ゆっくりと立ち上がった彼女に合わせて、僕も立ち上がる。

「そ。いつまでもそんなことぐずぐず言ってたって、仕方ないじゃない。宮野くんが泳ぐのが速いのは、分かってたんだから。それを知ってて、岸田くんだって自分たちの水泳部のために招き入れたとこもあるんだし」

 伏し目がちに語る彼女の肩から、その長い髪がサラリと流れた。
見上げた彼女の目が、真っ直ぐに僕を見つめた。

「お互いさまってヤツなんじゃないの?」

 僕を救えるのが奏じゃないとしたら、他にどんな手段があるのだろう。
その長くて黄色い髪に、初めて触れてみたいと思った。

「ねぇ。いずみって、僕のことが好きなんだっけ」
「は? なに? 奏と付き合いだしたんじゃないの?」

 彼女の顔に、警戒の色が宿る。
僕は彼女の腕を掴んだ。

「だけど奏は、僕のことを好きじゃないって言うんだ」

 僕は背を丸め、彼女にキスをする。
唇が触れ合った瞬間、彼女はぱっと体を反らした。

「ちょ、どういうこと!」

 いずみの唇を見ながら、僕は自分の唇に指を触れる。
たしかに彼女と触れ合ったはずなのに、やっぱり体に変化はない。

「なんだ。いずみも僕のこと、好きじゃないじゃないか」

 いずみはぎゃあぎゃあと何かをわめき始めた。
ごちゃごちゃした駅前の人通りの中に、僕は視線を感じて顔を上げる。
やかましいいずみの向こう側に、奏の姿が見えた。
そんなことを何にもしらないいずみは、ドンと僕の胸を突き飛ばす。

「あんたは! 奏とキスして、人間になったとた……」

 僕は慌てて、いずみをじぶんの胸に抱き寄せる。

「ダメだよ。それは秘密だから」

 奏に聞かれたら大変だ。
いずみは抵抗しようとして暴れてるけど、僕はもう、女の子には負けないくらいの力はついた。

「秘密って、なに?」

 奏の声に、驚いたいずみは僕の腕の中で振り返る。

「ちょ、待って奏! 違うの。これは……」

 いずみに余計なことを言われたら、困るのは僕の方だ。
僕は背後からいずみを抱きかかえるような感じで、右腕を彼女の口元に押しつけ口を塞ぐ。

「奏には関係ない話だから」

 奏は怒っている。
だけど、僕だってもっと怒っている。

「関係ないって、どういうこと」
「岸田くんの話をしてたんだ。嘘じゃないよ。ねぇ、いずみ」

 彼女が暴れるのをやめようとしないから、僕はますます彼女をきつく抱きしめる。
顔を覆うように回している右腕を押しのけられないよう、僕は左手で彼女の左手首を掴んで、それに抵抗する。
少し前まで、僕はいずみにも敵わなかったのに。

「これもいずみのおかげだね。ずっと一緒に筋トレしてたから」
「もういい。帰る」

 奏が背を向けた。
そのまま吸い込まれるように駅舎の中に消えてゆく。
僕と同じくるくるした黒い髪が見えなくなった瞬間、心臓がズキリと痛んだ。
なんだ、コレ。
この痛み、魔法が解ける? 
僕はもう、人間の姿のままですらいられない? 
僕が胸の痛みに気を取られた瞬間、いずみは腕から抜け出した。

「バカ!」

 いずみに怒鳴られて、ムッとなる。

「なんでバカ?」
「それが分からないから、バカって言ってんの!」

 いずみまで、走って駅の中へ行ってしまった。
それでも僕の頭の中は、最後に見た奏の横顔が、いつまでもちらついて離れない。
奏なんて、僕のこと好きでもないくせに。