◆◇
(はく)瑛泉(えいせん)は、処刑だ」

 無慈悲な言葉。
 けれど、やけに通りの良い涼やかな声で、皇帝は宣言した。
 額から流れ落ちた冷や汗が、床に小さな染みを作る。
 ――皇帝(このおとこ)は本気だ。
 (しん) 雷羽(らいは)
 庶子の出でありながら、皇帝であった兄を追放して、自ら玉座に就いたのは百日程前の話だ。先々代の皇帝から冷遇されていた辺境領主時代は、幾多の叛乱を制圧したと言われているが、冷酷無比の荒っぽい手口を使ったと、専らの噂だった。
 確かに、雷羽の放つ気は荒々しかった。
 私が膝をついている場所から玉座までは、かなり離れているはずなのに、威圧感が半端ない。

(父様は、どうなさるおつもりなのだろう?)

 横目で窺うと、いつも暢気で明るい父も、さすがに青ざめていた。
 無理もない。
 皇帝直々に「死罪」を申しつけられたのだ。
 しかも、父一人の失態だと、全責任を押し付けられてしまったのだから……。

「異論はないな」

 雷羽が念を押す。
 それは、私たち親子に向けた言葉ではなく、近臣達に向けたものだ。
 
(こんなどうでも良い理由で、父様は殺されるのか?)

 まるで、今朝の悪夢の続きを見ているようだ。でも、これは「現実」なのだ。
 傍観していても、父を救うことは出来ない。
 私は気力で口をこじ開けた。

「恐れながら、我が伯家は建国以来五百年もの間、この国の為、主上の御為に力を尽くして参りました。それが何故でしょう? 父の話すら、お耳に入れて下さらないのですか?」
「誰だ、お前?」

 玉座でふんぞり返っていた雷羽が前のめりになった。
 確かに、本来なら、私はここにいる人間ではない。
 母の出産を父に報告するために、登城しただけだった。

(すぐに実家に戻る予定だったのに)

 久々の再会を喜ぶ暇すらなく、親子揃って雷羽に呼び出されてしまった。

「申し訳ありません!」

 雷羽の注目が私に移ったせいで、やっと正気を取り戻した父は、弾かれたように顔を上げた。

「紹介が遅れました。この者は私の息子・伯 小嵐(しょうらん)と申します」
「ほう」

 今まで淡々としていた雷羽の声が、私を値踏みするように一層低くなった。

「瑛泉の息子は未だ祀儀(しぎ)官だったか」
「はい。病弱であるため、ほとんど出仕が叶わず……。伯家の嫡男ということで、便宜上、祀儀官の位を授かっております」

 祀儀官とは、祭祀を司る官吏の最末端の位で、要は、いてもいなくても困らない雑用係だ。
 今までの私は、むしろ、その空気みたいな扱いが助かっていたのだが……。
 
「病弱……ね」

 意味ありげに首肯した雷羽は、沈黙を経た後、ぽつりと呟いた。

「瑛泉も中性的だが、息子の方はもっと……」
「主上!」

 やむを得ず、声を張り上げた。
 目立ちたくはないが、そんなこと言ってられない。
 非礼は承知の上だった。

「恐れながら、父の処分が覆せないにしても……。伯家の名誉のため、お頼みしたいことがあります」

 麗明宮の中央・執務の間。
 朱の柱と白の壁の対比が鮮やかな広い殿中に、私の声が響き渡る。

(まさか、こんなことになるなんて)

 私は執務の間には、一度も来たことがないけれど、この場所のことをよく知っていた。

(出来ることなら、一生縁がないことを祈っていたのに……)

 伯家存亡の危機だ。
 どのみち、父の処刑が確定しているのであれば、私に出来ることを貫くしかないではないか。

◆◇ 
 「蓮国」は、眞姓の皇帝を頂きとして、尊掌(そんしょう)五家が補佐をする形で、五百年前に建国された。
 尊掌五家とは、朱、青、玄、金、そして私の出自の「伯」家で、初代皇帝をこの世に援けた神仙の子孫と言われている。
 皇帝はこの五家を重用し、妃も五家の中から娶ることが暗黙の了解だった。だから、皇帝の御子には五家の血が必ず混じるようになっている。
 ……だが、伯家は三百年前に姓を「白」から「伯」に変え、文官の中でも祭祀を司る責任者・祀管長(しかんちょう)の地位が欲しいと皇帝に直訴した。
 つまり、自ら降格を願い出て、皇帝と血縁関係を結ぶことを、放棄したのだ。
 以来、尊掌五家は四家となり、未だ絶大な勢力を維持していた。

「まったくね。五家の中でも、神仙の血が濃いと言われている伯家よ。しかも、五百年、恩義のある伯家の当主を処刑するなんて、随分大きく出たもんよね。主上も」
「その五百年に因縁がこもるんだよ。元々、言いなりにならない伯家に目をつけていたかもしれないしね。ともかく、主上は地方生活の長い御方だから、宮城(ここ)の常識が通用しないのでしょうよ」

 はあ……と、私は溜息を吐いた。
 深夜の後宮の外れ。
 老朽化の著しい果ての回廊は、人気がないため、重苦しい吐息もよく響いた。

 ――森閑。

 人の気配は消え、鳥の声と虫の声だけが大合唱して聞こえる。
 妃の住まう内宮とは雲泥の差だった。

「他人事じゃないでしょ? 果林(かりん)。私に何かあったら、貴方も大変だよ?」
「あら。それは、どうかしら?」

 憎たらしい、含み笑いが、また腹立たしい。
 果林は、私の幼少期からの相棒で「使い魔」だ。
 伯家には、古来より使い魔を獲得する術が伝わっていて、妖を自分の力で縛り、手と足となって使役することが出来るのだ。
 子供の頃は、果林を得たことで、次期伯家当主として、無駄な自信を持ったものだったが、しかし年を経て気づいたのは、使い魔は、あくまで子供の使い程度の役にしか立たないということだった。
 果林は、変幻自在に容姿を変えることが出来るけど、ただそれだけだ。
 今だって、胸が大きい女性に変化しているだけで、私に代わって事態を収拾してくれるような賢さと行動力と奇跡の力は持っていない。
 結局、何をするにも頼りになるのは、自分というオチだ。父が使い魔を持たなかった理由が成長するに従い、よく分かった。

(ろくでもない能力ばかりが身につくんだよな)

 更に私には「悪夢」ばかり見る能力がある。決して病ではないが、常に寝不足で、身体が怠いのだ。

(……ふらふらする)

 更に、後宮に潜入するため、やむなく身に付けた女の着物の裾裁きも面倒だった。

「……で? 瑛泉親父の処刑は七日後なんだっけ?」
「はっ!?」

 瞬間、裾を踏んで転びそうになって、何とか私は踏み留まった。
 よくも、聞きづらいことを明日の天気を尋ねるように、口に出せるものだ。

「あー……あのね。一応、そういうことってだけでね?」
「七日で妃に毒を盛った犯人捕まえますって、無茶でしょ。もっと日数、稼げなかったの?」
「酷いなあ。私だって頑張って主上に頭下げたんだよ。父様には母様が出産したので、せめて一目我が子に会わせてあげて欲しいって。何も事態が変わらなければ、私も一緒に死にますからって」
「莫迦なの? 何で自分まで死ぬことになってんのよ? あんた一人なら、宮城(きゅうじょう)から逃げ出すことも可能なのに」
「逃げないよ。馬鹿馬鹿しい。むしろ、父様には私が時間稼ぎしているから、母様と弟を連れて逃げて欲しいって伝えといた。私がいなくても、お二人なら、きっと大丈夫だから」
「まさかの自殺願望とか?」
「そんなはずないでしょ。そうならないように、事件解決をする。上手く犯人までたどり着いたら、全部元通りになるんだから」

 目下、私のやるべきことは、事態を少しでも好転させて、雷羽からの恩情を賜ることだ。

(確かに……)

 父は何も悪いことなどしていない。
 一昨日の夜、祀管長として、新皇帝が践祚したことを天に報告して、国家安寧の祈りを捧げただけだ。

 ……ただ。

(その夜に、金家から娶った妃が毒入りの茶を飲まされ、倒れてしまった……と)

 国家安寧どころか、物騒極まりないと、ご立腹の主上から処刑を言い渡され、こんなことになってしまったという。

「私も今朝、父様に母様の出産報告をしに来ただけだから、事件の内容については、よく分からないんだよね」
「あんたもついてないわね。死んでも宮城には行きたくないって、ごねてたのに。よりにもよって、今日こんなことが起きるなんて」
「……そうだね。実家にいるだけでも、後宮で殺された人を発見した夢とか見るのに」
「やだ。やめてよ。気持ち悪い」

 果林は魔物のくせして、血生臭い話が嫌いなのだ。
 私だって、出来ることなら、こんな夢見たくないし、そんな傷ましい夢の中心地である宮城などには、近づきたくもなかった。

「ともかく!」

 果林は、これ以上、夢の話を聞きたくないのだろう。さっさと話題を変えた。

「私が言いたいのは、事件を調べるにしたって、何かきな臭いってことよ。結局、妃は命に別条はなかったわけだし、今見てきた感じ、放っておけば回復しそうだったわよ。なのに、あえて大事にして、瑛泉親父だけ処刑なんて」
「それは、私も変だと思っているよ」

 少なくとも、雷羽は父が妃に毒を盛った犯人とは断定していなかった。
 毒を盛った犯人を捜すことこそ優先すべきなのに、父の処刑の方を速やかに決めてしまった。

(何の意図がある?)

 雷羽は父を処刑するとは宣言したものの、私の要望をのんだし、すぐに父を解放して、私を監禁することはしなかった。
 だからこそ、私はすぐさま果林を使って女官の着物を手に入れて、毒を飲まされたと聞いた妃を調べに行く自由が得られたのだ。

(……お妃様か)

 後宮の西・蕭美宮(しょうびきゅう)に入宮されている金家から擁立された妃。
 先代皇帝の代から後宮にいる。二代に渡っての妃だ。金家当主の実子は男ばかりで、彼女は養女らしい。
 侍女が妃のことを「香安(こうあん)様」と呼んでいたのは聞いた。
 不審者と疑われたくないので、今日はまず女官を探るだけに留め、妃の様子は果林に見にいってもらったのだが、部屋の中は私にも、ちらりと窺うことができた。
 大量の古書が山積みになっていて、まるで学者の室のようだった。

「もしも、私が女として生きていたのなら、あのお妃様となら、良い話し相手になれたのかもしれないのになあ」
「今からでも、遅くないんじゃない。本当に、あんたは女なんだし。事件解決のため、妃と話してきたら良いじゃない」
「そんな簡単に言わないでよ」

 女になるなんて……。
 今、女装しているのだって、苦渋の選択なのだ。

(後宮に潜入するなんて、憂鬱でしなないのに)

 私は頭を切り替えるべく、自らの頬をぱちんと叩いた。

「さっ、果林! この近くに隠し通路がある。今夜はそれを使って部屋に帰ろう」

 蓮国の中枢でもある宮城(きゅうじょう)は、途中、争いが起きて空き城になったこともあるが、修復と増築を繰り返しながらも、五百年間、そのままの状態で在り続けている。

(きっと、隠し通路も、夢のままなんだろうな)

 私は前を歩いていた果林を追いかけて、その袖を掴んだ。
 が、なぜか果林の反応はない。

「果林?」

 饒舌な使い魔が黙っているのは、異常事態だ。

「……まさか?」

 嫌な予感を拭いたくて、果林の袖を激しく揺さぶってみたら、怖気を呼び込む声が前方から飛んできた。

「おかえり。伯 小嵐」

 背筋が凍った。
 男は硬直した私を揶揄するように、朗々と捲し立てた。

「身内の衛兵すら撒いて、何処に散歩に出かけたと思ったら、まさかの女装……。いや、お前には正装か。しかも、皇族くらいしか知らない隠し通路の存在まで知っているなんてな。一体、お前は何者なんだ?」

 ――今度こそ、終わった。

 我ながら人生の幕が降りる時は、あっけないものだと思った。
 昼間、拝謁した時は、ほとんど顔を見なかった。
 しかし、切れ味鋭い、玲瓏な声音は、はっきりと覚えている。
 皇帝・雷羽が、今、目前にいるのだ。

◆◇
「引きこもっていた弊害で、注意力は散漫なようだな。小嵐」

 小嵐……と。家族以外に名前を呼ばれると、全身むず痒い。
 とはいえ、まさか、呼び捨てにしないで欲しいなんて、要望が通るはずもない。
 この男は、皇帝だ。
 しかも、情け容赦なく、父を葬ろうとしている張本人である。
 
(困ったな)

 使用することを許可されていた父の仕事部屋に戻ることも出来ず、皇帝の個人的な隠し部屋に連行された私達は、昼間の比ではない雷羽の圧力に押し潰されてしまいそうだった。
 事態収拾のための調査活動は咎めないと聞いていたが、その時は皇帝の許可を取ることが条件だった。
 しかし、そんなことを待っていたら、あっという間に七日を迎えてしまう。
 だったら、内緒にすれば大丈夫だろうと、私は危険な橋を渡ったのだが……。
 
(橋は初っ端から落ちてしまったみたい)

 申し開きを考える暇もないので、顔面が床に練り込むくらい、平伏するしかない。

「あの……。主上はいつから、私たちの会話を?」
「そうだな。私に宮城の常識は通用しないと、話していた頃だったか」
「あー」

 それ、一番酷いくだりじゃないか。血の気が引いて行く私と反対に、雷羽は楽しそうだ。俯いていても、この男が笑っているのが伝わってくる。
 どちらにしても、ほぼ最初から私たちの会話は盗み聞きされていたわけだ。

(いや、それも違うな)

 むしろ、最初から私は泳がされていて、雷羽に監視されていたというのが正しい答えだろう。
 ――負けた。
 謎の敗北感がひしひしと込み上げてきた。

「私は以前から五家について調べていたのだ。遡ると、どの家とも色々あった訳だが、伯家については謎だらけでな。瑛泉はいくら尋ねても、はぐらかすばかりで、埒が明かぬ。少し揺さぶってやろうと思ったら、運良く失態を起こしてくれたわけだ」
「運良く?」
「ああ。おかげで、粗を探す手間が省けた」

 雷羽は人の感情を逆撫でするのが、趣味のようだ。

「……でしたら、父の処分は、もう少し控え目でも良かったはずではないですか?」

 元々、こうなることが雷羽の計画の一環だったとしたら、父は助かって当然なのではないか?
 しかし、雷羽は私のごく当たり前の主張を容赦なく切り捨てた。

「私は一度口にしたことを安易に翻すことは出来ないのだ。それに、お前も知っての通り、今、妃は一人しかいない。その妃が殺されかけたとあっては、他の三家に示しがつかぬだろう?」
「そうは、仰られましても」

 金家以外の青、朱、玄家は、後宮に娘を送ることに積極的ではないと、父から聞いていた。
 彼らは、先の皇帝を支持していたから、現皇帝とは縁が薄く、様子見を決めこんでいるのだ。

(三家の中に、犯人なんていないよな)

 この状況で、金家の妃を毒殺してまで、成り上がろうなんて、考えるはずもない。

「失礼ながら、お妃様に犯人の心当たりは?」
「さあ。意識は戻ったらしいが」
「……他人事」
「何か言ったか?」
「いえ」

 自分の妃なのに、この態度だ。
 こんな横暴な皇帝に、このまま、父は命を絶たれてしまうのか?

「……で、いい加減、顔を上げたらどうだ? 小嵐。それとも、箱入り娘が過ぎて、男の顔を直視するのは苦手なのか?」
「違います!」

 私は怒りに任せて、勢い良く顔を上げた。
 これは挑発だ。
 分かっていたが、もうどうにもならなかった。
 面を上げると急激に視野が広がった。
 隠し部屋は、思った以上に狭く、雷羽は私の視界のど真ん中で、安穏と脇息に片肘をついていた。

(これが、雷羽……)

 皇帝らしからぬ、地味な袍服を寛げて着ている。髪も結うことすらせず、だらりと下ろしたままだ。
 まるで、今にも眠りにつくような格好だった。これで堂々と後宮を歩いていたらしい。
 まるで、礼儀を弁えていない。
 ――でも。
 綺麗な瞳をしていた。
 凛とした黒い双眸は、真っ直ぐ私に向かっている。 
 重なり合った視線を逸らさないのは、自分に自信がある証拠だ。
 思っていた以上に華奢で整った顔立ちをしていたが、所々に擦り傷の痕も目立つ。戦場で自ら武功を立てていたというのは、本当のことなのだろう。
 すっかり気勢が削がれてしまった私は、咳払いをして、仕切り直した。

「違います。私は男です。この格好は後宮で情報収集するために、仕方なく……」
「小嵐。苦しすぎる言い訳だぞ。だったら、お前は即死罪だ。後宮に立ち入っても良いのは、基本、男のモノがない宦官と皇帝だけだ」
「ならば、それで結構です」
「そうか。ならば、詮議のため、ここで裸になってもらおうか。お前は素晴らしく美人だし、私は嬉しい限りだ」
「申し訳ありませんでした」 

 女と知られるくらいなら、殺されても良いと博打を打ってみたが、それも無駄な抵抗だった。
 よりにもよって、一番知られたくない皇帝にバレてしまうとは屈辱だ。
 雷羽は眉間に皺を寄せていたが、口角は上がっていた。

「それにしても、伯家とはおかしな一族だな。どう見ても、お前は女にしか見えないのに、皆、お前は病弱だからと言い、引きこもりを良しとする。何故、お前はそこまでして伯家の跡取りでなければならないんだ?」
「それは……」

 もはや、出自を隠すことは不可能だと悟った私は、潔く話すことにした。

「私が両親の亡くした「嫡男」の代わりだからです。私は七歳の頃に父の養子になりました。両親共々、実の子を亡くした傷は癒えていなくて、だから息子として育てて欲しいと、私から頼んだのです」

 すべて紛れもない事実なのだが、多少同情してもらえるかと欲が働いたのも確かだった。
 雷羽には、話の綻びなんて簡単に見抜けるらしい。

「はっ、何を言うかと思ったら。下らない」

 鼻で笑って、一蹴されてしまった。

「その話が本当だとしても、伯家内の誰かが、反対をするはずだ。一族の男子が一人もいない訳ではないのだからな。予め弟が生まれることが分かっていたら別だが、さすがに予知能力はあるまい。ならば、お前が女であっても、跡取りと主張することが出来る、もっともな理由があるのではないか?」
「そ、それでしたら」

 必死に頭を捻って、私は言葉を紡いだ。

「私は使い魔を操ることが出来るのです。歴代当主の中でも私だけの秘術なので」
「あれを使えるから、女であっても跡取りに……と?」

 雷羽が怪訝な顔で、私の後ろで大欠伸をしている果林を見つめている。
 絶対、納得していない。

「お前が隠し通路を知っていることも、特殊能力ではないのか?」
「その件につきましては、父から」
「嘘だな。宮城の情報は安易に伝えてはならないものだ。瑛泉がお前に喋るとも思えないし、あの男は後宮内部に近づいたこともないはずだ。……それに、お前が見る夢というのは?」
「わ、私は、夢見が悪いだけですよ。ですから!」

 これ以上は話せないと、私は声を上げ、雷羽の会話を遮った。

「この件で死罪にするのであれば、私だけでお願いします。もとより、私は言いつけを破り、勝手に後宮に潜入してしまったのですから。今、処刑されたとしても、仕方ないことだと思います」

 投げやりになって啖呵を切ったら、雷羽は怒りもせず

「もういい」

 と、深い溜息だけを零した。

「少々挑発が過ぎた。これ以上、何も聞かぬ。だから、安易に自分を殺せと言うな。先般、お前は自分がいなくても、両親は大丈夫だと言っていたな。己を軽んじている証拠だ。何にしても、刑の執行は七日後だ。いいな?」
「はあ?」

(どうしたんだろう?)

 昼間はあっさり父に向かって死罪を申し付けたくせに、今の雷羽はなぜか、私に命の大切さを力説している。
 同一人物のはずなのに。
 至近距離で相対していると、僅かに雷羽の表情に憂いが浮かぶのだ。

「それにな、小嵐。お前は一度ちゃんと鏡を見ろ。せっかく、その容姿で生まれたのだ。着飾ってみたいとは思わないのか?」
「あいにく、私にはひらひらした着物は、不似合いではないかと」
「大損失だな。我が国の」

 大真面目に何を呟いているのか。
 どうやら、私は皇帝・雷羽の「冷酷」という噂を信じて勝手に怯えていたらしい。
 今は単純に、彼が私と同年代の不器用な青年に見えた。

「お前は信用出来ないと思うが、私とて妃に毒を盛った犯人は捕えたいと思っている。そのための情報はお前と共有するつもりだ。……だから、そんなに焦らずとも」
「情報と申しますと?」

 最後までちゃんと聞かずに、私は反射的に身を乗り出した。

「私にも、協力者はいる」
「えっ?」

 雷羽が背後を見遣ると、黒い頭巾を被っている男がぬっと現れた。
 鮮やかな藍色の袍衫は、宦官特有のものだ。

(この人は?)

 気配なんて、まったく感じなかったが、登場の仕方からして、今の会話の間、ずっと雷羽の背後に立っていたのだろう。

 ――注意力散漫。
 その通りだ。

 私は真剣に武術を習うことを見当し始めたのだった。

◆◇
 六角形の透かし窓から射し込む淡い朝陽が、私に痛い現実を教えてくれた。

「……あと、六日」

 眠れなかった。今、目を瞑ったら、おしまいだと分かっていたからだ。
 因縁の宮城だ。どんな夢を見ることになるのか……。

「いつまで持つか……」

 疲労感のみ、蓄積されていく。
 特に、雷羽が私を妙に女扱いするのが、しんどい。

(何が鏡を見ろ……だ。貴方のせいで、かえって、老けこみそうだよ)

 元々、昨夜は遅かった。
 頼んでもいないのに、雷羽と微妙な打ち合わせが続いたのだ。
 
「ねえ。主上って、あんたにやけに優しくない? 処刑なんてする気、ないんじゃない。だったら、期限なんて気にしなくても」
「はいはい、果林。少し静かにしてちょうだい。大体、何処で誰が聞いているか分からないんだからさ」
「何よ。苛々しちゃって。別に、聞かれて困るような話じゃないでしょ?」
「そういうことじゃないんだけど」

 私はただ、果林と会話している姿を誰かに見られたくないだけだ。
 今、果林は猫の姿に化けている。
 父の仕事部屋のある文礼殿では、文官の一部が住み込みで仕官していたりするので、私は直ぐに男装に戻ったのだが、果林はなぜか黒猫に変化していた。
 傍目から見たら、私は猫と言葉を交わしている危ない人で、果林は言葉を話す怪しい猫にしか見えないはずだ。
 伯家としてこれ以上の醜聞は避けて通りたいと、しばらく静かにしていたかったのだが。
 ――無駄な足掻きだったらしい。
 突如、激しい音を立てて、引き戸が開いたのだった。

「はっ?」

 朝の清涼な空気が勢いよく室内に吹き込んできて、私は驚きのあまり、後ろにひっくり返ってしまった。

「何事?」
「おはよう。伯 小嵐」

 まさか正面から、唐突に人が現れるとは思ってもいなかった。
 昨夜、雷羽が言っていた「協力者」が、牙笏を振り回しながら、私の眼前に立っている。
 藍色の袍衫に襆頭は、昨夜のままだったが、今日は長い襟巻で顔半分を覆っていた。

(さすがに、顔を晒すのは難しいんだろうけど)

 長身でがっしりした体格をしている雷羽に比べて、この人は背が低く、撫で肩の痩躯だ。見た目は正反対の二人だが、根本は似ていることを、私は昨夜嫌と言うほど知ってしまった。

「気持ちの良い朝だね」

 常に顰めっ面の雷羽と比べて、この方の人懐っこい笑顔には、一点の曇りもない。

「そう……ですね」

 昨夜の話は、なかったことにしようと考えていたのに、まさか、先方からやって来るとは……。
 腰が抜けてしまって、立ち上がることができないので、私は這いずるように、平伏した。
 さらっと雷羽に紹介された、この御方の尊名が脳内でぐるぐる旋回している。

 ――こちらは、私の兄の眞 景雲(けいうん)だ。宦官としての名は龍鳴(りゅうめい)

 嘘だろうと、私は悲鳴を上げたくなったが、実際は声すら出なかった。
 呆然としたままの私に、雷羽は淡白にとんでもない事実を告げたのだ。

 ――兄上は北の雪淵(せつげん)省に私が追放したことになっているが、それは偽者だ。本物は、宮城で宦官に扮してもらい、国のために働いて下さっている。兄上は、皇帝時代、あまり、臣達の前に姿を現さなかったので、誰にもバレなくて、有能なのだ。

 そこで、雷羽は謎の微笑を浮かべたのだが、逆に恐ろしくて直視できなかった。

(何で、つい先日まで宮城の主だった御方が、今、宦官のフリをして潜入調査しているわけ?)

 歴代皇帝の中でも、そんな奇想天外な行為をやってのけた人は、初めてだろう。

 私の知っている話としては……。

 ……雷羽と景雲の兄弟はいがみ合っていて、争いに発展しようとしていた。
 しかし、地方の豪族と金家を仲間につけた雷羽が率いる大軍勢に為す術もなく、景雲は他の三家に無断で降参して、宮城を明け渡したということだった。

(お二人は、仲が悪いのではなかったの?)

 しかし、私の疑問は宙に浮いたまま、景雲の潜入報告会が始まり、次第に宮城の暴露話と発展して、不毛な話が続いた後、明け方に散会したのだ。

(絶対、寝てないよね?)

 だけど、景雲には目の下に隈すらなければ、今にも走り出しそうなくらい溌剌としている。

「少しは、眠れたかな?」
「ええ。おかげさまで」

 本当のことを話せるはずもないので、愛想笑いで誤魔化すしかない。
 そんなことより、尋ねておきたいことがあった。

「あの、えー…っ、龍鳴様。部屋の前にいたと思いますが、伯家の臣達は一体?」
「ああ、彼らは皇帝の命で休んでもらっているよ。君には色々と話したし、込み入った話は、人払いをしないといけないからね」
「それは、大変なお気遣いを頂きまして」
「私も一つ聞きたいのだけど。今日の予定はどうなってる? 弟にくれぐれもと頼まれたから、私なりに協力したいと思っているんだが?」

 本気なのか?

(先代皇帝を私に顎で使えと?)

 私は、ぶるぶると顔を横に振った。

「とんでもない。貴方様のお手を煩わせるまでもありません。今日も変装して、お妃様について調べてみようと思案していたところでした」
「……女装は不味いな」
「何故?」
「ああ、雷羽がね、好きではないみたいで、先程も朝議に行く前に、小嵐には自分の知らないところで、勝手に女装をすることは禁止だと念押されたんだ」
「つまり、主上は私に神通力で事件を解決しろと仰せなのでしょうか?」

 怒りを押し殺して、やっとの思いで言い返してみたら、景雲はともかく果林まで大笑いしていた。
 私は、冗談で言ったわけではないのに。

「まあまあ、小嵐。そんなに頑張らなくても。調べることなんて限られている。ほら、君も知っての通り、今の後宮には、私の時代から留まっている金妃だけだ」
「もちろん。それは、存じておりますが……」
「金家の当主と雷羽は表面上、仲が良い。そのまま、娘を残して正后にっていうのが、政治的に都合が良いのさ」
「ですが……。お妃様は、つい最近まで貴方様の?」
「ああ、そうか。失礼した。君は知らないんだね。私は皇帝として金妃とは一度も会ったことがないんだ。まあ、今となって、宦官として、顔を合わせることはあるけれど……。過去、他の三家の妃とも面識はあったけど、閨を共にしたことはなかったな。君と同じ、病弱で通していたからね。最初から長く皇帝を続けるつもりなかったんだ」
「結構、軽いと申しますか。その……」
「小嵐。人間いつ死ぬか分からないんだし、緩く生きないと、損だよ」

 それは、六日後に死にそうな私に向けての餞の言葉なのだろうか?

「だから、君は待っていれば良いだけなんだ。とっくに餌は蒔いているんだから。雷羽もそれを言いたかったんだろうけど、あいつ、恐ろしく口下手だからな」
「餌を蒔く?」
「瑛泉の処刑を強引に決めたことだよ」

 それは予てから、果林と二人で訝っていたことだ。
 どうして、父のことを犯人でないと分かっていながら、すぐに処刑すると決めたのか?

「太監」

 外からの恭しい呼び声で、私は我に返った。
 それは、宦官の中でも最高位の肩書きだった。景雲の仮初の地位は、一応、それなりのものを用意していたようだ。

「小嵐殿にお会いたいと、金家の当主からの申し出がございましたが、如何いたしますか?」
「ほら、存外早く大物が食らいついたよ」

 景雲の不敵な笑みは、雷雨と似ていた。

◆◇
 金家当主、金 玉風(ぎょくふう)の肩書は大将軍。各地に配置されている軍を中央で統括している責任者だ。その玉風が役職名を用いず、あくまでも金家の当主として、私に会いに来たというのは、つまり……。

「此度の件について、瑛泉殿をはじめ、貴方にも多大なご迷惑をおかけいたしました。瑛泉殿には何の非もありませぬ。あくまで、我が「金家」の問題でございました。誠に申し訳ありません。こちらにいる侍女寧和(ねいわ)が白状いたしました。自分が妃に毒を盛ったのだと」

 やはり、内輪の問題で終わらせるつもりらしい。
 囚人のように後ろ手を縛られ、私の足元に転がされた若い女性、寧和の目は潤み、真っ赤に腫れ上がっていた。ずっと泣いていたのだろう。
 私は衝立の裏で、潜んでいる景雲を気にしながら、彼女の前で屈んだ。

「貴方が……毒を盛ったのですか?」
「はい」

 寧和は床に頭を磨りつけて、髪を振り乱しながら謝罪をした。

「申し訳ありません。私がすべて悪いのです。私が香安様に毒を……」
「一体、どうして? 理由は?」
「それは……。腹が立ったからです。先の皇帝陛下の寵愛を得ようともせず、香安様は毎日小難しい歴史の本を読んでいるばかり。なのに、二代に渡り正后になれそうな機会が与えられるなんて不公平ではないかと」

 ――不公平?
 妃候補なら、いざ知らず、彼女は侍女だ。
 歴代皇帝の中には、妃付きの侍女を寵愛した方もいたが、それは稀なことだ。
 
(普通は、仕えている主人の出世を喜ぶものでは?)

 しかし、そんなことよりも、私が興味を持ったのは、香安の読書傾向だった。

「香安様は、歴史の本がお好きなんですよね?」

 本好きに悪い人はいないというのは、父の言だ。
 教養のある妃の何が悪いのだろう。

「へっ?」
「どんな本を読んでいらっしゃるのです?」

 その質問は、あまりにも的外れだったらしい。
 寧和の視線はあちこちに彷徨い、玉風と頷き合ってから、しどろもどろに答えた。

「ええっと。蓮国の歴史書「正蓮伝」だったかしら? それを読まれては、一人楽しんでおられました。私には到底理解できません」
「正蓮伝ですか。玄人好みの歴史書ですね。よほど、お好きなのでしょう」

 素直に感心していると、一瞬だけ寧和の口元に笑みが浮かんだ。
 それは、皮肉や憎悪を含んだものではなくて……。――まるで、慈しむような。
 可愛い妹を誉められた姉のようだった。

「寧和さん?」

 驚いて声を掛けた途端、彼女は再び殺気立った表情に戻ってしまった。

「もう、いいですから! 私を早く罰して下さい。伯家のご当主にも大変なご迷惑をおかけしてしまったのです。この身を持って償うことしかできません。お願いします」
「しかし」
「……と、この者も申しておりますので。今回の件は落着ということで良いではないですか」

 玉風が目尻に皺を寄せて微笑んだ。胡散臭過ぎて、不気味なくらいだ。

「有難いことに、娘も回復して、主上の御渡りを心待ちにしております。今回のことは、主上には私から申し上げて、瑛泉殿にお許しが出るよう計らいますので、何卒ご容赦を。伯 小嵐殿」

 そうして、綺麗な拱手をして、私に礼を尽くした。
 実質、今の蓮国において皇帝に継ぐ権力者である大将軍が私如きの格下に、頭を下げている。驚きの低姿勢だが、裏がありそうだ。
 とにかく、見た目が怖い。
 頤まで伸びた鬚に、鋭い切れ長の目。見上げるまでの身長。
 紫の袍を纏ってはいるが、極限まで鍛えた逞しい身体をしていることは、よく分かった。
 こんなところにいるより、戦場を駆けていた方が嬉しいのではないかと、思わず指摘したくなる容姿をしている。

(元々、そういう家系だから)

 金家は代々、武闘派だ。分かりやすく、皇帝に褒美を所望する者が多かった。

「小嵐殿。伯家はかつての尊掌五家の一つ。瑛泉殿も貴方もこの国にとって必要な方だ。貴方とも一度お会いしたいと思っていたのです。このような形になってしまいましたが、お会いできて良かった」

 嫌味な本音だ。
 どうせ、玉風も雷羽と同じ、引きこもりの伯家の跡取りの顔を一目見てみようと思っただけだろう。
 今だって、女のようだと嘲笑っているに違いない。
 だから何なのだと、私は姿勢を正した。

「承知いたしました。金家当主の貴方の口添えで、主上が父をお赦しになって下さるのなら、他家のことには口を挟みません。わざわざ私の所まで足を運んで頂き、有難うございました」

 出て行ってくれと言わんばかりに、深々と拱手を返すと、玉風はひとまず満足したらしく、寧和を引きずりながら出て行った。
 ――嵐だった。
 出来れば一生に一度で終わって欲しい大嵐だ。

「疲れた」

 脱力した私は、その場にしゃがみ込んでしまった。
 昨日から皇帝から大将軍と、次々に会いたくない大物ばかりと顔合わせしている。
 宮城は、怖い人ばかりだ。
 そして、ああいう権力者は力で事実をねじ伏せてしまう。
 今回も恐らく。

「あれは、明らかに疾しいことがあるね」

 景雲が私の前に出てきた。
 さすがに金 玉風とは軽く面識があるので、会うのは避けたらしい。

「君もそう思ったでしょう?」
「はい。寧和さんは、大将軍の方ばかり見ていましたし、お妃様に殺意があるようには思えませんでした。たとえ、何らかの事情で、彼女が毒を盛ったのだとしても、表沙汰に出来ない事情があったのではないかと?」
「私もそう思う」
「それと、もう一つ疑問に思ったのですが……」

 私は額を押さえ、困惑を隠せずに呟いた。

「大将軍は、どうして主上よりも先に私の方にいらしたのでしょう?」
「ああ、それか……。その答えなら簡単だよ」

 景雲は笑いながら、告げた。

「言ったでしょ。雷羽と玉風は表向き仲が良いだけだって。玉風は、伯家とは既に和解していることを雷羽に告げて、金家に対して寛大な対応を求めるつもりなんだ」
「回りくどいですね」
「そうかな。実に分かりやすいと思うけどね。しかし、私はこういう輩を上手く扱うことが出来なくて。……だから、雷羽に託したんだ」
「託した?」
「この国の腐敗を正せるのは、私ではない。雷羽だ。でも、あいつ、残念ながら本心から話せる味方は、少ないんだよな」
「……でしょうね」

 小声で呟いたが、景雲はしっかり聞いていたらしい。

「あれ、まだ分からないかな? 私と雷羽が繋がっていることを知っているのは、私達と腹心二名の四名だけ。雷羽はそれを会ったばかりの君に話した。何でだと思う?」
「意味不明です」
「君、自覚がないみたいだから、教えてあげるけど、伯家というのは蓮国内で大きな存在なんだよ。真ん中に伯家があるから、他の四家の力関係が保たれているんだ」
「まさか、父の処刑が決まった時、表立って誰も反対してくれなかったのは、皆、牽制し合ってたからということですか?」
「そういうこと。しかし、見過ごせず、金家の当主自らが動いたんだ。これ、伯家の影響力の強さなんだよ」
「はあ……」

 褒められているみたいだが……。
 
(むしろ、主上は玉風を自ら動かすために、父様を処刑すると宣言したということではないの?)

 頼むから、伯家を巻き込まないで欲しい。

(私の見る悪夢は、尊掌五家と皇帝の内輪揉めの歴史ばかりなんだから)

 喉元まで、この能力に対する不平不満がこみ上げて来て、どうにか飲みこんだら、今度は咳が出てしまった。
 景雲は、私の気持ちなど知る由もなく、素直に心配してくれる。

「大丈夫? 少し休んだら良い」
「おめでとう。小嵐。これで、一件落着じゃない」

 ……一件……落着?

(違う)

 果林の甲高い声が、胸の奥に棘のように刺さった。

「終わりなんかじゃないよ。果林」

 父が助かったとしても、誰かに罪を着せるような形で、落着なんて有り得ない。

(……頭が痛いな)

 憤っているのは、私ではなくて。
 不本意な死を遂げた夢の中の人物が、私の心を操っているのだ。

(あの人達は、私ではないんだから)

 同調するなと、自らに言い聞かせるが、しかし、あの人達は宮城での権謀術数をよく知っていた。
 十中八九、今回の件には、香安が関係している。

(一度、お妃様にお会いして、答えの裏付けをしてみるしかないか)

 問題は、どうやって香安と話す機会を得るかだが……。
 雷羽にだけは頼みたくないと、選択肢から打ち消していたら、当の張本人から至急と言われて、私は呼び出されてしまったのだ。

◆◇
「私は自分の難儀な性癖に、今頃になって気づいたのだ」
 憂いを含んだ一言を告げ、私を見つめる雷羽は、怒っているようだった。
 やっとこれが素の顔だということが分かってきたのだが、それでもやはり、恐ろしい。
 しかも、玉風のことで話があるのだと思いこんでいた私に、開口一番これだった。
 一人で来いと言われたので、果林を文礼殿の部屋に残してきてしまったことを深く後悔した。
 この会話の着地点が、まるで見当たらない。助けて欲しい。

「そう……ですか」

 黙っているわけにもいかないので、空虚な相槌を打った。
 恐らく、雷羽が口にしているのは、部屋一杯、溢れんばかりに置かれた女物の衣裳に関してのことだろう。
 この部屋に足を踏み入れた瞬間、私は己の目を疑ったものだった。

(昨夜通されたのと同じ部屋のはずなのに……)

 冷酷無比、血も涙もない皇帝が女物の衣裳に埋もれている姿は、滑稽を通り越して、恐怖だった。
 性癖と言うからには、女装でもしたいということか?

「どうした? 小嵐」
「いえ」

 慌てて、深々頭を下げると、天蓋のついた長椅子にふんぞり返っていたはずの雷羽が私の方に向かって来るではないか。
 心臓の音が煩かった。
 壊れてしまいそうだ。

「どうやら、私は己の美しさに気づいていない女を飾りたてて、自分の傍に置きたいという衝動に駆られるようだ」
「あー。それは困ってしまいますね。ははっ」

 もう笑うしかない。
 それは、女装よりも難儀な性癖だ。
 更に言うと、距離が近すぎる。よりにもよって、なぜ景雲はいないのか?

「とりあえず、集められるだけ集めてみたのだが、この中に気に入った着物はないか? 小嵐」
「えーっと」

 目が痛くなるほどの華やかな色合いの衣ばかりだ。まともに選んでいたら、丸一日はかかるだろう。

「どんな色でも良い。好きなだけ着ろ。装飾品も山とある。今朝、呼び入れた商人達は、どれも最上級の品だと嘯いていたぞ」

 わざわざ、商人まで呼び入れたのか?

(一体、この方は政務の合間に何をしていたんだろう)

 謎のむず痒さに、私は頭を振った。

(お妃様に、あんな扱いをする人だよ)

 真に受けるつもりなんてないのに。

「あいにく、私はこの祀儀官の服装が一番自分に合っているように思います」

 最下層の地位を表す、浅青の袍服は適度に軽く動きやすい。
 今更、女物など着るつもりなんて……ないのだ。

「主上。私は小柄ではありますが、有難いことに、女っぽい体格はしていないように思います。今更、女装したところで、似合いませんよ」
「昨夜の私の話を聞いていなかったのか? 鏡を見ろと言ったはずだが?」
「鏡は見ております。今日は目の下の隈が絶望的でした。……主上。むしろ、私には貴方様が何をお考えなのか、分かりません」
「分からないか?」
「さっぱり。今まで隠居のような暮らしを送っておりましたので」
「では、言うが……。私が純粋にお前のことを、心配していると言ったら?」
「心配? 私を?」

 顔を上げると、身体を屈めて私を覗きこんでいる雷羽と再び目が合った。

(利用されているような気しかしないけど。……でも)

 澄んだ黒い瞳が、じっと私を窺っている。
 心が落ち着かなかった。

「何故と言われてもな、私にも分からん。だが、お前は女だ。この先、誤魔化しきれやしない。伯家の嫡男はいずれ、祀管長の地位に就くことが約束されている。お前の弟が育つまで瑛泉が当主で在り続けたとしても、将来、お前は廃される。その時、お前はどうするのだ?」
「そうなったら、なったで……」

 のらりくらり話を逸らすのは、私にも答えがないからだ。
 考えたら憂鬱になるので、考えないようにしている。
 本当は、怖かった。
 弟が生まれることで、両親の私に対する態度が急変するのではないか……と。
 だからといって、恩義のある父母を差し置いて、女として生きるなんて無理だ。

「大丈夫です。父母と話し合います。昼間お見えになった金大将軍も金家のことは、金家でと仰っていましたよ。主上の御前にもいらっしゃったのではないですか」
「あのジジイのことは、忘れろ。私に無断でお前に会いやがって。瑛泉の処刑に関しては無効だ。金家の願いを聞き届けたことにして、ジジイに恩を売ることにした」
「すべて忘れろ……と? 私には事態の推移を、お聞きすることも出来ないのですか?」

 ここまで関与させておいて、すべて忘れろ……はない。
 唇をかみしめていると、私の気持ちを察したのだろう。雷羽が嫌々口を開いた。

「侍女が妃に毒を盛ったのは事実だ。確かな証言も得られているし、侍女が毒を買った商人も見つかっている」
「ですが、侍女の寧和さんは自分の意思でお妃様に毒を盛っていないのではないですか? おそらく、お妃様は……」
「雷羽。取り込み中のところ、失礼するよ」

 宣言するより前に、室内に踏み込んできた景雲は、一瞬、部屋の状態に驚いたものの、すぐに我に返って、雷羽に耳打ちした。

「……金妃が姿を消した」
「はっ!?」

 小声とはいえ、至近距離だ。私にも当然内容が聞こえてしまった。

「お妃様が?」
「ああ。後宮にいる者、総出で捜しているが、見つからない」

 予想外の出来事に、狼狽している景雲と比べて、しかし、一方の雷羽は落ち着き払っていた。

「兄上。大変なこととは、それだけですか?」
「えっ?」

 その回答は、景雲にとっても意外だったようだ。目を白黒させている。

「別に不思議なことはないです。親しい侍女が捕えられたら、動揺もするでしょう」
「だけど、妃に万が一のことがあったら?」
「さあ? 仮にあったとしても、何が変わるわけでもない。玉風は新たな遠縁の娘を養女にして、私に宛がうだけです」
「……雷羽、お前は?」
「兄上こそ、どうしたのです? 皇帝時代、金妃と会ったこともなかったのでしょう。 やけに感情的になっていませんか?」
「それは、宦官として彼女に会ったことはあるからね。あまり会話を交わしたことはないけれど、でも、知っている娘が後宮で姿を消したんだ。今、この時期だし、気がかりではあるよ」
「それだけですか?」
「はっ?」

 何かを確認するかのよう、目を細め、景雲の表情の変化を見逃すまいとしていた雷羽だったが……。
 やがて、氷の一言で止めをさした。

「残念ですが、後宮に余人を入れるわけにはいかない。そのことを玉風も分かっています。だから、私に助けを求めて来ない。……放っておくしかありません」
「そんな」

 今までの甘い雷羽は、何処にいったのだろう。

(……最低だ)

 理屈では、分かる。
 私の知らない、政治的な駆け引きもあるのだろう。
 けれど、香安と幾つかの共通点を持っている私としては、彼女に対して一方的ではあるが、親近感を抱いていたのだ。
 たとえ何も出来ないにしても、それでも、一応、自分の妻ではないか?
 妃の替えなんていくらでもいるかのような言い草。

(私だって……)

 伯家にとっての替えは、いくらでもいるのかもしれないのに。

「でしたら、主上は結構です。私はやれることをやってみます」
『はっ?』

 二人の声が重なった。景雲が目を剥き、雷羽が首を傾げている。
 けれど、説明している時間はない。

「主上、こちら拝借します」

 私は手っ取り早く、薄紫の衫襦と紋様の入った朱色の長裙を掴むと、衝立を上手く目隠しに使いながら、さっさと自分の服を脱ぎ出した。

「待て。何をしようと言うのだ。小嵐?」

 これには、さすがの雷羽も呆気にとられていた。

◆◇
 史書「正蓮伝」は、三百年前の蓮国の歴史書だ。
 しかし、数多ある皇帝の偉業を讃えるだけのつまらない書物ではない。
 正蓮伝が他の歴史書と違い、面白いのは、当時の宮城の様子が詳らかに描かれていることだ。
 後宮内の醜聞や不祥事、噂や不可思議な出来事も、筆者が出来る範囲で書き連ねている。
 香安が本当に歴史好きで、死にたいくらい、深い悩みがあるのなら、その書に書かれている場所に興味を抱くのではないか?
 たとえば……。
 後宮の西の果てに「神鏡池(しんきょういけ)と呼ばれる池がある。
「神鏡池」は、遡ること四百年前、後宮内で虐げられていた白家の妃の幸せを願い、侍女が身投げした場所だ。
 池の中州には、四象の神獣を祀る祠があり、神力が強いと後宮内で評判だった。
 彼女の願いは叶い、白妃は正后となった。
 それから、願いを込めて、この池で身投げをする者が相次ぎ、当時の皇帝はこの池を立ち入り禁止にしたのだ。
 時代が流れ、伯家の宮殿もなくなってしまい、池の存在を知る者も、ほぼいなくなってしまったが……。
 ――それでも。
 もしも私が香安であれば、訪れてみたいと思うはずだ。

「果林、私の頭の中を覗いて、先に行って」

 私は文礼殿に残してきた猫型果林を回収して、女装姿で疾走していた。

「えーっ。遠そうなんだけど?」

 距離が離れ過ぎてしまうと、果林を使うことは出来なくなってしまう。
 だけど、私が果林を追いかけていくのなら、何とか使役できるのではないか?

「いいから、やって!」
「はいはい。いいけどさ。あんたも、早く追いついてよ」

 不機嫌そのものだが、一応やることはやってくれるらしい。
 巨大な鳥に変化した果林は、一声鳴いて、夜空の彼方に飛び立って行った。
 普段ならない形態に果林が変化したということは、それだけ私の身体にも負担がかかるということだ。

(寝込むな)

 明日は、確実に意識がないだろう。

(もしも、これで池にお妃様がいなかったら……)

 走りながら、必死に他の候補地も絞っていたが、幸運なことに、香安らしき女性は池にいた。
 荒れ果てた神鏡池の辺、古びた欄干の上で物憂げに頬杖をついている。

「お妃様……ですよね?」
「えっ?」

 呼びかけに、すぐさま反応したので、香安本人で間違いはずだ。

「……ああ、良かった」

 私は息を整えてから、よろよろ歩き始めた。
 鳥に姿を変えた果林が、香安の頭上を旋回している。
 自ら命を絶つような素振りがあったら、果林が止めているはずだから、今のところ、そういう行為はしていないようだ。

「貴方は誰? 蕭美宮の者ではないでしょう」

 上擦った声は、警戒されている証だ。
 私は夜目が利くが、香安は闇の中、何も視えていないのだ。

「不躾に申し訳ありません。私は……後宮の女官です。この辺りを管理しています」
「えっ? そんな女官、聞いたこともないけど。後宮には私の知らない人が沢山いるのかしら」

 香安は、私が適当についた嘘をあっさり信じ込んだらしい。
 思った通り、素直な人のようだ。

「お妃様。帰りませんか? ここは冷えます」
「心配してくれるの?」
「もちろん。大切な御身ですから」
「大切にされるような身の上でもないのにね。私」

 香安は寂しげに、私から目を逸らした。
 緩く結ってる長髪が、夜風になびいている。
 先日、私が身に着けていた最下層の女官の格好をしているので、ここまで変装して来たのだろう。
 丸顔でふっくらした体つきのお妃様は、愛嬌があって、見るからに人が良さそうだった。

「やはり、お妃様の侍女の件ですか?」
 
 訊かずにはいられなかった。元々、香安とは一度対面して、確認しようと思っていたのだ。
 香安は、小さく首肯した。

「やだ。もう知っているのね」
「ここは、噂が早い後宮ですから」
「そう……ね。ここはそういう場所だったわ」

(お辛そうだな。お妃様)

 私は彼女を和ませたくて、わざと口調を明るくした。

「それに、ここは「神鏡池」。自分の身と引き換えに、四象の神獣が願いを叶えるといわれている聖地です。お妃様は、侍女のことを思って、こちらにいらしたのではないですか?」
「貴方、凄いわね。今まで、誰に話しても分からないって、興味すら持ってもらえなかったのに」

 さすが、歴史好き。香安の顔が子供のように輝いた。

「一度、本当に実在してるのか確かめてみたかったの。西の宮なら、歩ける範囲だしね。誰も、この池の存在すら信じてくれなかったから。寧和以外は……」
「……お妃様」

 話しながら、香安が涙をぽたぽたと地面に落とした。

(後悔しているんだな)

 自分のせいで、侍女を罪人にしてしまったことに。
 私は確信を抱いて、香安に尋ねた。

「寧和さんに指示して、毒を盛らせたのは、お妃様ですね?」

 彼女は、何度も頷いた。

「ええ、そうよ。私が寧和にお願いしたの。死なない程度に毒を盛って欲しいって……」

 ――やはり。
 思ったとおりだった。
 玉風はこれを隠すために、侍女を人柱にしたのだ。

「大祀の儀が終わって、七日後に陛下の御渡りがあるって、父様が……」
「えっ? お妃様はまだ主上とは……その」
「知らないの? まだ形だけなのよ。妃なんて」

 知らなかった。
 しかし、どうしてそれを知って、私は安堵しているのだろう。
 最低ではないか。
 
「私、どうにか中止にしたくて。寧和に毒を盛るよう頼んだの。寧和は嫌がったけど、最後には、私の願いをきいてくれたわ。……まさか、こんなことになってしまうなんて。寧和に申し訳なくて。なのに、私、死ねことも出来ない」

 嗚咽を漏らしながら、香安が顔を覆う。

(可哀想に)

 私に懺悔をするのは、誰かに己を罰して欲しいからだ。

「でも、お妃様。後悔されているのでしたら、なおのこと、真実を主上にお話して、寧和さんのこと、お願いしてみましょう。私もご一緒しますから」
「無駄よ。主上に殺されるだけだわ」
「そんな悲観せずとも、貴方様には、金家がついております」
「父様だって、今度こそ私を切り捨てるわ。私の代わりなんていくらでもいるもの」
「そのお気持ちは、私にも分かりますが」
「いいえ。貴方には分からないわ」
「お妃様?」

 断言されて、私は戸惑った。
 雲行きが怪しい。

「私は妃でいられない。絶対に無理なのよ。私は景雲様のことが……!」
「……へっ?」

 喧嘩腰に叫ばれた御名に、私は耳を疑った。
 まさに晴天の霹靂だった。

「お妃様は、景雲さまのことを?」

 想像の範疇を越えた展開に、私はあたふたして、背後を一瞥した。
 雷羽と景雲が私の後をついて来たとしたら、近くで立ち聞きしている可能性が高い。
 今の時点では、それらしい影は、発見できないのだが……。

(驚きだな。お妃様が景雲様のことをお慕いしていたなんて)

 景雲は皇帝時代、香安と会ったことはないと話していた。

(でも、金家の妃でありながら、一度も会ったことがないというのも不自然……か?)

 例えば……。
 歴史本が好きな香安だ。
 今みたいな変装をして、後宮内の名所を見て回っていたとしたら?
 何処かで景雲と出くわしてもおかしくはない。

「景雲様は、お妃様の気持ちをご存知でいらっしゃるのですか?」 
「そんなはずないじゃない。私は遠くから御姿を眺めていられたらそれで良かったのよ。それなのに、すぐに雷羽なんて野獣に譲位してしまって。がっかりしたけど、でも、前向きに生きようと思ったのよ。まさか、こんな形で再会するなんて」
「それは……その」

 景雲が宦官のフリをしていることも、知っているということか。
 確かに、好きな男性がすぐ傍にいるのに、他人の妻になんてなりたくないだろう。

(……でも)

 そのことは、雷羽と景雲にとって痛手ではないのか?

「やだ。今のは取り消しで」

 香安自身も、大変な告白をしてしまったと、自覚したのだろう。

「綺麗さっぱり忘れて頂戴」

 無茶なことを言い出した。

「しかし」

 たとえ、私が忘れたふりをしても、近くで二人が聞き耳を立てていたら、おしまいだ。

(絶対に、そこにいたとしても出て来ないでよ)

 呪いのように、脳内で念じ続けたものの、無駄だったらしい。
 暗がりから景雲の素っ頓狂な声が飛んできた。

「ええっ、知らなかったな。香安は私の正体を知っていたのか?」
「ああ……」

 毎度、この方は派手な登場の仕方だ。
 空気を読んで欲しかった。
 今の香安に刺激は禁物だ。
 ――案の定。
 香安は正気を失った。

「きゃーっ! どうして、こんなところに景雲さまが? 私、何てことを」
「落ち着いて下さい。大丈夫です。お妃様」

 何一つ大丈夫ではないが、他に言葉が見当たらない。
 さすがに、景雲も自分の失態に気づいたのだろう。
 逆毛だった小動物を宥めるように、ぎこちなく私の前を歩き始めた。

「香安。とりあえず、ここは物騒だから、こちらにおいで」

 景雲が手を差し出す。
 その躊躇のなさが憎い。
 ――だから、駄目なのだ。
 拗らせまくっていたからこそ、香安は今まで景雲と対面することが出来なかったのだ。
 それが……。
 急に狭まった景雲との距離感に、香安の理性は一気に崩れ去ってしまった。

「きゃあ!」

 まるで、景雲のことを毛嫌いしているような悲鳴だが、実際は切実だった。
 混乱した香安はずるずる後退り、そして、体重のかかった欄干は、あっけなく砕けて壊れてしまった。

「お妃様!」
「えっ?」

 何が起きたのか、いまだ理解できていない香安を追って、私は全力で駆けた。

「果林!」

 くえっと、一声鳴いて、果林が宙に投げ出された香安に体当たりする。
 前に差し出された香安の手を強く掴んだ私は、出来る限り彼女を自分の方に引き寄せてから、渾身の力で橋の上に投げ飛ばした。
 へなへなと橋の上で座り込む香安の姿を確認して、安堵したのも束の間だった。勢い余った私は長裙の裾につんのめって……。

「わっ、わっ」

 激しい水音を立てて、池底に落ちてしまったのだ。 

(……最悪)

 やはり、武術を習っておけば良かった。
 そしたら、もう少し踏ん張りもきいたかもしれないのに。
 池の底は深く、水は冷たくて、皮膚に痛い。
 果林は私の分身だから、私の体力が弱れば、当然使い物にはならない。
 泳げないわけでもないが、浮かび上がろうにも、衣がまとわりついて、重くて無理だ。
 私には霊感なんてないはずだが、史実を知っている分、この池で死んだ者の無念の声を聞いたような気になってしまう。
 暗くて、辛くて、恨めしくて……。
 助けてくれる人なんていない。

(……死ぬ)

 ここまで……か。

(……だったら、せめて)

 次、生まれ変わるなら、普通の女性として、誰かに愛されたい。

 我ながら、痛々しい願い事。
 私利私欲に塗れすぎて、叶うはずもないだろうけど。

(……でも)

 どうして、彼の顔が浮かぶのだろう?

「小嵐!」

 はっきり聞こえた。
 水中にいるのに、男の声が……。
 幻聴か?
 だが、意識の薄れていく私を、必死に引き寄せる手は確かにあった。

(主上?)

 そんなはずはない。
 私なんかを身の危険を冒してまで、助けてくれるような御方ではない。
 ……だけど。
 
(もう、どうだって良い)

 どうせ最期なら、甘えてみたかった。
 雷羽が差し出した手を、掴んでみたい。
 私は長い間、堪え続けていた感情の蓋を開けて、温かな感触に、力一杯しがみついたのだった。

◆◇
 伯家の当主が里に訪れていることを知った私は、一人で瑛泉様に会いに行った。
 元々、私は親のいない孤児だった。
 里家で家畜のように暮らしている。貧しい小娘。
 そんな得体の知れない者に、名門伯家の主が会うはずもなかったのだが、私には『代々の伯家当主の記憶がある』と伝えたら、瑛泉様は興奮気味に私に会ってくれた。
 ――そして。
 すべてを話してくれた。
 その能力こそが、代々伯家当主にしか持ちえない特殊能力なのだ……と。
 もちろん、能力の現れ方も様々だ。一生、覚醒せずに終わる当主もいる。現に瑛泉様にも、この能力は宿らなかったそうだ。
 今まで女に能力が宿ったことはないが、この印があった者は、伯家の当主になる定めなのだという。
 私は瑛泉様とは何の繋がりもなかったが、元々私が育った場所は、白家が治めていた土地で、もしかしたら縁者もいたのかもしれないと、瑛泉様は仰っていた。
 きっと、私はその子の生まれ変わりに違いないと、瑛泉様も奥様も、大喜びして、早速、私を養子として迎え入れてくれることになった。
 父様、母様と呼ぶと、二人は大輪の花が咲いたように、嬉しそうに笑った。

(だから、私は……)

 二人の息子、伯 小嵐として生きることを誓ったのだ。
 身内が誰もいない私にとって、両親がすべてだった。二人が喜んでくれるのなら、何だって良かった。
 悪夢に襲われて、泣きながら起きた時、傍らに二人がいてくれるのなら、私はそれだけで良かったのだ。

「……あっ」

 ふと目を開いたら、涙が目尻を伝って寝牀に落ちた。
 夢を見ていた。
 いつの時代のことだろう。
 どちらにしても、ろくな結末の話ではない。

「悪い夢を見ていたようだな?」

 言いつつ、武骨な手で、私の頬を撫でたのは雷羽だ。
 平然と私の傍に坐っている。……しかも。

「これは……?」

 思わず、私は上体を起こして、自分の身の上を確認した。
 やけに肌触りの良い桃色の襦袢はひらひらしていて、扇情的だった。髪も下ろしたままなので、完全に女にしか見えない。
 恨めし気に雷羽を見上げると、彼は完全に開き直っていた。

「あのな、女のお前に男物を着付けろなんて、不審な指示が出せるか。お前を着替えさせたのは後宮の女官達なんだぞ」
「それは、そうですけど」

 襦袢が薄過ぎやしないか?
 こんな格好で、雷羽と対峙しているのが、照れ臭い。
 私は落ち着かずに、室内をぐるりと見渡した。
 白一色の壁紙に高い天井には、四象の神獣の絵が精緻な筆遣いで活き活きと描かれている。

「ここは一体?」
「分からぬか? 清閑宮だ」
「清閑宮って、あの?」

 さすがに眠気も吹っ飛んで、目がぱっちり開いた。

「そうだ。最初の皇帝の正后の宮だった」
「なんて、恐れ多い」
「仕方ないだろう。お前は深く寝入っていて。結局、二日間丸々寝ていたんだ。遠くに動かすのは面倒じゃないか」
「二日も、寝てましたか」

 どうりで節々が痛いわけだ。
 悪夢ばかり見ていた気がする。

「小嵐。お前は二日間、何の夢を見ていたんだ?」
「……えっ」
「眠っているお前をずっと眺めていたのだが」
「眺めてたんですか!?」
「ああ、眺めているだけで何も出来なかったがな。お前が泣きながら、寝言を呟くから」

 怒りたいのは私の方なのに、雷羽は忌々しそうに舌打ちをした。

「耳を(そばだ)ててみたら、お前の寝言に出てきたのは、どれも三百年前の尊掌五家の者の名だった。不思議な夢もあるものだと思ったよ」
「主上……」

 雷羽は自分の考えをなぞるように、言った。

「今、お前は清閑宮の名を知りながらも、内部の造りについては知らなかった。宮城の中で、お前が詳細に知っている場所は限られているな?」
「……やはり、調べられたのですね」

 きょろきょろ周囲に気を配っていたら、ぐいっと雷羽に肩を抱き寄せられてしまった。

「安心しろ。今、ここにはお前と二人きりだ」
「そう……ですか」

 むしろ、二人きりの方が危なそうだった。
 艶やかな囁きを耳元で聞くような主従関係は、健全ではない。

「小嵐。お前も知っているだろう。後宮には、皇帝の許可さえあれば、妃の両親は立ち入ることが出来る。だから、歴代の伯家当主も、伯家出身の妃が暮らしている西の宮殿には立ち入ることが出来たはずだ」
「もう、いいです。主上。きっぱり仰って下さい」

 私も尻尾を出し過ぎた。取っ掛かりさえあれば、皇帝の権力を駆使して、伯家の秘密などすぐに調べ上げてしまうだろう。
 雷羽は断言した。

「お前には、伯家当主の記憶があるのだな」
「……はい」

 認めるしかなかった。
 歴代の当主達には申し訳ないが、ここまで見抜かれて、隠し果せる術がない。

「伯家の特殊能力でもあり、弱点でもあります。だから、私は伯家の跡取りでいられたのです。出来ることなら誰にも話したくはありませんでした」
「分かった。では、他言無用にしよう」
「……しかし、利用はするおつもりなのでは?」
「お前の嫌がることはしないつもりだ」

 ――本格的に、利用するつもりではないか?

「それにしても……な。伯家は厭世感が強いから、尊掌五家から降りたのだと、過去の皇帝も分かっていたようだが、それを抱く理由が伯家当主の能力にあったなんて。正直、驚いた。確かに、宮城など通いたくもないだろう」
「三百年前までは、累積の記憶に耐えられましたが、それ以上は限界でした。特に宮城は凄惨な出来事が多すぎますから」
「難儀だな。お前も」
「そうですね。悪夢ばかり見るので、疲れますが、しかし、この能力のおかげで、父母に出会うことが出来たのです。伯家の嫡男として生きることは、喜びでもありました」
「だが、小嵐。お前は弟が生まれて、両親の態度が豹変するのではないかと怖くなったのだろう。だから、今まで病を理由に出仕すらしたことがなかったのに、あの日、瑛泉に会いに来た?」
「すべてお見通しですか?」
「すべてではないがな」

 雷羽が珍しく笑うので、私の罪悪感も和らいだ。
 今まで私の胸の内なんて、誰にも話したことなんてなかったのだ。

「お恥ずかしい話です。私は弟が生まれることを心待ちにしていたのに、いざその時が来ると、不安で怖くて。私は、今も恐れているのです。生まれたばかりの弟に会いたくないくらいに。……最低な人間です」
「そんなことはないだろう。人なんてそんなものだ。簡単に割り切れるものじゃない」
「そうでしょうか?」

 消沈して俯くと、雷羽は荒っぽく、私の頭を撫でた。

「素直にその感情も認めて、飲みこんだら良い。本音を言うと、少しくらい、私にもそういった感情を向けてもらいたいものだ。まったく、面識もなかった妃などのために、池に飛び込むお人好しのくせに。生意気に自虐などしおって」
「あっ!」
「どうした?」

 私はようやく一番大切なことを思い出した。

「そうでした。お妃様や景雲様は、どうされたのです? 主上」
「他人ばかりだな」
「気になるので」
「……ったく」

 私の必死の形相に、雷羽は一瞬天を仰いでから、ぶっきらぼうに答えた。

「妃は大丈夫だ。金家には借りを作ることにしている。妃は毒が抜けきれず、療養するため実家に戻ったということにするつもりだ」
「では、寧和さんは、どうなるのでしょう?」
「侍女が毒を盛った件については表沙汰になってしまったので、うやむやには出来ない」
「しかし……」

 私が食い下がると、雷羽はこの時とばかりに、私の肩を強く抱いた。

「急かすな。話を全部聞け」

 言われずとも、雷羽の手の感触に緊張して、息が続かなくなってしまったので、私は黙り込むしかなかった。

「侍女以外の犯人を作ることにした。妃に毒を盛った犯人は寧和ではなく、龍鳴だ」
「えっ? それでは、景雲様が犯人になるということではないですか」

 唖然となっている私の反応を楽しみながら、雷羽は私の髪を弄んでいる。

「違うぞ。小嵐。『兄上』ではない。『太監』だ」

 ……そうか。
 迷いがない一言に、私はすべてを察した。
 雷羽が大切な兄を悪いようにするはずがない。
 決着の方法は、とっくに頭の中で出来上がっているのだ。

「とりあえず、妃が好みそうな展開にする。私がやれるのはここまでだ」
「もしかして、最初から、そのおつもりで?」

 香安の気持ちを、雷羽は気づいていたのではないか?
 失踪した香安を突き放したのも、景雲の気持ちを知りたくて、鎌をかけたとか?

「……だとしても、分かりづらいです」
「私は他人の恋愛に首を突っ込むのは、嫌いなんだ」

 嫌いではなく、苦手なのだろう。

(……だから、私を巻き込んだ)

 私なら妃の気持ちを慮ることが出来るかも……と。

(この人こそ、回りくどくて、訳が分からない)

 不器用でいつも怒っているようで、何を考えているか、さっぱり分からない。
 けど、私は雷羽が嫌いになれなかった。
 ……むしろ。
 好きな方なのかもしれない。

 ――そのすぐ後。
 文礼殿で待たされ続けていた父と私は再会を果たした。
 父は私のことが心配で、実家からとんぼ返りで、宮城に戻って来ていたらしい。
 私が倒れたことを聞かされていたらしく、大泣きしながら、私に抱き着いてきた。
 雷羽に能力がバレてしまったことを告白したら、仕方ないと笑い飛ばしてくれた。
 母も私の帰りを心待ちにしているのだと、念押されて、私は今まで抱えていたものが、取るに足らない心配だったことに、ようやく気づいたのだった。

◆◇
 主上は私の身体が良くなるまで、清閑宮で休むよう、命じられた。
 有難いお話だった。
 池に落ちたせいで、微熱もあったので、実家に戻るまで、数日間、お世話になろうと、私は素直に喜んだ。
 ……が。
 私の思い描いていた療養生活とは、かけ離れていた。
 三回の食事は食べきれないほど豪華で、御茶菓子は常備。衣裳も煌びやかで上質な女物ばかり。朝、見舞いの生花が山となって届く。
 極めつけは、朝昼晩の三回と、上機嫌で雷羽が見舞いにやって来ることだ。
 実家に戻りたいと願い出ると、香安が宮城にいるまでとか、無視できない話題を提供してくるので、私は六十日もの間、帰るに帰れなくなってしまった。
 でも、こんなことでは駄目だ。
 これでは、まるで……。

「駄目だ。私、人として終わってしまう」
「いっそ、流されてみたら? 面白いかもよ」
「果林」

 その手には乗るものか。
 魔物の囁きは、人を堕落させるものだ。
 妖艶な女性に変化して、着物の試着を繰り返している果林の耳を私は引っ張った。

「貴方は、それが欲しいだけでしょう。返しなさい。買い取るお金はもうないんだから」
「池で駄目にした着物は、不可抗力でしょう」
「主上に借りを作ってどうするの。無料ほど恐ろしいものはないんだよ」
「人間不信が極まっているわね」
「仕方ないでしょう。昨夜の夢の内容を語ってあげようか?」
「やめてちょうだい」

 きっぱり断られて、逆に良かったと私は笑った。
 勿論、順風満帆の人生を送った伯家当主もいるが、大抵は、無念な想いを訴える内容の方が多いのだ。

「でもね、あんた。確かに変態並みにお人好しなんだと思うのよ。関わった人間のことが気になって、帰るに帰れないとか。それを主上に逆手に取られているとか」
「いや、単純に好奇心が悪い方に働いてるだけでね」

 ――景雲と香安の行末を案じていた。
 太監=龍鳴は、妃に毒を盛った罪で処刑されたことになっている。
 これを期に、景雲は雪淵省に一度戻るそうだ。
 雷羽と景雲で相談して決めたことらしいが、私もそれで良かったと思っている。
 香安にバレていたということは、すでに景雲の存在は誰かに知られているということだ。
 追放された地には、景雲の身代わりもいるみたいだし、延々留守にするわけにもいかないだろう。

「でも、香安様のこと、景雲様はどう想っていらしたのか、気になってね」

 結局、香安は景雲に何も言わずに実家に戻ってしまった。
 景雲も普段饒舌のくせに、この件に関しては無言を貫いている。
 詳しく尋ねたいが、それを聞いたところで、私に何が出来るのだろう。

「景雲様も急に言い寄られて、戸惑っているんじゃないの?」
「まあ、それは、そうかもしれないけど」
「また二人で会う機会があったら、その時こそ、ちゃんと向き合えるかもね」
「会えるかな……」
「まあ、あんたが権力を持っちゃえば、手っ取り早く、機会も作れるんだろうけど」
「権力って何?」
「言って良いの?」

 無駄に美しい容姿の果林に凄まれて、私は必死に頭を横に振った。
 聞いたら、終わる。
 そんな気がした。

「私、今日こそは家に帰るから」
「威勢は良いけど、あんたに、主上を説き伏せることが出来るのかしら」

 そうだった。
 それが問題だった。
 何だかんだで、今日も雷羽に煙に撒かれるのではないか?

「でもさ、主上は私をここに留めて、何をさせたいんだろう。利用するにしてもやり方ってものがあるだろうに」
「……莫迦なのか。お前は」
「ひいっ!?」

 私は気配を読むことが、本当に苦手らしい。

(やってしまった)

 恐る恐る振り返ると、雷羽が腕組みをして、私を見下ろしていた。

「小嵐。今日は一段と元気そうだな。せっかくだから、少し顔を貸してもらおうか?」
「いや、主上。今のは、素朴な疑問と申しますか」
「いいから来い」
「いってらっしゃい。まあ、頑張って」

 果林が私を雷羽の方に押しやった。

「な、何を?」

 果林の答えを聞けずに、私は首根っこを掴まれるようにして、雷羽に連れ出されてしまった。
 そうして、引きずられるようにして、たどり着いた先は……。
 先日の騒動の舞台。
 ――神鏡池だった。

(まさか、この池に沈められるんじゃ?)

 恐々としていた私だったが、そんなことはなく、私達は鳥の囀りを聞きながら、先日落ちた記憶が新しい橋の真ん中に至った。

「ここなら、女官の目もないし、まあ遠くに護衛はいるが、私達が何を話しているかまでは分からないはずだ」
「内密の話ですか?」
「そういうところだな」

 微妙に雷雨の顔が強張っているような気がする。
 それに、政務がない時は動きやすい丸襟の袍を愛用しているのに、今日はなぜか赤い裳裾を着ていて、蓮の花を象った大きな帯に、麒麟の綬を身に着けている。ほぼ正装だ。

「何かあったのですか?」
「当ててみたらどうだ」
「……もしや、私にこの池を見せたかったとか?」

 中天に差し掛かった温かな陽射しに、池の水が照り返して、輝いていた。
 朱色が剥げていた欄干は、鮮やかに塗り替えられて、伸び放題だった雑草も刈り取られていた。中州の祠もきちんと整備されている。雷羽の指示だということは、明らかだった。

「主上が綺麗にして下さったのですね」
「まあな。元々、ここは聖なる場だと聞いた。かつて、皇帝はここで四象の神獣に誓いを立てた。大后と婚姻を交わしたのも、ここなのだとか。死人が出たのは、そのずっと後だ。そんな場所を手つかずにしていたら、勿体ないだろう。それに、私も、あの汚い池で二度と泳ぎたくないからな」
「その節は、主上の手まで煩わせてしまい、本当に」
「まったくだ」

 雷羽は忌々げに呟いたが、でも、目は笑っている。単純に、甘えているのだ。

「……だがな、小嵐。いくら補修をしたところで、後宮はどんどん廃れていく。何しろ無人だからな。妃を娶って、金家との関係を深めるつもりでいたが、香安が兄上と結ばれたりでもしたら、玉風は兄上方の勢力になるかもしれない。……となると、他の三家の様子見も長引くだろう。当面、広大なこの場所を管理する者はいないということだ」
「主上。まさか、私にここにいろ……なんて仰らないですよね?」

 怖くなって、私は尋ねた。

「ここは長居する場ではありません。主上とて、私の能力をご存知ではないですか?」
「まあ、分かってはいるが。それだと私が困るのだ。どうしてもお前がここは嫌だと言うのなら、宮城を移動するか。将来的には都ごと移動して、新たに宮城を立てても良い。私の治世が続いたのなら、出来ないこともないだろう」
「なぜ、そんな大事になってしまうのですか?」
「ここまで言っても分からぬか?」

 雷羽が意外なほど目を見開いて、私を凝視していた。

「小嵐。私はお前に傍にいて欲しいのだ」
「はっ?」

 柄にもなく、雷羽の声が小さかったので、上手く聞き取れなかった。
 渋々、一歩前に出たら、案の定、罠で、私は簡単に手を引かれてしまい、雷羽の胸の中にすっぽり収まってしまった。

「お前が欲しいと、言っている」
「何故ですか? 伯家は存在感があるとか、景雲様が仰っていましたが、それでも政治的な力はありません。私は見た目も性格もいまいちですし、もっと他に……」
「他はいらぬ。私はお前だから欲しいのだ。伯家内の問題があるなら解決するし、お前がこの地が駄目だというのなら、他の方法を考える。……だから」

 雷羽の眼差しは、ひたむきで、嘘がない。
 ……だから、私は目を合わせたくないのだ。
 恥ずかしくて、紅潮した顔なんて、見られたくもなかった。

「主上、お待ち下さい。私は」
「実家に帰るは聞き飽きた。まずは私の話を聞いてもらおう。……これを」

 早口でそう言って、ようやく腕の中から私を解放した雷羽は、小さな桐箱を押し付けて来た。
 拒否できず、促されるままに、蓋を開けると……。

「これは……」

 ――黄金の簪だった。
 さすがに、これは家臣や友に渡すものではなかった。

「主上、私は男装を好んでおりますので、このような簪は……」
「そう言うな。貰っておけ。これが出来上がるのに、随分と日数もかかったのだ。髪に挿さずとも良い。いざとなった時には武器にもなる。お前は人の気配に鈍感だからな」
「そうですね。無言で背後に立たれた時に有効かも」

 ――と、話に乗ってどうする。
 間違いなく、最初の犠牲者は雷羽だ。
 混乱の余り、石のように硬直してしまった私に、雷羽は恭しく手を伸ばし、頬を撫でた。
 びくりと私は小動物のように身体を震わせる。
 その様子を確認して、雷羽は静かに目を伏せた。

「案ずるな。無理強いはしない」
「えっ?」
「お前が私を嫌だというなら、それでも構わぬ。ただ、お前を想って……。悪夢を良い方に変えたい。そう思っているのは本当なのだ」
「それは……」
「……主上」

 ――橋の袂から声が掛かった。

「今、行く」 

 雷羽は名残惜しそうに私から離れた。
 時間切れだ。
 上手く隠れるのが仕事の護衛の宦官が、威圧的に叩頭している。

「小嵐。実家に戻るのは構わない。でも、たまには顔を見せて欲しい」
「はい、それは、もちろん。私だって」

 お会いしたいから……と、言えなくて、口ごもった。
 雷羽は真っ直ぐ臣のもとに向かって行く。振り返りもしない。
 心の中が悶々として、吐き気がする。

 ――悪夢を良い方に変えたい。

 そんなこと、今まで私は考えたこともなかった。
 日々、記憶の残骸に翻弄されるだけで、それと向き合う余裕なんてなかったのだ。

「主上は、余程あんたのことが好きなのね」
「果林?」

 黒猫に化けた果林が私の膝下で、長い尻尾をくねらせていた。

「その簪で、数年分の食い扶持が賄えるわよ」
「嘘でしょ」

 急いで簪に目を落としてみると、無数の宝石が垂れ下がっていて、手に持つと、しゃらりと音を立てて揺れた。飾り部分には、本物よりも美しい白い花が可憐に咲いている。
 こんなもの直ぐに作れやしない。よほど職人を急かしたはずだ。
 武器にしろなんて、とんでもなかった。

(酷い人だ)

 好き放題してから、あっさり去っていくなんて。駆け引きのつもりなのか? 

(絶対に乗りたくないけれど)

 ……でも。
 去っていく雷羽の黄袍を、陽光が鮮やかな金色に染め上げている。
 この瞬間に手を伸ばさなければ、雷羽は私の視界から消えて行ってしまうだろう。 
 何度も繰り返し見た「人の一生」。
 逃してしまった一瞬が、二度と巡って来ないことを、私は知っているはずだ。

(自分の未来が悪夢になるなんて、思って生きている人はいなかった)

 過去に生きていた人たちは、その時々を最善と信じて、前に突き進んだ。

 ――前に。
 ――あの人のように。

「ついて来てくれる? 果林」

 私は果林と並んで、雷羽が進んだ道を歩み始めた。
 真っ赤に火照った顔も、高鳴って止まない鼓動も。
 きっと……。

【完】