清心(せいしん)をここのところの民の関心事である蛙事変の担当者にしたことを、怜倫(れいりん)皇子は後悔していた。
 今年異常発生したお化け蛙は、確かに見た目の仰々しさと後宮から発生したその出身地ぶりで話題をさらったが、そっとしておけば人は襲わないし、作物も食い荒らさない。正直駆除する必要があるのかという意見もあったのだが、蛙が時々吐き出す酸を女性や子どもが被ると危ないということで、各地に駆除隊を派遣しているのだった。
 ところが季節は夏真っ盛り、各地でお祭り騒ぎの最中だった。後宮でも連日宴が催されるときに、庭を見れば奇怪な鳴き声と酸で華麗な宴を台無しにする蛙の大量発生、後宮の姫君方から不満が漏れだした。
 そこで堅物だが女性には気遣いの塊である筆頭侍従、清心が慰問などと言い出したものだから、後宮に潜む清心の後援隊(ふぁんくらぶ)の姫君方がお礼を直々に皇帝陛下にお伝えしてしまって、皇宮側としては引くに引けなくなってしまった。
 朝一番、怜倫皇子は清心にたずねた。
「今日が何の日だったか忘れてないだろうな」
 主君の裾を直しながら、清心は自信に満ちた顔でうなずいた。
「皇弟殿下が民たちにじゃがいもを賜った日です」
「違う。一年前、私と祥姫(しょうひめ)が本来なら婚儀を挙げるはずだった日だ」
「恐れながら、殿下」
 清心は眉を寄せて進言の口調になった。
「じゃがいもが劇的に食料難を変えたのはご存じのとおりで、本日も昼餉にじゃがいもが登場します。話題の一つに上るかもしれませんので、今更ではありますがお伝えを」
「昼餉の内容は承知した。もう一つ訊いていいか」
「はい?」
 怜倫は澄んだ瞳を向ける清心に何か言いかけて、一つため息をついた。
「……いや、やっぱりいい。蛙慰問の手順を説明してくれ」
 彼が昨日のように思わず短気を起こして婚儀を決行するなどめったにない。彼は基本的には気が長いことで有名な皇子だった。
 清心は顔を引き締めて言葉を始める。
「昔からの儀式にならい、西方から後宮をぐるりと回る順序といたしました。明日朝から西周りで後宮の(びょう)を回り、最後に東方の祥姫宮でお休みください。詳細ですが……」
 清心はまず簡潔に要点だけ述べて、そこから細かい内容に入るという模範的な説明を始めた。最後に妹姫の婚儀が控えているわりにあっさりしすぎているのが不自然だっただけで、清心の説明には文句のつけようがなかった。
 蛙慰問の説明が終わると、清心は手早く書類仕事を持ってくる。
「急ぎのものだけ分けましたので、確認をお願いします」
 急に怜倫皇子が蛙慰問を決めたせいで詰まった他の予定を、鮮やかに仕分けてくれるのもいつものことだ。五年間怜倫皇子に仕えてきて、今や皇子の片腕として清心に替えられる侍従はいない。
 妹姫の婚儀を一年も渋ることさえなければ完璧な侍従なんだがな。怜倫が例によってじゃがいもの昼餉を取りながら考えていたときだった。
「ご懐妊婚ってすばらしいじゃないか。父は賛同するぞ」
 父皇帝の無責任な一言に、怜倫はちょっと食事が喉の変なところに入ってむせる。
 思わず清心が聞いていないか辺りを見回してから父をにらむと、父皇帝はのほほんと視線を受け流す。
 皇后は飲みすぎで昨年他界し、皇帝には二人の息子しかいない。そのうち訳あって皇位を継げるのは怜倫皇子だけだったから、臣下たちも早く世継ぎをと求めていた。
「いいじゃないか。お前は昔から、皇子妃に迎えるのは祥姫だけと公言しているだろう」
「……はい。断られ続けていますがね」
「だが一年前に後宮入りは果たした。いつ手をつけたっていい」
 父皇帝はちょっと面白そうに怜倫を見る。
「それとも他に想う姫君がいるのか?」
 怜倫が思い返すのは五年前のことだった。
 真冬、いつも黙々と怜倫の部屋の暖炉に薪木を足していく子どもがいた。小柄でやせていて、少し赤みがかった紅葉色の瞳が不思議だったが、自己主張のほとんどない子どもだった。
 清心というらしい新しい侍従は、放っておけばいつまでも隅で黙っている、地味で大人しすぎる子どもだった。
 怜倫はあるとき意を決して、どこから来たんだと何気なくたずねた。
 そのときの瞬間が、怜倫は忘れられない。
――唐柿(とまと)がいっぱい育つあったかいところです!
 いつも無表情の子どもが突然頬を染めて笑った顔はやけにかわいくて、唐柿みたいな子だった。
 いや、りんごやさくらんぼが可愛いならわかる。でも唐柿みたいなほっぺたがつつきたいくらいに可愛いと思ったのは初めてで、それから食い入るようにその侍従をみつめるようになってしまった。
 それから五年、優秀に育った侍従が何かをしきりに隠しているのは気づいたが、自分だって彼をみつめていることを隠しているのだからおあいこだ。
「そろそろ私も形がほしいと思っていたところなんです」
 蛙慰問の前日、怜倫が物騒な笑い方をしたことを、まだ清心はわかっていないのだった。