「用意、スタート!」

 本当はこんな臭う水なんかで、泳ぎたくはないんだけど。
いずみの合図で、それでも僕は真っ直ぐ伸ばした腕から、水中へ飛び込んだ。
浅すぎて水底まで届く光に、視界は良好だけど、目がやたらヒリヒリする。
やっぱりこの水は、なんかヘンだ。
まばたきを一つする間に壁までたどり着くと、そのまま水中で方向転換して、もとの位置へ戻る。
そうだ。
僕はもう人魚ではないから、人間みたいに頻繁に呼吸をしなくちゃいけなかった。
息継ぎをしようかとも思ったけれども、ゴールも近いし面倒くさいからやめる。
そんなことより、早くこの水から上がりたい。
スタート地点の壁に手をついてから、水面に顔を出した。
特に息は苦しくならなかったけど、それでも潜っていられる時間は、以前よりだいぶ落ちているようだ。
水から上がった僕に、いずみはぼそりとつぶやいた。

「ねぇ、信じられない記録なんだけど」

 見ていた岸田くんは、イラついたように舌を鳴らす。

「ふざけんな。あんなドルフィンキックだけのバサロでいくら泳いだって、ダメに決まってるだろ」

 タオルで臭い水を拭いている僕に、岸田くんは詰めよった。

「お前、今まで本当に泳いだことなかったのかよ」
「え。ないよ」
「は? 喧嘩売ってんのか。マジで誰にもなんにも教わってないんだな」

 僕にはどうして、岸田くんが怒っているのかが分からない。
だって、人間になってからの話しだよね。
人魚の時のことは関係ないよね? 
大体僕は、あんな変な泳ぎ方なんて、したことない。
不安になって奏を振り返る。

「いいの! いいのよ、宮野くん。今はこれでも、これから覚えればいいんだから、それでいいじゃない」

 むき出しの腕に、不意に奏の手が触れた。
僕はそれにびっくりして、触れられたその部分だけが、僕の肌ではなくなったみたいになる。

「ね。これから一緒に、泳ぎ方を覚えよう。私が教えてあげる」
「う、うん」

 彼女にそんなことを言われて、逆らえるわけがない。

「本当に奏が教えてくれるの?」
「教える。教えてあげる!」

 陸に上がってから初めて、奏が本当にうれしそうな顔を僕に見せてくれた。

「今からちゃんと、練習しよう!」

 僕はその瞬間、この臭い水も熱いコンクリートも、ちゃんと我慢することに決めた。