陸の上を靴を履いて歩くのは、海の中を泳ぐのとは全然違って、とっても新鮮な感覚だった。
水と違ってフワフワしていて、自分の体が軽くなったのか重くなっているのかもよく分からない。
周囲には沢山の人や動物がいて、空にはあまり見たことのない鳥が飛んでいて、時々海に流れてくる本や、人魚づてに話しでしか知らなかった桜の花の、本物に咲いているところを生まれて初めて見た。
何もかもが初めて見るものや聞く音ばかりで、臭いなんかも全然違ってて、この世界も案外にぎやかで綺麗なところだったんだなって、そう思った。
「君が転校生? 随分薄着だね。寒くないの? 帰国子女だって? 」
案内された部屋で待っていると、担任っていう名前の先生がやってきて、僕にそう言った。
「はい、そうです。寒くはないです」
「そう。分からないことがあったら、なんでも聞いてね」
「はい!」
いよいよ人間生活の始まりだ。
手に入れたばかりの新しい心臓が、ドキドキと高鳴る。
見るもの全てが新鮮で不思議なものばかりだった。
高校という場所に作られた、大きな建物の中を歩く。
人間ってのは、こんなにも大きくてまっすぐなものを、上手く作るもんなんだな。
廊下って呼ばれてる、不思議な洞窟を通るのも初めてだ。
だけどここはちょっと、どこもかしこも真っ直ぐでつるつるしすぎだよね。
ごつごつした海の洞窟とは大違いだ。
人間ってのはきっと、こういう真っ直ぐでつるつるした感じが好きなんだろうな。
辺りをきょろきょろ見ながら歩いていたら、先生は突然扉の一つをガラリと開け、廊下の脇に規則正しく並ぶ四角い横穴に入っていく。
なんだろう。
あまりにもきれいに並びすぎているのも、どうかと思う。
それがちょっと怖くて、おどおどしながら僕も中に入ると、そこにはやっぱりちゃんと規則正しく並んだ人間が、沢山座っていた。
僕が足を踏み入れたとたん、彼らの視線が一斉に集まる。
びっしり並んだ、もうすぐ幼生の生まれてくる直前のイカの卵か、ゴンズイの群れみたいだ。
「あー、みんなに転入生を紹介する」
僕の新しい肺が、息を止めた。
自分はいま本当に、人の姿をしてるかな?
ちゃんと人間になれてんのかな。
ここにいる人たちから、アイツなんかヘンだぞって、思われてないかな。
僕の体にはもう、ヒレもなければウロコもない。
きっともう、今までのように海も上手に泳げない。
だけどここで生きていくって、決めたんだ。
もうあの暗い水底には、決して戻らない。
「宮野正輝です。よろしくお願いします」
はやる胸の鼓動を押さえながら、教室の中をじっくりと見渡す。
ゴンズイの群れが、ようやく人の顔に見えてきた。
均等に並んだ机と、そこに大人しく座っている一人一人の顔を、ゆっくりと確認していく。
ちゃんと探さなくちゃ。
僕の希望。
僕の光り。
僕に生きる意味をくれた人。
立たされていた壇上から、一歩前に踏み出す。
みんな同じ服を着て、同じような格好をしているから、あんまり見分けがつかない。
微妙な顔の形と目鼻の位置、髪型だけが頼りだ。
並んだ机と人の隙間をゆっくり進む。
1人の女の子が、ごそごそと顔を上げた。
ちょっとクセのあるくるくるした短い黒髪と黒い目。
僕とそっくりな人間の女の子。
「あぁ、やっと会えたね。元気にしてた?」
懐かしい彼女の顔が、こっちを見上げる。
間違いない、この人だ。
僕の運命の人。
「好きです。結婚してください」
指先で彼女の前髪に触れ、頬に触れる。
体を曲げ、その唇にキスをしようとした瞬間、左頬に激痛が走った。
「痛ったぁーい! 何で叩くのさぁ!」
「当たり前でしょう!」
真っ赤になった彼女が、ぷりぷりに怒っている。
「いきなりやって来て、なんなの?」
教室にいた他の人間たちが、一斉に笑った。
僕は痛む頬を押さえる。
あぁ、そうだった。
彼女は僕のこと、覚えてないんだった。
「だって、キスしないとダメな仕組みなんだもん!」
「なにが? てゆーか、なんで!」
痛い。酷い。
彼女を見つめる。
真実のキスを彼女としなければ、僕は本当の人間になることは出来ない。
僕が海から出た日から1年という期限を過ぎれば、僕は海の泡となって消える。
だけどそれは、彼女には絶対に言ってはいけない秘密。
「どうしてもなの!」
もう一度彼女にキスしようとしたら、今度は体ごとドンと突き飛ばされた。
床に尻もちをつく。
「もう! なんで突き飛ばすのさ! やめてよ!」
「それはこっちのセリフ!」
痛むおしりをなでながら立ち上がる。
このおしり、まだそんなに慣れてないのに。
もっと大切にしたかったのに。
泣きそうな僕に、教室の人間はみんな笑っている。
先生が言った。
「なんだよ、お前ら知り合いだったのか」
「はい。そうです」
「は? ぜんっぜん知りません! 全く見ず知らずの他人です!」
なんだそれ。なんかめっちゃ悔しいし。
僕は痛む頬をおさえたまま、泣きそうな気分で彼女を見下ろす。
「なんでそんなこと言うの!」
「だって、そうなんだもん!」
記憶がないって、本当に面倒くさい。
「じゃあ奏。おまえが面倒みてやれ」
先生という人間が指示を出すと、本当にここの人たちは、それに従わなくてはならない仕組みらしい。
彼女はまだぷりぷり怒っていたけど、僕のことをあっさり引き受けた。
「名前、海野奏っていうんだ」
「あんたの席は、あそこだってよ」
彼女が指さした窓ぎわに、誰も座っていない机と椅子が置いてあった。
僕はとてもうれしくなって、満足してそこに座る。
初めて人間の世界に用意された、自分の場所だ。
そこに腰を下ろすと、すぐに彼女に手を振る。
それなのに、冷たくプイと横顔を向けられた。
教室のみんなはずっと笑っていて、それでもみんなが僕を見て楽しそうにしてくれているから、よかった。
人魚だって、バレずに紛れ込むことに成功したみたい。
水と違ってフワフワしていて、自分の体が軽くなったのか重くなっているのかもよく分からない。
周囲には沢山の人や動物がいて、空にはあまり見たことのない鳥が飛んでいて、時々海に流れてくる本や、人魚づてに話しでしか知らなかった桜の花の、本物に咲いているところを生まれて初めて見た。
何もかもが初めて見るものや聞く音ばかりで、臭いなんかも全然違ってて、この世界も案外にぎやかで綺麗なところだったんだなって、そう思った。
「君が転校生? 随分薄着だね。寒くないの? 帰国子女だって? 」
案内された部屋で待っていると、担任っていう名前の先生がやってきて、僕にそう言った。
「はい、そうです。寒くはないです」
「そう。分からないことがあったら、なんでも聞いてね」
「はい!」
いよいよ人間生活の始まりだ。
手に入れたばかりの新しい心臓が、ドキドキと高鳴る。
見るもの全てが新鮮で不思議なものばかりだった。
高校という場所に作られた、大きな建物の中を歩く。
人間ってのは、こんなにも大きくてまっすぐなものを、上手く作るもんなんだな。
廊下って呼ばれてる、不思議な洞窟を通るのも初めてだ。
だけどここはちょっと、どこもかしこも真っ直ぐでつるつるしすぎだよね。
ごつごつした海の洞窟とは大違いだ。
人間ってのはきっと、こういう真っ直ぐでつるつるした感じが好きなんだろうな。
辺りをきょろきょろ見ながら歩いていたら、先生は突然扉の一つをガラリと開け、廊下の脇に規則正しく並ぶ四角い横穴に入っていく。
なんだろう。
あまりにもきれいに並びすぎているのも、どうかと思う。
それがちょっと怖くて、おどおどしながら僕も中に入ると、そこにはやっぱりちゃんと規則正しく並んだ人間が、沢山座っていた。
僕が足を踏み入れたとたん、彼らの視線が一斉に集まる。
びっしり並んだ、もうすぐ幼生の生まれてくる直前のイカの卵か、ゴンズイの群れみたいだ。
「あー、みんなに転入生を紹介する」
僕の新しい肺が、息を止めた。
自分はいま本当に、人の姿をしてるかな?
ちゃんと人間になれてんのかな。
ここにいる人たちから、アイツなんかヘンだぞって、思われてないかな。
僕の体にはもう、ヒレもなければウロコもない。
きっともう、今までのように海も上手に泳げない。
だけどここで生きていくって、決めたんだ。
もうあの暗い水底には、決して戻らない。
「宮野正輝です。よろしくお願いします」
はやる胸の鼓動を押さえながら、教室の中をじっくりと見渡す。
ゴンズイの群れが、ようやく人の顔に見えてきた。
均等に並んだ机と、そこに大人しく座っている一人一人の顔を、ゆっくりと確認していく。
ちゃんと探さなくちゃ。
僕の希望。
僕の光り。
僕に生きる意味をくれた人。
立たされていた壇上から、一歩前に踏み出す。
みんな同じ服を着て、同じような格好をしているから、あんまり見分けがつかない。
微妙な顔の形と目鼻の位置、髪型だけが頼りだ。
並んだ机と人の隙間をゆっくり進む。
1人の女の子が、ごそごそと顔を上げた。
ちょっとクセのあるくるくるした短い黒髪と黒い目。
僕とそっくりな人間の女の子。
「あぁ、やっと会えたね。元気にしてた?」
懐かしい彼女の顔が、こっちを見上げる。
間違いない、この人だ。
僕の運命の人。
「好きです。結婚してください」
指先で彼女の前髪に触れ、頬に触れる。
体を曲げ、その唇にキスをしようとした瞬間、左頬に激痛が走った。
「痛ったぁーい! 何で叩くのさぁ!」
「当たり前でしょう!」
真っ赤になった彼女が、ぷりぷりに怒っている。
「いきなりやって来て、なんなの?」
教室にいた他の人間たちが、一斉に笑った。
僕は痛む頬を押さえる。
あぁ、そうだった。
彼女は僕のこと、覚えてないんだった。
「だって、キスしないとダメな仕組みなんだもん!」
「なにが? てゆーか、なんで!」
痛い。酷い。
彼女を見つめる。
真実のキスを彼女としなければ、僕は本当の人間になることは出来ない。
僕が海から出た日から1年という期限を過ぎれば、僕は海の泡となって消える。
だけどそれは、彼女には絶対に言ってはいけない秘密。
「どうしてもなの!」
もう一度彼女にキスしようとしたら、今度は体ごとドンと突き飛ばされた。
床に尻もちをつく。
「もう! なんで突き飛ばすのさ! やめてよ!」
「それはこっちのセリフ!」
痛むおしりをなでながら立ち上がる。
このおしり、まだそんなに慣れてないのに。
もっと大切にしたかったのに。
泣きそうな僕に、教室の人間はみんな笑っている。
先生が言った。
「なんだよ、お前ら知り合いだったのか」
「はい。そうです」
「は? ぜんっぜん知りません! 全く見ず知らずの他人です!」
なんだそれ。なんかめっちゃ悔しいし。
僕は痛む頬をおさえたまま、泣きそうな気分で彼女を見下ろす。
「なんでそんなこと言うの!」
「だって、そうなんだもん!」
記憶がないって、本当に面倒くさい。
「じゃあ奏。おまえが面倒みてやれ」
先生という人間が指示を出すと、本当にここの人たちは、それに従わなくてはならない仕組みらしい。
彼女はまだぷりぷり怒っていたけど、僕のことをあっさり引き受けた。
「名前、海野奏っていうんだ」
「あんたの席は、あそこだってよ」
彼女が指さした窓ぎわに、誰も座っていない机と椅子が置いてあった。
僕はとてもうれしくなって、満足してそこに座る。
初めて人間の世界に用意された、自分の場所だ。
そこに腰を下ろすと、すぐに彼女に手を振る。
それなのに、冷たくプイと横顔を向けられた。
教室のみんなはずっと笑っていて、それでもみんなが僕を見て楽しそうにしてくれているから、よかった。
人魚だって、バレずに紛れ込むことに成功したみたい。