……あ、そういえば。
 休み時間。トイレから自分の席に戻るときに黒板の前を通ったので、わたしはチョーク入れを覗いてみた。最近覗いていなかったと、ふと思い出したのだ。
 見れば、赤のチョークが半分ほどの長さになっていて、しかもその一本しか見当たらない。わたしは窓際に設置された戸棚のほうへ歩いていくと、中から新しい赤のチョークを一本引き抜いた。それをチョーク入れに足して、あらためて自分の席へ戻ろうとしたとき、

「すごいね、椎野さん」
 ふいに真後ろからそんな声がして、びくっと肩を揺らしてしまった。
 驚いて振り向くと、樋渡くんが感心したような顔で立っていて、
「いつもそれ、してるの?」
「へ」
「チョークの補充」
 黒板のほうを指さしながら、樋渡くんが言う。
「あ、う、うん」そのびっくりしたような声色に、わたしはちょっとはにかみながら指先で頬を掻くと、
「いちおう、気づいたときにはね」
「すごいな。俺、今まで一回も気にしたこともなかった」
「そんな、たいしたことじゃないよ、ぜんぜん」
 本気で感心したように樋渡くんが言うので、わたしは笑いながら顔の前で手を振る。

 むしろこれぐらいしかできないから、わたしはやっているだけだ。
 始めたのは、小学四年生の頃だった。そのときから校内の委員会活動が始まったのだけれど、わたしは体調のせいでなんの活動にも参加できずにいた。それはつまり、ひとりだけなにもクラスの役に立てていないということで、それが気になったわたしは、普段の生活の中でなにかできることはないかと探すようになった。

 そこで見つけた仕事が、チョークの補充だった。
 授業中、短いチョークしかないときは、先生が授業を止めて新しいチョークを取りにいっている姿を、しばしば見ていたから。その手間がなくなれば、先生も少しは助かるかもしれない。そう思って、ときどきチョーク入れを覗き、足りないチョークを補充するようにした。
 もちろん、みんながしている委員会活動に比べれば、ぜんぜんたいしたことではないのはわかっていた。毎日するわけでもないし、ほんの数秒で終わる作業だ。
 それでも先生がたまに、「このクラスはいつもチョークがそろっていていいな」なんて独り言みたいに呟くのを聞いたら、うっかり口元がゆるんでしまうぐらいうれしかったし、わたしでも少しは役に立てているんだ、なんて思えて。そうして続けているうちに、気づけばそれはわたしの習慣みたいに染みついて、中学校でも高校でも、当たり前のようにチョーク入れを覗くようになっていた。

 本当にただそれだけのことなのに、
「いや、すごいよ。そういうのに気づくのがすごいと思う」
 樋渡くんは力を込めてそんなことを言ってくれるので、なんだか胸の奥がむずむずしてくる。まっすぐに見つめてくる視線もくすぐったくて、わたしは顔が少し熱くなるのを感じながら、
「ほんとにたいしたことじゃないよ。たまーに、気づいたときとか気が向いたときにしてるだけで。ほら、わたし、これぐらいしかできる仕事ないし……」
 早口にそう言って苦笑してみせれば、樋渡くんはふと真顔になってわたしを見た。
 そうして一瞬だけ、なにかを考えるような間を置いたあとで、
「椎野さんって」
「うん?」
「なにも部活とか入ってないんだっけ」
「え? あ、うん。なにも」
 唐突な質問に、わたしはきょとんとして頷く。樋渡くんはやけに真剣な顔でわたしを見据えたまま、「じゃあさ」と続けた。
「生徒会、興味ある?」
「……へ」
 思いがけない単語に、わたしは驚いて樋渡くんの顔を見た。
 訊き返したかったけれど、ちょうどそのとき始業を告げるチャイムが鳴った。間を置かず教室の前方の戸が開き、先生が入ってくる。わたしたちはあわててそれぞれの席に戻ることになり、その話はそこで途切れた。

 そのせいで、次の授業、わたしはほとんど上の空だった。集中しようとしても、樋渡くんの口にした単語が何度となく頭を巡って、邪魔をした。
 ずっと気になって仕方がなかった話の続きができたのは、その授業が終わった次の休み時間。
 終わるなり、樋渡くんはわたしの席までやってくると、

「さっきの話だけど」
 空いていた前の席にこちらを向いて座りながら、前置きもなしにそう口火を切った。
「椎野さん、生徒会に入る気とかない?」
「生徒会……」
「うん」
 樋渡くんの表情も口調も、真剣だった。それだけで彼が本気で言ってくれているのだということはわかって、鼓動がゆるやかに速度を速めていく。
「椎野さん、向いてると思うんだよね」
 わたしが黙っているあいだに、樋渡くんが穏やかな、だけど真面目な声で続ける。

 ――生徒会。
 さっきの授業中も、何度となく頭の中で繰り返していた単語。
 もちろん中学校にも生徒会はあった。だけど所属しているのは、しっかりしていて頭も良い、いかにも”できる子”な生徒ばかりだったから、わたしなんて入りたいという意識すら、一度も持ったことはなかった。わたしにはあまりに遠すぎて、関係がない、別世界のようなものだと感じていた。
 だから樋渡くんが向けてくれた言葉は、にわかには信じがたかった。
 まさか、と思ってしまう。わたしなんかが生徒会なんて。力不足にもほどがある。ぜったいに他にもっと、ふさわしい人がいる、って。

 ――だけど。
「え、っと……あの」
 わたしの心臓はどうしようもなく、ドキドキと高鳴っていた。全身に力がこもり、背筋が伸びる。
「ほんとに? わたしが?」
「うん」
「できる、のかな。わたしでも」
「できるよ」
 樋渡くんが即答してくれて、また心臓がどくんと跳ねる。
「あの、でも」膝の上に置いていた両手を、わたしは思わずぎゅっと握りしめながら、
「わたし、頭悪いし、体力もなくて」
「そんなことないでしょ」
 あいかわらず即座に否定してくれる樋渡くんの言葉は迷いがなくて、そのことにわたしの胸は熱くなる。
 そしてわたしは、樋渡くんならこう言ってくれることを、もうわかっていた気がする。その言葉を聞いて、背中を押してほしいと思っていことを。
「チョークの補充とか、そういう細かいところに気づいて動けるのすごいと思うし。このまえは持久走だってできてたんだし、体力もないなんてことないよ。椎野さんが生徒会に入ってくれたら、俺はうれしいけど」
 まっすぐにわたしの目を見つめたまま、樋渡くんはためらいもなく言い切ってみせる。途端、わたしは急速に頬に血がのぼっていくのを感じた。首筋に触れると、自分でもはっきりとわかるぐらいに熱かった。
 彼が力を込めて並べてくれた褒め言葉よりも、最後にさらりと付け加えられた、『俺はうれしい』の威力がすごくて。
 思わず言葉に詰まって、え、とか、あ、とか、意味のない声をこぼしていたわたしに、

「まあ、こんな急に誘われても困るよね。ごめん」
 困らせていると思ったのか、樋渡くんはふいにそう言って苦笑すると、
「とりあえず、一回ゆっくり考えてみてくれるとうれしいな。もちろん椎野さんにその気がないならぜんぜん……」
「入りたい!」
 樋渡くんが話を切り上げかけるのがわかったとき、わたしは声を上げていた。
 考えるより先に、気づけば口からこぼれていた。
 そして口に出したあとで、自分が心の底からそう思っていることを、自覚した。最初に樋渡くんが、わたしに生徒会という単語を向けてくれたあの瞬間から。たぶんわたしの気持ちは、もうとっくに決まっていたことを。

「え、あ……ほんとに?」
 わたしの声の大きさにびっくりしたように、何度かまばたきをしてから、樋渡くんがゆっくりと訊き返してくる。
「うん!」わたしは勢い込んで頷くと、軽く樋渡くんのほうへ身を乗り出しながら、
「どうやったら入れるのかな? 今すぐに入れるの? なにか書類とか」
「あ、ちょっと待って」
 わたしの勢いに気圧されたように樋渡くんが少し身を引くのを見て、わたしははっと我に返った。「あっ、ご、ごめんね」あわてて謝りながら、すごすごと椅子に座り直す。そこで急に冷静になった頭には、ふと、ある不安もよぎって、

「……あ、でも」
「ん?」
「その前に、入っていいか訊いてみなきゃ。お母さんとか」
 かんちゃんに、とはさすがに口に出せなくて、心の中でだけ続けると、
「え、なんで?」
 樋渡くんはきょとんとした顔で訊き返してきた。心の底から不思議そうな調子だった。
「入るのに許可がいるの? なんか家庭の事情で?」
「ううん、わたしの身体のことで……」
 ――七海には無理だろ。
 中学で部活に入りたいと言ったわたしに、かんちゃんが間髪入れずに返した言葉が、ふいに耳の奥で響いた。
 今度は部活ではなく生徒会だけれど、かんちゃんはまた、同じように言うだろうか。わたしには無理だって。わたしはわたしにできることだけ、やればいいんだ、って。
 かんちゃんに、そう言われたら。
 わたしはまた、あきらめるのだろうか。

 ……嫌だ。
 ふいに強くそんな思いが湧いて、わたしは拳を握りしめた。手のひらに爪が食い込み、ぴりっとした痛みが走る。

「でも椎野さんは、入りたいんでしょ?」
 まるでそんなわたしの気持ちを見透かしたみたいに、樋渡くんが訊いてくる。
 顔を上げると、さっきと同じ、ひどくまっすぐな目が、わたしを見ていた。
「……入り、たい」
 その目に見つめられると、わたしはなんだか嘘がつけない。胸の奥のほうで生まれた熱がいっきに喉まで込み上げてきて、声になってこぼれる。そして口に出すとよりいっそう、その熱はふくらんで、
「すごく。入りたい、わたし。頑張ってみたい」
「じゃあ、入ろうよ」
 樋渡くんの答えはいつもあっさりとしていて迷いがなくて、そのことに、わたしの胸のつかえも押し流されていく。
「椎野さんが入りたいって思ってるなら、それだけでいいと思うよ」
 わたしは一度ゆっくりと息を吐いて、樋渡くんの顔を見た。
 そうしてわたしもその目をまっすぐに見つめ返しながら、ほんの少し緊張に掠れる声で、頷いた。