そのプール掃除の日は、いつになくじっとりと蒸し暑い日になった。
長い雨の季節が終わって、よく晴れた日をわざわざ選んでるんだから、余計にタチが悪い。

「ねぇ、暑すぎない? なんでこんな日にやるの?」

 ずっと閉じられていたフェンスの鍵が開けられ、初めて入ったプールサイドは、ずっと留まっていた水が臭くて仕方がない。
人間はよほど、この臭いというものに鈍感なんだろう。
僕はそれにどうにも耐えられなくて、頭からタオルをすっぽり覆って鼻を押さえている。
日光を遮るようなものがないのも最悪だ。

「うるせーぞ、宮野。こっからが本番だからな!」

 水抜きの儀式とかワケの分からないことを言って、みんなで整列してパンパン手を叩いたりして、岸田くんも奏も夢中になってなんかしてるけど、暑いし臭いし最悪でしかない。
僕はプール脇にあるコンクリートの階段状ベンチのてっぺんに、わずかに付けられた小さな庇を見つけて、その日陰に避難している。
いつもみんなとは違うことばかりしているいずみがやってきて、寝転がっていた僕の隣に座った。

「宮野くんも行ってきなよ。みんなでやらないと終わらないよ」

 そういういずみは荷物に囲まれて、ちゃんとこの日陰にいるじゃないか。

「僕はいずみの手伝いをする」
「はは。こういう時だけだよね。宮野くんが他の人に近寄ってくるの。私は別にいいけど、奏はきっとめっちゃ張り切ってるよ」

 汚いプールの水位が徐々に下がってきた。
奏たちはバケツやブラシを持ち出して、いくつかある水道の蛇口にホースを繋いでいる。
みんなウキウキしていた。
いずみは色んなものの数を数えたり並べ直したりしてたけど、それが一区切りついたのか立ち上がる。

「さ。宮野くんも行くよ」
「え。ヤダよ」

 そう答えたとたん、いずみは大声で叫んだ。

「かなでー! 宮野くんがプール掃除したくないって!」
「一緒にやるよー! こっちおいでー」

 にっこにこの笑顔で、ジャージの裾を膝上まで巻き上げた奏が、ブラシを片手にブンブン手を振っている。

「だって。呼んでるよ」
「……。行ってきます」

 そんなにうきうきで誘われたら、行かないわけにはいかないじゃないか。
いずみにけしかけられ、奏の隣に並んだら、うれしそうに持っていたブラシを渡された。
そんなふうににこにこされたら、受け取るしかないじゃないか。

「奏は何するの?」

 彼女は僕に渡したブラシの代わりに、先端に小さな網のついた棒を持ち出していた。

「私は水面のゴミ集め」
「じゃあ僕もそっちがいい」

 そう言ったのに、岸田くんにがっちり肩を組まれる。

「お前は俺とブラシで頑張るんだよ! 一緒に一番乗りするか?」
「は? どこに?」
「プールの中」
「ヤダ! そんなのしないよ、するわけない。気持ち悪い」
「じゃ、私が行く」

 奏はドロドロの水面に沈む梯子に手をかけた。

「ダメだよ奏! そんなところに入ったら、死んじゃうよ!」
「はは。何それ。死にはしないって」

 柔らかいつるつるした彼女の素足が、プールの半分にまで減った水に浸けられた。
緑色の腐った水は、変わらず強い異臭を放っている。
僕は頭からタオルをかぶり、臭いから逃れるため口元を覆ったまま叫ぶ。

「奏! 早く戻ってきて! ダメだよ、かなで!」
「だから宮野。お前も来いって」

 奏や岸田くんだけじゃない。
水泳部のみんなが、その汚い水の中に入っていく。
僕はもう気が気で仕方がない。こんな水の中で生きていられる生物なんていない。
それなのに、奏は水面に浮く無数の木の葉を網ですくい始めた。

「何やってんの! そんなことしてる間に、奏が死んじゃう!」

 必死で訴え続ける僕に、岸田くんが「こういう時、王子さまは助けに来てくれるんじゃねぇの?」なんて言うから、みんなは笑った。
奏はプールへ降りられない僕に向かって、「別にやりたくないならいいけど。じゃあ上でいずみのお手伝いしてて」なんてことを言う。

 照りつける太陽に、むせかえるような臭いが足元から漂う。
タオルがあっても息苦しい。
僕にとっては地獄のような光景なのに、人間は平気のようだ。
膝までだからいいのか? 
他の人間たちも次々中に入ると、ぬるぬるとした壁に水をかけ、それをブラシでこすり始めた。
いずみとか他のメンバーは、網ですくい上げられたゴミを集め、ザルに入れそれを干している。

「ねぇ! 大変だよ! こんなことをしてたら、みんな死んじゃうよ! 息が苦しくなって、動けなくなる。早く上がってきて!」

 作業をしていたいずみは、ついにイラッとしたらしい。

「あー、もう。宮野くんのそういうの、もういいから。だからみんなから『王子』って呼ばれてんの、知らないの?」

 必死の訴えにも、誰も耳を貸さない。
僕はこんな水の中には入れないけど、奏にもしものことがあったら、もちろん迷いなく飛び込むつもりだ。
タオルの端を握りしめる。
だけどどうせ助けるなら、プールサイドから近い方がいい。

「奏! できるだけこっちにいて」

 だったら何とか助けられると思う。
そう思って手招きしているのに、彼女は知らんぷりだ。
心配している間にも、水はどんどん引いていき、汚いプールの底が顕わになってゆく。

「ほら。宮野くんも見てないで、洗剤入れるの手伝って」

 プールに入っていない部員たちは、大きなボトルに入った液体を、バケツに移し替えている。
そこに水を入れ薄めたものを、いくつも用意していた。

「僕は奏から目が離せないからだめ」

 プールの底でゴミを集める岸田くんに向かって、僕はしっかりと宣告しておく。

「もし奏になにかあったら、絶対に許さないからな!」
「おーい。かなでー。あいつ何とかしろー」

 いつの間にか網からブラシに持ち替えた奏は、プールの壁面を元気にこすり始めていた。
それでも僕は、彼女が心配で心配で仕方がない。
ずっとプールサイドから彼女に寄り添う僕に向かって、やっと奏が口を開いた。

「ねぇさぁ。私は死なないから、みんなの手伝いして」
「絶対? 絶対に約束する?」
「約束する」
「本当だね」
「本当だから! ちゃんとみんなの手伝いして」

 くそっ。
だけど奏がそうやって約束してくれるのなら、従うしかない。
僕はタオルを頭に巻いたまま、渋々プールの上から洗剤の入ったバケツを彼女に渡した。

「ちょっとでも気分が悪くなったら、すぐ僕に知らせて」
「……。いや、中に入ってもない人にそんなこと言われても……」

 時折奏をチェックしながら、仕方なく掃除を手伝う。
初夏の照りつける太陽は午後になっても衰えなくて、額の汗はそのままタオルに吸われていった。
奏たちは渡したバケツに入っている液体にブラシの先を漬けると、茶色くなった床をこする。
水道に繋いだホースを持った人間が、壁面に残る汚水を流した。
水泳部員総出でそんなことを続けるうち、汚かったプールが徐々に綺麗になってくる。
その光景に、僕は頭に巻いたタオルを外した。
あれだけ汚かったプールの、真っ白な本来の姿が見え始めている。