その彼女がプールサイドに現れた。
いつもの奏が、100倍かっこよく輝いて見える。
スラリと伸びた手足と、キュッとしまった体。
奏はいつ見ても綺麗だ。
その奏が、もしも傷ついたりなんかしたら……。
岸田くんが観客席に戻ってきた。
「宮野、お前なにやってんの?」
僕は顔を両手で覆って、指の隙間から奏を見ている。
緊張で返事の出来ない僕の代わりに、いずみが答えた。
「奏のを見てたら、心臓が止まりそうになるんだって」
「あっそ」
今の僕は、緊張で怖くてそれどころじゃない。
だけど彼女の勇姿もちゃんと見て起きたい。
奏がスタート台に立つ。
我慢出来ずに、僕はぎゅっと目を閉じた。
「ピッ!」
スタートの合図が鳴って、静かだった会場が一気ににぎやかになる。
100mは距離が短いから、勝負もあっという間だ。
5レーンを泳ぐ奏は、なんとか先頭を泳ぐ隣のレーンの選手にくらいついている。
50mのターン。
奏は少し、距離を開けられた。
「あぁ、もうダメ!」
目を閉じる。
僕は賑やかな会場の声や水音を聞きながら、ゆっくり数を数える。
奏の平均タイムは覚えている。
それくらいにはきっと、僕に与えられたこの試練も終わる。
1、2、3、4、……18、19、20、……。
会場から拍手がわき起こった。
勝負がついたらしい。
電光掲示板を見ると、奏は2位だった。
ちゃんと彼女が泳ぎ切れたことが、それだけで素晴らしい。
「もう奏が優勝でいい……」
「アホか」
岸田くんが怒った。
「奏は200がメインなんだよ。150からの追い込みが持ち味なんだから、この順位は、これはこれでいいの」
「なにそれ、意味分かんない」
「だからもうちょっと勉強しろって、いつも言ってんだろ」
僕の知らない奏を知っている岸田くんに、ちょっとムッとする。
そんなこと、聞いてたかもしれないけど覚えてない。
短水路の自由形は選手層が特に厚くて、泳ぐ人数が多い分、なかなか終わらない。
奏が観客席に戻ってきた。
「あれ? 奏、僕のバタフライ、もしかして見られるの?」
「そうだよ」
男子の100m自由形は、女子よりもさらに人数が多かった。
奏はその様子を見ながら、少し早めの昼食をとる。
「食べられる時に、お昼食べとかないとね」
彼女はここへ来る前にコンビニで買ったおにぎりをほおばる。
「予定表に次の開始時間が書いてあるでしょ。自分で時間見て、動かないとダメだよ。宮野くんは、200のバタフライが終わってから、お昼ご飯だね」
水着の上から羽織ったジャージと濡れた髪。
今ここで彼女を抱きしめられたら、どれだけいいだろう。
「おにぎり美味しい?」
「うん。美味しいよ」
代わりに僕は、彼女の額にかかる前髪をかき分ける。
「宮野くんは、おにぎり好き?」
「好き」
彼女は海苔にくるまれたお米の塊を、むしゃむしゃとほおばる。
「ね、宮野くんも緊張とかしてるの?」
「僕が? ううん。してないよ」
「あっそ。ま、いいけどね」
奏はもう一度、僕にスタートの説明を始めた。
何度も何度も、入れ替わり立ち替わり色々な人間からさんざん聞かされた同じ話を、僕は初めて聞くような顔をして彼女から聞いている。
「ね、ちゃんと聞いてる?」
「もちろん。ちゃんと聞いてるよ」
どんなことであっても、彼女が僕に話してくれることなら、うれしい。
にこりと微笑んで見せたら、奏は小さく息を吐き出した。
「ま、いいけどね」
そんな僕たちの間に、岸田くんが割って入ってくる。
「ほら宮野。のんびりしている暇はないぞ。そろそろ準備に行ってこい。ロッカーの位置くらい、分かってるんだろうな」
「分かってるって」
せっかく今日は一日、自由に彼女のそばにいられる日なのに、なんてもったいない。
僕はやれやれと立ち上がる。
「3回ターンのやつでしょ。知ってるよ」
泳ぎに行かないといけないのは分かるけど、奏の隣に岸田くんが座ったのが、なぜか気に入らない。
さっさと泳いで戻ってきて、すぐにどいてもらおう。
着替えの荷物だけを持ってロッカーに入る。
このぴちぴちした水着にも、すっかり慣れた。
僕の足も、随分太くたくましくなったもんだ。
人間の泳ぎ方での筋肉がついてきている。
時間が来て、プールサイドへ向かった。
準備運動の代わりに、軽く体をほぐす。
この手も足も体も、全部自分のものだということを、もう一度確認していく。
係員に名前を呼ばれ、「はい」と返事をした。
僕はすっかり人間の仲間入りを果たしている。
誘導されたのは、プール一番端っこの0番レーン。
公式記録のない人は、泳ぐ場所もあらかじめ決められている。
人間は、このバタフライという泳ぎ方が苦手な人が多いらしく、距離も長いので出場者も少ない。
いっぺんに泳ぐのは一組だけで、全部でちょうど10人だった。
プールサイドに集まった出場者に向かって、長い笛が鳴る。
奏たちのいるところはどこかな。
ここからだとちょっと分かりにくい。
プールの一番端っこのレーンだから、僕のすぐ横に、合図を出す役目の人間がいた。
片腕が水平に上がる。
「take your marks」
僕は台の上に上り、背中を丸めた。
奏と岸田くんから、スタートの合図を聞いてから飛び込んだんでいいと言われている。
僕は上手くやれるよ。
ちゃんと見ててね、奏。
「ピッ!」
もう十分聞き慣れたはずの音なのに、大きすぎるその音にビクリとする。
僕以外の全員が、水に飛び込んだ。
それを見届けてから、僕も飛び込む。
学校のプールとは、やっぱり雰囲気が違うよな。
0レーンの1番端っこを泳いでいるから、学校とは違う真っ白できれいな壁が気になって、壁ばかりを見て泳いだ。
水底の床の色が変わって、ターンをする。
ターンの動作は正確に。
水深もこっちの方がちゃんと深い。
たしか今回は、3回ターンのやつだ。
この色つきの床のところでターンして、ちゃんと壁にタッチすることを忘れないこと。
いつもの奏が、100倍かっこよく輝いて見える。
スラリと伸びた手足と、キュッとしまった体。
奏はいつ見ても綺麗だ。
その奏が、もしも傷ついたりなんかしたら……。
岸田くんが観客席に戻ってきた。
「宮野、お前なにやってんの?」
僕は顔を両手で覆って、指の隙間から奏を見ている。
緊張で返事の出来ない僕の代わりに、いずみが答えた。
「奏のを見てたら、心臓が止まりそうになるんだって」
「あっそ」
今の僕は、緊張で怖くてそれどころじゃない。
だけど彼女の勇姿もちゃんと見て起きたい。
奏がスタート台に立つ。
我慢出来ずに、僕はぎゅっと目を閉じた。
「ピッ!」
スタートの合図が鳴って、静かだった会場が一気ににぎやかになる。
100mは距離が短いから、勝負もあっという間だ。
5レーンを泳ぐ奏は、なんとか先頭を泳ぐ隣のレーンの選手にくらいついている。
50mのターン。
奏は少し、距離を開けられた。
「あぁ、もうダメ!」
目を閉じる。
僕は賑やかな会場の声や水音を聞きながら、ゆっくり数を数える。
奏の平均タイムは覚えている。
それくらいにはきっと、僕に与えられたこの試練も終わる。
1、2、3、4、……18、19、20、……。
会場から拍手がわき起こった。
勝負がついたらしい。
電光掲示板を見ると、奏は2位だった。
ちゃんと彼女が泳ぎ切れたことが、それだけで素晴らしい。
「もう奏が優勝でいい……」
「アホか」
岸田くんが怒った。
「奏は200がメインなんだよ。150からの追い込みが持ち味なんだから、この順位は、これはこれでいいの」
「なにそれ、意味分かんない」
「だからもうちょっと勉強しろって、いつも言ってんだろ」
僕の知らない奏を知っている岸田くんに、ちょっとムッとする。
そんなこと、聞いてたかもしれないけど覚えてない。
短水路の自由形は選手層が特に厚くて、泳ぐ人数が多い分、なかなか終わらない。
奏が観客席に戻ってきた。
「あれ? 奏、僕のバタフライ、もしかして見られるの?」
「そうだよ」
男子の100m自由形は、女子よりもさらに人数が多かった。
奏はその様子を見ながら、少し早めの昼食をとる。
「食べられる時に、お昼食べとかないとね」
彼女はここへ来る前にコンビニで買ったおにぎりをほおばる。
「予定表に次の開始時間が書いてあるでしょ。自分で時間見て、動かないとダメだよ。宮野くんは、200のバタフライが終わってから、お昼ご飯だね」
水着の上から羽織ったジャージと濡れた髪。
今ここで彼女を抱きしめられたら、どれだけいいだろう。
「おにぎり美味しい?」
「うん。美味しいよ」
代わりに僕は、彼女の額にかかる前髪をかき分ける。
「宮野くんは、おにぎり好き?」
「好き」
彼女は海苔にくるまれたお米の塊を、むしゃむしゃとほおばる。
「ね、宮野くんも緊張とかしてるの?」
「僕が? ううん。してないよ」
「あっそ。ま、いいけどね」
奏はもう一度、僕にスタートの説明を始めた。
何度も何度も、入れ替わり立ち替わり色々な人間からさんざん聞かされた同じ話を、僕は初めて聞くような顔をして彼女から聞いている。
「ね、ちゃんと聞いてる?」
「もちろん。ちゃんと聞いてるよ」
どんなことであっても、彼女が僕に話してくれることなら、うれしい。
にこりと微笑んで見せたら、奏は小さく息を吐き出した。
「ま、いいけどね」
そんな僕たちの間に、岸田くんが割って入ってくる。
「ほら宮野。のんびりしている暇はないぞ。そろそろ準備に行ってこい。ロッカーの位置くらい、分かってるんだろうな」
「分かってるって」
せっかく今日は一日、自由に彼女のそばにいられる日なのに、なんてもったいない。
僕はやれやれと立ち上がる。
「3回ターンのやつでしょ。知ってるよ」
泳ぎに行かないといけないのは分かるけど、奏の隣に岸田くんが座ったのが、なぜか気に入らない。
さっさと泳いで戻ってきて、すぐにどいてもらおう。
着替えの荷物だけを持ってロッカーに入る。
このぴちぴちした水着にも、すっかり慣れた。
僕の足も、随分太くたくましくなったもんだ。
人間の泳ぎ方での筋肉がついてきている。
時間が来て、プールサイドへ向かった。
準備運動の代わりに、軽く体をほぐす。
この手も足も体も、全部自分のものだということを、もう一度確認していく。
係員に名前を呼ばれ、「はい」と返事をした。
僕はすっかり人間の仲間入りを果たしている。
誘導されたのは、プール一番端っこの0番レーン。
公式記録のない人は、泳ぐ場所もあらかじめ決められている。
人間は、このバタフライという泳ぎ方が苦手な人が多いらしく、距離も長いので出場者も少ない。
いっぺんに泳ぐのは一組だけで、全部でちょうど10人だった。
プールサイドに集まった出場者に向かって、長い笛が鳴る。
奏たちのいるところはどこかな。
ここからだとちょっと分かりにくい。
プールの一番端っこのレーンだから、僕のすぐ横に、合図を出す役目の人間がいた。
片腕が水平に上がる。
「take your marks」
僕は台の上に上り、背中を丸めた。
奏と岸田くんから、スタートの合図を聞いてから飛び込んだんでいいと言われている。
僕は上手くやれるよ。
ちゃんと見ててね、奏。
「ピッ!」
もう十分聞き慣れたはずの音なのに、大きすぎるその音にビクリとする。
僕以外の全員が、水に飛び込んだ。
それを見届けてから、僕も飛び込む。
学校のプールとは、やっぱり雰囲気が違うよな。
0レーンの1番端っこを泳いでいるから、学校とは違う真っ白できれいな壁が気になって、壁ばかりを見て泳いだ。
水底の床の色が変わって、ターンをする。
ターンの動作は正確に。
水深もこっちの方がちゃんと深い。
たしか今回は、3回ターンのやつだ。
この色つきの床のところでターンして、ちゃんと壁にタッチすることを忘れないこと。