学校というところは、自由に動いていい時間と、座って先生の話を聞かなければいけない時間とに分かれているらしい。
教科書という名の本をもらったから、ぱらぱらと中をのぞく。
文字は習ったけど、あんまり好きじゃない。
絵とか写真は、見るだけで分かるから好き。

 もし奏が僕を好きになってくれなくても、人魚に戻る方法はある。
海の魔女にもらった銀のナイフで彼女の心臓を突き刺し、それを食べればいいんだって。
だけどさぁ、そんな怖いこと出来る? 
もうちょっと他にいい方法はないのかって聞いてみたんだけど、それくらいと交換しなければいけない、強い魔法だから無理って言われた。
海底に住む魔女がかける魔法は、いつだって同じ価値のものと交換で成り立っている。
僕が人間になるために彼女に捧げたのは、あと300年は続くであろう僕の寿命。
どうせ人間になるんだから、そんなもの必要ない。
海の魔女たちは、そうやって誰かの願いを叶え寿命を奪うことで、永い時を生きている。
だけど僕はずいぶん前から、ただ永い時を生きることにうんざりしていた。
もう海の中に興味はない。
飽きた。
泡になって消えるってのは、そういうこと。
つまらない毎日に意味はない。
だったらたとえこれが最期に、好きなことをしてみたい。
僕は人間の世界を見てみたい。

 学校というのはじっと黙って座っていなきゃいけない時間の方が、好きに動いていい時間の方よりずっと長くて、退屈すぎた。
先生の話だってとんでもなく長いので、奏の隣の席の人に、場所を変わってくれって頼んだら、ダメだって言われる。
そんなことまで、ここでは自分たちで決められないらしい。
席も授業の時間も全部、先生が決めてるんだって。

 いつまでたっても授業ばっかりで何にも出来ないから、「これ、いつ終わるの?」って後ろの人に聞いたら、途中に長い休みがあることを教えてくれた。
昼休みって言うんだって。
やっと来たその昼休みも、別に思ったよりあんまり長くなかったけど。
僕がぶつぶつ文句を言っていたら、教室の壁に貼られた時間割というのを教えてくれた。
学校じゃみんなその通りにしてるんだって。
先生の決めた時間のルールに、みんなが大人しく全くその通りに従っているらしい。
仕方がない。
これが人間の世界だというのなら、僕もそれに従わないと。
だってもう人間なんだし? 
なかなか動かない時計の針を見ながら、ずっとため息をついていたら、なんだかまた笑われたけど、退屈なものは退屈なんだから仕方がない。
チャイムが鳴って、ようやく自由な時間が戻ってきた。
それを放課後と呼ぶらしい。
急に教室中も賑やかになった。

「奏!」

 急いで彼女に駆け寄る。

「ね、一緒に散歩に行こう。この辺りのこと、まだ全然知らないんだ。案内して。きみに色々教えてほしい」

 彼女の手をとる。
海から出て数日、ようやく会えたのに、今日はもう随分と時間を無駄にした。

「君の好きなものを教えてほしい。僕にはまだこの世界は、分からないことや知らないことだらけなんだ。僕は一番に、奏の好きなものを好きになりたい」

 海の中も綺麗だけど、陸の世界は海とは全く違う。
遠くから見ていただけだった、山の中にも行ってみたい。
建物の中や、乗り物にも乗ってみたい。
それになによりも、人間たちが、奏が住むこの街のことが知りたい。
奏と一緒に色んなものを見て、あれもこれもたくさんのことをやってみたい。

「悪いんだけどさぁ!」

 彼女はそんな僕の手を、乱暴に振り払う。

「私はこれから用事があるし、あなたにつき合う義務もないんだけど」
「どうして?」
「は? どうして?」

 どうやら彼女は怒っているらしい。
僕は今日一日、朝からこんなにもずっと我慢して、ずっとこの時を待っていたのに。
彼女の黒い目が、キッとまっすぐに僕をのぞきこむ。
くるくるした短い髪の先が揺れた。

「あのさぁ、あんたは私と初対面のくせに、随分なれなれしいよね。どうしてそんな絡んでくんの? 私が何かした? 全く身に覚えがないんだけど。こんなに懐かれる覚えもなければ、理由も分かんない」

 僕はぷりぷり怒っている彼女をじっと見下ろす。
奏は僕よりちょっと背が低い。
髪の色は同じで、海で見たときには青白いと思っていた顔は、思ったほど白くはなかった。
彼女は怒ってるけど、教室の他の人間はくすくす笑っている。
奏に溺れた記憶はあるんだろうけど、そもそも溺れてたんだから僕のことを覚えてないのは、仕方ないんだよね。
それに僕が人間になって陸に上がった時点で、記憶も消されてるし。
なんて説明すればいいんだろう。
秘密や隠し事って、本当に難しい。

「好きだから?」

 教室に爆笑の渦が巻き起こる。
彼女はまた顔を真っ赤にした。

「だから、なんで?」

 なんでって聞かれても、それしか答えようがない。
僕が人魚から人間になる魔法の、本当を教えることは出来ない。

「なんでだろ。恋は盲目? 一目惚れ?」

 そう言ったら、彼女は急に色々なものを乱暴に鞄に詰め始めた。
彼女が使っているのは、僕と同じ鞄だ。
それを見ただけでも、なんだかうれしくなってしまう。

「とにかく、私はあんたに全くなんの興味もなければ、知りたくもないから! そこんとこ勘違いしないでよね。じゃ!」
「え? 待って。どこ行くの?」
「あんたには関係ない!」

 奏は僕の持っているのと同じ鞄と、それとは違う大きな鞄を抱えて、教室を飛び出すように出て行く。
そうは言われても、僕だって彼女を放っておくわけにはいかない。
僕の鞄は……。
特に大事なものが入ってるわけでもないから、いっか。邪魔だし。僕は何もかもをそのまま教室に残して、彼女の後を追いかけた。