ホースの水が宙を舞い、キラキラと輝くそれは、中に入っていた部員たちの頭上に降りかかる。
掃除の終わりが見え始めた頃には、みんなすっかり遊び始めていた。
ブラシを剣のように振り回してるのもいれば、一列に並んで一斉に走り出し、スピードを競っているのもいる。
歓喜の悲鳴が上がり、奏は岸田くんたちと一緒になって、なにやら陣取りゲームのようなことをしていた。
肩と肩をぶつけ合い、お互いの陣地とした床をこすり合う。
飛び散った水は奏の頬を濡らし、それをかけてきた岸田くんに彼女は同じようにやり返す。

「……。奏、楽しそうだね」
「宮野くんも混ざってくれば?」

 僕はもうすっかりすることがなくなってしまったので、プールサイドにしゃがんで眼下に広がる奏たちの様子を見ている。
同じように退屈したらしいいずみが隣に並んだ。奏も岸田くんも、すっかりびしょ濡れだ。

「いずみはどうして行かなかったの?」
「……。私は、あそこに入ってもすることないから」

 いずみの視線は、僕と同じように奏と岸田くんを見ていた。

「なんで? 一緒に掃除すればよかったのに。することは沢山あったよ」
「自分だってそうでしょ。さっさと行けば、この仲間に入れてもらえたかもしれないのに」

 沢山の人間が、狭いところに詰まってふざけ合っている。
中にいるのと外から見ているのとでは、見える景色が違うんだ。

「あんな汚いところに入るなんて、気が知れない」
「あぁ。あんたにとってはそうだったね!」

 いずみは突き放したようにそう言うと、折りたたんだ膝を抱え込み、びしょ濡れのままふざける奏をじっと見ていた。

「そんなの、行ったって、自分が空しくなるだけよ」
「……。そうなの?」

 岸田くんが笑うと、奏も笑う。
奏の手が彼の腕に触れ、岸田くんは彼女を腕につかまらせたまま、また笑った。
奏はまた別の男の子を追いかけて、走り回っている。

「……。そっか! 筋トレを続けていれば、これが出来るようになるんだ!」
「もういい。あんたとはしゃべらない」

 いずみが行ってしまった後には、一本のブラシが残されていた。
いずみは、本当は中に入りたかったのかな。
初夏の夕陽が沈みかけている。
綺麗になったプールの壁や床をもう一度水で流し、あふれた水を排水溝へ集め流し込む作業に移っていた。
これくらい綺麗になったプールの底になら、入れそうな気がする。
勇気を出して、ちょっと入ってみようか思ったのに、奏が出てきちゃったから、もう本当にお終い。

「ほら。片付け手伝って」
「じゃあ、今度は奏と一緒にやる」
「いいよ。一緒にやろ」

 使い終わったブラシをまた水で流して、壁に立てかけた。
このまま明日まで干しておくんだって。
僕と奏はみんなと一緒に、乾いたゴミをビニール袋に詰めて捨てに行く。
奏はもうさっきまでの、岸田くんと一緒の時みたいに笑わない。
それがなぜだかこんなに近くにいるのに、彼女を遠く感じさせる。
帰り支度を済ませ、更衣室から出た広場でいつものミーティングが終わると、解散となった。

 歩き出した岸田くんに、今日は誰よりも早く、一番にいずみが駆け寄った。
彼に声をかけ、親しげに身を寄せる。
岸田くんといずみは、歩きながらじっと何かを話し合っているみたいだった。
それに気づいた奏が、僕にそっとつぶやく。

「ね。宮野くん。一緒に帰ろ」

 奏からの誘いを、僕が断るわけがない。
僕と奏は、岸田くんといずみが歩く後ろ姿を眺めながら、西日の差す校門まで歩く。

 何を話そう。どんな話しをしよう。
奏としゃべる機会が出来たら、あれを話そうこれを話そうと色々考えていたのに、そうなったとたん何一つ思い出せない。

「奏は、岸田くんと仲良しだね」

 ふと思いつき、さっきまで目にしていた光景を、口に出してみる。
さっきまでの奏は楽しそうにしていたのだから、今つまらなさそうな顔をしている彼女も、きっと喜ぶに違いない。

「そうかな。そんな言うほど、仲良くはないよ。同じ水泳部員ってだけで」

 僕の予想に反し、彼女の表情はますます沈んでゆく。

「なんで? さっきまであんなに楽しそうにしてたのに」
「そうだけど。それとこれとは、また話が違うじゃない」

 プール掃除に疲れた体で、顔を上げた彼女の視線の先には、岸田くんといずみがいる。
今日の二人は、いつも以上に大切な秘密を分かち合いながら歩いているようだ。

「何だか、よく分かんなくなってきちゃった」
「なにが?」
「岸田くんが、なに考えてるのか」
「え? 奏のこと好きだと思うよ」
「前はもっと、違う話も色々してたのに最近は全然。部活のことばっかりで、『今日なに食べたー』とか、『なにしてんの』とか、そういうのはなくなっちゃった」
「奏は、今日なに食べたの?」

 僕の大切な彼女が落ち込んでいる。
オレンジ色の光が、彼女の横顔を柔らかに包み込む。
奏が聞いて欲しいのなら、僕はなんだって聞いてあげる。

「別に、そういう話しが本当にしたいんじゃなくて、同じ時間を共有したいってゆうか、興味もたれてないんだなーって思うのが、ちょっとアレだよね」
「アレって?」
「はは。なんだろ。寂しい? とかなのかな」
「奏は寂しいの?」
「ううん。寂しくはないよ。ちょっと残念」
「ざんねん?」
「ごめん。難しかったね。もう忘れて。じゃあ、また明日」

 奏は学校の門をくぐると、すぐに駆け出して行ってしまった。
まだ空に残っていた夕陽だけが彼女を追いかける。

 僕には人間のことはまだよく分からなくて、奏と岸田くんとの間になにがあるのかなんてことは、もっと分からなくて、だけど奏が悲しんでいるのなら、それは何とかしてあげたいと思う。

 ゆっくりと色をなくしてゆく景色の中を、彼女は岸田くんといずみに追いついた。
彼の肩にポンと触れ、笑顔で見上げる。
その姿は僕にはとても寂しそうには見えなかったけど、奏自身がそう言っているのだから、彼女は今も寂しいと思っているんだ。
そんな彼女に僕は、自分の出来ることなら何でもしてあげたいと思った。