駅で卓くんと別れ、ひとりホームに座っているあいだも、電車に揺られているあいだも、わたしの頭の中では柚島の海がぐるぐるとめぐっていた。
 白波山、雑貨屋さん、パンケーキのおいしいカフェ。
 さっき卓くんと立てた計画は、もうばっちり頭に叩き込まれている。せっかく行くのだからと、卓くんは私の希望を極力尊重してくれた。それでも、移動距離や交通手段などを考えて、体力的に厳しそうなところははっきりと指摘してもくれた。
 そうして計画を綿密に立てていくうちに、しだいに、案外なんとかなりそう、という楽観的な気持ちが生まれてきて、気づけば不安を押しのける勢いで、そちらのほうが大きくふくらんでいた。

 ――柚島に、行ける。
 噛みしめるたび、高揚で全身がざわめく。頬が熱くなり、ゆるんだ口元からは笑みがあふれそうになる。
 夢みたいだった。十年前行けなかったあの場所に、ようやく行ける。
 わたしも、柚島に、行ける。行けるんだ。
 それを泣きたいぐらいうれしく思っている自分に、ふと少し戸惑ってもしまう。自分がここまで柚島に焦がれ続けていたなんて、本当につい最近まで、知らなかったから。十年前のあの日とほとんど同じぐらいの熱量で、今も想っていたことを。

 ……ああ、そうだ。お母さんにも話さなきゃ。
 最寄り駅に着いて電車を降りたところで、わたしははっと思い出した。来月の三連休、お母さんには生徒会の活動があると嘘をついてしまっている。今日、帰ったらちゃんと話そう。最初は反対されるかもしれないけれど、卓くんと話し合って決めた計画をしっかり説明すれば、きっと納得してもらえるはず。
 決意したら、にわかに緊張が込み上げてきた。息を吐いて、気合を入れるように、よしっ、と口の中で小さく呟いてみる。そうして改札を抜けると、駅を出て歩きだそうとしたとき。

 ふいに、足が止まった。
 え、と掠れた声が唇からこぼれ落ちる。
 かんちゃんが、いた。駅前にあるロータリーの向こう。女の子といっしょに、歩いているのが見えた。

 ――なんで。
 愕然とした呟きが、胸の中に落ちる。
 わけがわからなくて、凍ったように立ちつくしたまま、わたしはその光景を眺める。
 ――なんで、かんちゃんが、坂下さんと?

 離れているので、当然会話の内容は聞こえない。だけどかんちゃんのほうへ顔を向けた坂下さんが、笑っているのは見えた。そしてその笑顔が、ひどく親しげなのも。
 偶然そこで会ったからちょっといっしょに歩いている、というふうではなかった。
 白いニットにグレーのショートパンツを穿いた坂下さんは、はた目にもおしゃれをしている。学校にいるときとは違い、巻かれた髪がふわふわと揺れている。その姿は普段学校で見ている彼女よりずっとかわいくて、なぜかざわりと胸が波立つ。

 交差点に差しかかったふたりが、足を止めた。そうして駅のほうへ身体を向けたので、わたしははっとして顔を伏せた。見つかってはいけない、と咄嗟に思った。あわてて踵を返し、足早にその場を離れる。
 どくどくどく、と心臓が嫌な感じに騒いでいた。
 たぶんわたしは今、見てはいけないものを見てしまった。なぜか直感で、そう思った。

 学校で坂下さんのあんな笑顔を見るのは、彼女が卓くんの前にいるときだけだった。他のみんなには男女問わず、坂下さんは総じて塩対応だった。だからこそ坂下さんが卓くんに対して愛想よく話しかけはじめただけで、すぐに噂になったのだ。
 そんな坂下さんが、かんちゃんの前でも、笑っていた。休日におしゃれをして、かんちゃんの最寄り駅近くを、かんちゃんとふたりで歩いていた。

 それがなにを意味するのかなんて、わからなかった。わたしが見たのはその光景だけで、それ以上のことなんてなんにも、わからなかった。
 べつにただ、なにかのきっかけで仲良くなって、いっしょに遊んでいただけかもしれない。それだってなにもおかしな話ではない。卓くんとは関係なく、ただただ坂下さんとかんちゃんが、仲良くなっただけ。
 だけど、かんちゃんと坂下さんはクラスも違う。それにかんちゃんもかんちゃんで、昔から女の子の友達が多いタイプではなかった。共通の友達といっても、今の坂下さんの友達は卓くんぐらいしかいないはずで、その卓くんとかんちゃんに、接点らしい接点はない。卓くんと付き合いはじめたことをかんちゃんに報告したとき、かんちゃんは卓くんのことを、知らないと言っていた。
 なのに。

『このタイミングさあ、おかしくない?』
 ふいに耳の奥によみがえってきた声に、どくんと心臓が跳ねる。
 二週間前。突然卓くんに話しかけはじめた坂下さんを見て、眉をひそめながら言った理沙ちゃんの言葉。
『今まで坂下さんと樋渡くん、なんの接点もなかったじゃん。なのに樋渡くんが七海ちゃんと付き合いはじめた途端、あんな急にさ。なんか裏でもあるんじゃないのって思っちゃうよ』

 ……いや、まさか。
 まさか。
 ふくらみかけた嫌な想像を、わたしは必死に振り払う。
 意味もなく家とは反対方向に歩きながら、偶然だと言い聞かせる。
 たまたま坂下さんが、卓くんとかんちゃんのふたりと、仲良くなっただけ。べつにありえないような話ではない。卓くんとかんちゃんは、クラスも部活も見た目も性格も仲の良い友達も、なにもかも違うけれど。
 共通点といえば、わたしと親しいこと、ぐらいだけれど。

 ――だけどそんなの、考えすぎに決まっている。
 だって理由がない。わたしと坂下さんは知り合いでもなんでもない。一度も話したことすらない。だからありえないと断言できるはずなのに、気味の悪い胸騒ぎは収まらない。
 ぐるぐると考え事をしながら、わたしはだいぶ長いこと街を歩き回っていた。三十分近く経っただろうか。さすがに歩き疲れたので家に帰り、玄関のドアノブに手をかけたとき。

 ――もしかして。
 ある可能性が、ふいに頭をよぎった。
 卓くんでは、なかったら?
 坂下さんが先に親しくなったのが、卓くんではなくて、かんちゃんのほうだったなら?
 それをきっかけに、坂下さんが卓くんに近づいたのだとしたら――

「七海」
 ふくらみかけた妄想は、家に入った途端飛んできた低い声に、ぶつんと断ち切られた。