月に向かって私は「ありがとう、お母さん」と呟いた。

***

 十二月十六日。今日は久しぶりに三歳年上の姉と実家に集まる約束をした日。私は二歳の娘を連れ、車で向かった。

 辺りが薄暗くなってきた頃、実家に着く。

 ドアを開けた瞬間から今住んでいる新築の家とは違った居心地の良さを感じた。

 実家に来たのは一年半ぐらいぶりだろうか。私がまだ幼かった頃に建て、四捨五入すればもう築三十年経つ家。建てた当初は真っ白だった壁の色が所々黄ばんでいる。玄関はほのかにカビの香りも漂っていた。

 リビングに入ると料理の匂いが部屋いっぱいに充満している。そしてこの家にある香り。それらが混ざり、母がこの家にいた頃を鮮明に思い出す。

 着いた時にはすでに姉が作った料理がテーブルに並び始めていた。

 玉子焼き、サバの味噌煮、ポテトサラダ……。

「何か私もやるよ!」

 私は姉にそう言った。

「いいよ、いいよ……。あ、やっぱりやって! 私、遊んでるね! おばさんが抱っこしますよー! おいでー!」

 私の娘を抱っこした姉。
 うちの子は人見知りが激しいのだけど、姉の笑顔につられて一緒に笑っていた。私も自然と笑みがこぼれる。

 キッチンに立ち、まずは料理のレシピをパラパラとめくる。
 なんかもう、めくるだけで泣きそうになる。

「あっ、その鍋の肉じゃが煮たら完成だから、あんまりやることないわ」

 姉がリビングで娘と遊びながら言った。

 私はキッチンで、 “ お母さんが書いてくれたレシピ ”と、“ お姉ちゃんがレシピを読みながら作った肉じゃが ”を、交互に眺めていた。

 ぐつぐつと煮え、肉じゃがは完成した。

 帰りが遅くなる旦那の分の料理を家に持って帰る為、持ってきたお弁当箱におかずをバランスよく詰めこんだ。

 そしてご飯と味噌汁もテーブルに並べて準備を終えた時、ちょうど仕事を終えた私達の父が帰ってきた。

 それぞれが席に着く。
 私と娘が並び、向かいには姉と父。

 玉子焼きを小さくして、好き嫌いが激しい娘に食べさせる。それから他のおかずも。予想外に沢山食べている。

「母さんの料理だな」

 玉子焼きをひとくち頬張る父が呟いた。

「ねっ! お姉ちゃんが作ったけど、味はお母さんが作ったのと同じ!」

 母は、今から約二年前に亡くなった。母が運転していた車がスリップ事故を起こしたのが原因。雪道での交通事故だった。

 私が三十歳の時。ちょうど私の子供が生まれて「孫の成長が楽しみすぎるわ」と孫の存在を心から喜んでくれていた矢先だった。

 母がまだ生きていた頃は、母がすでに自立していた娘達に定期的に連絡をして実家に集まっていた。そして母が作ったご飯を食べるのが日常だった。

「いつもありがとね」と私が言うと「作った料理を『美味しい』って言いながら食べてもらえるのが私の幸せだから」と母は言っていた。
 母がいなくなり、定期的に集まることはなくなった。


 今日、実家に集まる事になったいきさつはこうだ。

 それは、辺りが紅く染まり始めた季節だった。

 母が亡くなってから疎遠になっていた姉から、久しぶりに電話が来た。

 そしていきなり、意味のわからない話をしてきた。

『うちのね、庭のベンチに座って月を眺めていたら、空から落ちてきたの』
「えっ? 何が落ちてきたの?」
『お母さんの料理のレシピ』

「どうして空からお母さんの料理のレシピが落ちてきたの?」

 私は姉に訊ねた。

『わかんない。急に目の前に落ちてきて。なんか月から飛び出てきた感じで、かなり驚いたわ』

 そりゃあ、いきなり目の前にそれが落ちてきたら、驚くだろうなぁ。それが本当ならば。

「それはびっくりだね」

『信じてないでしょ?』

「うん」

『本当なんだから! じゃあさ、その落ちてきたレシピ、写真撮ってLINEに送るから見てみて?』

「うん、わかった」

『じゃあ、電話切るね』

「おっけー」

 久しぶりに話したけれど、相変わらず元気そうだったな。などと考えているとLINEが来た。

 開くと写真と、可愛い猫のイラストがお辞儀をしながら『よろしくお願いします』と言っているスタンプ。

 写真は二枚送られてきた。
 水色の大学ノートの表紙写真と、ノートが開いた写真。

 表紙には「料理レシピ」とシンプルに書かれていて、2枚目は細かすぎて読めなくて、画面を拡大して見てみた。

『玉子焼きの作り方』

 材料や火加減など、作り方がイラスト付きで細かく書いてある。母が書く字には特徴があった。全体が母の性格のようにとても丸みがあり、最後は跳ねなくて良いのに、ぴょんと気まぐれに跳ねたりする。

 これは確かに母の書いたやつ。

 それを見て私は、お母さんが作ってくれた玉子焼きの味、香り、歯ごたえまでを思い出していた。

 母が作る玉子焼きは、お惣菜のとかよりも、甘かった。理由は「もっと甘いのがいいな」って、小さい頃に私が言ったから。

 お母さんが作った料理、食べたいな。って思っていたけれど、もういないから、その願いは決して叶うことがなくて、無理だと思っていた。

 LINEで返事をした。

「嘘かなって思ってごめんね! これは本物だわ。内容も、字も」

『でしょ?ってか、他にも沢山レシピが書いてあってね、ここに書いてある料理、一緒に作らない?』

「いいね! 姉ちゃんの家で作る?」

『ううん。実家で』

 実家では父が一人暮らしをしている。
 父とも最近は全く交流をしていない。

「いいかもね、実家」

『じゃあ、決まりね! お父さんにも連絡しておくわ』

 そうして実家に集まったのだ。

***

 帰る時、空を見上げると月がはっきり見えた。

「お母さん、私達のこと見てそうじゃない? 今日の風景が見たくて、お母さんは料理のレシピを空から落としたのかなぁ?」

「そうだねきっと」

 とても幸せな日でした。
 そして母の料理は、今も大好きです。