「姉さん」

明くる出立の日、まだ青ざめた顔の春蕾がよろめきながら駆け寄って来た。
大丈夫よと落ち着かせるより早く抱きつかれて言葉を失う。

「急にごめん。ただ、母様が昔──悪い夢を見た僕にこうしてくれた。そしたら、きちんと眠れたんだ」

頼りなげな吐息と共に背中をぽんぽんと優しく叩かれて、鼻の奥がつんと痛くなる。
浮かびかけた涙は、春蕾の後ろにいた父様を見てなんとか引っ込めることに成功した。

「……ありがとう。悪い夢は貴方と母様が鎮めてくれるのね」
「気休めにしかならないけど……でも、でも」
「大丈夫」

今度はきちんと言えた。体を離して春蕾と目を合わせる。

「言っちゃなんだけど、貴方より気は強いし口も立つの。暴れ龍が目覚めようが口でやりこめて眠ってもらうわ」

そう冗談を飛ばせば春蕾は小さく笑った。
月鈴を失ってから見ていなかった、いつものはにかみだ。

──大丈夫。私はやれる。

春蕾の肩越しに父様に頷く。
いつもは言葉少なな父様が、頑なな口を開いた。

「お前に鎮めの力はない。その上で鎮めの任を果たせなどと愚かな父と思うだろう」
「父様、そんな」
「だが」

遮るように手のひらで制した父様は言葉を続ける。

「お前の才は──、何かを成し得る力だ。儂はそれを信じている」

──だから、自分の心のままに奏でなさい。暁蕾。

穏やかに結ばれた手向けの言葉を胸に、私は皇城へ入ったのであった。