「やっぱりそうだったんだ」
「今はもちろん、宮野くんが一番だよ」
「本当に?」
「疑うの?」
「疑ってないよ」

 そう。疑ってない。
疑ってはいないんだ。
僕は彼女のことなら、なんだって許すし、なんだって受け入れる。

「ねぇ、奏からキスして」

 そうお願いしたら、しばらく横目でチラチラと周囲を確認してから、ようやく奏はこっちを向いた。
そのままぱっと顔を近づけ、ちゅっと唇に触れる。

「これでいい?」
「まだ足りない」

 今度は僕の方から彼女に口づける。
舌を絡め、しっかりと思いが届くように。

「ねぇ。ちょっと、もう……」
「なに?」
「もうだめだから」
「いやだ」

 さらに深く強く絡ませる。
僕にかかった魔法は、まだ解けていない。
人の気配がして、ふと顔を上げた。
誰もいなかったはずの廊下に、岸田くんといずみが立っている。

「お前らさぁ。浮かれてんのは分かるけど、もうちょっと時と場所を選べよ」

 奏はぐいと僕を押しのけた。
彼女の顔は真っ赤だ。
やっぱり岸田くんに見られて恥ずかしかった? 
すれ違いざまに、岸田くんの「あーうぜー。俺も彼女ほしー」という言葉と、大きなため息。
そんな彼の隣にくっついていたいずみは、振り返って僕たちに言った。

「よかったね! おめでとう!」

 いずみは最後に、べーっと赤い舌を見せる。

「なにあの、『べー』ってやつ」
「何でもないよ! 早く行こう。遅刻しちゃう」

 奏は僕を置いて、先に走って行ってしまった。
まだ彼女との感触が残る唇に触れる。
確かに思いは通じ合って、キスもしたはずなのに、それでもやっぱり人間になれた気がしない。
僕は人魚のままだ。
奏は本当は、僕を好きじゃないってこと?

 水着に着替えプールに入った僕は、ビート板にぷかぷか浮かんで、ずっとそのことを考えている。
ギラギラした太陽は、今日も激しく照りつけていた。

「なぁ宮野。バタフライのコツ教えて?」

 時々他の水泳部員がやってきて、そんなことを聞くから、分かったような分かってないことを答える。
本当はもっと大事なことを考えなくちゃいけないのに、ここにいてはそんな暇もない。
僕はお気に入りのビート板をプールサイドに置くと、ぽちゃりと頭まで水に沈めた。
そこから一気に25メートルを泳ぎきると、そのまま水中でターンをし、元の場所まで戻ってくる。
顔を出したら、ちょうどいずみが何かの棒みたいなものを、プールの水の中に突っ込んでいた。

「宮野くん。変わったよね」

 何をやってるのかと思ったら、水温を測っているらしい。
いずみは泳がない代わりに、いろんなことをしている。

「全然変わってないよ。なんで変わらないのか、不思議なくらいだ」
「え、変わったよ」
「どこがどんな風に変わった?」

 そう言ったいずみを、僕は水中から見上げた。
いずみは僕の本当のことを知っている。
だからいずみには、僕のどこが変わったのか、分かるかもしれない。

「なんてゆーか、丸くなったっていうか。その、愛想もよくなったし、他の人ともちゃんとしゃべるようになったし。コミュニケーションもとれるようになったっていうか……」
「人間っぽい?」
「あはは。まぁ、そんな感じかな。奏と付き合い始めてから、ようやく落ち着いた感じ」

 いずみはいつものように、ノートに何かの記録をつけている。
僕は置いてあったビート板を手に取ると、再び水に浮かんだ。
彼女はこそりとつぶやく。

「人間になれてよかったね」
「……。それだけどさ、僕には自分が、変わったような気がしないんだ」
「は? なにそれ。意味分かんないし。人間になれなかったってこと?」
「奏は、本当に僕のことが好きなのかな」

 彼女はプールサイドにしゃがみ込んだまま、持っていたノートを胸に抱え込んだ。

「なにそれ。奏のこと、もう飽きちゃったの?」
「飽きる? 飽きてはないよ。ただ分からないだけ」
「ふ~ん。そうなんだ。私は普通に、宮野くんのこと好きだよ」

 いずみの言葉に、僕はびっくりして彼女を見上げる。

「好き? 僕のこと? いずみが?」

 彼女は、その長くて黄色い髪をかき上げた。

「そりゃ最初は……。怖いって思ってたし不気味な感じだったし。ヤだなって思ってたけど、今はそうじゃないって分かったから」

 人間じゃないって分かっている僕のことを、いずみは好きだって言うの? 
僕が応えられずにいると、彼女は横顔を向けたまま言った。

「だって、変わったもん。私は今の宮野くんの方が好き」

 彼女はすっと立ち上がると、そのまま行ってしまった。
ストップウオッチを片手に、他の選手のタイムを計りに行く。

 いずみが僕を好き? 
僕は変わった? 
人魚のままなのに? 
真実のキスを交わすのは、一人じゃなくてもよかったんだっけ。

 何やら騒がしい動きがして、滅多に来ないコーチが、普通の服を着た知らない人間を連れて、プールサイドにやって来た。
ビート板に浮かぶ僕に向かって、手招きをする。

「おい宮野。ちょっとこっち来い。お前に取材の依頼が来てるぞ」

 強い日差しの下、焼けるように熱いコンクリートの上なんて、歩きたくもないんだけど。
それでも先生の言うことには従わなくてはいけないから、僕はプールから上がると、彼らに近づいた。
知らない人間は2人もいる。

「なに?」
「水泳雑誌の編集部の方だそうだ。お前の話を聞きたいって」

 2人のうち1人は、首から大きな機械をぶら下げていた。
僕も見たことはある。
カメラとかいうやつだ。
大きなレンズをつけたそれを、僕に向けて何かしている。

「話って、なに?」

 僕には答えられないことが多い。
もう1人の人が色々聞いてきたけど、すぐに返事を返さないでいると、先生が全部代わりに勝手に答えてくれるから助かる。
岸田くんが呼ばれた。

「彼はどんなチームメイトですか?」