「凄く頑張ってるし、努力もしてる……よね。他のみんなだって、最近は宮野くんのこと見直したって、ちゃんと褒めてたよ。そんな風に思ってるのは、私だけじゃないから」

 奏から話しかけられたことが嬉しいのに、その言葉にももっと嬉しくなる。

「ありがとう。そう言ってもらえると、僕もうれしいよ。奏もずいぶん早くなったね」

 彼女はちょっとだけ、にこっと微笑むと、顔の半分を水に漬けぼこぼこさせながら言った。

「私が元気になれたのも、宮野くんのおかげだよ」

 その声は水の泡と一緒になって、すぐに消えてしまったけど、僕にはちゃんと聞き取れた。
泳ぎ去る彼女の水しぶきを見ながら、僕はなんだか頭がクラクラしている。
熱でもあるのかな。心臓だって、なんだかドキドキしている。

 僕はビート板に浮かんで、少し休むことにした。
真夏の太陽の下、小さなプールに沢山の水泳部員たちが泳いでいる。
この最近、ずっと奏以外にもアドバイスをしてきたおかげで、泳ぎの上手い人間とそうでない人間とは、ちゃんと分かるようになってきた。
飛び込み台からバシャリと飛び込む音がして、振り返る。
岸田くんだ。

 人間の泳ぎ方にあまり詳しくなかった僕でも、彼が上手なのはすぐに分かった。
泳ぐスピードの速さだけじゃない。
泳ぐための動作、その流暢で無駄のない体の動きが、彼個人の能力を明確に表している。
他の人とは全然違う。
僕も岸田くんみたいに泳げてるのかな。
彼のようになりたいと、ちょっとだけそんなことを思った。

 初めての記録会の日は、学校の授業はお休みの日で、朝から水泳部の人間だけが校門に集まっていた。
これからみんなで電車に乗ってバスに乗って、会場となっている大きなプールに行くんだって。
いつもと雰囲気が違うのは分かるけど、他のみんなもドキドキしてなんだか落ち着かない感じ。
会場施設敷地内に入ると、そこで別ルートから来た部員たちとも合流する。
照りつける太陽の下、タイルの張られた広場に、まとめて荷物を置いた。

「ロッカーが4つまでしか使えないから、出場者で順番に交代してね」

 いずみから渡されたプリントには、僕の名前のところにピンク色のマーカーで線が引かれていた。
奏のプリントには、奏の名前にピンクの線。
学校ごとにまとめて記載された出場メンバーの名前欄に、他の人たちに混ざって僕の名前があることは、本当にこのチームの一員になったような気がして、ちょっとうれしくなる。
僕はここで、ちゃんと人間として認められている。

 目の前にそびえる大きな建物の前には、長い金属の棒が立てられ旗が揺らめいていた。
とても大きな会場だ。
僕たちと同じようなチームが、いくつもこの周辺に集まっている。
そうか、この紅藻色のお揃いの服は、仲間を見分けるためのものだったんだ。
岸田くんもずいぶん背が高くてがっしりしているけど、それ以上に大きな人たちをそこかしこに見かける。
この人たちと、これから泳ぐ速さを競うのか。

 もう一度渡された紙に目を落とす。
僕が出るのは、バタフライの個人、100mと200mだ。

「観客席での待機場所が決まったから、出場者以外は移動を始めてください。最初は400の個人メドレー、次が100の背泳ぎと自由形だから、その出場者は、ロッカーへお願いします」

 いずみの言葉に、岸田くんと奏は大きなバッグを持ちあげた。
岸田くんは400の個人メドレーに出る。奏は100m自由形だ。

「あれ? 奏の自由形100の次が僕のバタフライ200だよ? もしかして奏は、僕の泳ぎ見られないんじゃない? ねぇ、それってどうなの? ちょっと順番変えてくださいって、大会の人にお願いしに……」

「俺が代わりに、しっかり見てやるよ!」

 岸田くんは僕の頭を上から押さえつけると、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。

「岸田くんに見てもらっても、全然うれしくないし!」
「はは。じゃあな、宮野。しっかり泳いで、衝撃のデビューを飾れよ」

 岸田くんは、大会最初の種目に出る。
残された僕たちは、2階の観客席に上がった。
見渡す限りの広大なプールだ。
白い壁と客席に囲まれ、真っ青なプールが中央にドカリと置かれている。
天井には小さな旗までぶら下げられていた。
あれは何って聞いたら、その旗を見て、背泳ぎの人が距離を知るんだって。
いつも泳いでいるコンクリートむき出しの、カビ臭い学校のプールとは全然違う。
大きさも倍はあるし、なにより室内プールだし、電光掲示板まである。

「もしかして、50mのプール?」
「そうだよ。だからターンの回数、間違えないでよね」

 奏にも出場予定が早くからあって、更衣室へ行ってしまっていたので、僕はいずみの隣に腰を下ろした。

「100だと1回、200だと3回ね。はい、宮野くんももう一回言って」

 いずみは僕に、ちゃんと念押しすることを忘れない。

「100だと1回、200だと3回です」
「はい。よく出来ました。じゃないと宮野くん、調子よくいつまでも泳いでそうだから!」
「最初が3回で、二回目は1回ね」

 ちゃんと覚えておこう。
じゃないと、また奏にも怒られちゃう。
すぐに大会開始の時間が来て、場内アナウンスが流れた。
とにかく大勢の人がひっきりなしにあちこちで出入りしている。
動画でしか見たことのない審査員も用意されていた。
その人たちも揃って同じ服を着ていて、僕にもすぐに審査員だと分かる。
隣の観客席に座っている学校のグループは、僕のいる学校より随分人数が多い。

「記録会って、凄いんだね。こんなにちゃんとした大会だなんて、思わなかったよ」

 初めての大会にキョロキョロしていた僕に、いずみは言った。

「しっかり選手の動きを見てて。笛の合図でどう動くのか。スタートで失敗して、失格になる人が多いの。宮野くんも気をつけて」
 そうこうしているうちに、女子の400mメドレーが終わった。
次が男子の400m個人メドレーだ。
この学校では、岸田くんが最初の出番になる。
じっと見ていると、プール脇の通路から、彼がゆっくりと歩いて出てきた。
事前にいずみから渡された紙にかかれた通りの、決められたレーンに入る。
4番のところだ。
選手が出そろったところで、長いホイッスルが鳴る。
飛び込み台の上に上がった。

「スタートの横にいる人を、よく見ててね」

 いつもその役は、いずみか別の部員がやっている役。
よく分からない言葉が、突然出てくるやつだ。
その審判長とかいう人が、水平に片手をあげた。
笛がなったら、スタートの合図。

「ピッ!」

 その合図と同時に、選手は一斉に飛び込んだ。
この広い会場中に響き渡るような笛の音だ。
横一列に水しぶきが上がったと思った瞬間、深く潜り込んだ体はぐんぐん進んでゆく。
最初はバタフライ。
岸田くんの泳ぎは綺麗だと前から思っていたけれど、やっぱり他の人間と比べてみても、とても綺麗だった。

「岸田くん、速いね」
「うちのエースだもん」

 いずみはうれしそうに笑う。
くるりとターンして、もう一度バタフライ。
岸田くんのスピードは落ちない。
次のターンのところで、2位の選手が迫ってきた。

「あぁ! 岸田くん、頑張れ!」

 こんな遠くからじゃ、絶対に彼に届いてないことは分かっている。
だけど声に出さずにはいられない。

「がんばれー!」

 ターンと同時に、背泳ぎに変わる。
よくもまぁこんなに、色んな泳ぎ方ができるもんだ。
しかも好きなように泳いでるんじゃない。
手の回し方とか、色々と面倒くさい決まりが細かくあるってのに。
岸田くんが追いつかれた。
2位と3位の選手に並ぶ。

「追いつかれちゃったよ!」
「大丈夫、次の平泳ぎとクロールで、取り返すから」

 くるっとターン。ほぼ3人が横並びになった。
それでもわずかに、岸田くんがリードしている。

「あぁ、がんばれ……」

 これはこれで、見ている方はとても落ち着いていられない。
握りしめた手が、じんわりと汗をかく。
背泳ぎから平泳ぎに変わった。
ターンからの伸びで、岸田くんが他より半身ほど先に出た。

「ね、ターンがどれだけ大事か、よく分かったでしょ」
「分かった分かった。もっと真面目に、ちゃんとするようにするよ」

 岸田くんが他のどの部員より、練習していたのを知っている。
そうか。
だからみんな、今日のために筋トレしたり練習したりしてたんだ。
のんびりビート板に浮かんでる場合じゃなかった。
400mメドレーは一番きつい種目だから、あんまり泳ぐ人がいないって。
だから、勝てる可能性も高くなるって。
岸田くんはそう言って、短い距離を他の部員に譲り、自分が一番しんどい種目に出ている。

 次のターン。
平泳ぎに変わってから、背泳ぎの時より少し余裕が出来たとはいえ、すぐに抜かされてしまいそうな距離だ。
自分が泳いでいるわけでもないのに、なんとも言えない苛立ちと焦りが押し寄せる。

 岸田くんに疲れが出てきたのか、平泳ぎ最後のターンで、また3人が並んだ。
水面に浮かび上がった時点で、ほとんど差はない。
岸田くんの腕が水面に肘から上がって、真っ直ぐ前に伸びる。
そのターンでのひとかきが、彼の始まりの合図のようだった。
自由形といわれるクロールに泳ぎが切り替わったとたん、彼はあっという間に他の人間を後ろにおいていく。

「やった! 岸田くんが抜いてったよ!」

 興奮してしまった僕がつい叫ぶと、周りにいた部員たちは笑った。

「はは。宮野がそんなに、岸田のこと応援してくれるようになるとは思わなかったよ」
「俺たちの時も、それくらい応援してね」
「えっ? う、うん……。もちろん応援するよ」

 そんなことを言われて、逆になんだか急に恥ずかしくなって、自分の顔が赤くなっているのが分かる。
思いがけない言葉に驚いている僕の隣で、いずみは無邪気に笑った。
岸田くんはそのまま逃げ切り、無事1位でゴールを決める。
僕は思わず立ち上がった。

「おめでとう! 岸田く~ん。やったー!」

 大きな声で、岸田くんに向かって叫ぶ。
拍手をして両手をぶんぶん振っていたら、岸田くんはちらりとこっちを見ただけで、特に反応を返してくれない。

「あれ? 聞こえてないのかな」

 そう思って、また彼に向かって叫ぶと、いずみに笑いながら止められた。

「きっと後で、岸田くんに怒られるよ」
「なんで?」
「恥ずかしいからやめろって」

 なんだそれ。
応援されるのが恥ずかしいだなんて、なんだか変わってる。
なんだよ。
人間ってのは、みんな照れ屋さんなんだな。
僕は仕方なくそこに腰を下ろす。
次は一番大事な奏の番だ。
ここまでにいくつかレースを見ていて思った。
僕はくるりと座席に座ったままプールに背を向けると、背もたれに向かってうずくまる。

「あれ、どうした。次は奏だよ。奏は応援しないの?」
「奏のは見ない」
「どうして?」

 ちらりと指の隙間からのぞいたいずみは、もの凄くびっくりした顔をしている。

「そんなの当たり前だよ。奏は何番でも頑張って泳いだし、何をしてたって僕には1番だから」
「あっそ!」

 奏はそこにいるだけでいいの。
怪我とか溺れたりなんかしないで、ちゃんと無事に……。

「違う。そうだ。何かあったら、僕が助けに行かなくちゃ」

 やっぱりちゃんと見よう。
ここからだって、遠いけどきっと1階に飛び降りれないわけじゃないし。
人魚仲間で、こういう競争を遊びでしたことはもちろんあったけど、こんなにドキドキするのは、初めてだ。
奏に自分の泳ぎはどうだったって聞かれても、ちゃんと答えられないし……。
100m背泳ぎの、女子と男子が終わって、次が奏の100m自由形だ。

「あ、ダメだ。なんか緊張してきた」

 もし奏が1番じゃなかったらどうしよう。
それで悔しくて、泣いちゃったりしたらどうしよう。
奏がもし途中で失格なんかになったら……。
 その彼女がプールサイドに現れた。
いつもの奏が、100倍かっこよく輝いて見える。
スラリと伸びた手足と、キュッとしまった体。
奏はいつ見ても綺麗だ。
その奏が、もしも傷ついたりなんかしたら……。
岸田くんが観客席に戻ってきた。

「宮野、お前なにやってんの?」

 僕は顔を両手で覆って、指の隙間から奏を見ている。
緊張で返事の出来ない僕の代わりに、いずみが答えた。

「奏のを見てたら、心臓が止まりそうになるんだって」
「あっそ」

 今の僕は、緊張で怖くてそれどころじゃない。
だけど彼女の勇姿もちゃんと見て起きたい。
奏がスタート台に立つ。
我慢出来ずに、僕はぎゅっと目を閉じた。

「ピッ!」
 スタートの合図が鳴って、静かだった会場が一気ににぎやかになる。
100mは距離が短いから、勝負もあっという間だ。
5レーンを泳ぐ奏は、なんとか先頭を泳ぐ隣のレーンの選手にくらいついている。
50mのターン。
奏は少し、距離を開けられた。

「あぁ、もうダメ!」

 目を閉じる。
僕は賑やかな会場の声や水音を聞きながら、ゆっくり数を数える。
奏の平均タイムは覚えている。
それくらいにはきっと、僕に与えられたこの試練も終わる。
1、2、3、4、……18、19、20、……。
会場から拍手がわき起こった。
勝負がついたらしい。
電光掲示板を見ると、奏は2位だった。
ちゃんと彼女が泳ぎ切れたことが、それだけで素晴らしい。

「もう奏が優勝でいい……」
「アホか」

 岸田くんが怒った。

「奏は200がメインなんだよ。150からの追い込みが持ち味なんだから、この順位は、これはこれでいいの」
「なにそれ、意味分かんない」
「だからもうちょっと勉強しろって、いつも言ってんだろ」

 僕の知らない奏を知っている岸田くんに、ちょっとムッとする。
そんなこと、聞いてたかもしれないけど覚えてない。
短水路の自由形は選手層が特に厚くて、泳ぐ人数が多い分、なかなか終わらない。
奏が観客席に戻ってきた。

「あれ? 奏、僕のバタフライ、もしかして見られるの?」
「そうだよ」

 男子の100m自由形は、女子よりもさらに人数が多かった。
奏はその様子を見ながら、少し早めの昼食をとる。

「食べられる時に、お昼食べとかないとね」

 彼女はここへ来る前にコンビニで買ったおにぎりをほおばる。

「予定表に次の開始時間が書いてあるでしょ。自分で時間見て、動かないとダメだよ。宮野くんは、200のバタフライが終わってから、お昼ご飯だね」

 水着の上から羽織ったジャージと濡れた髪。
今ここで彼女を抱きしめられたら、どれだけいいだろう。

「おにぎり美味しい?」
「うん。美味しいよ」

 代わりに僕は、彼女の額にかかる前髪をかき分ける。

「宮野くんは、おにぎり好き?」
「好き」

 彼女は海苔にくるまれたお米の塊を、むしゃむしゃとほおばる。

「ね、宮野くんも緊張とかしてるの?」
「僕が? ううん。してないよ」
「あっそ。ま、いいけどね」

 奏はもう一度、僕にスタートの説明を始めた。
何度も何度も、入れ替わり立ち替わり色々な人間からさんざん聞かされた同じ話を、僕は初めて聞くような顔をして彼女から聞いている。

「ね、ちゃんと聞いてる?」
「もちろん。ちゃんと聞いてるよ」

 どんなことであっても、彼女が僕に話してくれることなら、うれしい。
にこりと微笑んで見せたら、奏は小さく息を吐き出した。

「ま、いいけどね」

 そんな僕たちの間に、岸田くんが割って入ってくる。

「ほら宮野。のんびりしている暇はないぞ。そろそろ準備に行ってこい。ロッカーの位置くらい、分かってるんだろうな」
「分かってるって」

 せっかく今日は一日、自由に彼女のそばにいられる日なのに、なんてもったいない。
僕はやれやれと立ち上がる。

「3回ターンのやつでしょ。知ってるよ」

 泳ぎに行かないといけないのは分かるけど、奏の隣に岸田くんが座ったのが、なぜか気に入らない。
さっさと泳いで戻ってきて、すぐにどいてもらおう。

 着替えの荷物だけを持ってロッカーに入る。
このぴちぴちした水着にも、すっかり慣れた。
僕の足も、随分太くたくましくなったもんだ。
人間の泳ぎ方での筋肉がついてきている。
時間が来て、プールサイドへ向かった。
準備運動の代わりに、軽く体をほぐす。
この手も足も体も、全部自分のものだということを、もう一度確認していく。
係員に名前を呼ばれ、「はい」と返事をした。
僕はすっかり人間の仲間入りを果たしている。
誘導されたのは、プール一番端っこの0番レーン。
公式記録のない人は、泳ぐ場所もあらかじめ決められている。

 人間は、このバタフライという泳ぎ方が苦手な人が多いらしく、距離も長いので出場者も少ない。
いっぺんに泳ぐのは一組だけで、全部でちょうど10人だった。
プールサイドに集まった出場者に向かって、長い笛が鳴る。
奏たちのいるところはどこかな。
ここからだとちょっと分かりにくい。
プールの一番端っこのレーンだから、僕のすぐ横に、合図を出す役目の人間がいた。
片腕が水平に上がる。

「take your marks」

 僕は台の上に上り、背中を丸めた。
奏と岸田くんから、スタートの合図を聞いてから飛び込んだんでいいと言われている。
僕は上手くやれるよ。
ちゃんと見ててね、奏。

「ピッ!」

 もう十分聞き慣れたはずの音なのに、大きすぎるその音にビクリとする。
僕以外の全員が、水に飛び込んだ。
それを見届けてから、僕も飛び込む。
学校のプールとは、やっぱり雰囲気が違うよな。
0レーンの1番端っこを泳いでいるから、学校とは違う真っ白できれいな壁が気になって、壁ばかりを見て泳いだ。
水底の床の色が変わって、ターンをする。
ターンの動作は正確に。
水深もこっちの方がちゃんと深い。
たしか今回は、3回ターンのやつだ。
この色つきの床のところでターンして、ちゃんと壁にタッチすることを忘れないこと。
 奏に散々言われたから、もちろん言われた通りにしてるけど、絶対にこんな風に両腕をぐるぐる回しながらジャンプして泳がない方が、速いのにな。
そんなことを考えながらも、2度目のターン。
潜ったまま泳いでいいのは15mまでと決められているから、最初の蹴りからすぐに水面に浮き上がらなければならない。

 泳ぐこと一つにも色々と面倒くさい。
最後のターンが終わって、スタートラインに戻った。
ちゃんと壁にタッチしてから、立ち上がること。
ふぅ。ちゃんと出来たよ、奏。

 泳ぎ終わった僕の耳に、場内の大歓声が響いた。
振り返ると、まだ他の人間は泳いでいる。
だけどまぁ、端っこだからよかった。
すぐにプールから出られるし。
急いで奏のところに帰らなければ。
どんな時だって出来るだけ長く、彼女と一緒にいたい。

「すごいな、君!」

 更衣室に戻る途中、知らないおじさんにいきなり声をかけられた。
白い服を着ていたから、きっと審判の人だけど、とにかく早く観客席に戻りたい方が強かった。
ペコリと頭を下げただけで許されるのは、ちょっと便利。
体を拭いて、ロッカールームを出る。
交代で入る次の部員が、なんだかニコニコで片手をあげ、「ハイタッチ!」って言ってきたから、同じように片手を上げたら、その手をパチンと叩かれた。
ちょっと痛い。
いずみから言われた通り、ロッカーの鍵を渡しただけなのに、なぜか抱きつかれたりして、またちょっとびっくり。
観客席に戻ると、今度はいきなり岸田くんが抱きついて来た。

「やっぱお前、凄いよ!」

 いずみが泣いている。奏の目も赤い。
僕のところに、今までずっと今回僕の泳いだバタフライの200を泳いでいたという男の方の人間が来て、僕に言った。

「ゴメンな、宮野。やっぱお前がうちに来てくれて、よかったよ」

 ぎゅっと握手をして、肩に腕を回されたので、よく分からないけど同じように返しておく。
周りの人間はみんな喜んでいるようで、温かな拍手が起こった。
僕と同じ学校ではない、観客席の周りにいる他の知らない人間まで、こっちに向かって手を叩いていた。

「次も期待してるぞ」

 岸田くんが本当に嬉しそうに、ぽんと僕の肩に手を置いた。
電光掲示板に出た記録に、場内がどよめく。
1分55秒09。
高校生男子の、日本記録に迫る勢いだ。

「おめでとう」

 奏にそう言われて、僕はようやく、ほっと安心できる。

「ね、大丈夫だった? どっか失敗したり、間違えたりしてなかった?」
「バッチリ問題なし。大変よく出来ました」

 奏の声が震えている。
彼女の手が右の目をこすった。
やっぱり泣いたんだ。
なんだかそれが、彼女に悪いことをしたようで、僕は彼女に謝りたくて、そう思って両腕を前に差し出したのに、彼女は僕の胸に自然と体を寄せた。
ぎゅっと抱きしめる。

「ねぇ、なんで泣いてるの? 僕は奏を泣かせるために泳いだんじゃないよ」
「はは。これはうれしくて泣いてるんだから、大丈夫だよ」

 奏がそう言った直後、別の男子部員が僕の上に抱きついてきて、また別の女子部員も抱きついて来て、岸田くんやいずみまで一緒になってくるから、密集したイソギンチャクみたいになってしまった。
ぎゅうぎゅうすぎて、重いし暑い。

「ほら。宮野くんは次もあるんだから、今のうちに食事をとっておいて」

 いずみに言われて、ようやくみんなは離れる。
こんなに色んな人間に、いっぺんに触られるのも初めてだ。
岸田くんはそのまま残って、なんだかごちゃごちゃ色んなことを、僕に話しかけてくる。

「いいか、食べながらよく聞け。次の100は、お前のさっきの200の泳ぎで、完全にマークされてるはずだ。絶対にスタートで飛び出すなよ。ターンとタッチは……」

 ここに来る前にみんなで寄ったコンビニで、奏の選んでくれたおにぎりを食べている。
その横で岸田くんがいつも以上に熱く語っているけど、僕たちが速く泳ぐのは、乱暴なシャチやサメから逃げるためだったり、ハマチやカツオの群を追いかけるためだったりする。
ただ泳いでスピードを競うための話しじゃない。
もちろんそういうことだって、全然しないワケじゃないけど、岩や潮の流れもない真四角でのっぺりとした箱の中を泳いでも、あんまり楽しくはない。
僕はそういう、ただ何かをやり続けるということには、もう飽き飽きしている。

「だから、ここは……って。おい、宮野。ちゃんと聞いてるか?」

 僕は食べ終わったおにぎりを包んでいたビニール袋を、ぐしゃぐしゃと丸めながら一息つく。

「次も一番で泳ぐよ」
「お、おう」

 おにぎりは美味しいけど、あんまり好きじゃない。
さけやいくらのおにぎりは好き。
岸田くんはまだ何か言いたげな顔をしていたけれど、結局そのまま、何も言わずに立ち去っていった。
申し訳ないけど、僕はプールで泳ぐために海から上がったんじゃない。

「奏は?」
「次の個人メドレーのために、更衣室へ行ったよ」
「そっか」

 彼女と一緒にいられるのなら、どこへだって行くし、何だってする。
それだけのこと。

 次の競技に出場する奏が、プールサイドへ出てきた。
個人メドレーの2組目、5番レーンだ。
彼女はどんな気持ちで、あそこに立っているんだろう。
その思いを少しでも知りたくて、そのためだけに僕はここにいる。

 合図があって、彼女は台に上がった。
その美しい体を曲げる。
スタートと共にしぶきをあげ、水に飛び込んだ。
彼女の望みなら、なんだって叶えてあげるのに。
そうしたらきっと、僕の本当の望みを、彼女は叶えてくれる。
その唯一の人に、僕は彼女を選んだ。

 奏はぐんぐん調子よく泳いで、また2位でゴールした。
記録は少し伸びたみたいだけど、タイムは2分46秒28。
悪くはないけど、よいとも言い難い結果だ。
だけどそんなことは、僕にはどうだっていいんだ。

「お帰り」

 泳ぎ終わって2階席に戻って来た彼女に、声をかける。

「ただいま」
「奏、凄く上手に泳げてたよ」
「はは。ありがとう。宮野くん、次の100に行かなくていいの?」
「奏の顔を見てから行こうと思って」

 僕は立ち上がると、にこっと彼女に微笑む。

「ちゃんと僕のこと、応援しててね」

 彼女にそう宣言して、プールサイドへ向かう。
奏が一番になれないのなら、代わりに僕が一番になる。
彼女が泣いて喜んでくれるのなら、いつだってそうする。
そんなの、負けるわけないじゃないか。

 更衣室に入り、羽織っていたジャージを脱ぐ。
スイムキャップをきっちりとかぶった。
距離が200から100になったとたんに、泳ぐ人数が増える。
僕には過去の公式記録がないから、第1組の0番レーンなのには変わりがない。

 プールサイドにずらりと並んだ一番隅っこで、軽く肩をほぐす。
真横に並んだ人間たちが、ちらちらとこっちを見ているのが分かる。
僕を意識してる? 
合図があって、飛び込み台の上に上がった。
100メートルだったっけ。
一回のターンのやつでしょ? 
余裕だね。

 スタートの合図で飛び込む。
そのタイミングだって、もう横を見ながら誰かを待ったりしない。
どんな厳しいルールが課せられていたとしても、そんなものにも負けない。
飛び込んだ水の床の色が変わった。
壁に手をつくと、すぐ足で壁を蹴る。
誰も僕には追いつけない。
泳ぎ終わったら、大会新記録の51秒96が出ていた。

「凄いよ、宮野くん。かっこいい! 優勝だよ、おめでとう!」

 客席に戻ると、奏から話しかけてくれた。
彼女が喜んでくれたら、それでいい。

「ありがとう。かっこよかった?」
「うん。すっごく!」

 これで僕の出番は全て終わったけど、まだ奏の試合が残っていた。
全員の競技が終わるまで、他のみんなも帰らないんだって。
僕はべちゃべちゃする水着を脱いで、制服に着替えていた。
乾いた服の方がいいなんて、すっかり人間になったみたいだ。

 奏のレースが始まる。
彼女の最終レース100mフリーリレーは、4分26秒75の、大会4位で終わった。

「お疲れさま」

 帰りは、会場の外で解散。
夏の日はまだ空に残っている。
みんなはまだ木に囲まれた広場から動かないけど、僕は誰よりも真っ先に奏に駆け寄る。

「ねぇ、今日は一緒に帰ろう。途中まで、一緒に帰ってくれる?」
「うん。私もそうしたい」

 みんなに別れを告げ、その場を離れる。
快く見送ってくれた。
奏の大会記録は4位だったけど、機嫌は悪くないみたいだ。
日差しの落ち着いた夏の街中を、奏と二人で歩く。
僕の隣で彼女は、ずっと自分の話をしていた。
この会場に来るのは何回目だとか、中学の時もここでやって、その時の同級生がどうのこうのとか。

「奏は、なんで泳ぐの?」
「私? 泳ぐのが好きだからかな。結局は、そこだよね」
「泳ぐの好き?」
「もちろん。好きだよ」

 そっか。ならいいや。

「僕も好きだよ」

 彼女はにっこりと微笑む。
僕はそんな彼女の、日に焼けた頬から首筋に視線を移す。
さっきまで漬かっていた水のせいで、僕と奏からは同じ臭いがする。

「そうだ。宮野くんの優勝祝いしようよ。大会新記録だよ。特別に私がおごってあげよう」
「おごる?」
「なにか食べたいものを、買ってあげる」

 彼女の手が、僕の肩にかけた鞄のベルトを引っ張った。
すぐ近くにあったコンビニにつれて行かれる。
扉を開けるとコンビニ独特のチャイムがなって、店内の冷えた空気がふんわりと体を包む。

「なにがいい?」

 そう言って彼女は、アイスケースをのぞき込む。
彼女と学校の外で二人きりになるのは、思えばこれが初めてかもしれない。
ケースの縁に置かれた手に、触れないくらいのギリギリの距離で自分の手を置く。

「奏は何が好きなの?」

 それなのに、うっかり肩と肩がぶつかってしまった。
そのまま嫌がって離れていってしまうかと思ったのに、彼女はそのままそこにいる。

「わ、私は、宮野くんの好みを聞いてるの!」

 肩同士がぶつかってしまったことを、奏は恥ずかしがっているみたいだ。
「僕は、奏の好きなものが知りたい」
「いつもそればっかり言ってるよね」
「だって、本当のことだもの」
「今は宮野くんのことを知りたいの」

 奏は、ぱっとそこを離れた。
僕はそんな彼女を追いかける。
コンビニの店内はいつだってとても狭い。
彼女はお団子とかパフェとかケーキのならんだ棚をのぞき込んだ。

「宮野くんは、あんまり甘い物食べてるイメージないなぁ。そういえば」
「僕のこと、気にしてくれてたんだ」
「だけどスポーツゼリーとかじゃ、お祝い感なくない?」
「学校のお昼休みしか食べてないのに、見てたの?」

 彼女はなぜか顔を真っ赤にした。
そんな横顔を僕に向けたまま、こっちを向いてくれそうにない。
どうしたら彼女は、僕を見てくれるようになるんだろう。

「みんながそうやって噂してるのを、聞いただけだから」
「奏もずっと、僕を見てた?」

 触れたくてたまらないその手が、棚に並んだ透明なカップケースを手に取った。
それで顔を半分隠すようにして、ようやく僕を振り返る。

「ね、これとかは? モンブラン好き?」
「食べたことない」

 手を伸ばす。
顔をちゃんと見たいから、カップを持つ彼女の手に触れる。
それを奪いとってしまいたいのに、彼女は背を向ける。

「じゃあ、ダメじゃない」
「奏が好きなら食べる」
「私は、宮野くんの好きなものを聞いてるの」
「奏。僕は奏が好き」
「それはもう知ってる」

 カップケースを戻した奏が、また動きだす。
僕はどこまでもその後を追いかけてゆく。
今度はジュースの並んだ扉の前で振りむいた。

「だけどジュースってのも、さすがに……。あ」
「どうしたの?」

 冷たい扉を背にした彼女の、真横に手をつく。
その黒いまだ湿り気のある髪に頬を寄せようとしたら、やんわりと押し返された。

「ソフトクリーム売ってる。期間限定のやつ」

 それでも僕は、彼女の髪に顔を埋め耳元にささやく。

「奏が食べたいなら、それでいいよ」
「じゃあ、それで決まりね」

 僕の腕をすり抜け、彼女はレジへ向かってゆく。
なにかを注文しているのを、僕は後ろからただ見ている。

「はい。もうなに言ってもちゃんと答えてくれないから、勝手に頼んじゃった」
「うん。それでいいよ」

 店の外に出て、彼女から鮮やかなオレンジ色のアイスを受け取る。

「じゃ、宮野くんがマンゴーで、私はチョコね」

 奏は大きく口を開けた。
とんがったその甘いクリームの先に、唇でかぶりつく。
僕はそれを見ながら、渡されたオレンジのアイスを口にする。

「ん。美味しいよ。マンゴーはどう?」
「美味しいよ」
「そっか」

 彼女のアイスを食べる横顔を、僕がじっと見ているのに、やっぱり彼女は僕を見ようとしない。

「ね、こっちのも食べてみる?」

 僕は奏に、自分のアイスを差し出した。

「いいの?」
「いいよ」

 奏の顔が近づき、僕の手からそのまま口を付ける。
彼女の舌が、自分の唇を舐めた。

「ほんとだ。こっちも美味しいね」
「奏のも食べたい」
「いいよ」

 そうやって、彼女が素直に自分のアイスを差し出すから、僕は彼女にささやく。

「ねぇ、キスしていい?」

 そう言ったら、奏は動かなくなってしまった。
返事はない。
僕が顔を近づけても、逃げるような、嫌がるような素振りもみせない。
彼女は目を閉じる。
そっと近づけた唇が触れ合う。
僕たちはゆっくりとキスをする。
彼女から甘いチョコの味がした。
 好きですって告白する時は、「付き合おう」って言うんだってのは、何となく知っていた。
岸田くんたちが、教室のその周辺で男同士しゃべっているのを聞いていたし、前に奏が岸田くんにもそう言っていたのも覚えていた。
それはお互いに「好き同士」ってこと。

「おはよう」

 教室に入ってきた奏は、一番に僕のところへ来るようになった。
机に伏して寝ていた僕の隣に、同じようにして覆いかぶさる。
肘と肘がコツリとぶつかった。

「ね、おはようって言ったのに、おはようの返事はなし?」
「ん。おはよう」

 それを聞いた彼女は、満足したように微笑む。
ふわりと立ち上がった。
そのままいつも一緒にいる女の子たちのところへ行ってしまう。
少し離れた教室から、彼女たちの声が聞こえてきた。

「ね、宮野くん。水泳の大会で優勝したって本当?」
「大会新記録だってよ。ダントツの一位。ネットニュースにもなってた」
「凄いね。やっぱ、タダモノじゃなかったんだよ」

 そうやって言われた奏が、うれしそうにしている。
奏がうれしいのなら、僕もうれしい。
昼休みには、みんなとご飯を食べ終わった後に、二人で校内を散歩する約束もした。

 奏が僕のことを好きになってくれたのなら、それはそれでうれしい。
僕も奏が好きだから。
だからきっと奏はキスをしても怒らなかったし、ようやく彼女の好きな学校の場所も、僕に教えてくれる気になった。
僕は銀色のパックに入った栄養ゼリーの、空になったのを口にくわえたまま、彼女のお弁当とおしゃべりが終わるのを待っている。

「お前、昼飯はずっとソレばっかだな」

 岸田くんは、僕の口元でぶらぶら揺れているパックを見ながら言った。

「ちゃんと飯食ってんのか。次の大会が本番なんだ。夏バテとかしてんじゃねぇぞ」
「夏バテ?」
「体力付けろってこと」
「体力はなくても、ちゃんと泳ぐから大丈夫だよ」
「飯はちゃんと食え」
「食欲がないんだ」
「それを夏バテっていうんだよ」

 奏がやっと箸をおいた。弁当を片付け始める。
彼女はチラリとこっちを見た。
それを合図に、僕は立ち上がる。

「コイツ、女が出来て浮かれてんだよ」
「ようやく愛しのカナデチャンに振り向いてもらえたから」

 教室でいつも岸田くんと囲む仲間から、ガハハと笑いを受けた。
どんなに笑われても、自分のことならどうだっていい。

「なぁ、宮野!」

 それでも、まだ岸田くんは怒っていた。
だけどそんなことよりも、僕にはもっと気になることがあるんだ。

「僕は平気だから」

 奏が待っている。
岸田くんの心配を無視し、立ち上がった。
空になったパックをゴミ箱に放り込むと、彼女の後ろに立つ。
奏のお友達たちが、僕に向かってキャアキャアなにか言ってるけど、そんなことだってどうでもいい。
適当に「うん」とか「そう」とか「あぁ」とか返事をしておく。

「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
「いってらっしゃ~い!」

 元気に見送ってくれるお友達に手を振って、上機嫌な奏と教室を出る。
やっと二人きりになれた。
昼休みの賑やかな廊下を、並んで歩く。

「どこ行こっか」
「奏の好きなところじゃないの?」
「はは。それはそうだけど、なんかゆっくり出来るところがいいな」

 だけど昼休みの校内は、どこも人だらけで、二人きりになれるところなんてない。
僕は奏と並んで、ゆっくりと歩きながら校内を回る。

「水泳部のみんなからも、お祝いされちゃった。最高のタイミングですねって」
「タイミング?」
「宮野くんのこと。みんな凄いって褒めてたよ」
「奏は、僕が泳ぐの速いから、僕のこと好きなの?」
「あのさぁ!」

 奏が怒った。

「そりゃ、私も水泳やってるから、上手な人のことは好きだよ。だけど……」
「だけど?」
「もう! これ以上は言わない」

 なんだそれ。
もっと話を聞きたいけど、なんだか聞けないような雰囲気だから、黙っておく。

 彼女は自販機の前に止まると、ガコンと紙パックのフルーツミックスジュースを買った。
それにストローをさすと、ちゅっと口を付ける。

「もうここに座っちゃおうか」

 自販機のすぐ向かいにある植え込みの、その縁石に腰掛ける。
真夏の日差しもコンクリートの屋根に遮られ、ここだけは日陰になっていた。
僕も彼女の隣に腰を下ろす。

「そういえば宮野くんて、いつもスポーツゼリーばっかりだね。ちゃんと食べてるの?」
「さっきも、岸田くんに同じこと言われた」
「心配してんだよ。岸田くんは部長だから。うちのエースの心配」
「エース?」
「一番大事な人ってこと」
「僕は岸田くんのエースじゃないよ」
「じゃあ誰のエースなの?」
「誰だろう」
 そうやって僕は奏を見ているのに、奏は買ったばかりのストローを吸っている。
これも知ってる。
奏がよく飲むやつだ。
僕も気になって、前に一人で飲んでみたけど、正直あんまり好きじゃない。

「奏は、このジュース好きなの?」
「え、なんで?」
「よく飲んでるから。僕も飲みたい」

 彼女の手に触れる。
僕は背を丸め、紙パックを持つ彼女の手を引き寄せると、白いストローの先をくわえた。

「美味しいね」

 にこっと微笑んで、彼女の目を下からのぞき込む。

「奏のことは、全部好き」
「私も」

 顔を近づける。
僕の唇はもっと柔らかな唇に触れ、舌を絡めた。
彼女が逃げようとするのを、抱き寄せて離さない。

「も……。むり……」

 彼女のささやくような声に、もう一度軽く口づけてから離した。

「僕のこと、好き?」

 額を合わせて、彼女の黒い目をのぞき込む。

「好き」

 はにかむように赤らんだ頬で、彼女はそう答えた。

「よかった。じゃあ、付き合ってくれるってこと?」
「私は、もうそのつもりだったけど」

 僕の腕の中で、赤らめた頬の奏がうつむく。

「よかった」

 昼休み終了を知らせる予鈴が鳴った。
僕はもう一度彼女にキスをしようと、顔を近づける。

「もう教室に戻らなくちゃ」

 それは明確に拒絶されたので、すぐに顔を離す。
手を差し出したら、彼女はすぐに僕の手に自分の手を重ねた。
そっと繋いだ手の、指と指を絡める。
慌ただしくなった校内を、僕たちは同じ教室に向かって歩き出す。
僕は奏のくるくるした短い髪の毛先を見ている。

「今日も授業終わったら、部活だね」
「ホントにご飯、あれだけで大丈夫なの?」
「うん。平気」
「何か、お弁当的なもの作ってきてあげようか? ゼリーとかパンばっかりだよね」
「ふふ。奏もちゃんと僕のこと見てくれてたんだ」
「当たり前でしょ?」
「おにぎりも好きだよ」
「じゃ、おにぎり弁当」

 ここに来た時は迷路のようだと思っていた校内にも、すっかり慣れた。
階段を上り、廊下を歩いて自分たちの教室に近づく。
最後の角を曲がる手前で、僕は繋いだ手を引き寄せ、彼女の指先にキスをした。

「奏の方こそ、ちゃんと寝てご飯食べて、体を休めなきゃいけないんだから。そんなことしなくていいよ」

 彼女の可愛らしい目が、まっすぐに僕を見つめた。

「ねぇ。宮野くんって、本当はなにが好きなの?」
「奏だよ」
「じゃなくて、食べ物!」
「んー。刺身?」
「さ、刺身か。さすがにお刺身の手作り弁当は、ハードル高いなぁ」
「気持ちだけで十分だから」
 もう一度頬を寄せ、その髪にキスをする。
「奏のその気持ちだけでうれしい」
「うん」

 不意に彼女との視線がぶつかり合う。
奏はついと背を伸ばした。
彼女の柔らかな唇が、僕の口元近くに触れる。

「早く教室戻らないと、授業始まっちゃうよ」

 奏は軽やかな足取りで、僕を残し追い越してゆく。
くるりと振り返ったスカートが、はらりと翻った。

「また部活のあとでね」

 奏に少し遅れて教室に入ると、彼女は他の生徒としゃべりながら、もう席につこうとしていた。
僕はまだ彼女の触れた感触が残る口元を隠したまま、自分の席に戻る。
すぐに次の授業の先生がやって来て、僕はいつものように机に寝転がった。

「宮野! 寝るのはいいけど、耳だけは聞いてろよ」
「はーい」

 いくら先生にそう言われたって、退屈な話しなんて聞いていられるわけがない。
僕と奏は付き合いだした。
彼女は僕のことを好きだと言ってくれたし、僕も彼女が大好きだ。
それなのに……。

 自分の左手を広げ、じっとそれを見る。
もう人魚ではない僕の手は、爪は丸く短くなり、指と指の間にあったヒレもない。
びっしりと細かい鱗で覆われていた肌の表面も、今はむき出しのつるつるだ。
これが人間になるってこと? 
真実のキスを奏と交わしたはずなのに、僕には僕にかけられた魔法が、きちんと動いたような気がしない。
なぜだ。
3列向こうの席にいる奏を見る。
彼女は小さな机の上に教科書とノートを広げ、熱心にメモをとっていた。
彼女が僕に嘘をついているとは思えない。

「ちゃんとキスだけじゃなくて、今度は『付き合って』も言ったのになぁ……。あっ!」

 僕はぱっと起き上がると、後ろを振り返った。
すぐ真後ろに座っている岸田くんと目が合う。彼の眉間に、くっきりとしわが入った。

「なんだよ」
「……。ううん。何でもない」

 今はまだ授業中だった。
もう一度前を向いて、机につき伏す。
奏の「好き」は岸田くんが一番で、僕が二番だからかな。
そうなのかな。
もしかしたら、そうなのかもしれない。
奏は先生に言われた通り、教科書のページをめくっている。

 ようやく放課後になって、僕は一番に奏に駆け寄った。

「部活行くでしょ? 一緒に行こう」

 彼女の帰り支度が終わるのを、待ちきれない。
鞄を背負い一緒に教室を出たとたん、彼女の手を取り、廊下を急ぐ。

「ねぇ、なになに? どうしたの?」

 僕は早く奏に確認したくて、彼女と手を繋いだままぐんぐん進む。
放課後の廊下は、通常教室じゃないところだと、人が少ないことを知っている。
そしてこのルートが、プールへ向かうには一番近い。
僕は辺りに誰もいないことを確認して、彼女を壁に押しつけた。
両手を壁につき、彼女をのぞきこむ。

「ね、本当に僕のこと好き?」
「なに? ずっとそうだって言ってるじゃない」

 はにかむように微笑んで、奏はぱっと横を向いた。

「私のこと、そんなに信用できない?」

 僕の腕から抜け出そうとする彼女に、ぎゅっと体を押しつける。
僕にとってそれは、とても大事なこと。

「僕と岸田くんと、どっちが好き?」

 とたんに奏は、ムッと眉を寄せた。

「ねぇ、なんでそんなこと聞くの」
「前に、岸田くんが好きだって言ってたから」
「それはそうだけど……」

 奏はうつむいた。
その頬に触れると、ぷいと顔を背ける。