「誰かのためとかじゃなくて、自分の好きなことをしていいんだよ」
「それは、奏にとっても?」
「そう! それが私の、いま一番やりたいこと!」

 白浪を切って大海原を走る大船団を見たのは、いつの頃だっただろう。
キラキラと光る海面を、風を受けて走るあの姿は本当に勇壮だった。
その仲間からはぐれたたった一隻の船が、その美しい帆を張ったまま港に釘付けにされているのを、僕はいつか解放してあげたいとずっと思っていたんだ。

 約束通り、僕は休みの日に奏と待ち合わせて、一緒に船を見に行った。
何だか寂しそうだったその船は、陸から見てもやっぱり寂しそうで、冬の近づいた曇り空の下では、真っ白な美しい帆を張ることすら許されていなかった。
どんなに美しい船でも、陸に上がることはある。
僕はこの船を見上げるために作られた歩道で、冷たく冷えた手すりをぎゅっと握りしめる。

「思ってたのと違った?」

 奏はマフラーに手袋をして、僕の隣に並んだ。
彼女の吐く息が白く濁る。

「ねぇ、今度は奏の行きたいところに行こう。奏は何が好き? 何がしたい? 奏のしたいことなら、僕は何でも……」
「違う。私は、宮野くんのしたいことを聞いてるの」

 僕のしたいことなんて、ただ一つしかない。

「そうだね。じゃあずっと、奏といたい」

 僕はすぐ隣にいる彼女の顔が見れなくて、その代わりに動けなくなった船を見上げる。
その唇に触れたいと願っても、その瞬間に今のこの時も気持ちも、全てが否定されるかと思うと、怖くてたまらない。

「ならずっと、ずっと一緒にいよう。ずっとだよ」

 そう言った奏を、背中から抱きしめる。
手袋をしたまま手すりに乗せた彼女の手に、自分の手を重ねた。
彼女は手袋を外し、僕の指に指を絡める。
彼女の伸ばし始めた黒髪の、その首筋に顔を埋めたら、くすぐったそうに笑った。

「奏が髪伸ばしたら、今のくるくるがもっとくるくるになるかもね」
「そうかな。重みで伸ばそうと思ってるんだけど」
「奏の髪がまっすぐになるの?」
「なったらいいね」
「そうなったら、僕も見てみたい」

 奏が僕の腕の中で振り返る。
少し背伸びをして、彼女の顔が近づく。
だけどそれは、すくにうつむいて僕の胸におでこをつけた。

「寒くない?」
「大丈夫」
「あったかいココアを飲んだら帰ろう」