気が長いことで有名な怜倫皇子は、ある日臣下たちが集まる会議で唐突に発表した。
「もういい、結婚だ。祥姫を皇子妃とする」
そのときの議題はというと、後宮から発生して各地に広がっているお化け蛙をどうするかで、いつものように筆頭侍従の清心がまずは後宮の姫君方をなだめることでまとまる一歩手前だった。
樫の木で出来た重厚な円卓に集まった重臣たちは、その唐突な発表を皇子のご乱心と考えたわけではなく、いつか言い出すと思っていたそれをついに皇子が言ったかという、なんだかほっとした空気で受け止めた。
「蛙慰問は私が行ってもよろしいということですか?」
ところが大体そういう場で空気をぶち壊す発言をする、かの筆頭侍従の名を祥清心という。
黒髪に紅葉のような赤みがかった不思議な目をした祥清心は、皇家の古い姓を持つのだが、怜倫皇子と祖父がはとこ同士という微妙に圏外な血筋だった。年は十七、小柄で華奢のくせに、その気質は重臣でも崩せないほど堅物だ。子どもの頃から怜倫皇子の側近として働いてきたものだから、通称蛙慰問に赴く気満々で、既にあいさつ文も準備してしまっていた。
怜倫皇子はそんな清心に不機嫌に言い放つ。
「後宮の姫君方をなだめるのは確かに大事だ。ただ私の結婚とどちらが大事かという話をしている」
怜倫皇子は聡明な皇太子として内外に知られ、立ち姿は天人のようだと言われるほど均整の取れた長身を持っていた。
けれど今、その皇子は麗しの瞳を苛立ちでとがらせ、白皙の美貌に亀裂が生じたかというほどの深い眉間のしわを刻んでいた。
清心は進言の口調になって首を横に振る。
「なりません。蛙慰問はもう内部的には決定事項です。後宮を皮切りに各地を巡回すると、既にお触れの準備も進めています」
清心は今年の文官の登用試験でも晴れて首席合格した正統派優等生だが、物事をまっすぐ通そうとするあまりに何かと壁にぶち当たる嫌いがあった。毎度ぶつからなくていい主君相手に正面から体当たりして反撃に遭うのだった。
怜倫皇子は長い足を組んで思案すると、では、と言葉を返した。
「蛙慰問には私も行こう。最終日に祥姫の宮を訪れ、そこで婚儀を挙げる」
書記が皇子の発言を書き込んだのを確認して、怜倫皇子は席を立った。
「妹の婚儀を止められるものならやってみろ、清心」
怜倫皇子は清心を睨みつけて、さっさと会議室を出ていった。
沈黙はそれほど長くなく、残された臣下一同は普段ここまでしない皇子殿下の思いをおもんばかって顔を見合わせた。
「……まあ、蛙のせいでずいぶん婚儀が延期になっておりましたしね」
一同の心の声を代弁して、宰相が言った。
「清心侍従もそろそろ妹離れなさって……清心侍従?」
心を決めると力技をしかける皇子殿下、一方力技の反撃に遭うとすみやかに逃げるのが清心侍従だった。
会議室にすでに清心侍従の姿はなく、臣下たちは嫌な予感がしていた。
「まさか皇子の命令に歯向かおうなどと」
「いやいや」
真面目な清心侍従に限ってそれはないと、臣下たちは悪い想像から目を逸らしつつうなずきあう。
その頃、清心は素早く後宮内の抜け道を走って蔵書室にもぐりこむと、そこで分厚い書物をめくっていた。
「家名を傷つけない程度の軽犯罪なら、服装違反くらいが無難か……」
一人うなずく清心が探しているのは、結婚回避の手段だった。こういう時のために首席合格の力を発揮していくつか候補をみつけたところで大きくため息をつく。
そんな清心に、背中の本棚ごしに声がかけられた。
「姉さま、結婚はそんなに怖いものじゃないだろ?」
清心をそう呼ぶことができるのは、この後宮で彼女の本当の性別を知っているたった一人だけだった。
清心は憮然とした顔でそれに応える。
「……怖いよ、清心」
「どこが? みんなしてることだろ」
姫のふりをして後宮入りしている弟は、さすが達観した調子でさらりと問いかける。
清心は幼い表情で背中ごしの弟にぽつりと言った。
「全部。だって私、まだ恋もよくわからないんだもん」
そんな姉の純粋さが好きで、もどかしくもあった一つ年下の弟は、だからこそ代わりに後宮入りしてほしいという無茶な姉の頼みを受けたのだった。
十二歳から怜倫皇子に侍従として仕えて、十七歳で登用試験にも首席合格した誰もが憧れる仕官なのに、姉は仕事一筋で、お仕えしている怜倫皇子とも長い間個人的な話すらしなかったという。
「確かにまだ早い気もするかな」
ただ弟としては、怜倫皇子が「祥姫」を後宮入りさせるように祥家に命じた本音に、薄々気づいている。
姉は子どものようにつぶやく。
「実家に帰って唐柿を栽培したい」
「そう言いながら今年の夏も帰らなかったじゃないか」
「蛙事変で忙しかったから」
「がんばってね、蛙慰問。まあいよいよとなったら、一緒に実家帰ろ」
こくんと素直にうなずく姉に、本物の清心はやれやれと天井を仰いだのだった。
清心をここのところの民の関心事である蛙事変の担当者にしたことを、怜倫皇子は後悔していた。
今年異常発生したお化け蛙は、確かに見た目の仰々しさと後宮から発生したその出身地ぶりで話題をさらったが、そっとしておけば人は襲わないし、作物も食い荒らさない。正直駆除する必要があるのかという意見もあったのだが、蛙が時々吐き出す酸を女性や子どもが被ると危ないということで、各地に駆除隊を派遣しているのだった。
ところが季節は夏真っ盛り、各地でお祭り騒ぎの最中だった。後宮でも連日宴が催されるときに、庭を見れば奇怪な鳴き声と酸で華麗な宴を台無しにする蛙の大量発生、後宮の姫君方から不満が漏れだした。
そこで堅物だが女性には気遣いの塊である筆頭侍従、清心が慰問などと言い出したものだから、後宮に潜む清心の後援隊の姫君方がお礼を直々に皇帝陛下にお伝えしてしまって、皇宮側としては引くに引けなくなってしまった。
朝一番、怜倫皇子は清心にたずねた。
「今日が何の日だったか忘れてないだろうな」
主君の裾を直しながら、清心は自信に満ちた顔でうなずいた。
「皇弟殿下が民たちにじゃがいもを賜った日です」
「違う。一年前、私と祥姫が本来なら婚儀を挙げるはずだった日だ」
「恐れながら、殿下」
清心は眉を寄せて進言の口調になった。
「じゃがいもが劇的に食料難を変えたのはご存じのとおりで、本日も昼餉にじゃがいもが登場します。話題の一つに上るかもしれませんので、今更ではありますがお伝えを」
「昼餉の内容は承知した。もう一つ訊いていいか」
「はい?」
怜倫は澄んだ瞳を向ける清心に何か言いかけて、一つため息をついた。
「……いや、やっぱりいい。蛙慰問の手順を説明してくれ」
彼が昨日のように思わず短気を起こして婚儀を決行するなどめったにない。彼は基本的には気が長いことで有名な皇子だった。
清心は顔を引き締めて言葉を始める。
「昔からの儀式にならい、西方から後宮をぐるりと回る順序といたしました。明日朝から西周りで後宮の廟を回り、最後に東方の祥姫宮でお休みください。詳細ですが……」
清心はまず簡潔に要点だけ述べて、そこから細かい内容に入るという模範的な説明を始めた。最後に妹姫の婚儀が控えているわりにあっさりしすぎているのが不自然だっただけで、清心の説明には文句のつけようがなかった。
蛙慰問の説明が終わると、清心は手早く書類仕事を持ってくる。
「急ぎのものだけ分けましたので、確認をお願いします」
急に怜倫皇子が蛙慰問を決めたせいで詰まった他の予定を、鮮やかに仕分けてくれるのもいつものことだ。五年間怜倫皇子に仕えてきて、今や皇子の片腕として清心に替えられる侍従はいない。
妹姫の婚儀を一年も渋ることさえなければ完璧な侍従なんだがな。怜倫が例によってじゃがいもの昼餉を取りながら考えていたときだった。
「ご懐妊婚ってすばらしいじゃないか。父は賛同するぞ」
父皇帝の無責任な一言に、怜倫はちょっと食事が喉の変なところに入ってむせる。
思わず清心が聞いていないか辺りを見回してから父をにらむと、父皇帝はのほほんと視線を受け流す。
皇后は飲みすぎで昨年他界し、皇帝には二人の息子しかいない。そのうち訳あって皇位を継げるのは怜倫皇子だけだったから、臣下たちも早く世継ぎをと求めていた。
「いいじゃないか。お前は昔から、皇子妃に迎えるのは祥姫だけと公言しているだろう」
「……はい。断られ続けていますがね」
「だが一年前に後宮入りは果たした。いつ手をつけたっていい」
父皇帝はちょっと面白そうに怜倫を見る。
「それとも他に想う姫君がいるのか?」
怜倫が思い返すのは五年前のことだった。
真冬、いつも黙々と怜倫の部屋の暖炉に薪木を足していく子どもがいた。小柄でやせていて、少し赤みがかった紅葉色の瞳が不思議だったが、自己主張のほとんどない子どもだった。
清心というらしい新しい侍従は、放っておけばいつまでも隅で黙っている、地味で大人しすぎる子どもだった。
怜倫はあるとき意を決して、どこから来たんだと何気なくたずねた。
そのときの瞬間が、怜倫は忘れられない。
――唐柿がいっぱい育つあったかいところです!
いつも無表情の子どもが突然頬を染めて笑った顔はやけにかわいくて、唐柿みたいな子だった。
いや、りんごやさくらんぼが可愛いならわかる。でも唐柿みたいなほっぺたがつつきたいくらいに可愛いと思ったのは初めてで、それから食い入るようにその侍従をみつめるようになってしまった。
それから五年、優秀に育った侍従が何かをしきりに隠しているのは気づいたが、自分だって彼をみつめていることを隠しているのだからおあいこだ。
「そろそろ私も形がほしいと思っていたところなんです」
蛙慰問の前日、怜倫が物騒な笑い方をしたことを、まだ清心はわかっていないのだった。
清心の滞りない手配のおかげで、怜倫皇子は軽やかに片付いた執務状況のもと、蛙慰問を始める手はずとなった。
皇子というのは供たちへの気遣いも当然しなければいけない立場で、もちろん清心だけに気を配るわけにはいかないものだが、特に小柄で華奢な清心をこの真夏に廟巡りさせるのを実は心配していた。
「今年が特に暑いのはわかっているだろう。体調が悪いときはすぐに伝えるように。こっそり休憩していても構わない」
「ご心配なく。私は辺境育ちですので」
清心はそう言うが、彼は怜倫が止めないと直立不動でずっと待機する生真面目な侍従だ。だから当初、怜倫の名代として後宮中を回らせるのは反対したのだった。
一方、怜倫皇子が言いづらそうに暑さのことを告げるたび、考えを巡らせるのは清心の職業病だった。
今日は、口うるさいと思われるのを承知で清心が怜倫皇子に進言するいつもの逆だ。自分の立てた計画に不備があったのではと不安になった。
清心が供たちを見回すと、仕官服である重く厚い衣装をまとっているためか、まだ一刻ほどですでに疲れが見え始めていた。小さな町ほどもある後宮を一日で回るのは、配慮が足らなかったかもしれない。
「申し訳ありません。早急に対応します」
清心が物事をまっすぐ進めるわりに皇宮という複雑な世界でやって来れたのは、方向転換も早いからなのだった。すぐさま手紙をしたためると、伝書鳩に託して北の方角に飛ばす。
「全体的に休憩を増やして、今日の夜は一晩休んでから目的地に向かいますが、よろしいでしょうか?」
「何度も言うが、今夜は祥姫のところで婚儀を挙げる」
「後宮ですから。もう一泊くらいなさいませ」
「いや、私は祥姫以外の側室を迎える予定はないぞ」
「男性の宮でございます」
こういうときに後に引かない清心は、早速供たちの間を回って、一人ずつの顔色を確認しながら言葉をかけた。
「みなさん、強行軍を組んで申し訳ありませんでした。今晩はゆっくりできるように手配しますので、もう少しがんばってくださいね」
「は! ……恐縮です」
少女と見まごうようなころんとした童顔で案外優しい清心に、兵士たちは一瞬嬉しそうな顔をしたが、後ろで怜倫皇子が睨んでいるので慌てて顔を引き締めた。
ひさしのある回廊に入ると、風を感じることができるようになった。怜倫皇子がふと清心を見やると、彼は少し頬を緩めて庭の一角を見ていた。
「清心?」
「すみません。畑を見ると和むんです」
清心は短く答えただけだったが、怜倫は彼がいつも辺境の実家に帰りたがっているのを思い出していた。
清心は日々筆頭侍従の仕事に尽力しているが、その地位で権力を振るうことには執着がない。それと同じで、怜倫に仕えることに手を抜いたことはないが、出世にも執着がないように思う。
「唐柿畑、どうなってるかな」
ぽつりと独り言をこぼした清心は、その言葉に怜倫が焦ったのは気づかず、ゆく手に目を戻した。
それから一刻ごとに水を飲んで休憩し、足も休めながら進んだために行程は遅れたものの、夕刻には一行は無事北の宮に到着した。
怜倫皇子が唐柿畑を横目に入城すると、ひときわ立派な碧玉の扉の前でその宮の主が出迎えて言った。
「殿下、我が宮へよくお越しくださいました」
ここは既に廃嫡になった怜倫の兄、碧成君の宮だった。神職に着いたために皇位からは退いたが多くの妃に囲まれて優雅に暮らしている。黒髪に少し浅黒い肌をした野性味のある青年で、怜倫に挨拶するとすぐに清心に目を移して気さくに笑いかけた。
「清心も、よく来たな。今日は暑かっただろう」
清心はうやうやしく頭を下げて言った。
「突然の来訪を受け入れてくださってありがたく存じます」
「気にするな。……何ならずっといてくれてもいいぞ」
怜倫はその言葉に、清心が初めて都に来た頃は碧成君の宮に寄宿していてずいぶんお世話になったと話していたことを思い出す。
碧成君は朗らかに怜倫に向き直って言った。
「先に湯殿の用意をしております。休憩いただいた後、夕餉をお召し上がりください」
「お気遣いに感謝いたします、兄上」
清心と親しいところは多少面白くないものの、突然の来訪を快く受け入れてくれることには感謝せざるをえなくて、怜倫は素直に礼を述べた。
供たちを連れて宮に立ち入り、怜倫がいつものように清心を振り向いたとき、清心が膝をついていることに気づいた。
怜倫がどうしたと声をかける前に、碧成君がひょいと清心を抱え上げて言った。
「変わらないな、清心。お前は武官じゃないんだ。兵士と同じように炎天下を歩いたらきつくて当然で、別に悪いことじゃないだろう。ちょっと別室で休みな」
「ご迷惑をおかけして……」
「お前の世話を焼くのは嫌いじゃないよ、俺は」
まるで保護者のようにたしなめた碧成君に清心はこくんとうなずいて、その構図に怜倫の心中は荒れた。
主君の立場で言ったとしても清心が同じように安心して自分の腕に身を任せたとは思えなくて、怜倫は碧成君に子どものように抱えられて行く清心を見送るしかできなかった。
暑さの静まる夏の夕べ、碧成君の宮の中にある泉のほとりで皇子一行の歓待の席がもうけられた。
「では、白怜帝国の繁栄と一日も早い蛙事変の終結を祈って。乾杯!」
木々から下げた灯篭が仄明るく辺りを照らす中、碧成君の声と共に立食が始まった。
辺境から取り寄せた鹿肉、樽から直接汲んで飲む麦酒、夏の夕餉は豪快で陽気だ。碧成君が呼んだ楽師も粋に胡弓など弾いたりして、ちょっとした祭りのようなにぎやかさだった。
「兵士さん、果物などいかがです?」
「いえ、お構いなく」
しかし随行の兵士たちは隠れて清心の後援隊に加盟している者も多く、酒席に侍る舞姫や侍女をかわしながら清心を守っていた。兵士たちは清心とその上司である怜倫皇子が無事蛙慰問をこなして帰城するのが目的であって、断じて碧成君が呼んだ辺境の領主たちが清心に寄って来るのが気に入らないからではないと密かに言い交わしていた。
怜倫皇子も久しぶりに会う友人も多いだろうと、清心と辺境領主との会話を大目に見ていた。
「清心」
大目に見るつもりだったが、次から次へと清心に挨拶に来る辺境領主たちを見てついに声を上げた。
「多くないか。どうして辺境領主が今夜ここにこんなに集っている?」
「殿下、恐れながら」
清心はきりっといつもの進言の口調になって言う。
「白怜帝国の帝都は無数の辺境領で他国から守られています」
「それはわかる。そうではなくて、君のところにあいさつに来る辺境領主が多くないかという疑問だ」
そもそも昼頃、清心が伝書鳩を飛ばして急遽滞在が決まっただけのはずが、早馬を飛ばさないと帝都までたどり着けないような辺境領主が集っているのだ。
怜倫の問いかけに清心は少し考えて、ええ、と何気なく答えた。
「辺境に住まう者同士交流がありますから。毎年唐柿を贈り合ったり」
「唐柿など贈ったら誤解するだろう」
「……うちの領地だと唐柿くらいしか贈るものがなくて」
清心が途端にしょげた様子で言うので、怜倫は慌てて言葉をひるがえした。
「いい。唐柿は別にいいんだ。君にも交友関係があるだろう」
ちょっといらついただけで基本的に清心を信頼している怜倫は、話題を変えようと首を横に振る。
そもそも怜倫は清心がこういう遊興の場にいるのを初めて見た気がした。帝都では年頃になったら宴に呼ばれるものだが、早すぎる才覚を発揮して皇宮で働いて来た清心が、装って宴で笑う姿はおおよそ見たことがない。
清心はそのまっすぐな人柄で友人も多いし、後宮の姫君方には後援隊もあるらしいのだが、案外皆が当たり前に経験することは経験していないのかもしれないと、ふと思ったのだった。
怜倫は一息ついて、清心に言葉を投げかける。
「今年の夏はお互い、蛙事変で働き詰めだったからな。落ち着いたら、一緒にお忍びにでも行くか」
「え?」
仕事の延長として緊張をまとって控えていた清心が、ふいに振り向いて子どものように目を丸くした。
「別に辺境でも唐柿畑でもいいが。君だけ連れて行こう」
清心は怜倫をまじまじとみつめて、次第に視線を落として赤くなった。
なぜそこで赤くなると怜倫は笑ったが、清心にしてははっきりとうれしそうだったので、皇子の精神衛生上非常によろしかった。
ちょうど楽師が辺境の歌曲を奏でていて、怜倫はふと清心に笑う。
「一緒に入ってみるか、清心?」
「皇子殿下を辺境の遊びに付き合わせては」
「踊れるんだな。それなら」
くっと清心の手を引いて、怜倫は踊りの輪に加わる。
皇宮の宴のように堅苦しくない辺境の踊りは、別に男も女も関係ない。
怜倫は清心の手を離さないまま、遊興の夜に入っていった。
白怜帝国の夏といえば連日宴、とにかく宴だが、現在の清心と怜倫皇子は公式行事として後宮を巡回中である。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。よく眠れたか」
目的地まで越えるべき山谷は一つもなく、朝食を取って一刻ほどで東の祥姫宮に到着、後は集まった姫君方に蛙慰問をこなして婚儀を挙げるだけだ。
待ちに待った皇子妃との婚儀の前に、こんな事務的な公式行事でどうするのか。怜倫は一瞬清心に文句をつけたくなった。
いや、怜倫を思って最小限の行程を組んでくれた清心を恨むところではない。懐の小さい自分を反省していたところで、怜倫は清心が眉を寄せたことに気づいた。
「どうした」
「その……実家の唐柿畑がお化け蛙に食い荒らされる夢を見ました」
清心は苦笑いして、少しやつれた様子で目を伏せた。
「可笑しいですね。蛙は唐柿を食べません。それにうちの唐柿はもう収穫が終わったと聞きました」
それは清心にしては珍しく気弱な声音で、憂いを帯びた紅葉色の瞳がどこか儚げだった。
言っているのは唐柿のことで、全然儚くない現実的な夢だったが、怜倫にはそれは寝起きゆえに清心が打ち明けた本音にも思えた。
清心は融通が利かなそうに見えて、結局怜倫に従ってしまう。怜倫が清心を蛙事変の担当者にしたのも、夏の間、自分の側を離れて清心に実家に帰ってほしくないからと気づいているのかはわからないが、結局今年も彼は帰らなかったのだ。
自分は侍従という立場を崩さず、清心は怜倫から衣装の一つも受け取ったことがなかった。十二歳から働きづめで、宴にも出かけたためしがない。その彼を確実に喜ばせてやれるのはきっと実家の家族と唐柿畑に違いないのだが、清心のいない毎日を想像するだけで気分が暗くなる自分では、その数日間の許しが出せなかった。
「……悪いな。君には唐柿の栽培よりやってほしい仕事があるものだから」
けれど怜倫は、どうにかして事を前に進めてきた。差し当たって昨日、清心の手を取れたのは密かな喜びだった。
「今夜は祥姫との婚儀だ。それは譲れない」
まだ目に見えない山谷がある気がするが、とにかく蛙慰問のときに祥姫と婚儀を成すのは決まりなのだ。怜倫の両親に至っては婚儀で初対面して仲良く暮らしていたわけで、後宮入りして一年も後に婚儀を成すのは遅すぎるくらいだ。
「今年の夏は、お化け蛙に忙殺させて悪かったな。今夜から私たちは家族も同然だ。……さ、朝餉に行こう」
怜倫は笑って朝食の席に清心を促したが、清心が本当に困っているときは言葉も出なくなることはまだ知らなかった。
白い光が窓から差し込む中、碧成君が手配した食卓にはまだ朝露に濡れている果物が並べられていた。昨日の酒席で疲れた胃をいたわるように、温かなお茶も次々と注がれる。
碧成君は兄の労わりと臣下の礼儀正しさを持ってたずねる。
「殿下、我が宮での一夜はいかがでしたか」
「愉快で快適な一夜でした。心より礼を述べたいと思います」
碧成君と怜倫皇子が談笑するのも、清心は上の空で聞いていた。
頭にのしかかるのは「結婚」、自分には遠いと思って考えたこともなかったその通過儀礼だ。
男の弟を婚儀に臨ませるわけにはいかないのだから、自分が代わるしかない。元々怜倫が後宮に召した「祥姫」は自分なのだから、これは自分が果たすべき義務だ。
清心は現在唯一の女性文官だが、一応試験は女性も受けることができるので、性別を偽って仕官となったのはそれほど責められないだろう。
だが男として仕えていた清心が婚儀の場にいたら、ずっとだましていたと怜倫皇子に嫌われてしまうのでは?
ちらと壁際から怜倫皇子をうかがう。五年間ほとんど昼夜を問わず一緒に過ごした人、清心が生涯を賭してお仕えすると決めた大切なお方。一日の仕事を終えて、一人になったときに思い浮かべると……心の中がもぞもぞとしてくるのは、弟にも伝えたことがないけれど。
「……殿下、お待ちください」
怜倫皇子が食卓の唐柿に手を伸ばした時、清心はとっさに止めていた。
言葉をやめて振り向いた怜倫と碧成君、その前で清心は泣くのをこらえるような声で言っていた。
どうしたと、怜倫皇子が優しい声で問いかけて顔をのぞきこむ。半分仕事の時間で、清心はこんな風に自分のことで頭がいっぱいになっているのが情けなかった。
清心は首を横に振って、仕事をしなさいと自分に言い聞かせる。できるでしょう、五年間そうしてきたのだからと心で繰り返すと、胸に詰まった感情が少し落ち着いた。
ごくりと息を呑んで、清心は言葉を告げる。
「碧成君にも無礼を承知で申し上げます。この唐柿は殿下に差し上げられません」
「まさか」
さっと碧成君が顔色を変えて唐柿の皿を引き寄せる。すぐさま切り分けると、彼は頭を下げて詫びた。
「殿下、私の失態です。これは殿下にお出ししてはいけない食事でした」
「どういうことだ、清心?」
怜倫皇子が毒を疑って席を立ちかけると、清心は進言の口調で言った。
「これは収穫の早すぎる唐柿なのです。酸味と灰汁が強すぎて、弱った胃腸を直撃し、時に腹痛を起こす。それはそれで問題ですが、最大の問題は……」
碧成君と清心は辺境の食事を熟知した者同士目線を交わし合って、力強くうなずきあう。
「……食べたのを後悔するくらいに不味いということです」
怜倫は息をついて席に掛けなおすと、力が抜けたように言った。
「毒ではないんだな。ならいい」
「よくありません。唐柿が不味いなんて許せない」
唐柿の一大産地、祥家の子息として、清心は首を横に振る。
自信を持ってお届けできる美味しい唐柿が、収穫の時期を間違ったがために食卓で嫌われるという悲劇を何度も見てきた。仕方がないのですよ、雨とか暑さとかいろいろありましてねという実家の使用人たちの苦い顔が頭をよぎる。
ある日、待てばいいのにとぼやいた清心に、そういう気の長い人ばかりじゃないんだよと弟が答えた。恋と同じで、つい気持ちが急ぐときもあるんだと、笑って付け加えた。ま、結婚は決断も必要らしいけどね、とも。
結婚……私が? 今更ながらそれは今夜なのだと思って、清心は激しくうろたえていた。
窓の外でけろりと蛙が鳴いている早朝、清心の心はすでに後宮の最奥へ飛んでいた。
後宮に住まう姫たちは必ずしも皇帝の妃だけではなく、皇族の姫や皇族の縁者など多種多様で、家柄も育った地方も違う。
幸い、今の皇帝は朗らかな人柄で、皇族の家族仲もよく、それに影響されてか後宮の姫君方もほどほどの距離感でのんびり暮らしていた。
そんな彼女らの共通の楽しみは、皇家にまつわる恋愛模様もとい妄想である。
「聞いた? 昨夜は怜倫皇子と碧成君、清心侍従がひとつ屋根の下でお休みになったそうよ!」
「そんなっ……清心侍従を巡って三角関係?」
帝都の民は誤解しているが、昨今の後宮の姫君方は寵を巡って夜ごと枕を涙で濡らしているのではなく、噂の美童を巡った妄想に舌鼓を打っている。
「祥姫様はこの関係性、どうお考えかしら?」
「そうね……続刊をお待ちになって?」
「きゃ! よろしいのですの!?」
その中心にいるのは清心とそっくりの容姿、けれど正反対の趣味趣向を持つ祥姫である。
世継ぎである怜倫皇子は祥姫以外の妃をめとらないと公言していて、後宮に彼女と対立する側室もいなかった。それもあってか、祥姫は一種独特な立場で優雅に暮らしていた。
祥姫はそのあでやかなる長い黒髪を垂らし、紅葉色の瞳でおっとりと微笑んでみせる。
「もちろんですわ。蛙のせいで読みあい会も延期になっておりましたもの」
姫君方とて、蛙のせいで庭に出れないのは致し方ない。そうではなく、そろそろ待ちに待った新刊の流通時期なのに、集まって夜通し妄想話ができないのは大変な不満だったのだ。
「祥姫様、いっそ清心侍従に今夜の婚儀をお任せになっては?」
「ふふ……」
扇の下で姫君たちが不吉な妄想を口にしていた頃、皇族の訪れを告げる使者がやって来た。
回廊の向こうにちらと見えた一行、護衛に囲まれたひときわ長身の青年はもちろん怜倫皇子だとわかった。ただ後宮に皇子がいるのは別段普通のことなので、そのことはそんなに気に留めなかった。
しかしその一行の中に、一人だけ様子の違う来訪者がいた。一見すると少女のようで、ひときわ小柄な体に華奢な手足をしていた。少年にしては髪が長いようで、帽子からこぼれた黒髪が見えていた。
近づくとわかる、線の細さと紅葉色の瞳。姫君方にお話できる立場ではないとめったに後宮には入ってこない美童の姿をみとめて、姫君たちは黄色い歓声を上げていた。
「……清心侍従よ!」
姫君たちは一気に色めき立って、ばたばたと支度を整えた。さすがに着替える時間はないとすぐに気づいたが、あたふたと椅子を並べ替えてお迎えの準備をする。
「ああ、鉄板だってわかってるけど、主従っていうのは尊いわね……」
「噂通り祥姫様にそっくりで」
「しっ! こっちにいらっしゃるわ!」
怜倫皇子が後宮の主である皇姉殿下に声をかけると、彼女は訳知り顔で扇を振った。姫君方は合図を受けると、表面上はうやうやしく頭を垂れる。
武官の中から清心侍従が一歩前に出てきた。帽子を外すと、少女のような豊かな黒髪が流れ出た。
清心侍従は腰を折って一礼すると、凛とした声で切り出す。
「私は怜倫殿下の筆頭侍従の祥清心。みなさん、今年は特に暑い中、お化け蛙に悩まされていらっしゃるとお聞きし、ご心労をお察しします」
流れるような言葉と身にまとう気迫はさすがというべきだが、姫君方は退屈していただけでご心労に耐えていたわけではなかった。むしろ美童と評判の清心侍従をこの目に焼き付けて、今後の創作に花を咲かせようと心を熱くしていた。
「今日は、後宮のお化け蛙の視察も行いますが、その前にお渡しするものがあります。……ここへ」
清心侍従が振り向くと、護衛らしい兵士たちが木箱を持って清心の横に立った。清心は木箱のふたを開けて、何かを一つ取り出す。
「急で予算がつかなかったので、私の実家の作物で恐縮ですが、みなさんで召し上がってください」
「これは……!」
姫君たちが息を呑んだ先には、ほのかな少女の赤い頬を思わせる唐柿があった。
唐柿は必ずしも大きくとも美味しいとは限らず、赤く熟したように見えても酸味が強いこともあるが、祥家の唐柿は違う。他の産地の唐柿に比べて小さめで、色も真っ赤ではないが、癖になる甘酸っぱさを持っている。
祥姫果。白怜帝国の者なら誰もが一度は食べたことがある唐柿は、ちょっときつめのところがいいと評判の祥姫の名前で勝手に呼ばれている。
「しばらく唐柿煮込みには困らないくらいは持ってきました」
その唐柿を恥ずかしそうに差し出した清心侍従、その初々しい可愛らしさに姫君たちは震えた。
代表で唐柿を受け取った皇姉殿下はほっこりして言った。
「ありがとう。お母さまの墓前にそなえようかしら」
「恐れながらすぐにお召し上がりください、殿下。血肉になってもらうのが生産者の願いですから」
畏れ多そうに唐柿農家の誇りを口にした清心、そのまっすぐさが尊いと密かに思う姫君たちだった。
お茶を飲み始めた姫君たちは、扇の下で少し目を赤くしながら言った。
「うふふ……。私、今夜は祥姫果を生で食べてしまいますの」
「なんですって!? とんでもない、祥姫果は私のものですわ!」
「あなた、祥姫果の真の甘さを知らないでしょう?」
この暑いのに笑いさざめく姫君たちを、怜倫皇子は若いなと目を細めて見守っていた。
「どうされました?」
唐柿の引継ぎを終えて怜倫皇子の隣に戻ってきた清心は、首を傾げて上司に問いかける。
怜倫皇子はふっと笑って言う。
「大したことじゃない。唐柿の名称をどう変えようか考えていたところだ」
「は……。唐柿は美味しければ名称はいかなるものでもよろしいかと」
真面目に応じてから、清心はふと気になっていたことをたずねた。
「それより、こういった機会こそお気に召した姫を選ばれては……」
姫君たちはそれぞれの立場で後宮入りしているが、次期皇帝の怜倫皇子の世継ぎは重要で、怜倫皇子が望めばいくらでも好きな姫君を夜伽に召すことができる。
姫君はみんなきれいで、自分みたいな小僧とは全然違うもの。なんとなく清心が下を向くと、怜倫はまばたきをして苦笑した。
「今夜、その気遣いは要らないと伝えるよ」
「え?」
清心の瞳が揺れたのを見て取って、怜倫皇子は少し考えたようだった。
「……行こう。君はまだ実際にお化け蛙を見たことはないと言っていたな」
先に歩き出した怜倫皇子に清心は慌ててうなずいて、後に続く。
蛙事変で問題になっているお化け蛙は、一時に大量に発生して畑に襲来し、軍隊のように整然とどこかに去っていくのだという。後宮でもその都度お化け蛙が産みつけていった卵を取り除いてはいるが、見たところ庭にお化け蛙の姿はなかった。
清心は皇子の半歩後ろに控えながら言う。
「お化け蛙には女王蜂ならぬ女王蛙がいるようなのです。それを駆除しない限りは、蛙事変は終息しないでしょう」
清心はこの夏、文官たちと事細かに検討を重ねて、後宮に問題の根源である女王蛙が生息しているという事実までは突き止めた。ただお化け蛙は襲来から撤収までの時間が非常に短く、蛙の捕獲に慣れている兵士たちを投入しても、未だ女王蛙の駆除には至っていなかった。
「女王蛙をおびき寄せる方法さえあれば……」
清心は怜倫皇子の背中に言いかけて、はっと息を呑んだ。
振り向いた柱の陰、何かがこちらを見ていた。犬ほどの大きさがあるのに、巧みに水路の音を利用して足音を隠して、こちらに近づいている。
清心はまるでへびに睨まれた蛙のように動けなかった。「それ」には知性があって、清心の怯えを舌なめずりして食べている気がした。
引きずるような身じろぎは一瞬で、黒い影が清心の視界を覆った。
「皇子、危ない!」
清心は怜倫皇子を突き飛ばしてその場に立ちすくむ。
襲来したものの姿を目で捉える前に、意識を失っていた。