「――でもなんか、今までとべつに変わらないね」
 告白のあと、「じゃあ、これからよろしくお願いします」「こちらこそお願いします」というぎこちないやり取りを交わしたことで、わたしたちの関係は変わった。友達ではなく、恋人同士になった。「そういうことでいいんだよね?」と何度もしつこく樋渡くんに確認したから、たぶんそれは間違いない。わたしたちは今しがた、たしかにお付き合いを始めた。わたしは樋渡くんの、彼女、になった。

 だけどいつもと同じように帰路についたところで、わたしはふと、そんな言葉をこぼしてしまった。
 そりゃ、付き合いはじめたからといって、いきなりなにもかもが劇的に変わるわけではないだろうけれど。それでもこうして並んで歩いているのは、昨日までの距離感と本当にまったく変わらなくて。
 それをほんの少し寂しく感じてしまったのが、伝わったのかもしれない。

「――じゃあ、変える?」
「へ」
 ふいに樋渡くんがいたずらっぽく笑ったかと思うと、おもむろにわたしの手を握った。
 突然すぎて一瞬、息が止まった。ぼんっ、と音がしたかと思うほど、一気に顔が熱くなる。
「え、え、うわ、え」思いきり混乱して間抜けな声を漏らすわたしにかまわず、樋渡くんはわたしの手を握ったまま、
「どうでしょうか、これ」
「へっ」
「なんか、恋人っぽいかなと」
 心臓が、暴れだしたみたいにうるさかった。体温もぐんぐん上がっていくのがわかる。手のひらも熱いし、たぶん汗がにじんでしまっている。たまらなく恥ずかしかったけれど、それでも、離したいとはみじんも思わなかった。むしろこのままいつまでもつないでいたい。一生つないでいたい。
「う、ん。……最高です」
「よかったです」

 前を向くとすでに視界に見えている駅舎を、こんなにも恨めしく思ったのははじめてだった。
 どうして駅がこんなに近いのだろう。三分しかいっしょに歩けないのだろう。
 そんなことが本気で悲しくて、なんだか泣きたい気分にまでなってしまって、樋渡くんの手を握る手にぐっと力をこめたとき、
「ねえ椎野さん」
「うん?」
「今から、まだ時間ある?」
 え、と訊き返しながら樋渡くんのほうを見ると、やわらかく目を細めた彼と目が合った。見慣れた表情のはずなのに、その顔は昨日までよりずっと優しく見えて、その瞬間、唐突に実感が胸をついた。
 ああ、わたしたち付き合ってるんだ、って。
 噛みしめると同時に目眩がするほどの幸福が湧き上がってきて、目の奥が熱くなる。視界が揺れる。
「……う、うん。ある。いっぱいある!」
「じゃあちょっと、寄り道していきませんか」
「うん! する!」
 興奮して子どもみたいな返事をしてしまったわたしに、樋渡くんが笑う。その笑顔もびっくりするほど優しくて、心臓が高く鳴る。
 ――よかった。
 ふいに心の底から、そんな感慨が込み上げた。泣きたくなるぐらいの強さで。

「本当は」
 いつもは別れる場所である駅を、はじめて樋渡くんと手をつないだまま素通りしたときだった。
 樋渡くんがふと、呟くように口を開いた。
 彼のほうを見ると、樋渡くんは眩しそうに目をすがめて夕陽に染まる通りを眺めながら、
「ずっと、こう言いたかった」
「え……」
「駅で別れるとき、いつも。もう少し、いっしょにいられたらいいのになって。ずっと、そう思ってた」
 思わず息を詰めたわたしの手を、樋渡くんがさっきまでより少しだけ強い力で握ってくる。その力で、そのまま心臓まで握りしめられたみたいだった。息ができなくなって、ぐらりと頭の芯が揺れる。
 よかった、と。もう一度、深く深く噛みしめる。
 少し前まで、わざわざ付き合わなくても友達のままでいい、なんて考えていた自分が、今はもう信じられなかった。
 こんな、泣きたくなるほど途方もない幸せを知ってしまったら、もう。