だけど逃げるように、わたしはグラウンドへ向かって歩きだした。
 これ以上かんちゃんと顔を合わせているのが、怖かった。なにか取返しのつかないことを、言ってしまいそうで。