生徒会室は、北校舎の三階にあった。
 中央に大きな長机が置かれていて、そこに生徒会役員のみんなが座っている。
 役員はぜんぶで十五人いると聞いていたけれど、今この場にいるのは十人ほどだった。今日はわたしの紹介をするからできるだけ全員に集まってもらうと顧問の先生は言っていたけれど、たぶん来られなかった人もいるのだろう。

 教室の奥に設置されたホワイトボードの前に、机に座るみんなのほうを向いて立つ。その中には樋渡くんもいて、わたしと目が合うと、「頑張れ」と口パクで言ってくれた。それに少し緊張が和らぐのを感じながら、わたしはすっと息を吸う。

「はじめまして、椎野七海といいます。一年です。今日から生徒会執行部に入ることになりました。頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」
 昨日から何度も練習してきた挨拶を、どうにかつかえるなく言い切ることができた。
 そこでいったん言葉を切ったので、挨拶はそれで終わりだと思われたのだろう。ぱちぱちと拍手が起こる。だけどわたしには、まだここで言っておかなければならないことがあった。「あの」とさえぎるようにわたしが声を上げれば、怪訝そうに拍手が止む。
「すみません」とわたしは早口に謝ってから、
「わたし、その、あんまり体力がなくて……活動に参加できない日とか、あるかもしれません。もしかしたら、急に休んで、皆さんにご迷惑をおかけすることもあるかもしれなくて。そのときは、ごめんなさい。でも、あの、できるだけ休まずに、ご迷惑にならないように頑張りたいって思ってるので」
「え、大丈夫だよー、そんなの」
 しだいに声が小さくなりながらまくし立てていたわたしの言葉を、ふとそんな声がさえぎった。目をやると、机のいちばん前に座っていた女の子が、ちょっと困ったような笑顔でこちらを見ていた。
 長い髪を後ろでひとつに束ねた彼女は、軽く首を傾げて、
「活動に参加できない日なんて、みんなあるもん。風邪ひいたり急用入ったりして、私も急に休むことあるし」
「うんうん」とその子の隣にいたショートボブの女の子も頷いて、
「お互い様だよね。あたしたちもそんなきっちりやってるわけじゃないし、気にしなくていいよ。ていうか、気にしないで。あたしも気にせず休むから」
 そう言って、ひらひらと顔の前で手を振る彼女の笑顔を、わたしは驚いて見つめた。
 ――お互い様。
 彼女が口にしたその言葉を反芻しているうちに、あらためて拍手が起こった。わたしははっと我に返って頭を下げる。それから、「よろしくお願いします」と、もう一度大きな声で繰り返しておいた。


 校舎を出ると、あたりは薄暗かった。六時を過ぎた空は、夕焼けの端に少しずつ藍色がにじみかけている。
 思えばこんな時間まで学校にいるのは、はじめてのことだった。なんだか新鮮に感じる空の色を、わたしが目を細めてじっと見上げていると、
「どうでしたか、生徒会初日は」
 隣を歩く樋渡くんからそんな質問を向けられて、わたしは彼のほうを見た。自然に顔がほころぶのを感じながら、全力で答えを返す。
「楽しかった!」
 初日の今日したことといえば、先輩たちから今後の仕事内容を教えてもらったり、備品の整理を手伝ったりといったことぐらい。けれど、最初から最後までわたしの気持ちは浮き立っていた。
 基本的に行事前以外はそれほど忙しくないらしく、しばらくは定期的に地域のボランティア活動に参加したり、朝の挨拶運動を行ったりするという。最初はそんな感じだからつまらないと思うけど、と先輩にはなんだか申し訳なさそうに言われたけれど、わたしはそんな予定を聞いているだけで、どうしようもなく胸が高鳴った。
 なにより生徒会という組織の一員になれたのだと、そう実感できたことがうれしかった。

「これからの活動も、すごく楽しそうだよね。挨拶運動とか来月のゴミ拾いとかも、すっごい楽しみ!」
 浮き立つ気持ちを抑えきれずにわたしが弾む声で続ければ、樋渡くんはなんだか眩しそうに目を細めて、
「やっぱり椎野さん、生徒会向いてるよ」
「え、そうかな」
「うん。誘ってよかった」
 うれしそうに樋渡くんが呟くので、わたしはうつむいて照れ笑いをこぼした。
 校門に続く坂道を、樋渡くんと並んで下りていく。
 樋渡くんといっしょに帰るのは、はじめてだった。今日はなんとなく流れでいっしょに帰ることになったけれど、もしかしてこれからも、生徒会の活動がある日は樋渡くんといっしょに帰れるのだろうか。わたしは電車通学で樋渡くんは徒歩通学らしいから、いっしょに歩けるのは駅までの数分だけど、それでも。
 ――もしそうなるなら、うれしい。

「そういえば椎野さん、帰る前、柴崎先輩になんか渡されてなかった?」
「あ、うん! なんかね、生徒会新聞に新しく入った人の挨拶を載せるんだって。だからわたしにも、書いてって」
「なるほど。そういえば俺も書いたな、このまえ」
 挨拶のときに声をかけてくれた女の子のうち、長い髪を後ろで束ねていたのが柴崎先輩だった。三年生で、副会長を務めているという。ショートボブの女の子のほうは、会計の矢田先輩。挨拶のあと、わたしがふたりのもとへお礼を言いにいったら、そう自己紹介をしてくれた。

「柴崎先輩も矢田先輩も、いい人だよね」
 そのときのことを思い出して、わたしがしみじみと呟けば、
「うん、いい人。俺も入ってからずっと、すごいお世話になってる」
「樋渡くんは、入学してすぐに生徒会入ったんだっけ」
「そうだよ。中学でも入ってて楽しかったから、高校でもすぐ入ろうって決めてて」
「そっかあ、中学でも」
 納得して相槌を打ってから、わたしはふと、訊いていなかったことを思い出した。
「そういえば樋渡くん、中学はどこだったの?」
「日野南」
「えっ!? 日野南なら、理沙ちゃんといっしょなんだ!」
 思いがけない校名が出てきて、わたしはついうれしくなって声を上げる。
 ということはつまり、理沙ちゃんは中学時代の樋渡くんを知っているということで。こんな近くにつながりがあったとは思わなかった。さっそく今度、理沙ちゃんにいろいろ聞いてみなければ。
 そんなことに思いを巡らせ、わたしがわくわくと胸をふくらませていると、

「あー、でも……」
 樋渡くんはふと困ったような顔になって、言いにくそうに口を開いた。
「嶋田さんは、知らないんじゃないかな。俺のこと」
「え、なんで?」
 嶋田さんというのは理沙ちゃんの名字で、わたしがきょとんとして訊き返せば、
「俺と嶋田さん、学年違うから」
「……へ?」
「俺、高校入学前に一年浪人してるんだよ。だから今同じ学年のみんなより、歳はいっこ上なんだ」
 わたしはしばしぽかんとして、樋渡くんの横顔を眺めてしまった。
 言葉の意味を呑み込むのに、少し時間がかかった。
 なんで、と訊ねかけて思い出したのは、体育の授業中に樋渡くんから聞いた話だった。去年の夏に心臓の手術をしたこと。そのせいで今も、走ることを禁止されていること。

 すぐに点と点がつながって、はっとした。
 咄嗟になにを言えばいいのかわからずにいると、そんなわたしの困惑に気づいたみたいに、樋渡くんはこちらを向いて、ちょっと困ったように笑った。そうして申し訳なさそうに眉尻を下げた笑顔で、
「黙っててごめんね。なんか、言うタイミングつかめなくて」
「あ、ううん! そんな、ぜんぜんっ」
 わたしはあわてて首を横に振る。「あの」それから慎重に、言葉を選ぶようにして、
「このこと、他のみんなは知ってるの……?」
「何人かは知ってるよ。原田とか相澤とか、仲良いやつにはさすがに話した。でも、それぐらい。言ったほうがいいのかなとも思ってるけど、自分からこういう話、積極的にするのもなんか気が引けて。話したことで、変に気遣われるようになるのも嫌だし」
「そっか。……そうだよね」
 樋渡くんのその気持ちは、わかる気がした。言えばきっと、どうしてもなにかが変わってしまうから。

「だから、椎野さん」わたしがまた次の言葉を選びかねていると、樋渡くんはなんとなく重たくなった空気を散らすように、
「知ったからって、明日からいきなり敬語になったりしないでね?」
「し、しないよ!」
 思わず大声で否定してしまうと、樋渡くんはおかしそうに笑って、「よかった」と言った。
 その穏やかな笑顔に、ふいに胸の奥がつきんと痛んで、
「……あの」
「ん?」
「ありがとう。話してくれて」
 気づけばこぼれていた言葉に、樋渡くんはわたしの顔を見た。
「……こちらこそ」
 そうしてやわらかく目を細めると、
「ありがとう。生徒会、入ってくれて」