彼女は壁の向こうに消える直前で、岸田くんに追いつく。
奏の他にも、数人の男子部員が彼を呼び止めていた。
だったら奏は、いらなくない?

「奏! 奏はこっちに来て!」

 僕の切実な叫びにも、彼女は応じてくれない。
水の中から、冷たい笑い声が聞こえた。
プールで泳ぐ仲間たちが、僕の足元で笑っている。

「だからお前は、嫌われんだよ」
「人の気持ちってやつが、本気で分かんない奴なんだな」

 声の主は、いつかの雨の日に僕をバカにしてきた連中だ。
こんな奴らの言うことなんて、僕にとってなんの意味もない。
他にどんなことがあっても構わないのに、奏は僕の手を振り切り、岸田くんのところにいる。

「かなで!」

 返事はない。
人の気持ちが分からない?
それは僕が人間じゃないから?
だから僕は、彼女から愛されない。

「かなで! ねぇ奏!」

 何度も名を呼ぶ。
僕がこんなに必死で呼びかけているのに、聞こえていないはずがない。
彼女と僕を繋ぐ距離が、とんでもなく遠い気がした。
ようやく彼女が、コンクリートの灰色の壁から半分顔を出す。

「後で!」

 奏の足が、背中の半分が、コンクリートの向こうに隠れている。
僕がどんなに名前を呼んでも、僕のところには来てくれないんだ。
こんなにも僕は求めているのに? 
もし奏がこんなふうに僕を呼んだら、僕は全てを置いてでも彼女の元に駆け寄る!

「奏!」

 それでも返事はない。
奏はやっぱり僕のこと、あんまり好きじゃないんだ。
少なくとも僕が思うほど、彼女は僕を好きじゃない。
強すぎる日差しに日陰を求め、コンクリートの段差をふらふらと上る。
いずみがマッサージ用にバスタオルを敷いていたベンチに横になった。
誰にも見られたくなくて、顔を埋める。
頭上でいずみのため息が聞こえた。

「そりゃ、私も驚いたよ。普通誰だって、バタフライだと思うでしょ」
「そんなの、聞いてない」
「だって、前に泳いだのは宮野くん、バタフライだったでしょ。岸田くんのメインはクロールの200と400だから」

 そんな掟なんて知らない。
僕はいつも岸田くんがやっているようにすれば、それが一番なんだと思った。

「そういうの、分からないのって、やっぱり人間じゃないからかな」
「……。奏とキスしたんじゃないの?」
「したけど、人間になれた気がしてない」

 じりじりと焼け付く日差しが、キラキラする水面に反射して眩しい。
いずみの首筋に、一筋の汗が流れた。
プールから聞こえる水音と、そこに混ざる色んな声が、僕の耳を塞ぐ。
いすみの手が、すっかり日に焼けた僕の背に触れた。

「何それ。だったら奏は、宮野くんのこと、本当は好きじゃないってこと?」

 僕はそれに答えられないから、じっとしている。
いずみの手が、ヒリヒリと焼けた背を滑る。

「そっか。宮野くんは、岸田くんの変わりってことか」

 ペタペタと誰かが駆けてくる音が聞こえた。
その足音はそのままドボンとプールへ飛び込むと、日差しにすっかり乾ききった肌を濡らしている。奏だ。

「宮野くん! もうあんまり時間がないから、もったいないから私は今から泳ぐけど! 帰りちょっと話があるから! 分かった?」

 僕はバスタオルの上に寝転がったまま、返事の代わりに彼女を見る。
奏は何も言わず、そのまま泳ぎ始めた。
いずみはストップウオッチを片手に、プールサイドへ下りてゆく。

「岸田くんも戻ってきたよ。ちゃんと仲直りしといてね」

 その彼も水へ入った。
彼の周りには、すぐに人が集まって、なんやかんやと声をかける。
だけど彼は、もうそんなことにも耳を貸すつもりはないみたいだった。

 岸田くんはスイムキャップをかぶり直すと、慎重にゴーグルの位置を確認する。
頭を沈めると、真っ直ぐに壁を蹴った。
彼の跳ね上げる水しぶきは、カジキの跳ね上げるそれのようだ。
そこにいる全員が、誰もが彼の泳ぎに注目する。
僕だって、いつだって岸田くんの泳ぎが一番きれいだと思っている。

「60秒42……。60秒の壁が、厚いんだよね」

 いずみの声すら、もう彼の耳には届かないようだ。
彼はすぐに泳ぎ始める。
何度も何度も、その足で壁を蹴り、腕で水をきる。
どれだけ泳いでも、彼の美しいフォームは崩れることはない。
50mを泳ぐと、少しだけ休んでまた泳ぐ。
僕はようやく、彼があんなにも熱心に筋トレやランニングをしていた理由が分かった。
彼は誰よりも早く泳ぎたかったんだ。
跳ね上がる水しぶきに、夏の日が沈む。

 泳ぐのをやめようとしない岸田くんのことはいずみに任せて、他の部員たちは水から上がった。
僕はオレンジ色に染まったプールで泳ぎ続ける彼に、心の中で心の底から謝る。
僕は、本当にそんなつもりはなかったんだ。
着替え終わって更衣室の外に出ると、赤く染まったプール前広場に、奏が待っていた。

「話があるの」
「よかった。僕にもあるんだ」

 奏に誘われて、人間の街に出る。
夏の夜のはじめには、星の代わりに色とりどりの灯りが街を彩る。
僕は今、暗い海から眺めていただけの、キラキラ輝く喧騒の中にいる。
ずっと憧れていた。
この場所に何があるのか。
道路にあふれる人の数、行き交う車。陸なんて小さくて狭くて汚いだけだと思っていたけど、実際に来てみれば狭さなんて感じない。
きっと海が広すぎただけなんだ。

「えっと、どっかお店入る? ハンバーガーとか、お腹空いてない?」
「ハンバーガーは、好きじゃない」
「コーヒーも苦手なんだっけ」
「水ならなんとか」

 奏は呆れたように、力ない笑みを浮かべた。

「そういえば、いずみも心配してたよ。宮野くん。あんまり水分補給しないって」
「いずみが?」

 彼女がそんなこと、気に掛けていただなんて知らなかった。

「お刺身は……、ちょっとハードル高いから、ドーナツ屋さんでいい?」
「奏の行きたいところでいい」

 彼女は学校から一番近い駅の、ドーナツばかりをたくさん売っているお店に入った。

「宮野くんは、なに頼む?」
「水だけでいい」
「まぁ、そう言わないでさ」