「放せ! 僕は奏を追いかけなくちゃいけないんだ!」
殴りたくはないけど、殴らずにはいられない。
彼女をそのままにしておくなんて、そんなことは出来ない。
思い切って振り上げた拳は、だけど簡単に押さえ込まれてしまった。
「なぁ宮野。お前、人魚だろ。俺は去年の冬、海岸で溺れた奏を浜に残して、脱げた靴を履かせてまた海に戻るのを見た」
体の中で、ボコリと血の泡立つ音が聞こえた。
僕の体に残る人魚としての血だ。
心臓が止まる。
あの時彼女の足からポロリと外れた小さな殻みたいなものが、スニーカーという靴であることを、僕はもう知っている。
「お前が助けた後で、奏を助けたのが俺だ。お前がうちの学校に転校してきた時は、死ぬほどびっくりした」
「見てたの?」
抵抗しようと腕を動かしても、がっちりと掴んだ岸田くんの手は僕を放してくれない。
「見てたよ。お前が凄い勢いで泳ぐから、水面がさーっと一直線に盛り上がって、それでなんだろって見てたら、勢いよく浜辺に飛び上がった。奏と一緒に」
振り上げた拳から、力が抜ける。
もう立っているだけの力も残っていない。
僕はその場にガクリと膝を落とした。
「お願い。そのことは誰にも言わないで。じゃないと僕は……」
「だから、奏にまとわりついてんだろ?」
「なんで知ってるの!」
「有名な話しだろ。人魚っていえばさ。たいがいはみんな知ってるよ」
どれだけ正体を隠しても、隠しきれるものじゃないって、海のみんなも言っていた。
本当のことって、嘘はつけないよって。
「他に、僕の正体を知ってる人は?」
「いずみが知ってる」
いずみ? いずみか。
そういえばここに来た最初の頃、他の人に比べても、ちょっと僕に意地悪なような気がしてたんだ。
そうか。そういうことだったんだ。
「バカだな僕は。そんなことも知らずにいたんだ」
岸田くんといずみが知ってるっていうのなら、僕にもう逃げ場はない。
「じゃあ、僕がどうしてここに来たかも知ってるの?」
「人間になりたいってやつ?」
「そう。そうだよ。じゃないと僕は、海の泡になって消えるんだ」
海の泡になるのは怖くない。
いつだって彼らは僕らのそばにあったし、いつかはみんなそうなる。
暗い海に現れては浮かぶ透明な泡は、優しかった長老の魂で、美しい女王の欠片だ。
だけど僕が何よりも恐ろしいと思うのは、このまま自分が何にもなれずに終わってしまうこと。
「僕は、奏と一緒に生きていかなくちゃいけないんだ。勝手にそう決めたのは、僕だけど」
「俺にはよく分かんねぇけど……。まぁ、お前がそう言うんなら、そうなんだろうな」
「頼みがある。このことを、彼女に知られたらいけないんだ。じゃないと僕は、もう絶対に人間にはなれない」
岸田くんを見上げる。
僕の運命は、もう僕一人の力でどうにかなるものではなくなってしまった。
「まぁ、邪魔をする気はないけどさ。協力は出来ないぞ」
「だから奏は、さっき泣いたの? 奏は僕より、岸田くんの方が好きってこと?」
「知らねぇって!」
もしかしたら彼は、そのために奏の『好き』を断ったんだろうか。
だとしたら、奏が泣いた原因は、僕にもある。
「分かったよ。もういい。黙っていてくれるだけで十分だ。ありがとう」
震える膝を押さえ、何とか立ち上がる。
自分の体が、もう自分のものではなくなってしまったみたいだ。
たった一つの望みを叶えることが、こんなにも難しい。
自分だけの意志では、自由に動けない。
「俺がお前に協力っていうか、それを黙っててやるのは、別に脅しでもなんでもなくて、俺といずみが、お前に感謝してるからだ。特にいずみは……。あのまま奏にもしものことがあったらって思うと、今でも怖くて仕方がないって言ってる。俺だってそうだ」
そんな僕に、岸田くんはとても優しい声で言った。
「なぁ、宮野。俺からも頼みがあるんだ」
彼の茶色の目は、意地悪でもなんでもなく、とても綺麗に澄んだ目をしていた。
「奏以外のやつらにも、泳ぎを教えてくれないか。学校全体で、この夏を勝ちたい。だからその、お願いっていうか、なんていうか……」
僕はすっかり日の落ちたプール前の広場で、背の高い彼を仰ぎ見る。
ここへ来たころにはよく見ていた外灯に、ようやく灯りがついた。
そんなこと、もう僕に選択肢は残されていないじゃないか。
「うん。いいよ。約束する。ちゃんとみんなに泳ぎ方を教えるよ」
「本当か! 助かるよ。ありがとう」
岸田くんはすごく喜んでくれて、僕はそれににこりと微笑む。
彼と別れた日の沈む陸の街を、僕は使い慣れない足で歩き始めた。
殴りたくはないけど、殴らずにはいられない。
彼女をそのままにしておくなんて、そんなことは出来ない。
思い切って振り上げた拳は、だけど簡単に押さえ込まれてしまった。
「なぁ宮野。お前、人魚だろ。俺は去年の冬、海岸で溺れた奏を浜に残して、脱げた靴を履かせてまた海に戻るのを見た」
体の中で、ボコリと血の泡立つ音が聞こえた。
僕の体に残る人魚としての血だ。
心臓が止まる。
あの時彼女の足からポロリと外れた小さな殻みたいなものが、スニーカーという靴であることを、僕はもう知っている。
「お前が助けた後で、奏を助けたのが俺だ。お前がうちの学校に転校してきた時は、死ぬほどびっくりした」
「見てたの?」
抵抗しようと腕を動かしても、がっちりと掴んだ岸田くんの手は僕を放してくれない。
「見てたよ。お前が凄い勢いで泳ぐから、水面がさーっと一直線に盛り上がって、それでなんだろって見てたら、勢いよく浜辺に飛び上がった。奏と一緒に」
振り上げた拳から、力が抜ける。
もう立っているだけの力も残っていない。
僕はその場にガクリと膝を落とした。
「お願い。そのことは誰にも言わないで。じゃないと僕は……」
「だから、奏にまとわりついてんだろ?」
「なんで知ってるの!」
「有名な話しだろ。人魚っていえばさ。たいがいはみんな知ってるよ」
どれだけ正体を隠しても、隠しきれるものじゃないって、海のみんなも言っていた。
本当のことって、嘘はつけないよって。
「他に、僕の正体を知ってる人は?」
「いずみが知ってる」
いずみ? いずみか。
そういえばここに来た最初の頃、他の人に比べても、ちょっと僕に意地悪なような気がしてたんだ。
そうか。そういうことだったんだ。
「バカだな僕は。そんなことも知らずにいたんだ」
岸田くんといずみが知ってるっていうのなら、僕にもう逃げ場はない。
「じゃあ、僕がどうしてここに来たかも知ってるの?」
「人間になりたいってやつ?」
「そう。そうだよ。じゃないと僕は、海の泡になって消えるんだ」
海の泡になるのは怖くない。
いつだって彼らは僕らのそばにあったし、いつかはみんなそうなる。
暗い海に現れては浮かぶ透明な泡は、優しかった長老の魂で、美しい女王の欠片だ。
だけど僕が何よりも恐ろしいと思うのは、このまま自分が何にもなれずに終わってしまうこと。
「僕は、奏と一緒に生きていかなくちゃいけないんだ。勝手にそう決めたのは、僕だけど」
「俺にはよく分かんねぇけど……。まぁ、お前がそう言うんなら、そうなんだろうな」
「頼みがある。このことを、彼女に知られたらいけないんだ。じゃないと僕は、もう絶対に人間にはなれない」
岸田くんを見上げる。
僕の運命は、もう僕一人の力でどうにかなるものではなくなってしまった。
「まぁ、邪魔をする気はないけどさ。協力は出来ないぞ」
「だから奏は、さっき泣いたの? 奏は僕より、岸田くんの方が好きってこと?」
「知らねぇって!」
もしかしたら彼は、そのために奏の『好き』を断ったんだろうか。
だとしたら、奏が泣いた原因は、僕にもある。
「分かったよ。もういい。黙っていてくれるだけで十分だ。ありがとう」
震える膝を押さえ、何とか立ち上がる。
自分の体が、もう自分のものではなくなってしまったみたいだ。
たった一つの望みを叶えることが、こんなにも難しい。
自分だけの意志では、自由に動けない。
「俺がお前に協力っていうか、それを黙っててやるのは、別に脅しでもなんでもなくて、俺といずみが、お前に感謝してるからだ。特にいずみは……。あのまま奏にもしものことがあったらって思うと、今でも怖くて仕方がないって言ってる。俺だってそうだ」
そんな僕に、岸田くんはとても優しい声で言った。
「なぁ、宮野。俺からも頼みがあるんだ」
彼の茶色の目は、意地悪でもなんでもなく、とても綺麗に澄んだ目をしていた。
「奏以外のやつらにも、泳ぎを教えてくれないか。学校全体で、この夏を勝ちたい。だからその、お願いっていうか、なんていうか……」
僕はすっかり日の落ちたプール前の広場で、背の高い彼を仰ぎ見る。
ここへ来たころにはよく見ていた外灯に、ようやく灯りがついた。
そんなこと、もう僕に選択肢は残されていないじゃないか。
「うん。いいよ。約束する。ちゃんとみんなに泳ぎ方を教えるよ」
「本当か! 助かるよ。ありがとう」
岸田くんはすごく喜んでくれて、僕はそれににこりと微笑む。
彼と別れた日の沈む陸の街を、僕は使い慣れない足で歩き始めた。