最後の大会会場となっていたのは、前回と同じプールだった。
抽選で場所取りした二階観客席に陣取る。
今回僕は、50と100のバタフライにエントリーされていた。
奏と岸田くんとその他の部員たちも、すぐに準備へ向かう。

「僕の出番は何時くらい?」

 いずみに話しかけたら、彼女はとても迷惑そうに僕を見上げた。
そういえばいずみと話しをするのも、あの時以来だ。
彼女は持っていた競技の進行表をペラリとめくる。

「まだ3時間近く待つから……。分かるところに居て」

 別にどこかに出て行こうなんて、そんなつもりじゃなかったのに。
そう言われると、本当にどこにもいけなくなってしまった。
僕はそのまま、彼女の隣に座る。
やっぱり彼女は、凄く嫌そうな目で僕を見た。

 入ったばかりの会場では、まだ競技も始まっていなくて、プールサイドにいる審判員の人たちが、慌ただしくテーブルとかの準備をしている。
客席も他の出場者がグループで陣取っていて、泳ぎに行く人と、僕みたいに残っている人、いずみみたいな人との出入りでごちゃごちゃしていた。

「……。あのさ。結局奏とは、どうなったの?」

 いずみは周りに他の水泳部員がいないことを確認してから、僕にぼそりとつぶやいた。

「どうって?」
「私は、ひたすら謝り倒して何とか許してもらったけど……。あんたのおかげで、私まで大変だったんだから」

 いずみは怒っている。
怒っているけど、もう本当には怒っていないみたいだ。
僕にはそういうことも、なんでそうなるのかがよく分からない。

「あぁ。いずみも、奏のことが好きなんだ」
「そりゃそうでしょ!」

 彼女はぱっと前を向くと、じっとうつむいた。
黄色くて長い髪が、肩からさらりと流れ落ちる。

「私だって、あんたには感謝してる。私だけが助かって、奏があのまんま大変なことになってたら、私だって……。今ここには、いなかったと思うから」

 彼女は僕に、その横顔を向けたまま、少し頬を赤らめた。
それはとても小さな告白だったけど、僕にとっては十分過ぎるものだ。

「だから、あんたが人間になれて、よかったと思ってる。奏とも仲直りしてほしい。二人にはちゃんと、幸せになってほしいと、真剣に思ってるから」
「ありがとう」

 僕が本当に人間になれていたのなら、きっと彼女の言葉に泣いたのだろう。
そうやって流す涙のことを、きっと美しいと言ったのだろう。

「いずみは、僕のことも奏のことも、好きだったんだね」
「そりゃそうだよ! だけどそれは、ヘンな意味じゃないよ!」

 だとしたら僕も、いつまでもいずみに好きなままでいてほしいと願おう。

「いずみは、僕が今日一番になったらうれしい?」
「え? そりゃうれしいよ」

 そう言った彼女に、僕はにこっと微笑んで返す。

「分かった。じゃあ、ちゃんと見ててね」

 前回より一つ上の大会だとは聞いていたけど、相変わらず僕にはその違いがよく分からない。
確かに会場の雰囲気は違うけど……。
ちょっと参加人数が多い? 
前は高校生ばかりだったけど、今回は少し小さな子供から大人まで一緒だ。

 奏の出場する、女子50m自由形が始まった。
水着に着替えた彼女がプールサイドに出てくる。
予選7組、エントリー数61種目。
奏は3組だ。
人間というのは、やること全てにきちんとルールがある。
公式大会での記録とやらで、泳ぐ組もレーンも最初から決まっていた。
最終組の方に成績のいい人間が集められているから、何組、何レーンと聞いただけで、その人の泳ぐ能力が分かる。
奏はあまり、この中では速くないということだ。
彼女が飛び込み台の前で肘を伸ばしている。
僕は立ち上がった。

「かなで、がんばれー!」

 僕の叫んだ声に、いずみは苦いものでも飲んだような顔をする。
ここで叫んだって、彼女には聞こえていないだろう。
だけど、堂々と彼女の応援が出来るのは、今しかない。

「応援するのもいいけど、自分の出番も忘れないでよね」
「もちろん。それは分かってるよ」

 会場の壁にかけられた時計を見る。
女子50m自由形の開始時刻は9時半の予定通り。
岸田くんの出る男子50m自由形の終わった後で、僕の出る50のバタフライが始まる。
男子50mバタフライの開始予定時刻は9時56分だ。
前回大会で100と200の記録しかない僕は、50のオープンで記録を出さないと、決勝には出られない。
だから後で一緒に争うことになる50mバタフライの選手の泳ぎは、見ておきたい。

 奏が台の上に乗った。
合図と共に飛び込む。
黒い水着に、真っ直ぐに伸びた体が、水面に刺さる。
水中を人魚のようにぐんぐん進んだ彼女の体が、水面に浮かんだ。
僕はいずみを助けるために海に飛び込んだ彼女の、この泳ぐ姿に心を奪われたんだ。
水面をかく水しぶきが、彼女の腕から湧き上がる。
奏のゴールを見届けると、僕はその姿を忘れないよう、しっかりと目を閉じた。
僕ももう、覚悟を決めなくてはいけない。
彼女が泳ぐから、僕もここで泳ぐ。
それは海を出る時に決意したことと、変わりない。

「おにぎり買ってくるね」

 いずみに言い残すと、僕は外に出た。
強い日差しが、頭上から照りつける。
陸の夏は、海の夏より暑い。
この夏の空気を、この一瞬の時を、僕は大切にしまっておこうと初めて思えた。
海から上がってきた時は、地上にあるもの全てが、珍しくてしかたがなかった。
もうすっかり見慣れてしまったけれど、こんなにも違う世界が僕のすぐ隣にあったことに、驚かされたんだ。
きっとそれを知れたことが、一番の宝物。
僕はコンビニでいつもの鮭といくらのおにぎりと、スポーツゼリーを買う。
店員さんに「ありがとう」って言ったら、「ありがとうございました」って返してくれた。