「……う」

板の間の冷たさが頬を刺激する。
私は皇帝陛下の御前で演奏していたはずだ。
気を失った?
無礼を働いて処罰を受けた?
いや、そもそもあの光は──

ゆっくりと腕をついて上体を起こす。どこにも体の異常はないようだ。
傍らに転がる笛を抱きしめ何があったのかと部屋を見渡して、言葉を失った。

「ひっ」

控えていた官吏が──屈強な武官も度胸の据わった文官も関係なく皆倒れ伏している。
目立った外傷は無い。気を失っているだけなのだろうか。最悪の可能性は考えたくはない。
あの光は、何か悪しきまじないの類だったのだろうか。
そうだ、皇帝陛下は、陛下のご指示を仰がねば。
玉座に視線を向ける。床に珠が散らばっている。これは本来床にあるべきではないものだ。
皇帝陛下の冠──冕冠の宝珠だ。
これが地に有るということは。

「陛下……!」

紗の向こうで皇帝陛下が力無く玉座にくずおれていた。

どうしよう。どうしよう。何が起こったの?
歯の根が合わずかちかちと音を立てる。
我が身を抱きしめずりずりと膝で這って一番近くに伏している武官の肩を揺する。呻きも身動ぎもしない。
誰かを呼ばなくてはならないのに、声が出ない。
助けを求めたいのに、足に力が入らない。

「泣くな、娘」

紗の向こうから声がする。しかしそれは皇帝陛下の穏やかな声色ではない。

「何せ久方ぶりの目覚めだ──涙を拭ってやりたくとも体がすぐには言うことを聞かん」

ゆらりと立ち上がった影が、紗を掻き分けるようにこちらへ一歩ずつ近づいてくる。
うっとおしそうに頭を振って髪を流したそのひとは、沓を脱ぎ捨て素足で板の間を踏みしめ私を見下ろした。

「陛下……?」

違う。皇帝陛下ではない。あの艶やかな黒髪と涼やかなまなざしは見る影もない。
だって、目の前の男性が掻き上げた髪は──まばゆい朝日の煌めきだ。
きりりとつり上がった眉。やはり朝日の輝きを宿した黄金色の瞳。

「当たらずと雖も遠からず」

皇帝陛下の装束を纏った紛うことなき別人だ。いや、人ですらない。これはまさしく──

「我は飛龍(フェイロン)。代々政に加護を与えてやった慈悲深い龍だ」

「ふぇいろん……」

鸚鵡返しに名を呼んだ時、ようやく声が出せるようになっていたと気づく。そして、自分がいかにみっともない格好で彼を直接見て、あまつさえ呼び捨てにしたことにも。

「ッ大変御無礼を致しました!」

慌てて居住まいを正して頭を垂れる。しかし両肩を力強く掴まれて顔を上げさせられた。
衣服の上から食い込む指の力が、経験したことのない圧力で体の奥を圧迫してくる。顔をしかめてしまうと「ああ」と何かに気づいたように手を離された。

「すまん。この男の体に宿ってまだ日も浅い」

元より力加減が得手ではないのだ、とからから笑う屈託のなさはどう見ても陛下には見えなかった。
これが──代々の皇帝に宿り、加護を与えてきた龍。

「我を目覚めさせたこと、礼を言おう。暁の音色の使い手よ」

そして私は──鎮めるべき龍を目覚めさせてしまった大馬鹿者だ。