和国より海を渡りて陰陽師来たり──。
「陰陽師天御門 星よ。はるばるよく来てくれた。わたしが庸国の皇帝雷烈だ。そなたには後宮に現れる妖を退治してほしい」
「は、はい。精一杯務めさせていただき、ます」
初めての謁見に緊張しながら、星はどうにか挨拶することができた。
「まだ庸国の言葉に慣れておらぬのだな。かまわぬ。面をあげよ」
必死に学んだ庸国の言葉であったが、ぎこちなさが残ってしまうようだ。恥ずかしさで体が熱くなるのを感じながら、星はゆっくりと顔をあげた。
庸国皇帝の姿を見て、『気配を感じた』瞬間。
星は悲鳴を上げそうになってしまった。どうにか耐えることができたが、すぐに手で口を塞がなかったら絶叫していただろう。
若き皇帝が見惚れるほど美しい容姿をしていたからではない。
(この方は、庸国の皇帝陛下は……)
心の声と体の震えまでは抑えられなかった。
(この気配は鬼だ。庸国の皇帝は鬼、なの……?)
皇帝陛下のご尊顔を長く見つめるのは無礼であることも忘れ、星は雷烈から目をそらすことができない。
目を瞬かせる星の様子をじっくりと眺めながら、雷烈は満足そうに微笑えんだ。
「そなたが来るのを待ちわびていたぞ。ようやく会えたな」
若き皇帝の声を聞くと、体が熱を帯びるのを感じる。それだけ力の強い鬼ということなのだろうか。
(たとえ皇帝が鬼であったとしても。『私』は逃げるわけにはいかない。兄の仇を討たなくては)
和国より海を渡ってやってきた小柄な陰陽師。
その正体は、亡き双子の兄の力を受け継いだ少女であった。
***
海に浮かぶ島国である和国には、数々の陰陽師たちが存在している。
陰陽師はそれぞれが得意とする術で流派が分かれており、除霊や祓い術に長けた一族、交霊術に優れた一族、占いを生業とする一族、神寄せをする一族などがある。
天御門家は、優れた封印術を施すことでその名を知られていた。
天御門家当主の家に待望の跡継ぎが生まれたのは、真夜中のことだった。
数日間の難産の末に生まれた子は、男女の双子。双子は天御門家一門にとって不吉の象徴である。
「天御門家に双子はいらぬ。妹のほうを……消せ」
天御門家当主は自らの娘を死なせるという非情な決断をした。
誰ひとり反対できぬ中で、双子を産んだ母だけは夫である当主の足元にすがりついた。
「わたくしはまもなく天に召されます。あなたの妻を哀れと思うならば、どうか娘を生かしてくださいませ」
最後の言葉を遺し、母は静かに息を引き取った。
妻の遺言を無視できなかった天御門家当主は、双子の妹を別宅で秘かに育てることとした。情が移っては困るからか、娘に名前さえつけてやらずに。
一方双子の兄は、「優」という名を与えられ、天御門の跡継ぎとして大切に育てられていった。
***
「星、また夜空を見ているのかい?」
「まぁ、兄様。来てくださったのですか?」
星は夜の空を眺めるのが好きな娘だった。いつも星々ばかり見ているので、兄の優が「星」と呼ぶようになったほど。
「兄様って呼ぶのは止めておくれ。僕と星は双子なんだから。二人きりのときは、名前で呼ぶ約束だろう」
「そうだったわ、優。でもね、時には『兄様』って呼ばせてほしいな」
父と母の愛を知らずに生きてきた星にとって、甘えられるのは双子の兄である優だけだ。優も妹が愛情を欲しがっていることを誰より知っていた。
「いいよ。兄様って呼んでも」
「ありがとう。お空にいらっしゃるお母様に毎日語りかけているのよ」
秘かに育てられた星は、時折訪ねてくる兄の優だけが世界のすべてだった。
双子の兄の優は妹を慈しみ、陰陽師の知識や術を教え、土産として書物や菓子を運んでくれた。
「星は覚えるのが早いなぁ。僕より優秀だよ」
「優が教えるのが上手いのよ」
「おだてても今日の書物はこれだけだぞ」
「わぁ、ありがとう。これって庸国の本?」
「そうだよ。海の向こうにある庸国はとても大きい国だそうだ。いつか行ってみたい。庸国なら、僕も星も気がねなく暮らせると思うし」
「私も行ってみたい……。優と一緒にどこまでも駆け回りたいわ」
いつか海の向こうに行けることを夢見て、優と星は庸国の言葉を学んだ。天御門家の跡継ぎになる優には叶うはずもない夢だったが、庸国に憧れることが兄妹の希望だったのだ。
閉ざされた館の中だけが星の生きる場所だったが、優がいてくれれば生きていける。いつかきっと優と共に庸国へ。
星のささやかな夢と希望は、鬼の襲撃によって壊されてしまう。
天御門家の本宅が鬼に襲われたのである。突然の来襲に、なす術なく当主は殺されてしまった。優はどうにか反撃したものの、正式な跡継ぎになっていなかった優には防御するのが精一杯だった。
「兄様!」
「星? どうしてここへ」
「優が危ないって空の星々が教えてくれたの。優、一緒に逃げましょう」
「だめだ、星。危ないっ!」
強い風にあおられたと思った瞬間。星の前に飛び込んだ優が苦しそうに顔をゆがめ、ごぼりと吐血した。鬼が投げた刀が優の体を貫いてしまった。鬼が妹を狙っていると気づき、咄嗟に星を守ったのだ。
「優っ!!」
たったひとりの兄を助けるために、掟を破って館を飛び出してきたのに、逆に守られてしまうだなんて。
「優、しっかりして!」
かくりと倒れてしまった兄をどうにか助け起こそうとしたが、優の体からは血がとめどなくあふれてくる。動かせばさらに出血してしまうだろう。
「ああ、どうしたら……」
優を助けたいのに、その方法がわからない。涙だけ流れてくる。泣いたってどうにもならないのに。
「星、僕はもうダメだ。君だけでも生きてくれ……」
「いやよ。優が、兄様がいなくなったら私は生きていけない」
「星は強い子だ。兄様はよく知ってる。さぁ、手をだして……」
言われるまま優に手を差し出すと、優は妹の小さな白い手をぎゅっと握りしめた。
「封印術天の印・解」
優の手から星へ、あふれるほどの熱と愛情が力となって流れてくる。体に力がみなぎるのを感じる。
「僕の力を君にあげる。和国以外の国で幸せになれ……」
「いやよ。私と優のふたりで庸国へ行こうって」
「僕はもういけない。僕は空の星となって、母様と一緒に君をまもり……」
星の手を握っていた優の手が、力なくすべり落ちていく。地に落ちた手と、優の体はピクリとも動かなくなった。
「優? ねぇ、返事をして。ねぇってば」
どれだけ体をゆすってみても、兄は微動だにしない。口元に顔を寄せてみたが、吐息も途切れている。息をしない体が何を意味するのか、世間知らずな星でも理解できてしまう。
ただひとり、自分を愛してくれた双子の兄は天に召されてしまったのだと。
「いやよ……。いや~~っっ!!」
たったひとり生き残った星。
半身を失った悲しみと絶望が、星の体を支配していく。
激しい慟哭と共に、自分の力が一気に解放されていくのを感じたが、止めることはできなかった。
その後のことは、星はほとんど覚えていない。
兄の力を受け継ぎ、陰陽師として目覚めた星の力の暴走により、鬼が逃げていったと救助に来た別の陰陽師たちから聞いた。陰陽師たちに追われた鬼は、海を渡っていったらしい。
生きる希望を失い、力なくうずくまっていた星だったが、やがてゆっくりと顔をあげた。
「兄様の仇……できるのは私だけ、だわ」
哀れな少女の悲しき決意だった。
和国では女の陰陽師は跡を継ぐことができないため、どのみち生きる場所はない。ならばわずかな可能性を求めて、庸国へ行こう。兄の仇もおそらく庸国にいる。
ほどなくして、庸国の皇帝が天御門家の陰陽師を求めていると知り、星はその報せに飛びついた。女ひとりが海を渡るのは危険すぎるため、男の姿に、兄の優の姿となって。
「私、今日から男になるわね。天から私を見守っていて、兄様」
兄の仇を討つ。
それがひとりぼっちになった星の、かすかに残った希望であり、生きる意味だった。
***
「天御門 星よ。そなたにはわたしと共に行動してほしい」
「な、なぜでございますか……?」
不敬とわかっていたが、思わず聞き返してしまった。
(皇帝陛下と一緒に行動するなんてとんでもないわ。しかも鬼の気配がする方なのに)
「妖を退治してもらうため、そなたに後宮を調べてもらいたいのだが、後宮は皇帝以外の男は入れぬ場所でな。だが中に入らなくては調査しようもない。ゆえに皇帝であるわたしと共にいる時だけ後宮に入るという形をとってほしいのだ」
数多の妃がいる後宮に入れるのは、妃たちを世話する宮女や宦官だけだ。宦官とは男であることを捨てた者たち。和国出身の星には馴染みがないが、書物の知識で知っていた。
皇帝が招いた星を宦官にするわけにもいかない。妃たちの名節を守るためには仕方ないということなのだろう。
「わかりました。御一緒させていただきます」
(私は男ということになってるものね。しかたないわ)
皇帝陛下のずっと後ろに付き従い、離れた形で共に行動するだけだろう。
できるだけ前向きに考えようとした星だったが、事はそれほど単純な話ではなかった。
「し、寝所も陛下と御一緒なの、ですか?」
皇帝の寝所の片隅に、星のため用意された寝台がちょこんと鎮座している。
よもや寝る場所まで皇帝と共に過ごすことになろうとは。想像もしていない事態だ。
「当然だ。後宮に妖が現れるならば、第一に守らなくてはいけないのは誰だ?」
「庸国を統べる陛下かと思います」
「だろう? だからそなたに守ってほしいのだ。期待しているぞ、天御門星よ」
「は、はい」
言葉巧みに丸め込まれた気がしなくもないが、相手が庸国の皇帝とあっては逆らうのは得策ではない気がした。
皇帝を世話する太監が去ると、星は皇帝雷烈と二人きりとなってしまった。
さすがにこれは気まずい。おそれ多くも皇帝陛下と世間話をするわけにもいかない。
「失礼ではございますが、お妃様のところへはいかれないのですか?」
せめて着替えだけは陛下の目のふれないところですませたい。だから皇帝には妃のところへいってほしい。うまくいけば、寝るのも別にできるはずだ。
「いかぬな」
あっさりと否定されてしまった。
皇帝ともなれば、数多くの妃のところへ通い、子を成すのも大切な務めのはずなのに。
(お妃様のところへいきたくない理由でもあるの?)
なにか訳があったとしても、さすがにそれ以上は聞けなかった。
「なんだ、その顔は? わたしと共に休むことに不都合でもあるのか?」
「い、いえ。とんでもございません」
(着替えは隙をみて手早くすませよう。陛下には朝議があるから、ずっと一緒ではないはず)
心の中で段取りを考えていた時だった。
背後に人の気配を感じた。驚いて振り返ると、端整な顔立ちをした雷烈がそこに立っていた。星をじっと見つめている。
どうかされたのですか? と聞こうとした瞬間。
雷烈は両手をひろげ、星を強引に抱き寄せたのである。
(え……?)
何が起きているのか、星はすぐには理解できなかった。
呆然としている星の首元に顔をうずめ、くんくんと犬のように雷烈は匂いを嗅ぎ始めたのだ。
(もしかして雷烈皇帝って、男が好きなの!?)
考えたくもない事実だが、そうとしか思えなかった。
「お戯れはおやめください。わたくしは男です。その気もございません!」
自分の身を守るためには、雷烈に手を離してもらうしかない。星はあらん限りの力で、じたばたと体を動かした。
すると雷烈は星の首元から顔をあげ、にやりと笑ったのである。
「女の匂いだ。男と偽り入国したか。皇帝をだますとは、いい度胸をしている」
雷烈は気づいてしまったのだ。星が女であることを。
「わ、わたくしは男だと、申し上げております」
(体を見られたわけではないから、まだごまかせる!)
震えた声で、星は必死に自分は男だと告げた。
「オレは鼻が利く。暗殺者どもが女装したり、毒を盛られたりするから、匂いには人一倍敏感になった。そんなオレの鼻をごまかせるとでも? なんならこの場で裸にしてもよいのだぞ?」
衣を剝がされたら、女であることは一目瞭然となってしまう。辱めをうける自分の姿を想像し、カッとなった星は皇帝に向かって叫んでしまった。
「陛下こそ、鬼ではありませんか!」
雷烈の顔から笑みが消えた。冷ややかな眼差しで、星を見下ろしている。
(し、しまった。つい……)
目の前の人が鬼であったとしても、雷烈は皇帝陛下なのだ。逆らえば刑罰は免れない。
「鬼の気配に気づいておったか。嬉しいぞ。ようやくオレのことをわかる者が現れた」
極刑を言い渡されると思ったのに、雷烈は嬉々とした表情をしている。星には意味がわからなかった。
「天御門星よ。オレは鬼ではない。だが鬼の血を引いている」
腕の中から星を解放した雷烈は、ゆっくりと立ち上がりながら言った。
「オレを産んだ母が鬼だったのだ。和国から流れてきた女の鬼であったそうだ。父である前皇帝からそのように聞いた」
「和国から流れた鬼……」
和国の陰陽師に追われ、庸国に逃げのびた鬼が以前にもいたのかもしれない。陰陽師のひとりとして理解できなくはないが、頭の中が混乱していて、思考が追いつかない。
頭を抱える星を見た雷烈は、やれやれといった様子で身をかがめ、星に優しく語りかける。
「天御門家は封印術が優れていると聞く。その力でオレの鬼の力を封じてもらいたいのだ。誰にも知られることなく。そのためにおまえをここに呼んだ。逆らえばどうなるか……わかっているな?」
雷列に鬼の気配がすることを、庸国の者は誰も知らない。知っていたら、鬼の血を引く者が皇帝になれるはずがないのだから。
星と二人きりとなることで、星が女であることを指摘して弱みを掴み、自分の要求に従わせる。逆らえば処刑されても文句はいえない。
「代わりにおまえの正体は誰にも明かさぬと約束しよう。おそらくは何かしらの目的があっての男装だろうから、協力してやってもよいぞ」
交換条件ということだろうか。もはや星には拒否することなどできそうもなかった。
「お、仰せのままに。陛下……」
「オレと二人きりの時は、堅苦しい言葉はなくてよい。これから頼むぞ、星」
満足そうに笑う雷烈を見上げながら、星は今後の未来に不安しか感じられなかった。
***
「私が女だと、いつ気づかれたのですか?」
ようやく気持ちが落ち着き始めた星は、なぜ自分の正体がわかってしまったのか雷烈に聞いてみた。船に乗り込み、和国を出発してからずっと、誰にも女だと気づかれなかったのだ。
「最初の謁見の時だ。かすかだが、女の匂いを感じた。だが違和感もあった。男の匂いも交じっていたからな」
ということは、最初の出会いから星が女であると感じていたことになる。どんな嗅覚をしているのか。まるで獣のようだ。
「男の匂いも交じっているとおっしゃいましたが、それはどういう意味でしょう?」
男の姿をしてはいたし、動きも兄をまねるようにしていたが、さすがに匂いまでは真似できなかったと思う。
「おまえの中に、男の気配を感じるのだ。星に似ているから血縁者だと思うが、違うか?」
驚いたことに雷烈は、双子の兄である優の力が星の中に宿っていることまで感じていたのだ。
「それは私の双子の兄です。兄の優は私を鬼から守り、陰陽師としての力を私に託して亡くなりました……」
「ではその兄の力が、おまえを守っていてくれたのだろう。他の者から見た星が女と気づかれないようにな」
そうかもしれない、と星は思った。
優はいつだって妹の星を守ってくれていた。そして天御門家の陰陽師として優秀だった。優のおかげで、星は誰にも正体を悟られなかったのだろう。
残念ながら、鬼の血を引くという雷烈皇帝にだけは通用しなかったようだが。
「ありがとう、優……」
天に召されても妹を守ってくれる兄の愛を感じ、星は泣いてしまいそうだ。
「男装してまで庸国に来たのは、その兄の死が関連しているということか?」
涙がにじんだ目を拭い、星は慌てて顔をあげた。
「はい。兄の仇である鬼が庸国に逃げていったと聞きましたので」
「兄の仇を討ちたいわけか。よかろう、その仇討ちはオレも協力してやる。その代わり、オレの願いも忘れるな」
優の愛情を感じ、涙ぐんでいた星であったが、雷烈の言葉で現実へと引き戻されてしまった。
(そうだわ。陛下に眠る鬼の力を封印しなくてはいけないのだった)
「お聞きしたいのですが、これまでは鬼の力は発動しなかったのですか?」
「お気楽だった末っ子皇子時代はな。皇帝なんてなるはずもないと、オレも周囲も思っていたから。だが様々な事情が重なり、オレは皇帝となってしまった。その頃からだ。自分の中に鬼の力が眠っていて、皇帝となったことで目覚め始めたのを」
大国を統べる皇帝となったことで自身を奮起させた結果、鬼であった母親から受け継いだ鬼の力が覚醒してしまったのだろう。
星は陰陽師として、そのように判断した。
「おそれながら、陛下の中にいかほどの鬼の力があるのか、視させていただきたいのですが」
「ああ、かまわんぞ」
「失礼いたします」
雷烈にできるだけ近づき、星は両手をかざして目を閉じた。息を整え、全神経を集中する。優に託された知識と術を用いて、目の前にいる皇帝を霊視していく。
(これは……なんて力なの!?)
陰陽師としてはまだ経験が浅い身ではあったが、そんな星でもすぐに感じとれるほど、雷烈に眠る鬼の力は強いものだった。圧倒的な精気と霊力。加えて父が皇帝であったからか、神気さえ感じられる気がした。
必死に霊視しながら、雷烈が放つ霊力に星は引きずりこまれていった。
星の意識の中に、美しい姿をした女人の姿が見えた。その隣には立派な身なりをした男性が連れ添っている。とろけるほど幸せそうに微笑む女人は人間ではない、と星はすぐに察知した。
(ひょっとして、この女性が陛下のお母様? では隣におられる方は)
鬼であったという雷烈の母親は、庸国の前皇帝を誘惑してたぶらかし、関係をもったのではないかと星は思っていた。
だが星の意識の中に見える雷烈の母と父は、このうえないほど幸福な様子だった。たぶらかされた関係とは、とても思えない。
(ひょっとして御二人は純愛だったのかも……)
二人の愛が本物だったのではないかと思った瞬間。星の意識に見える雷烈の母、鬼の女が星に顔を向け、静かに頭を下げたのである。
まるで「わたくしの息子をお願い致します」とでも告げているかのように。
驚いた星は目を開けてしまい、二人の姿は視えなくなってしまった。
「どうした? ずいぶんと驚いた表情をしているが」
星は乱れた息を整えながら、雷烈に視線を向けた。
「霊視の中で、陛下のお父様とお母様のお姿が視えました」
「そこまでわかるのか? たいしたものだな、星の力は」
「視えた」というより、「視させられた」が正解だろう。それほど雷烈の中に眠る鬼の力は強い。
「おそらく陛下のお母様は、かなり力の強い鬼だったのだと思います。そのため和国を追われたのかもしれませんが、恐ろしい方のようには思えませんでした」
鬼というものは人間を獲物としか思っていない、極悪非道な存在だと星は思っていた。兄の優を殺した鬼のように。
しかし極悪ではない鬼もいるのかもしれない。
「そうであろうな。母の正体が妖とわかっていても、深く愛していたと父は話してくれた。名家の出身ではないため、身分は下級の妃のままだったが、母が後宮にいてくれただけでも十分幸せだったとな。すでに母も父もこの世におらぬが、二人は確かに愛し合っていたと思っている」
身分も立場も、種族さえも乗り越えて愛し合った二人から生まれたのが、目の前にいる雷烈皇帝なのだ。圧倒的な精気と霊力を有するのは当然のように思えた。
「それではなぜ、鬼の力を封印したいのですか? 大切に思ってらっしゃるのでしょう? お母様のことを」
鬼の力を封印するのは簡単なことではない。なぜ鬼の力を封じたいのか、理由を聞かなくては星も術を使えないと思った。
「この庸国という国と民の安寧を守るためだ。父である前皇帝に託されたのだ。『庸国を、民を頼む』と。鬼の力でもって民を束ねるのではなく、人として民を幸せにしてやりたいのだ。そのためにはオレの中の鬼の力が、これ以上目覚めるのは困る」
すべては国と民の平和のため。
若き皇帝ではあったが、統治者としての雷烈の覚悟と才覚を感じ、星の体はかすかに震えていた。
(心して臨まなければ、鬼の力を封印できないかもしれない。それでもやる。やってみせるわ)
心を決めた星は、姿勢を正して雷烈を見すえた。
「私がもつ全ての力を用いて、これより陛下に封印術をかけさせていただきます。強いお力を感じますので、陛下自身にも痛みを感じるかもしれません。それでも耐えられますか?」
星の決意を感じたのか、雷烈はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「オレを誰だと思っている。どれほどの痛みであろうと耐えてみせるさ」
「わかりました。それでは始めさせていただきます」
男装の陰陽師である星と、鬼の血を引く皇帝雷烈。
不思議な繋がりではあったが、お互いの目的のため、二人は心をひとつにして挑むこととなった。
***
息を整え、手で印を結ぶと、雷烈に向けて星は封印術をかけ始めた。
「封印術・天の印」
星が呪文を唱えると、『天』の文字が光を放ちながら宙に浮かんだ。
雷烈が少し驚いていると、宙に浮かんだ『天』の文字は雷烈の体に覆いかぶさるように貼りついた。やがて吸い込まれるように消えていったが、すぐに雷烈の体に激しい痛みが走る。
「くぅ……」
かすかなうめき声をあげたものの、雷烈は封印の痛みに必死に耐えていた。
鬼の力の強さを思えば、封印される際の痛みは、床に転げ回って叫びたいほどであるはずだ。だが皇帝である雷烈が叫び声をあげれば、太監や宮女たちが何事かと飛んでくることになる。そうなれば封印術どころではないし、なにより星と雷烈の正体が発覚してしまう。それだけは避けねばならない。どれだけ苦しくても、雷烈には耐えてもらわなくてはならないのだ。
(やはり想像以上に抵抗が強い……! 何度かに分けて封じなければ抑えられそうにない)
苦しいのは雷烈だけではなかった。封印術をほどこす星もまた吹き飛ばされそうなほど強い霊力に耐えながら、懸命に術をかけ続けていた。
星が生まれた天御門家の封印術は特殊な力なのだと、優から聞かされたことがあった。天御門家の封印術を用いれば、どれほど凶悪な妖も化け物も、神でさえも封じることができるのだと。ゆえにその力は跡継ぎのみに伝えられ、秘かに守られてきたのだ。
ところが鬼の襲撃を受けたことで、天御門家の陰陽師は星だけとなってしまった。優から力を受け継いだとはいえ、完全な封印術を星は知らない。
(それでもやるわ。お願い、優。力を貸して!)
懐から白い紙を取りだし、すばやく鳥の形に折ると、雷烈にむけて印を結ぶ。白い紙の鳥は生きたように動き出し、羽ばたきながら雷烈に向かって飛んでいく。
「天の印・封!」
雷烈の体から『天』の文字が再び浮かび上がり、今度は白い紙の鳥に吸い込まれていく。雷烈の鬼の力の一部を吸い取った白い紙の鳥は、寝所の中でしばし飛び回っていたが、やがて霊符となって地に落ちていった。
「少しですが、陛下の中に眠る鬼の力の霊符に写しとることで封じさせていただきました。ですがこれで終わりではなく……」
「わかっている……。何度も封じなくては、オレの中の鬼の力は封じられないということだな……」
全力を出し切った星と、激しい痛みに耐えた雷烈。共に息も絶え絶えといった様子だ。
「これを何度もくり返さなくてはいけませんが、耐えられますか?」
「耐えてみせるさ。どれだけ苦しくともな」
余裕の微笑みを浮かべている雷烈であったが、体中からとめどなく汗が流れている。どれほどの痛みであったか、想像できる気がした。
「汗をかかれたので着替えをしなくてはいけませんね。誰か呼びましょうか」
「必要ない。男の陰陽師と二人きりなのに、汗だくだったら、何をしていたのか疑われるぞ」
「そ、そうですね」
雷烈はふらつきながら立ち上がると、着ていた袍を無造作にはぎ取った。鍛え上げた雷烈の半裸身があらわとなり、汗をかいていることで、なまめかしいほどに艶めいていた。
「着替えと。ん? 星、どうしたのだ。顔が真っ赤になっているが」
「だ、だって。陛下、は、裸に……」
皇子だった頃から多くの宮女や宦官に世話をされていた雷烈と違い、星は人の裸身を見たことがない。兄の優が自分と違う体であることは知識として知っていたが、見たことは一度もないのだ。
「星、ひょっとして男の体を見たことがないのか?」
「な、ないです。すみません、失礼いたします!」
雷烈が男であることはもちろんわかっていたが、これまで意識したことは一度もなかった。皇帝という尊い存在、という認識でしかない。それなのにいきなりたくましい体を見せつけられ、星はすっかり混乱してしまった。
寝所を飛び出ていくつもりが、封印術に全力を使った星の体は思った以上に疲弊していた。駆け出した瞬間、つるりと足を滑らせてしまった。
「きゃっ」
後ろにひっくり返る形となり、頭をぶつけると思った星は頭を抱えるようにして身を縮めた。
ところがいつまで経っても、頭に痛みを感じられない。それどころか大きな何かに体を支えられていた。
「星、大丈夫か?」
気づけば星は、上半身が裸となった雷烈に抱かれていた。転ぶ寸前の星を、雷烈が咄嗟に守ってくれたのだ。
「はい、だいじょうぶ……って、えええっ!?」
裸の雷烈の体が、自分に密着している。そのうえ、雷烈の美しい顔が星をじっと見つめている。心配してくれているのはわかるが、あまりに至近距離だった。汗ばんだ雷烈の体から強烈な男の色香を感じ、星は目まいがしそうだ。
「どうした、星。気分が悪いのか?」
「ら、らいしょうぶです。どうかお放しくだ、しゃい」
庸国の話し方を忘れてしまうほど、星は狼狽していた。顔も体も、湯気がでそうなほど熱くなっているのを感じる。
どうにか手を離してもらいたいのに、なぜか雷烈は星をがっしりと抱いたままだ。
やがて雷烈は星を見つめながら微笑んだ。
「男の姿をしているから、女であることを捨てているかと思ったが、可愛らしい反応をするものだ」
「か、かわいい……?」
一度も言われたことがない言葉だった。恥ずかしさで頭がおかしくなりそうだ。
「どれ」
悪戯心がわいたのか、雷烈は星の顎をくいっともちあげた。
「よく見れば、顔立ちもなかなか愛らしい。男の姿も悪くはないが」
星という少女に興味を抱いたのか、雷烈は星を離してくれそうもない。
封印術で疲れたところに、皇帝からの突然の抱擁。転びそうになった星を救うためとわかっていても、もはや何も考えられなかった。
「星? どうした、星よ」
皇帝陛下の呼びかけを聞きながら、星はかくりと気を失ってしまった。
***
気を失っていた星が目を覚ますと、なぜだか皇帝陛下の寝台に寝かされていた。慌てて体を起こそうとすると、雷烈が制して止めた。
「そのままそこで寝ていろ。封印術を使って疲れていたのに、からかってしまって悪かったな」
半裸身となった雷烈に抱かれたいた自分を思い出し、再び顔が熱くなる。
真っ赤になった星を見て、雷烈は微笑みながら言った。
「兄がいたのなら、幼い頃に兄の裸くらい見たことあるだろう?」
「兄とは共に暮らしていませんでしたから」
「兄妹なのにか? 何やら事情がありそうだな。話してみよ」
身の上話をするつもりはなかったが、皇帝に聞かれたら話さないわけにはいかなかった。
「私は兄とは別の場所で育てられました。双子の女児は不吉だといわれて」
生まれてからのことを、そして庸国に来るまでの事情を、星はぽつりぽつりと話し始めた。要所だけのつもりだったが、雷烈が頷きながらしっかりと話を聞いてくれるので、いつしかほとんどのことを夢中で伝えてしまった。
(ひょっとして私は、誰かに話を聞いてほしかったのかもしれない)
隠されて生きてきた星にとって、家族といえるのは優だけだった。友だちは書物であったが、知識は与えてくれても、話を聞いてくれることはない。陰陽師の修行で忙しかった優にあれこれ聞かせるわけにもいかず、星は心の内にあふれる思いや孤独を誰にも話せなかった。
「辛い思いをしてきたのだな。だがそれでも頑張って生きてきた。だからこそここにいる。星のおかげでオレは鬼の血を受け継ぎながらも皇帝としてやっていけそうだ。ありがとう、礼を言う」
よもやお礼を言われるとは思わなかった。封印術への感謝の言葉であることはわかっていたが、星の過去を全て受け入れたうえで、「生きていてくれてありがとう」と伝えてくれている気がした。
(ありがとう、って言われたの、初めてだわ。不思議な響き)
初めて聞く感謝の言葉に、復讐とは違う、別の希望が心の奥底に芽生え始めるのを感じる。体の内側が、ほんのり温かくなるように思えた。
「星にばかり過去の話をさせるのは対等ではないからな。オレのことも話してやろう」
今度はオレの番とでも言うように、雷烈は自分の過去を話し始めた。
「オレには多くの兄や姉がいた。母の身分は下級の妃だったから、兄たちからは、ずいぶんと虐められたものだ。まぁ、おとなしくやられるオレではないがな」
いたずらっ子のような表情をした雷烈は、楽しそうに話を続ける。
「兄たちに桶で水をかけられれば、お返しに泥水を丁寧に作ってぶっかけてやった。オレを落とすための落とし穴を作っているのを見つけたら、逆にそこに兄を落としてやったな。猫の死骸を宮の前に置かれたら、抱きかかえて兄のところへ行き、『共に埋葬いたしましょう!』と叫んで地の果てまで追いかけてやったわ。最終的には兄が泣いて詫びてくることもあったな」
虐められていたというより、虐め返す日々だ。末っ子の弟にそれほど反撃されたら、兄の面目は丸潰れだったろう。
「兄や姉からは嫌われていたが、オレは兄たちが嫌いではなかったよ。兄の誰かが皇帝となったら、オレは僻地に土地だけもらって、のんびり生きていこうと思っていた。兄の邪魔になりたくなかったからな。だが……」
雷烈の表情から、すっと笑みが消えた。
「兄たちが病や事故で死んでしまったのだ。不幸の連鎖のようだったよ。父は息子たちの悲報に嘆き悲しみ、病で倒れてしまった。亡くなる寸前、最後の息子となったオレに、『庸国と民を守る良き皇帝となれ』と言い遺して天に召された」
雷烈は皇帝になるつもりはなかったのだ。様々な事情が重なり、皇帝に即位することとなってしまった。
「家臣どもが影でオレをなんと噂しているか、知っているか?」
星は静かに首を横に振る。
雷烈は天を仰ぎ、ささやくように告げた。
「帝位に就くために、兄たちを順に殺した極悪非道な鬼皇帝だとさ。オレは企んだことはないし、そんな証拠もないがな」
不幸にも兄たちが亡くなり、末の皇子が皇帝となった。好き勝手に噂話を楽しむには、ちょうどよい設定だったのだろう。
「ひどいです……。陛下はなりたくて皇帝になられたわけではないのに」
星の目から見た雷烈という男は、自らの欲望のために人を、ましてや身内を殺す人間のようには思えなかった。立場や境遇は違えど、雷烈もまた星と同じように兄を大事に思っていたのだから。
「噂話を信じる奴らは、好きに言わせておけばいい。非情な男と思われていたほうが、家臣どもになめられなくてすむしな」
自分のことを悪く言う者たちを責めることなく、むしろ前向きに捉える。雷烈は豪胆無比な男だった。
「そんなわけでオレは皇帝として、この国と民を守っていかねばならない。そのためには鬼の力がこれ以上覚醒されては困る。これからも封印を頼むぞ、星」
「はい、承りました」
(雷烈様のお力に、少しでもなれたら嬉しい)
互いの目的のためとはいえ、星は雷烈という男を支えていける喜びを感じていた。
「今晩はゆっくり休むがいい。明日はオレと共に後宮へ入ってもらうぞ」
「え、後宮に妖が現れるというのは、本当の話だったのですか?」
星を庸国に呼んだ本当の目的は、雷烈に眠る鬼の力の封印であり、後宮内の妖の話は偽りだと思っていたのだ。
「嘘を言ってどうする。後宮内の妃や女官がおそろしい姿をした妖を見た直後に倒れてしまうのだ。オレが鬼の力で探ればいいだろうが、より一層力が強まっても困る。だから星に調べてほしいのだ」
「わかりました。調べさせていただきます」
「あとこれは推測だが、後宮内の妖と星の仇は何か関係があるのかもしれん。時期が重なるのだ。星の兄が殺されたすぐ後に、庸国の後宮で妖が騒がれるようになった。後宮は閉ざされた場所だし、秘密を隠すには適した場所だからな」
「後宮に兄の仇がいるのかもしれないと……?」
「その可能性があるかもしれない、という話だ。決して早まった行動はするなよ。後宮では必ずオレの近くにいろ」
「はい……」
気遣いは嬉しいが、星としては一刻も早く仇を討ちたかった。
「ともあれ、今晩はもう寝よう。オレはおまえの寝台で休むから、星はそこで寝るといい」
「ええっ! いえ、逆がいいです。私は自分の寝台で寝ます、そうさせてください!」
皇帝のために用意された絢爛豪華な寝台で一晩休むなんて、とんでもない話だ。
「そうか? まぁどちらでもかわまん。では交代して休もう」
星が雷烈の寝台から飛び降りると、雷烈はすぐに腰を下ろし、ごろんと横になってしまった。
「では寝る」
と言ったかと思うと、すやすやと眠り始めてしまった。
「寝るの早っ」
思わず呟いてしまった星だったが、すでに雷烈の耳には届いていない様子だった。
「なんだかいろいろありすぎて疲れちゃった。私も早く休ませてもらおう」
安らかな雷烈の寝顔を見ていたら、星にも強烈な睡魔が襲い始めていた。眠気に耐えながら、ふらふらと移動し、ころりと横たわった。
「明日もまたがんばろ……」
優を失ったときは絶望しか残らなかったのに、今は明日への希望を感じ始めている。それがなぜなのかは、今の星にはわからなかった。
***
翌朝目覚めると、何やら大きな温もりに星はすっぽりと包まれていた。
とても心地良く、星は温もりの中でまどろみ、ころりと寝がえりした。
「ん、あったかい……」
庸国の布団はとても質がいいのねと思い、かすかに目を開けた時だった。
目の前に、たくましい男の半裸身がはだけて見えている。ほんのり汗ばんだ裸には見覚えがあった。
「え……」
慌てて目をこすり、おそるおそる確認する。
筋骨隆々な体、美しい顔立ちをした人間が星を抱きしめている。庸国の皇帝、雷烈だった。
「きゃああ!」と叫ぼうとした瞬間、星の口は大きな手で塞がれてしまった。
「騒ぐな。大声だすと、太監たちがすっ飛んでくるだろう」
星が叫び声をだす寸前に、雷烈は星の口をしっかりと抑えた。
「決して叫ばぬと約束するなら、手を離してやろう」
こくこくと頷き、目線だけで星は雷烈に語りかける。
「よし」
雷烈の手が口から離れると、星は声量に注意しながら訴えた。
「なぜ陛下が、私の寝台で寝ているのですかっ」
「どうやら寝ぼけていたらしい。むくりと起きると、あちらにほどよい大きさの抱き枕が見えて、つい」
「つい。じゃありませんよっ。死ぬほど驚いたではありませんか」
「死んでおらんではないか。星は生きているぞ」
「そうですが、そういう意味ではなく」
「そう怒るな。せっかく愛らしい顔をしておるのに」
「愛らしい……」
星の顔がみるみる赤くなっていく。
ほめられることに慣れてない星は、雷烈の言葉にどうしても反応してしまう。
やがて雷烈は楽しそうに笑い始めた。
からかわれていたことに、ようやく気づいた星だった。
「陛下、からかうのはお止めください」
「すまん、素直な反応が楽しくてな。今日は朝議の後に後宮へ行くから、それまでに着替えをすませておけよ。ここの掃除も星が担当するということにしておくから」
星が頬をぷぅっとふくらませていても気にならないのか、雷烈は立ち上がって袍の乱れを直し、寝所を颯爽と出ていった。
「男の身なりをしているのに、愛らしいだなんて。あんまりだわ」
世間知らずな星の反応を見て、雷烈は楽しんでいるだけだとわかっているのに、どうしても顔や体が熱くなってしまう。
「とにかく早く着替えをすませよう。できたら衣も洗っておきたいし」
着替えはもちろんだが、洗濯もできれば誰かに見られたくない。うっかり見られてしまえば、正体が発覚してしまう可能性がある。人がいない時を隙を狙って水を運び、最低限のものだけ手早く洗った。
着替えと洗濯、寝所の掃除をすませた頃、雷烈が朝議を終えて寝所へと戻ってきた。
雷烈の姿を見た瞬間、星は思わず息をのんでしまった。
朝議用の龍袍に玉をちりばめた冠、腰の帯には翡翠の佩玉をつけている。昨夜や今朝の姿とは違い、高貴な威厳を漂わせているのだ。
「天御門星よ。これより後宮へまいる。わたしについてくるがいい」
「は、はい」
呆けた顔をした星に気づいていないのか、それとも後ろに従えた太監や宦官らの目を気にしているのか、雷烈は落ち着いた声で話している。雷烈の装いと振る舞いに圧倒されてしまう。
(鬼の血を引いていようと、私をからかって遊んでいても。雷烈様は庸国の皇帝陛下なのだわ)
本来ならば、言葉を交わすことさえおそれ多い方なのだ。
頭では理解していたはずなのに、雷烈の姿が遠く感じられた。
雷烈の後ろに従う形で後宮へと入った星は、すぐに違和感を覚えた。
(鬼の気配がするように思うけれど、なぜだか感じとれない。これはどういうことなの?)
理由はすぐにわかった。妃たちが住まう宮殿から香の匂いが強烈に漂っているのだ。
おそらくは妖を寄せ付けないよう、魔除けとして焚いているのだろうが、それでもこの匂いは異常に感じられた。
(待って、私でさえこれだけ匂うのなら、鼻が利くと豪語していた陛下は)
そっと皇帝の様子をうかがうと、雷烈は平静を装ってはいるものの、わずかだが顔をしかめているように思えた。香の匂いが苦痛なのだろう。
(だから陛下は後宮へ行きたがらなかったのかもしれない)
妃がいる宮殿に通い、夜を共に過ごそうと思っても、あまりに香の匂いがきついと安らぐことは難しい。昼間は政務で大変なのに、夜まで耐え忍ぶのはさすがの雷烈であっても負担になっているのだ。
「妃たちの様子はどうだ。病床の者が多いのか」
後宮を管理する宦官たちに話を聞きながら後宮内を進んでいると、とある宮殿の前で美しい女性が雷烈を待っていた。
「陛下、栄貴妃がご挨拶申し上げます」
皇帝への挨拶の後に顔をあげた栄貴妃は、花の香りを漂わせる艶やかな美女だった。白い肌と豊満な胸元を見せつけるような装いなのに、優雅な気品を漂わせている。
「陛下、なかなか来てくださらないのですもの。陛下をもてなす準備も万全ですのに」
うるんだ瞳で雷烈を見つめる栄貴妃は、上品な大人の女性の色気を感じさせる。
雷烈はまったく表情を変えてないが、近くにいる宦官たちは頬を赤らめている者までいる。
「すまぬな。政務が忙しい上に、妃たちが次々と病で倒れているので、その対応におわれているのだ」
「病で陛下をもてなせない妃は生家に送り返すか、冷宮に送ってしまえばいいのですわ」
にこやかに微笑みながら、恐ろしいことをさらりと言う女性だと星は思った。
「そうもいくまい。それよりそなたは何の問題もないのか?」
「はい。おかげさまで。いつでも陛下をお待ちいたしております」
「落ち着いたらまた行く」
「陛下ぁ……」
今晩の約束をとりつけられなかったからか、栄貴妃は不機嫌そうに口をとがらせた。拗ねる様子さえ、うっとりするほど美しい。
やがて栄貴妃は、後方にいる星に目をむけた。
「ところで陛下。あそこにいる貧相な男が和国から来た陰陽師とやらですか?」
「そうだ。わたしが招いたのだ」
「男を後宮に入れるのでしたら、宦官にしてしまいませんと。陛下はお優しいから命じられないのですね。わたくしが代わりに言ってやりますわ。あなたたち、そこの陰陽師をさっさと宦官にしておしまい!」
気品ある佇まいで残酷な刑罰を命じた栄貴妃に、星は血の気が引くのを感じた。
前にいた宦官たちが一斉に星の肩を掴みにかかる。男であることを捨てた身とはいえ、力は成人の男性と変わらず、星はあっさりと宦官たちに取り押さえられてしまった。
「やめよっ! ただちにその手を離せ!」
ひと際大きな声で制止したのは、皇帝の雷烈であった。
「陰陽師天御門星は、皇帝であるわたしが和国より呼び寄せた客人であるぞ。にもかかわらず、わたしの命なく勝手に捕らえるとは何事か!」
咆哮かと思うほどの雷烈の怒声に、星を捕らえていた宦官たちは震えあがった。すぐに手を離し、その場で叩頭した。
目の前で怒鳴られた栄貴妃も腰を抜かすほど驚いたようで、力なくしゃがみこんでしまった。
衝撃をうけたのは星も同じで、雷烈の迫力に体が凍りついたように動かなくなった。
雷烈以外、誰もがおそれ慄いている。
「すまぬ。つい大きな声をだしてしまった。少し疲れているようだ。栄貴妃も皆も、戻って休むがいい。天御門星よ。そなたはわたしと共にこちらへ。見てもらいたいものがある」
「は、はい」
雷烈に呼ばれたことで、ようやく体が動くようになった星は後ろに従った。
栄貴妃は女官たちに支えられ、自分の宮殿へと戻っていくのが見える。
(陛下があんなに怒るなんて。本気で怒らせたら、とても怖い方なのかもしれない)
皇帝ではあっても、星の前では柔和で優しかった。怒鳴る姿は見たことがない。
(私のために怒ってくださったんだろうか。だとしたらちょっとだけ嬉しいかも……。あら?)
星の前を闊歩していた雷烈が歩みを止め、苦しそうに息を乱し始めたのだ。
「陛下、どうなさったのですか!?」
慌てて駆け寄ると、雷烈はかなり辛い様子だ。
「大きな声をだすな。鬼の力が暴走しているようだ。後宮に入ると度々おこる……。星、すまぬが鬼の力を封じてくれ。あそこに無人の宮があるからそこへ……つぅ」
「わかりました。すぐに封印術をおかけします。立てますか?」
「ああ……」
ふらつく雷烈の腰を支えるように寄り添い、無人の宮の中へ入っていった。
苦しげな呼吸をくり返す雷烈を横たえ、すぐに封印術の準備を始める。
息の整え、印を結ぶと、呪文を唱える。
「封印術・天の印」
呪文の共に『天』の文字が輝いて宙に浮かび、雷烈へと吸い込まれていく。これで少しは鬼の力を抑えていけるはずだ。
ところが雷烈は胸元を抑えるように苦しみはじめ、うめき声をあげた。これまでとは違う反応だ。
あえぐ雷烈の髪が赤く光り始め、瞳の色も血の色になりつつある。
(鬼化が進んでいる……。鬼の力が封印できてないの?)
「ああっ!」
雷烈は星に救いを求めるように、その手を伸ばした。咄嗟に星は雷烈の手を掴む。
「陛下、お辛いなら封印術は中止しましょうか?」
あまりの苦しみように、星はもはや見ていられなかった。手が震えて、印が結べない。
「かまわぬ。続けよ。これしきの痛み、耐えてみせるといったろう……」
「ですが私では、封印術の使い手として未熟なのかもしれません。もうこれ以上は」
「かまわない。星ならば、オレは何をされてもかまわん。おまえを信じている……」
「私を信じる……? 庸国の皇帝である雷烈様が?」
「星だけなのだ。オレの本当の姿を見せられるのは……だから」
鬼化しそうになっても必死におのれと戦い、苦しみに耐えながら、未熟な星を励ます。
(この方は、なんてすごい方なのだろう。私を信じるといってくれた雷烈様のために……!)
自らを奮い立たせた星は霊符をとりだし、印を結ぶ。霊符を手にしたまま、雷烈の体に直接霊符を貼り付ける。
「天の印・封!」
雷烈の体は異常なほど熱く、星の手も火傷しそうなほどだ。だがどれだけ痛くとも、星は雷烈の体から霊符を離さなかった。
「耐えてください、雷烈様。私が必ず鬼の力を封じてみせます!」
鬼の力を封じたい星と、鬼の力を内側に押し留めたい雷烈。二人の思いがひとつとなり、鬼化という暴走を食い止める。
ほどなくして、雷烈の吐息は少しずつ落ち着き、痛みも消えていったようだ。
「よかった……」
霊符がはらりと地に落ちる。鬼の力の封印に成功したのだ。
(でもこれもまた鬼の力の一部だわ。これからも封印していかないと)
星が霊符を拾い上げ、ほっと息をつく。
「雷烈様、大丈夫ですか?」
雷烈はかすかに笑い、星に向けて手を伸ばす。体を起こしてほしいという意味かと思った星は、雷烈の手を握りしめた。
すると雷烈は星を自分のほうに引き寄せ、抱きしめたのだ。突然のことに、星は雷烈のたくましい胸元に顔をうずめる形となった。
「ら、雷烈様!?」
「ありがとう、星。悪いが、しばしこのままでいてくれ。少しだけ休みたい。おまえがいてくれると、よくねむれる……」
必死に鬼の力と戦い、疲れ果てたのだろう。すやすやと軽やかな寝息をたてながら、雷烈は眠ってしまった。
「雷烈様……」
雷烈に抱かれたまま共に横たわる星。耳をすませば、雷烈の鼓動が伝わってくる。雷烈が確かに生きているのだとわかり、星はたまらなく嬉しかった。
(ああ、私はこの方のことが、雷烈様が好き……)
これまで気づかないふりをしていただけだった。
悲しき過去をもつ星の心を理解し、受けとめてくれたただひとりのお方。
皇帝としての才覚と覚悟をもち、どんな苦しみにも耐え抜く強い人。
(私、これからも雷烈様のそばにいられたら……。でも雷烈様は庸国の皇帝。身分も国も何もかも違いすぎる。それに私には優の仇を討つという目的がある……)
好きな人のそばにいたい。ずっと支えてあげたい。
だがそれは叶わぬ夢のように思えた。
星は雷烈の腕からそっと抜け出ると、整った容姿を見つめた。
「冷やした手巾をもってきますね。汗をかいておられますから」
雷烈に抱かれたままであることが辛くなった星は、声をかけてから水を求めて外に出た。
「えっと、お水はどこにあるのかしら。後宮内を歩き回るわけにもいかないし」
周囲を見渡したが、それらしい水場がわからない。誰かに聞く必要があるのかもしれない。
「水なら、わたくしの宮殿にあってよ」
突如、背後から星に声をかける者がいた。驚いて振り返ると、そこに立っていたのは栄貴妃だった。
つい先程まで人の気配は感じなかったはずなのに。
「あなた、陛下に何をしていたのかしら。一度、事情を聞かなくてはねぇ……? わたくしの宮殿にいらっしゃい。丁重に、もてなしてあげてよ?」
栄貴妃の背後には、屈強な宦官たちの気配を感じる。逃げられるとは思えなかった。
(雷烈様に迷惑はかけたくない。私だけで解決しますので、お待ちくださいね)
雷烈を守りたい。たとえ自分の思いが成就することはなくとも。
「わかりました。御一緒させていただきます」
この日より、和国より来た陰陽師、天御門星は消息を絶った。