学校には僕は相変わらず一番に登校して、自分の席に座っている。
他にすることもないし、奏の姿を少しでも長く見ていたいから。
それなのになぜかお昼休みには、岸田くんのつくる教室での群れの仲間に入れられてしまった。

「だから宮野はさぁ、なんで飯くわねぇの?」

 だけどここは水泳部ではないから、岸田くんは比較的大人しくしている。
人間というのは、時間と場所によって群れるメンバーが異なり、その中での役割も変わるのだと知った。

「どれもマズい。口に合わない」
「お前、今までどういう暮らししてきたんだよ」
「どうって……」

 そんなことを聞かれても、話せることは少ないし、話す気もない。
陸で手に入る魚はどれも生臭いし、変な切られ方をしている。
そもそも死んだ魚を並べられても、食べようという気にならない。
くらげも細切れだし、口に入れていいと思えるのは海藻とアサリくらいだ。

「肉食え、肉!」
「肉ねぇ……」

 結局、以前岸田くんにもらったゼリーが、のどごしがよくて味にクセもなく、そればかりを腹に入れている。
他のモノにはチャレンジする勇気もなければ、興味も引かれない。

「そんなんじゃあ、丈夫な体になれねぇぞ」

 バシンと背中を叩かれる。
口にくわえていたゼリーのパックを、落としそうになった。
なんだかすっかり口に馴染んでしまって離せなくなったそれを、口元でゆらゆらさせながら、教室の向こうにいる奏を見ている。
岸田くんは、そんな僕を見ながら言った。

「今日の部活も筋トレだからな。黙ってちゃんとやれよ」

 真冬の雲はゆっくりと灰色の空を流れてゆき、日差しに温かさの気配が宿り始めていた。
プール周りに植えられた背の低い木にも、活動の兆しを感じる。
岸田くんの宣言通り、プールの更衣室から出てきた僕に、奏と黄色い長い髪の女の子が近づいてきた。

「ね。宮野くん。いずみが宮野くんのための筋トレメニューを考えてきてくれたよ」
「いずみって?」
「うちのマネージャーよ。いい加減、他のメンバーの名前も覚えてくんない?」

 午後の薄曇りの中で、一瞬さした光りが奏と黄色い長い髪の女の子を照らす。
彼女の名前は「いずみ」。覚えた。

「宮野くんは柔軟は問題ないけど、体力ないから。ほら、これがそのメニュー表とチェックリスト。スマホで動画見られるでしょ?」

 奏はいずみに僕と話すよう促しているみたいだけど、そのいずみの方はあまり乗り気ではないみたいだ。
ムスッとしたまま、こっちを見ようともしない。
僕は気にせず奏に答える。

「スマホって?」
「鞄は?」
「置いて来た。教室」
「あぁ。分かった。もういいよ。あとはいずみから聞いて。ちゃんといずみの言うこと聞くんだよ」

 せっかく奏の方から声をかけてきてくれたのに、もう行ってしまう。
本当は追いかけて行きたいけど、僕は奏との約束をちゃんと守ると決めているので、そうはしない。
少し離れたところにたたずむ、黄色い長い髪の女の子を振り返る。
奏に仲良くしろって言われたから、そうするだけ。
彼女はうつむいたまま、怯えたようにちらちらと僕を見ていた。

「いずみっていうの?」

 彼女はビクリと体を震わせてから、ゆっくりとうなずく。

「よろしくね」

 そう言うと、彼女はギュッと固く口を結んだまま、視線を左右に泳がせた。
彼女が何かしゃべるのを待っていたけど、何にもしゃべりたくないらしい。

「ねぇ。それを見せてくれるんじゃないの?」

 彼女の抱える小さな板には、奏の説明していた紙がある。
僕はそれを見せてもらおうと、彼女に近寄った。

「いやっ!」

 ドンっと押しのけられ、地面に尻もちをつく。
痛い。
だからさ、僕のお尻は出来たてほやほやなんだから、もう少し大切に扱ってほしいんだけど。

「宮野! いずみに何をした!」

 彼女の叫び声を聞いた岸田くんが飛んでくる。
彼女は彼の背にパッと隠れた。

「何にもしてないよ! てゆーか、僕が突き飛ばされたんだけど」
「ご、ごめん……」

 黄色い長い髪のいずみは、岸田くんの後ろでこそっとつぶやく。

「ちょ、ちょっと、あのヒトが怖かっただけだから……」
「いずみ。お前、こっち来い」

 岸田くんに連れられ、彼女は学校の縁に沿って植えられている木の方へ行ってしまった。
僕は痛むお尻をさすりながら立ち上がる。
奏がやって来て、僕を見上げた。

「私、ちゃんと見てたよ。宮野くん、何もしてなかった。いずみが急に突き飛ばしただけだよね」
「奏が分かってくれてるんだったら、それでいい」

 そう。奏以外のことなんて、どうだっていい。
他のことは全て、なんだっていい。
その髪に触れたい。手を握りたい。
だけど彼女は、今は真剣な目で僕を見上げているから、その黒い目をじっと見つめ返す。

「大丈夫だよ。私が後で……。ちゃんとあの二人に言っておくから」

 静かに微笑んで、彼女はうつむく。
その視線はなんだか寂しそうに、ゆっくりとこちらに背を向けている二人に向かう。
岸田くんはいずみの肩に腕を回し、親しげに額を寄せ合い、黄色い長い髪の女の子と何かを相談してるみたいだ。

「いいな。いずみがうらやましい」

 まだ肌寒い曇り空が、そのまま奏を取り込んでしまったみたいだ。
彼女のそんな顔を、初めてみた。

「私なのかなーって思ってた時期もあったけど、そうじゃなかったみたい」
「あの二人は、仲良しなんだね」
「そうかな。そうでもないと思うけど」

 奏の目は、じっと二人の背中を追っている。
いずみが岸田くんになにかを言って、彼の手が彼女の頭をくしゃりと撫でた。

「別に。岸田くんは……。普通にああいうことが、誰にでも出来ちゃう人だから」
「奏は、あれがしてほしいの? 岸田くんが、いずみにしたみたいに」

 奏が寂しそうにそう言うから、僕がやってあげる。
僕は岸田くんのマネをして彼女の肩に腕を回し、額を寄せその短いクセのある髪に指を絡める。

「こんな感じ?」
「だからさぁ! それがやりすぎだって言ってんの!」

 パシリと手を払われる。
突然の奏の大声に、岸田くんといずみが振り返った。

「ねぇ、ちょっと聞いて!」

 彼女はすぐさま岸田くんに駆け寄る。
いずみの肩に回っていた彼の手が解かれ、その腕はだらりと垂れ下がった。
奏はその彼の腕に触れる。

 ここからは少し遠くて、奏が岸田くんに何を言っているのかまでは聞こえない。
だけど、彼に一生懸命何かを訴える彼女の目には、岸田くん以外見えていないようだ。
岸田くんは彼がさっきまでいずみにやっていたのと同じように、そしてそれはさっき僕がやったのとも同じように、彼女の頭を撫でた。
それを奏は、今度は嫌がりもせず、されるがままに許している。
僕の中で、何か知らないものがドロリと動いた。
息が苦しい。
体の内側から黒くドロリとしたモノが湧き上がる。
こんな体の重みを、海にいた時には一度だって感じたことはなかった。
吐き気がする。
気持ち悪い。

 岸田くんは、さっきまでいずみにしていたのと同じように、奏の肩に腕を回す。
奏に何かをささやくと、今度はすぐにそれを外した。
僕の中で、その何かが怒りとしてはっきりと自覚される。
僕はいま、腹を立てているんだ。
何に対して? 
奏に対して? 

「かなでー! こっち戻って来てー! 早くー」

 三人の視線が、僕に集まった。
みんな何事かって顔してる。

「かなでー! すぐ来てー!」

 奏だけを呼んだつもりだったのに、岸田くんといずみもついてきた。

「なに? どうしたの?」

 奏は一番に僕に声をかけてくれる。
僕は奏を、誰にもとられたくない。

「奏が僕から離れたから」