「根元から?」
「そう。下半身が下がるのが、もう少し浮いてくると思う」
「あ、ありがとう」
「僕が見ててあげるよ。やってみる?」
「う、うん!」

 奏が一生懸命に水を跳ね上げ泳ぐ姿なら、いくらでも見ていられる。
彼女のどんな質問にだって、何だって答えてあげる。
バシャバシャ飛び散る水しぶきだって、彼女のものなら可愛らしいと思える。

「すごい! 宮野くんの言う通りにしてみたら、ずいぶん体が軽くなった! 楽に前に進めてる!」
「よかった」
「うれしい! ありがとう」

 奏が喜んでいる。
奏にそう言ってもらえるのなら、僕はこんな臭い水の中だって平気。
戻って来た彼女の手を取り、その指先にキスをする。

「大好きだよ奏。僕のことも、好きになってくれる?」
「あー。そのことなんだけど……」

 彼女は僕に取られた手を、スッと引き抜いた。

「私、他に好きな人がいるから。ごめんなさい」
「それは岸田くん?」
「そ、そうだね」
「僕も岸田くん好きだよ。奏と一緒だね」
「はは。そうだよね。よかった」

 奏は困ったように顔を背ける。
奏が岸田くんを好きでも、僕のことも好きになってほしいんだ。
ふと顔を上げると、その岸田くんと目があった。
僕は彼に大きく手を振る。

「おーい! あのね、僕と奏は、二人とも岸田くんのことが……」
「ちょーっと待って!」

 急に彼女に腕を掴まれ、ビクリとなった。

「ねぇ、それを言う時は、私から直接岸田くんに言いたいの。だからそれまでは、岸田くんにも他の人にも、誰にも内緒にしておいてくれる?」
「奏が岸田くんを好きってこと?」
「そう!」
「分かった。いいよ。ちゃんと約束する」

 僕の肌に触れたまま離れない彼女の、手の平からの熱をずっと感じている。
また一つ約束の増えたことがうれしい。
そうやって仲を深めていけばいい。
僕たちのところへ、岸田くんはぽちゃんと飛び込んできた。

「なぁ、宮野。俺にも泳ぎ方教えてくんない?」
「やだよ」
「なんで」
「奏だけ特別。もう今日はお終い」
「は? 何だソレ!」

 彼は一人で勝手にぷりぷり怒っているけど、そんなことは知らない。
無視してぷかぷか浮いていたら、そのうちどこかへ行ってしまった。
他の部員たちのところへ行ってなんかしゃべってるけど、そんなこともどうだっていい。

 僕はビート板に浮かんでにこにこしながら、奏の泳ぐ姿だけを見ている。
水泳部が楽しいと思えたのは、初めてだ。
立ち止まった彼女に手を振ったのに、見えなかったのか気づかなかったのか、反応はなかったけど、それでも僕の教えたことを一生懸命やろうとしてくれているから、僕を忘れているわけじゃない。
そうやって僕はぷかぷかしながら、ずっとのんびり奏を楽しんでいる。

 その日の部活を終え更衣室を出たら、いつものようにすぐ前の広場に奏と岸田くんがいた。
まだ少し髪の濡れている奏は、明るい西日を受けながらなんだかもじもじしていて、そんな彼女に岸田くんは熱心に何かを話している。

「だからさ、奏からアイツに頼むよ。別にお前が損する話しでもないだろ」
「それは分かってるよ。宮野くんから私だけ教えてもらってるってのも、それはみんなのためにならないって思ってるし。みんなも直接教えてほしいよね。私だって水泳部全体のためになればって思う。だけど私は、宮野くんとは特別でもなんでもなくて……」

 そう言って見上げた奏を、岸田くんはムッと見下ろした。

「だから、なんだよ」

 そう言われて、奏はまた恥ずかしげにうつむく。
もしかして奏は、岸田くんに好きだって伝えたのかな。

「何の話してるの?」

 近づいた僕に、岸田くんは顔を上げる。
彼が何かを話そうとした瞬間、奏はそれを止めた。

「わ、私ね、岸田くん。宮野くんに、岸田くんのことが好きって言っちゃった」
「は? 何それ」
「だから、その……。そういうことに、しておいてほしい……」

 奏は顔を真っ赤にしてうつむく。
岸田くんは彼女からの告白を、戸惑う様子もなく静かに聞いていた。
そんなこと、まるでずっと前から知っていたみたいだ。

「今の話は、それとこれと関係ないだろ?」

 奏は顔を真っ赤にしたまま、うつむいて動かなくなってしまった。
岸田くんはイライラと、その茶色いサラサラした髪をかきむしる。

「だけど奏、それは……。そんなふうに思う必要はないからって、ずっと……」

 彼の言葉が終わるより先に、奏は僕を振り返った。
いつものよりにっこりと、彼女は丁寧に微笑む。

「ね。だから、宮野くんゴメンね」
「なにが? 僕も岸田くん好きだよ。奏が好きなものは、全部好き」
「そっか。ならいいんだ。だけど私は、そういうのじゃないから」

 奏は今度はゆっくりと、だけど真っ直ぐに岸田くんを見上げた。

「海に溺れた私を助けてくれたこと、すごく感謝してる。だから好きになったってワケじゃなくて、前からもずっと、そう思ってたから」

 そう言った奏は、じっと彼を見上げていた。
そんな彼女に、岸田くんはゆっくりと言葉を選ぶように話す。

「お前の気持ちは……。その、うれしいけど。俺だって、お前のことは嫌いじゃない。どっちかっていうと、俺だってその……。だから、なんていうか……」

 岸田くんの目が、チラリと僕を気にして向けられた。
それからもう一度奏に向き合うと、意を決したようにすうっと息を整える。

「悪いけど、お前とは付き合えない。俺はいま、そういうことを考えてないから」
「大会が近いから?」
「それもある。だけど、それだけじゃない」
「私とは、付き合えないんだ」
「……。悪いな」
「そっか。ありがとう」

 それを言い終わった瞬間、奏は走り出した。
短いスカートの裾が、パッとひるがえる。
僕にはそんな彼女が、いま泣きながら走っているような気がした。
放ってはおけない。

「待って!」

 急いで追いかけようとした僕の腕を、同時に岸田くんが掴む。

「お前もちょっと待て!」
「何がだよ。放せ!」
「放さねぇよ。いいからちょっと聞け」

 どれだけ振り払おうとしても、押しのけようとしても、力ではどうしたって彼には敵わない。
奏を追いかけていきたいのに、僕はここから動けない。