気が長いことで有名な怜倫(れいりん)皇子は、ある日臣下たちが集まる会議で唐突に発表した。
「もういい、結婚だ。祥姫(しょうひめ)を皇子妃とする」
 そのときの議題はというと、後宮から発生して各地に広がっているお化け(がえる)をどうするかで、いつものように筆頭侍従(じじゅう)清心(せいしん)がまずは後宮の姫君方をなだめることでまとまる一歩手前だった。
 樫の木で出来た重厚な円卓に集まった重臣たちは、その唐突な発表を皇子のご乱心と考えたわけではなく、いつか言い出すと思っていたそれをついに皇子が言ったかという、なんだかほっとした空気で受け止めた。
「蛙慰問は私が行ってもよろしいということですか?」
 ところが大体そういう場で空気をぶち壊す発言をする、かの筆頭侍従の名を(しょう)清心という。
 黒髪に紅葉のような赤みがかった不思議な目をした祥清心は、皇家の古い姓を持つのだが、怜倫皇子と祖父がはとこ同士という微妙に圏外な血筋だった。年は十七、小柄で華奢のくせに、その気質は重臣でも崩せないほど堅物だ。子どもの頃から怜倫皇子の側近として働いてきたものだから、通称蛙慰問に赴く気満々で、既にあいさつ文も準備してしまっていた。
 怜倫皇子はそんな清心に不機嫌に言い放つ。
「後宮の姫君方をなだめるのは確かに大事だ。ただ私の結婚とどちらが大事かという話をしている」
 怜倫皇子は聡明な皇太子として内外に知られ、立ち姿は天人のようだと言われるほど均整の取れた長身を持っていた。
 けれど今、その皇子は麗しの瞳を苛立ちでとがらせ、白皙(はくせき)の美貌に亀裂が生じたかというほどの深い眉間のしわを刻んでいた。
 清心は進言の口調になって首を横に振る。
「なりません。蛙慰問はもう内部的には決定事項です。後宮を皮切りに各地を巡回すると、既にお触れの準備も進めています」
 清心は今年の文官の登用試験でも晴れて首席合格した正統派優等生だが、物事をまっすぐ通そうとするあまりに何かと壁にぶち当たる嫌いがあった。毎度ぶつからなくていい主君相手に正面から体当たりして反撃に遭うのだった。
 怜倫皇子は長い足を組んで思案すると、では、と言葉を返した。
「蛙慰問には私も行こう。最終日に祥姫の宮を訪れ、そこで婚儀を挙げる」
 書記が皇子の発言を書き込んだのを確認して、怜倫皇子は席を立った。
「妹の婚儀を止められるものならやってみろ、清心」
 怜倫皇子は清心を睨みつけて、さっさと会議室を出ていった。
 沈黙はそれほど長くなく、残された臣下一同は普段ここまでしない皇子殿下の思いをおもんばかって顔を見合わせた。
「……まあ、蛙のせいでずいぶん婚儀が延期になっておりましたしね」
 一同の心の声を代弁して、宰相が言った。
「清心侍従もそろそろ妹離れなさって……清心侍従?」
 心を決めると力技をしかける皇子殿下、一方力技の反撃に遭うとすみやかに逃げるのが清心侍従だった。
 会議室にすでに清心侍従の姿はなく、臣下たちは嫌な予感がしていた。
「まさか皇子の命令に歯向かおうなどと」
「いやいや」
 真面目な清心侍従に限ってそれはないと、臣下たちは悪い想像から目を逸らしつつうなずきあう。
 その頃、清心は素早く後宮内の抜け道を走って蔵書室にもぐりこむと、そこで分厚い書物をめくっていた。
「家名を傷つけない程度の軽犯罪なら、服装違反くらいが無難か……」
 一人うなずく清心が探しているのは、結婚回避の手段だった。こういう時のために首席合格の力を発揮していくつか候補をみつけたところで大きくため息をつく。
 そんな清心に、背中の本棚ごしに声がかけられた。
「姉さま、結婚はそんなに怖いものじゃないだろ?」
 清心をそう呼ぶことができるのは、この後宮で彼女の本当の性別を知っているたった一人だけだった。
 清心は憮然とした顔でそれに応える。
「……怖いよ、清心」
「どこが? みんなしてることだろ」
 姫のふりをして後宮入りしている弟は、さすが達観した調子でさらりと問いかける。
 清心は幼い表情で背中ごしの弟にぽつりと言った。
「全部。だって私、まだ恋もよくわからないんだもん」
 そんな姉の純粋さが好きで、もどかしくもあった一つ年下の弟は、だからこそ代わりに後宮入りしてほしいという無茶な姉の頼みを受けたのだった。
 十二歳から怜倫皇子に侍従として仕えて、十七歳で登用試験にも首席合格した誰もが憧れる仕官なのに、姉は仕事一筋で、お仕えしている怜倫皇子とも長い間個人的な話すらしなかったという。
「確かにまだ早い気もするかな」
 ただ弟としては、怜倫皇子が「祥姫」を後宮入りさせるように祥家に命じた本音に、薄々気づいている。
 姉は子どものようにつぶやく。
「実家に帰って唐柿(とまと)を栽培したい」
「そう言いながら今年の夏も帰らなかったじゃないか」
「蛙事変で忙しかったから」
「がんばってね、蛙慰問。まあいよいよとなったら、一緒に実家帰ろ」
 こくんと素直にうなずく姉に、本物の清心はやれやれと天井を仰いだのだった。