「奏には言わないでって言ったのに!」
「は? もう終わった話だろ。お前はちゃんと目的を果たして人間になれた。文句があるなら、直接奏に言えよ。奏もお前の話を聞きたがってたぞ」

 岸田くんの腕に、僕は簡単に押し退けられる。
土の上に転がった僕を、彼は醜いモノでも見るような目で見ると、落とした鞄を拾った。

「お前、やっぱ最悪だな。あぁ、便利なカナデチャンが来てくれたぞ」

 顔を上げる。
その奏は、本当に僕の前に立っていた。

「違う。僕はいずみのことなんか好きじゃないし、いずみだって僕のことを好きじゃない。だから大丈夫。奏とは違う!」

 地面に這いつくばった僕を、岸田くんは笑った。

「あはは。やっぱバカだなこいつ」

 岸田くんは奏の肩を掴むと、そこに顔を近づけた。
奏の唇に、岸田くんの唇が触れる。
その瞬間、僕の心臓が悲鳴を上げた。

「宮野にフラれたんだろ? お前、俺のこと好きだったよな。アイツやめて、やっぱ俺と付き合う?」
「私をおもちゃにしないで」

 彼女はまるで、道ばたで誰かとぶつかっただけみたいに、岸田くんに触れられた唇を手の甲でぬぐった。

「だってさ。宮野。分かったか」
「なんで奏にキスしたの?」

 岸田くんはフッと微笑むと、地面に倒れたままの僕の前にしゃがんだ。

「お前だってしてただろ。人間になったんだから、もう真実のキスとか関係ねぇしな。人間ってな、本気のキスじゃなくても、そういうの、出来るんだぜ」

 彼は更衣室のドアの向こうに消えた。
重い扉のバタンと閉まる音に、僕の体はビクリとなる。
だけどこうなったのは、音のせいだけじゃない。
奏の黒く澄んだ目が、じっと僕を見下ろす。

「……。宮野くんがさ、私を助けてくれたってのは、本当なの?」

 僕はくらくらする頭でぎゅっと目を閉じる。
ずっと想い描いていた陸での暮らしが、こんな風に終わるとは思わなかった。

「そうだよ。奏」

 追いかけてきた奏。
僕の運命の人。
僕は君の、その僕にそっくりなくるくるした短い黒い髪に、自分自身の姿を重ねただけだったのかもしれない。

「その……。宮野くんが、人魚って……」
「うん。だから、奏に会いに来た。僕は、陸の暮らしに憧れたんだ」

 そう。今なら分かる。
僕は彼女を愛したんじゃなくて、海での生活に飽きていただけだったんだ。
永い永い時を、このまま独り暗い海の底で過ごすより、僕は彼女と一緒に明るい日の差す地上で、生きたいと願ったんだ。

「……。それで、宮野くんの願いは叶ったから、もう終わったんだ」
「まぁ、そういうことかもね」

 いずれにしても、彼女に知られてしまった以上、僕は終わりだ。
明るい陸の太陽が、僕と彼女の頭上に輝く。
僕は彼女に手を伸ばす。
彼女に触れたい。
だけど彼女は、その手をパシリと叩き落とした。

「最低って、言いたいけど、それが命の恩人に対して言うことではないとは、思ってる」
「うん」
「だけど、最低」

 奏が怒っている。
そりゃそうだよね。
僕だって残念だ。
だけど初めて彼女にキスをした時から、僕にはこうなることが分かっていたのかもしれない。
やっぱり人魚が人間になろうなんて、無理な話だったんだ。

「ありがとう。楽しかったよ。僕はまだ、プールに行ってもいい?」

 これからどうしよう。
死ぬのは怖くない。
もう十分生きてきた。
残りの時間は、嫌われてたっていいから、できれば彼女の近くで過ごしたい。

「それは……。私の決めることじゃないから。どうせ大会が終われば、私たち3年は引退するし」
「奏も、もう泳がなくなるの?」
「うん。大会が終わったら、そこでお終い」

 だったら少しでも長く、人魚みたいに泳いでいる彼女の姿を見ていたい。

「じゃあ僕も、大会まで泳ぐよ」

 彼女は顔を背ける。
眉を寄せ、唇をかみしめたその横顔は、とても苦しそうに見えた。
僕は奏に、そんな顔をさせるために海を出たんじゃない。

「助けてくれたことには、ちゃんとお礼は言いたい。ありがとう。感謝してる。だけど、それ以外のことは許してない。だから……」
「今まで通りにしてて。普通に。岸田くんと奏が、そうだったみたいに」
「なにそれ。そんなの無理。出来れば顔も見たくない」
「奏がそう言うなら、僕はもうここには来ない」
「それはダメ。言い過ぎ」

 僕は人間じゃないから、人間の気持ちは分からない。
だから何をやっても上手くいかないし、奏の気持ちも分からない。

「奏はどうしたいのか教えて。奏の言う通りにする」
「学校にはちゃんと来て。部活も出て。大会も真面目に泳いで。優勝して」
「それが、奏の願い?」

 彼女がうなずく。
泣き出してしまった彼女を、僕は今すぐにでも抱きしめたいけど、昨日まで簡単に出来ていたことが、もう今日には出来ない。

「約束する」

 僕は自分の小指を差し出した。
僕から奏にする、初めての約束。
彼女はその指に、自分から指を絡めてくれた。
そのことを僕は、きっと海の泡になっても忘れない。
彼女の細く小さな指が、僕から離れた。

「じゃ、さようなら」
「さようなら」

 その『さようなら』は、付き合うのをやめるってことだよね。
それはもう、僕のことを好きにはならないってことだよね。
彼女のスカートの裾が、女子更衣室の扉の向こうに消えた。
あぁ、そうか。
やっと分かった。
僕はようやく、大事なことに気がついた。
奏は僕を好きだったけど、僕が本当に彼女のことを好きじゃなかったから、この魔法は解けなかったんだ。

 鱗のない肌を、強い日差しが焼き尽くす。
僕は人魚のままだ。
自分が変われていないことくらい、自分で分かる。
奏にだけは知られてはいけなかったのに。
僕にはもう、どこにも居場所はない。
全身から噴き出した汗が、ぽたりと地面に垂れて吸い込まれる。
地上に出てから初めて、僕は海に帰りたいと思った。