「なに?」
「今日、練習終わりに選考会する」
「せんこうかい?」
「そうだ。予選会の」

 何となく話しは聞いていたけど、そんなことを勝手に決められても困る。

「僕は大会には出ないよ」
「は? なんで?」
「だって。僕は別に泳ぎたくて泳いでるわけじゃな……」

 その瞬間、岸田くんは僕の胸ぐらを掴むと強く引き寄せた。
いつも以上に真剣な岸田くんが真剣になりすぎている。

「それは、自分のフォームに自信がないからか、それとも他に理由があるのか言ってみろ」
「別に怒ることないじゃないか。出たい人が出ればいいんじゃないかって言ってるだけだし」
「お前は勝ちたくねぇの?」
「何に?」

 ずっと岸田くんとしゃべっていた水泳部員の一人が立ち上がる。

「やっぱこんな奴、試合に出す価値ないだろ! なんでずっと頑張ってきた俺たちが試合に出れねぇんだよ!」
「だけどさ、絶対勝てるって分かってるのに、出さないのはアリなのか?」

 岸田くんとみんながまた言い争いを始めている。
僕は空になった栄養ゼリーを口元にぶらぶらさせながら、早くここから抜け出したいと思っている。
不意に、岸田くんとケンカしていた男の子が、僕に向かって言った。

「宮野。お前リレーって分かるか」
「何それ」
「ふん。やっぱりな。こんな奴、全体からみたって迷惑でしかないだろ。チームワークがない。ルールも知らない。個人戦だけで十分だ。ファールとられて結局負けるだけだって」
「ファールって?」
「はは。ほらね。これで岸田も分かっただろ」
「あぁ、もういい。宮野、お前は黙ってろ」

 岸田くんに突然追い払われる。
「絶対にお前も来い」って呼ばれて来たのに、この扱いは酷くない? 
だけど、おかげで自由になれた。
自分の席に戻ろうと立ち上がると、奏と目が合う。
僕は引き寄せられるようにそのまま彼女に近寄り、目の前の席に座った。

「どうしたの? こっち見てたみたいだけど」

 僕はうれしくてにこにこしながら彼女に話しかける。

「ううん。何でもない」

 奏は自分で「なんでもない」ってそう言ったのに、何でもない様子で大きく息を吐き出し、ほおづえをつく。

「宮野くん。私たち三年生はね、この夏が最後の試合になるから、気合いが違うんだよ。学校対抗戦でも、勝ちたいと思ってるし」
「この夏が最後? じゃあ、もうみんなこれから泳がないってこと?」
「そうじゃないんだけどね」
「この夏が終わったら、もう絶対泳げないってわけじゃないんでしょう? だったら、別によくない? どうしてそんなに一生懸命なのかな」
「さぁね。なんでだろうね。このメンバーで泳げるのが、最後だからじゃない?」
「そんなの、また集まればいいじゃないか」

 この夏が最後でこれでお終いなのは、彼らより僕の方だ。
なにやら言い争いを続けていた岸田くんが、急に僕たちのところへ割り込んできた。

「なぁ、奏からも言ってくれよ。お前の言うことなら、聞くだろコイツ」
「だから、それはそれでさぁ。なんか違うってこの間も……」
「頼むよ」

 いつも岸田くんと話す時は楽しそうにしている奏が、すごく困っている。
困っている奏のことなら、僕は助ける。

「奏はどうしたいの? 岸田くんのお願いは、奏のお願い?」
「あぁ……。そうね。私も宮野くんに、そうして欲しいって気持ちはある」
「だったら、そうしてあげる」

 それなのに彼女は、やっぱり困ったような顔をしたまま僕を見上げた。
それでも僕は、奏と一緒にいられるのなら、なんだっていい。

「じゃあさ、今日は本当に、最初から二人で練習しよう。プールで。ずっと」
「うん」

 そう言った奏はあんまりうれしそうではなかったけど、困ったような顔をしていたけど、それでも一緒にいられるなら、どうだってよかった。

 放課後になって、僕は本当に奏と二人だけでレーンの中にいた。
水の中で二人で並んで、しかも立ってるなんて、不思議な気分だ。

「宮野くんは、何が苦手なんだっけ。平泳ぎ? ルールブックは読んでくれてるんだよね」
「見たよ」
「私も大会に向けて練習したいから、手短に済ますけど、後でちゃんと自分で練習するんだよ」

 今日の天気は薄曇りで、ちょっと肌寒いけど、水の中なら温かい。
奏はぽちゃりと肩までを水に沈めた。

「奏は本当は、自分の練習がしたいの?」
「そりゃそうだよ。学校のプールが使える時間は短いんだから。もったいない」

 奏は自分の目にゴーグルをセットした。ポチャンと頭の先まで水に沈めると、すぐに顔を出す。

「僕はもう泳げるよ。ちゃんと。みんなの見てたから、分かる」

 奏にやりたいことがあるなら、奏のやりたいことをやればいい。

「教えなくていいの?」
「何が見たい? なんでも、奏の見たいものを見せてあげる」

 クロールも平泳ぎもバタフライだって、もうとっくに覚えている。

「じゃ、じゃあ。クロールがいい」
「分かった」

 僕は壁際に移動すると、体を水中に沈めた。
そのまま壁を蹴って泳ぎ出す。
ルールだって覚えた。
潜って泳いでていいのは15メートル。
青い線とその次の赤い線まで。
そしたら浮き上がって、腕をぐるぐる足はバタバタ。
息継ぎはしてもしなくてもいい。
なんだかふざけて泳いでるみたいで、恥ずかしくなってくる。
反対側の壁についたら、方向転換。
そのやりかたは、単純に壁タッチじゃなくて、くるりと一回転。
まぁ、確かにこっちの方が早いよね。
壁を蹴ったら足で掻くのは一回。
ほらもう、奏のところに帰ってきた。

 水面から、そっと顔を出す。

僕は他の人間みたいに、下品に水音なんて立てたりしないんだから。

「ね、ちゃんと出来てたでしょ」
「は、早すぎて、よく分かんなかったよ」

 気がつけば、いつも賑やかなプールが静かになっていた。
バシャバシャ跳ねる水音は完全に消え、みんな立ち止まってこっちを見ている。

「す、凄いね。本当にこんなに泳げるとは思ってなかった」
「奏も、早く泳げるようになりたいんでしょ?」
「う、うん」
「奏はね、膝に力が入りすぎてるんだ。もう少し柔らかく、足を根元から動かす感じ」