――理沙ちゃんのそんな言葉が、頭の隅に引っかかっていたせいだろうか。
「ちょっと卓くん、それ雑だってー」
 向かい側から聞こえてきた高い声に、折り紙を折っていた手が思わず止まる。
 顔を上げると、そこには同じ一年生である奈乃香ちゃんと樋渡くんが、並んで座っていた。

 今日はみんなで、文化祭の飾りつけに使う折り紙の花を作っていた。
 わたしより先に生徒会に入っていた奈乃香ちゃんは、樋渡くんともすごく仲が良かった。ときどきこんなふうに、ふたりで並んで座って、いっしょに作業をしていることもあった。
 何度も見かけた、見慣れた光景のはずだった。なのに、奈乃香ちゃんが樋渡くんのほうへ顔を近づけるようにして、彼の手元をのぞき込んでいるのを見た途端、わたしの心臓はどくんと跳ねた。息が詰まり、指先がすっと冷たくなった。

「卓くんってさ、手先とか器用そうに見えて意外と器用じゃないんだよねえ」
 樋渡くんが折った花をひとつ拾い上げ、奈乃香ちゃんはからかうように笑う。
「いや、奈乃香さんに言われたくないけど。これとかひどくない?」
 それに対して樋渡くんも軽い調子で言い返しながら、だけど本気でむっとしたような様子はなく、顔は笑っている。
 こんなやり取りも、しょっちゅう聞いたことがあった。気心が知れているからこその、遠慮のない軽口だった。
 今までは聞き流せていたそんな軽口が、今日はなぜか、小骨みたいに気持ち悪く喉に刺さる。
 ――卓くん。
 とくに奈乃香ちゃんの呼んだその名前が、妙にざらついた感触で、耳に残った。

 奈乃香ちゃんは樋渡くんを、下の名前で呼ぶ。
 それはべつに樋渡くんだけ特別というわけではなくて、男女問わず、奈乃香ちゃんはみんなを下の名前で呼んでいた。そういう子なのだと知っていたから、今までは気にしたことなんてなかった。奈乃香ちゃんがそうだからか、樋渡くんも奈乃香ちゃんのことだけは、下の名前で呼ぶことについても。
 今までは本当に、なにも、気にしたことなんてなかったのに。

 お腹のあたりが、動揺でざわめく。手のひらに汗がにじむ。
 嫌だ、と思った。ふたりが下の名前で呼び合っていることも、隣同士で座っていることも、いっしょに笑い合っていることすらも。
 そして一拍遅れて、そんなことを思っている自分のことも、心底嫌だと思った。

「いやいや、卓くんはさ、ギャップがあるから駄目なんだよ」
「ギャップ?」
「繊細そうな見た目してるから、手先も器用なんだろうなって思っちゃうのよ。それなのに実際はこれだから、びっくりするっていうか」
「なにそれ、理不尽な」
 眉をひそめる樋渡くんに、あはは、と奈乃香ちゃんは高い声で笑う。そうしてごく自然な動作で、樋渡くんの腕を軽く叩いた。
 それを目にした瞬間、ぎりっと胸が絞られたみたいに痛んで、気づけばわたしは立ち上がっていた。がたん、と椅子が音を立て、ふたりがちょっと驚いたようにこちらを見る。
「あ、ご……ごめんね」
 驚かせてしまったことを、わたしは早口に謝ってから、
「あの、わたしちょっと、トイレ」
 と告げて、なんだか逃げるように教室を出た。

 廊下に出て窓の前に立ったわたしは、顔を伏せ、大きく息を吐いた。
 目を閉じる。窓枠に置いた手は、いつの間にかぐっしょりと汗で濡れていた。 
 ――じゃあもし、例のかわいい転校生が、樋渡くんに一目惚れでもしたらどうする?
 昼休みに聞いた理沙ちゃんの言葉が、ふいに耳の奥によみがえってくる。
 ざわざわと、胸の奥を虫のようなものが走り抜けていく感覚がした。
 どうして今までは、平気だったのだろう。根拠もなく、大丈夫だと思えたのだろう。今はもうわからなかった。ぜったいに大丈夫だなんてそんなこと、ぜったいにありえなかったのに。

「椎野さん」
 動揺を鎮めようと、わたしが深呼吸をしていたときだった。
 ふいに後ろから名前を呼ばれ、驚いて振り向くと樋渡くんがいた。
 心配そうに眉を寄せた彼は、軽く首を傾げて、
「大丈夫?」
「え」
「急に出ていくから。どうかした? 具合でも悪くなった?」
 ――心配して、追ってきてくれたんだ。
 数秒遅れて思い至ったとき、胸がぎゅうっと苦しくなる。喉元まで込み上げた甘い熱に、息ができなくなる。

 ――嫌だ、と。
 その瞬間、痛烈に思った。
 奈乃香ちゃんにも、あの転校生にも誰にも。樋渡くんをとられるのは、嫌だ。
 伝えたら、なにかが変わってしまうのかもしれない。今わたしたちのあいだにある大事なものが、なにか、壊れてしまうのかもしれない。
 だけど、だけどそれ以上に。
 伝えなかったせいで手遅れになってしまうことのほうが、ずっとずっと嫌だ。想像するだけで叫びたくなるぐらいに。そのほうが、きっとわたしは一生後悔する。
 それが、どうしようもなく、わかるから。

「……樋渡くん」
「ん?」
 ――言わなきゃ。
 決意は、唐突に固まった。
 胸を焼いた焦燥に押されるまま、わたしは窓枠から手を放す。身体ごと樋渡くんのほうを向き直る。そうしてすっと短く息を吸い、その勢いのまま、声を乗せた。

「好きです」
 樋渡くんが目を見張る。え、と小さく声をこぼす。
 なにを言われたのかよくわからなかったようなその声に、わたしはあらためて樋渡くんの顔を見た。正面からまっすぐに彼の目を見つめ、ふたたび息を吸う。
「樋渡くんが、好きです」
 繰り返した声は、情けないぐらい震えてしまった。
 樋渡くんがもう一度、え、と声をこぼす。今度は動揺に、少し掠れた声を。
 途端、おくれてわたしの心臓が暴れはじめる。耳元で鼓動が鳴り、全身が熱くなる。思わず握りしめた手のひらに、汗がにじむ。
 それでも樋渡くんの目から、目は逸らさなかった。驚いたようにわたしを見つめる樋渡くんの目を、ただじっと見つめた。少しでもまっすぐにこの想いが伝われと、祈りながら。

 先に目を逸らしたのは、樋渡くんだった。
 ふっと顔を伏せた樋渡くんは、足元を見つめたまま額に手を当てる。そうしてその手で、前髪をくしゃりと軽く掻き上げながら、
「……椎野さんって」
「え」
「やっぱすごいな」
 息を吐くように呟いた樋渡くんの口元には、小さく笑みが浮かんでいた。
 なんだか少し困っているようにも見えたその笑みに、一瞬息が詰まる。いっきに込み上げた不安に、わたしがぎゅっとスカートの裾を握りしめたとき、

「俺が先に言いたかったのに」
「……え」
「俺も」
 そこで軽く言葉を切った樋渡くんが、顔を上げる。そうしてまっすぐに、わたしの顔を見据えた。目が合った彼の目元は少し赤くて、それに思わず息が止まる。鼓動が、頭の裏に高く響いた。
「俺も、椎野さんが、好きです」
 ゆっくりと言葉が継がれたつかの間、わたしの世界からは音が消えていた。