夏休み中には一度だけ、樋渡くんとふたりで出かける機会もあった。
 生徒会室の備品が足りなくなったので、一年生たちで買い出しにいこうとなったときだった。最初はみんなで行こうという話だったのだけれど、備品の買い出しに五人もいらないのでは、と誰かが言って、じゃんけんで負けたふたりが行くことになった。
 それで負けたのが、わたしと樋渡くんだった。
 決まった瞬間、わたしは思わずガッツポーズをしたくなったのを必死に堪えた。
「どんまい七海ちゃん」と笑って肩を叩いてくれた子に合わせるよう、「負けちゃったー」とあわてて残念そうな笑顔を作った。

 樋渡くんとふたりで帰ったことならあるけれど、ふたりでお店に入るというのははじめてだった。場所は色気もなにもない近所のホームセンターとはいえ、並んで自動ドアをくぐるとき、胸が鳴った。預かってきたメモを手に、ふたりで店内を歩き回っているあいだも、なんだかずっと足元がそわそわした。
「矢田先輩に、置く虫よけも買ってきてって言われたけど、どんなのがいいんだろ」
「いい香りがするやつにしようよ。このフローラルのとか」
「生徒会室にフローラルの香りいる?」
「いらないか」
 即答したわたしに、樋渡くんがおかしそうに笑う。その笑い方がなんだか校内で見るときよりリラックスして見えて、また胸が鳴る。そして何度となく、さっきのじゃんけんでグーを出したわたしを褒めたくなる。
 場所はホームセンターだし、今買っているのなんて虫よけ用品だけど。
 ――だけど、なんか。
 なんか、これって。
「やっぱり無難に無臭のやつがいいかな。匂いは苦手な人もいるかもだし」
「そっか。それもそうだ」
 ……デート、みたい。
 いつもより近く感じる樋渡くんの横顔を眺めながら、ぼんやりと思う。
 思ったあとで恥ずかしくなって、いやいやいや、とすぐに自分で打ち消したけれど。
 ただの買い出しだし。ホームセンターだし。目の前にあるのは虫よけ用品だし。

「なんか買い出しって、意外と悩むね」
「たしかに。虫よけ選ぶだけでだいぶかかっちゃった」
「べつにたいしたものじゃないんだし、そこまで真剣に悩まなくてよかったかも」
「じゃあ次は、もっとちゃちゃっと選んじゃお」
 なんて言いつつ移動したマスクコーナーでも、けっきょく枚数と値段を見比べ、いちばんお得なものをふたりで真剣に吟味した。
「やっぱこれじゃないかな。百三十枚で千六百二十円」
「いやこっち、百五十枚で千九百五十円だよ。こっちが安くない?」
「あ、そっか……いや、え、そう?」
「待って、計算してみる」
 軽く眉を寄せながら樋渡くんがスマホを取り出す。そうして一枚あたりの値段を計算しはじめた彼の手元を、わたしものぞき込んだ。
「……あ、こっちだった。椎野さんの言った百三十枚のほう」
「ほら! でしょー」
「すみませんでした」
 どれがいいのかいっしょに考えたり、その途中、くだらないことで冗談ぽく言い合いをしたり。学校にいるときにはなかったそんな時間に、胸の奥のほうが甘く痺れる。
 そしてまた、何度となく噛みしめる。
 あのときグーを出して、本当によかった、なんて。
 
「うひゃあ、暑い」
 冷房の効いていた店内から外に出ると、すぐにうだるような暑さにつかまった。
 むっと顔を覆った熱気に、わたしが思わずげんなりした声を漏らしたら、
「椎野さん」
「うん?」
 わたしの手から当たり前のように荷物を受け取りながら、樋渡くんがふと思いついたように口を開いた。
「アイス食べない?」
「へ」
「学校戻る前に。内緒で」
 樋渡くんの顔を見ると、ちょっといたずらっぽく笑った彼と目が合う。
 途端、ぶわっと心が浮き立った。頬に血がのぼる。たっ、といそいで口を開いたら、少し声がひっくり返った。
「食べる!」
 思わず力いっぱい答えたわたしに、樋渡くんは「じゃあコンビニ行こう」と笑った。

「これ、バレたら怒られちゃうかな」
「まあいちおう、生徒会の活動中だからね」
 近くにあった日陰のベンチに座って、いちご味のアイスキャンディを舐める。ほんのりと甘い冷たさが、心地よく喉に落ちていく。
 隣に座る樋渡くんのアイスはソーダ味で、さわやかな青色が涼しげだった。
 そっちもおいしそうだなあ、なんて思ったけれど、口には出さなかった。言ったら樋渡くんはまた、じゃあひとくちあげる、なんて当たり前みたいに言ってくれそうで。すでに食べかけのアイスでそれをされると、さすがにいろいろと、耐えきれなくなりそうだったから。

「でもまあ、この暑い中外に出たんだから。これぐらいは許してもらお。みんなはクーラーの効いた涼しい部屋の中だし」
「たしかに。それもそうだ」
 樋渡くんのこういうところも、生徒会に入ってから知った一面だった。もっと真面目で、規則を破るなんてとんでもない、というタイプかと思っていたけれど、案外、誰かに迷惑をかけたりしない範囲なら、これぐらいの『悪いこと』はさらっとやる。
「でもいちおう、内緒にしといてね。椎野さんも」
「……うん」
 そしてそういうときの、ちょっと子どもっぽい樋渡くんの笑顔を見るたび、わたしの胸はぎゅっとつかまれたみたいに甘く痛む。鼓動が高く、速くなる。
「内緒、ね」
 自分の口にした言葉になんだか妙に喉が渇いて、わたしはアイスを舐めた。
 薄いはずのいちご味が、なぜか、やたら甘ったるかった。


 夏休み後半、わたしは空いている時間で、メイクの勉強なんかも始めてみた。生まれてはじめて、ファッション雑誌を買ったりもした。恥ずかしながら、今までわたしはそういうのにまったく興味がなかったから、見つけたお母さんからは「急にどうしたの」と驚かれたりもした。
 どうしたのかは、自分でもよくわからなかった。とくになにか予定があるというわけでもなかった。ただ、なぜだか無性に、やりたくなったのだ。

 今までは長すぎるほどだと感じていた夏休みが、今年は驚くほどあっという間に終わり、そうして始まった二学期。
 その初日だった。
 ――季節外れの転校生が、やってきた。