お日さまは丁度空の真上にかかっていて、珍しく風も穏やかだった。
春先の穏やかな波は静かに砂浜に打ち寄せ、人影もまばらで、僕たちはずっと手をつないで歩いている。

 僕なんかのせいで、奏には海を嫌いになってほしくないな。
海を見たら思い出してほしいなんて、そんなことをお願いするつもりはないけど、僕が消えてしまったら、いつか奏の記憶からも、僕は完全に消えてしまうのだろうか。
そんなことを考えていた手に、不意に何かが落ちた。
見ると小さなしずくが、手の甲に跳ねている。

「泣いてるの?」

 奏に言われて、初めて気がついた。

「本当だ。ずっと海の中にいたから、自分の涙って、初めて見た」

 頬をぬぐったら、手にべっとりと水がつく。
これが涙か。
奏の手が伸びて、僕の頬に流れるしずくを拭った。
彼女の指先は、そのまま僕の唇に触れる。
だけどその距離を、僕たちは互いに縮めることが出来ない。

「行こうか」
「うん」

 僕はしっかりと彼女の手を繋ぐ。
奏も強く僕の手を握り返した。
春の潮風が、長く伸びた波打つ彼女の黒髪をやわらかくまき上げる。
コートは着ているけど、温かな春の日差しは、惜しみなく降り注いでいた。

「いい天気でよかった」

 僕がそう言ったら、奏は遠くに見える防波堤を指さした。

「私が海に落ちたのはね、こんな風に吹かれて、その時に持っていたゴミ袋が……」

 砂の上をゆっくりと歩く靴の中で、僕の体がボコリと泡だった。
体内に生まれた泡が、足元からゴボゴボと胸にまで上がってくる。
どうやらこの魔法は、夜まで待ってくれないみたいだ。
突然立ち止まった僕を、奏は見上げる。

「もう行っちゃうの?」
「時間だからね」

 胸が苦しい。息が出来ない。
足元から湧き上がる泡は、すぐに全身に広まった。
これ以上、余計なおしゃべりはいらない。
彼女の手が、僕をぎゅっと握りしめる。
せめて最期くらいは、奏にカッコ悪いところ、見られたくなかったな。
僕は精一杯の笑顔で、つながれていた彼女の手をほどく。

「ありがとう。僕の知らなかった世界を見せてくれて。本当に感謝してる」

 気の遠くなるほどの永い年月を、たった独り海で過ごしていたこの僕に、新しい世界へ飛び込む勇気をくれたのは、間違いなく彼女だった。
人間の世界で何も知らず、何も分からなかった僕に、たくさんのことを教えてくれた。

「だから奏も、もう泣かないで」

 海から出てきた時、僕は一人だったのに、今は奏がいる。
それだけ幸せだったんだ。
もう一度彼女に微笑んで、繋がれた手を離す。
打ち寄せる波に、一歩を踏み入れた。
潮騒の声を聞くのも、久しぶり。
僕は今から、この無限に沸き立つ海の泡の一部となり生まれ変わる。

「元気でね」

 体を支えきれなくなった足元が崩れ、前のめり倒れそうになるのを、とっさに彼女は支えた。
僕は奏の腕に抱かれ、最期を迎えることになったらしい。
あの時、海の泡に包まれ飛び込んできた君のその横顔に、僕は恋をしたんだ。
僕は今からその泡となって、また君を包もう。
誰かを好きになるってことを、教えてくれたのは君だった。

「大好き」
「僕もだよ奏」

 彼女の手が伸びて、崩れてゆく僕の頬を包み込む。
あぁ。奏は本当にずっと、僕のことが好きだったんだ。
それなのに僕は……。
彼女の顔が近づく。
その頬に流れる涙を拭ってあげたいのに、動かせる手はもうない。
触れた唇から伝わった熱が、僕の全身を駆け抜けた。
全身の血が沸騰したように沸き立つ音を聞いて、そっと目を閉じる。

「奏!」

 体温が突然、3度くらい上がったような気がした。
崩れかけた体の輪郭が、しっかりとした感覚として蘇る。
熱い激流のような血潮が、全ての血管を駆け巡った。

「宮野くん?」
「奏!」

 彼女を抱きしめた僕の腕は、以前より重く、熱くなり、赤味を帯びた肌が、人間になったことを証明していた。
もう一度、彼女とキスをする。
その唇が、こんなに熱いものだと知らなかった。
人間になった僕は彼女と一度手をつなぐと、大海原を後に駆けだした。



『完』