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「えっ、七海ちゃん、体育参加するの!?」
 体操服を入れたビニールバッグを手にわたしが立ち上がると、隣の席から、理沙ちゃんのぎょっとしたような声が飛んできた。
 うん、とわたしはなんとなくはにかみながら頷いて、
「今日は、頑張ってみようかなって……」
「大丈夫? 今日も持久走らしいよ? 無理しないほうがいいんじゃない?」
「大丈夫。きつくなったらすぐやめるから」
 理沙ちゃんとそんな会話を交わしながら向かった先の更衣室。そこでも、周りのクラスメイトたちは着替えるわたしを見て驚いたように、
「えっ!? うそ、七海ちゃん参加するの?」
「大丈夫? 身体弱いんだったよね? 今日も持久走だよ?」
 口々に訊ねてくれるみんなに、何度も「大丈夫」と笑顔で首を振りながら、わたしは体操服に袖を通す。
 外に出ると、先生までわたしを見つけて目を丸くしていた。参加するのかと驚いたように確認され、わたしが頷くと、くれぐれも無理はしないように、ということを、ものすごく真剣なトーンで言われた。

「椎野さん」
 始業時刻になり、集合がかかったのでわたしが向かおうとしたときだった。ふと後ろから呼び止められ、振り向くと、今日も制服を着た樋渡くんがいた。
「無理はしないようにね」
 まっすぐにわたしの目を見ながら、先生や理沙ちゃんたちと同じことを、樋渡くんもやっぱり真剣なトーンで口にした。
 だけどそれに、「うん」とわたしが大きく頷いてみせると、樋渡くんはふっと表情をやわらげて、
「頑張ってね」
 そう言って、ぐっと握った拳を顔の横に掲げてくれた。
 途端、胸の奥にじわっと温かいものが広がる。つられるように、わたしの頬もゆるむのを感じながら、
「……うん!」
 わたしはもう一度大きく頷いて、同じように拳を握ってみせてから、駆け足でグラウンドへ向かった。

 スタートラインに並ぶと、胸がドキドキと高鳴った。心地よい緊張が、全身に満ちている。
 隣に立つ理沙ちゃんが、「無理はしちゃだめだよ」とそっと耳打ちしてくる。
「うん」とわたしは理沙ちゃんの目を見て笑顔で頷いてから、前を向き直った。
 グラウンドの黄土色が眩しい。顔に当たる日差しの暖かさも、なんだか、このまえとはぜんぜん違う。指の先まで、全身がぽかぽかと温かい。

「よーい……スタート!」
 先生の合図を受けて走り出したみんなは、先日のジョギングのときよりずっと速かった。あっという間に、背中が遠ざかっていく。
 だけど今日は、それで焦ったりしない。置いていかれてもいい。今日の目標は、みんなについていくことではなく、自分のペースで走り切ることだと決めてきた。理沙ちゃんにも、わたしのことは気にせず自分のペースで走ってくれるよう、事前にお願いしている。

 そもそも、今までろくに体育の授業すら参加してこなかったわたしが、いきなりみんなと同じようにやろうとすること自体が、とうてい無理な話だったんだ。このまえは最初だからと、知らぬ間に気張りすぎていたのだと思う。
 わたしは、わたしのペースで、やればいい。
 まっすぐに前を見つめ、足を動かす。はっ、はっ、と規則正しく息を吐く。
 前回はスタート直後に無理をしたせいで、すぐに苦しくなってしまった。だから今日は、呼吸が乱れないぐらいのペースを保つことを、きっちり意識しながら走った。
 みんなの背中は見ない。見るのはただ、わたしが走るコースだけ。

 ――ああ、わたし、走ってる。
 グラウンドの半周を過ぎたとき、ふいにそんなことを実感して、胸が震えた。
 周りからは、走っているようには見えないぐらいのスピードなのかもしれないけれど。それでも今、わたしは走っている。ちゃんと腕を振り、地面を蹴っている。
 身体が軽かった。吸い込む息も、肌で感じる日差しも、ぜんぶ心地よい。息はだいぶ上がっていたけれど、その苦しさすら心地よかった。できるなら、このままずっと走っていたいと思うぐらいに。

 だけどグラウンドを一周走り切る頃には、さすがに苦しさが本格的になっていた。足も急に重たくなってきて、なかなか前へ進まない。前方を見据えていた視線も、知らず知らず下へ落ちていく。
 ここまでだ、と思った。
 始まる前に、固く決めていたことだった。ぜったいに無理はしない。自分の体調を見極め、危ないと思ったらすぐに止めること。
 だからわたしは足を止めると、荒い呼吸に肩を揺らしながら、グラウンドの外へ出た。下を向くと、額を汗が伝い、地面に落ちた。顔の熱さに、わたしはそこではじめて気づいた。呼吸はなかなか収まらず、喉が鳴る。背中を曲げ、膝に手を置いた。苦しくて、熱い。口の中はカラカラで、喉がひりひりする。
 だけど、なんでだろう。なんだかすごく、――すごく、気持ちいい。

「椎野さん! 大丈夫?」
 きっと気にして見ていてくれたのだろう。樋渡くんがすぐに止まったわたしに気づいて、駆け寄ってきてくれた。
 わたしは膝に手を置いたまま、なんとか顔を上げ、笑顔を作る。きっと不格好な笑顔になっているのはわかったけれど、それでもそうしたかった。このうれしさを、樋渡くんに伝えたかった。
 たぶんぐしゃぐしゃになっている笑顔といっしょにピースサインを向ければ、樋渡くんも笑って、
「どうですか、走った感想は」
「すごい、気持ちいい。なんかね、やりきった、って感じ。いや、ぜんぜん、やりきっては、ないんだけどね」
 気持ちがとても高揚していた。樋渡くんの質問に、言葉が次々に喉からあふれてきて、思わず早口になる。呼吸はまだ苦しいのに、それでも今の気持ちを伝えたくて、荒い息の合間、掠れた声でわたしがまくし立てていると、
「やりきったよ」
 樋渡くんは静かに、だけどはっきりとした声で、そう言った。
 顔を上げると、樋渡くんはやわらかな笑顔で、まっすぐにわたしを見つめたまま、
「頑張ったね、椎野さん」
 その声と言葉はまるで、わたしの胸に温かく染み入っていくように響いた。
 ふいに鼻の奥がつんとする。うん、と小さく頷いて、わたしは顔を伏せた。
 顔はまだ熱い。心臓も、あいかわらずうるさい。どんなに待っていても、それはいっこうに、引いてくれなかった。


 その後、学校ではとくに体調は崩さなかったけれど、その日の夜に熱が出た。
 自分では無理をする前に止めたつもりだったけれど、さすがにあんなに長い距離を走ったのははじめてだったから、疲れが出たらしい。
 毎日やっていた明日の予習も今日はあきらめ、薬を飲んでベッドに入る。
 頭が痛くてぼうっとする。身体は重たくて、たしかにきつい。なのに不思議と、つらくはなかった。それよりも、目を閉じると体育の授業での高揚を思い出して、胸の奥がくすぐったくなった。

 ――この熱は、今日わたしが頑張った証だ。
 そう思えば、なにもつらくなかった。熱を持った自分の身体すら、愛おしく思えた。