おめでとう。
我が家の誇りだ。
懸命に励み、立派な鎮めの楽士となられよ。

花が舞い乱れ、誰かの口笛が調子っ外れな旋律を奏でている。口々に降り注ぐ祝いの言葉がこそばゆい。
私の可愛い弟、春蕾(チュンレイ)
この子の奏でる音色は、我が国の新たな礎となる。
幼い記憶に眠る母様もきっと喜んでらっしゃる。だってあの父様も顔をくしゃくしゃにして杯を傾けてらっしゃるのだもの。
お役目のため都に上ればしばらく会えなくなるけれど──それでも、大事な大事な弟の栄達を寿ぐ気持ちで満ちていた。

「姉さん、僕、僕──」

祝いの席を抜けた春蕾が、厨房で立ち働く私の元に駆けて来た。成人間際になってやっと背が伸びたとはいえ、視線は簡単に交わせる高さ。男性としては小柄な方だ。

「どうしたの。主役なんだから存分に祝われてきなさいな」

出立してしまえば皆と暫くは会えないのよと窘めれば、春蕾は顔色を曇らせた。
緊張してるんだわ。成人したてなんてやっぱりまだ童。私がそう思いたいだけ? どちらでもいいか。
春蕾は何か言いたそうに唇を開いて、かぶりを振って、それから絞り出すような声で私の名前を呼んだ。

──暁蕾(シャオレイ)

この子が改まって私の名前を呼ぶなんて滅多にない。いつも「姉さん」か「あの」と呼びかけるだけ。
瞬きして手に持っていた皿を卓に置く。
ことりと響いた音を合図に、春蕾はもう一度私の名前を口にした。

「音色は響いてこそ、奏でてこそ、だよね」
「え? ええ……誰も聞いてくれない音なんて寂しいでしょう」

そう答えれば、青ざめていた頬にうっすら赤みが差した。

「……ありがとう。ありがとう、暁蕾」

そう繰り返す春蕾の声音は、芯を持った決意に満ちていた。

宴の席から鈴を転がす声が春蕾を呼ぶ。この子を慕う月鈴(ユーリン)だ。
ひとつ下の可愛らしい幼馴染。
おっとりした彼女の控えめで柔らかな微笑みは、春蕾の内なる男心をくすぐったらしい。
猫の子がじゃれあうように育ったふたりは、いつしか愛おしげに額を合わせてくすくす笑い合うようになっていた。
鎮めの楽士の任を終えたら月鈴のご両親に改めて挨拶に行くと、父様に相談していたのを漏れ聞いたことがある。

そうか、もうそんな年齢なのね。

それに引き換え、と我が身を省みる。残念ながら好い仲と呼べるひとは居らずに年ばかり重ねてしまった。
でも、ここで父様を支えて、たまには誰もいない湖畔で自分だけの曲を奏でていればそれでいい。
誰かと結ばれても、そうでなくても私は私なのだから。

春蕾と違って私の音色には──
皇帝陛下には龍が棲む。

建国の伝説、第一節にはそう記されている。
神代の昔、雷と共に空から降りた一匹の巨大な龍は空を割り、大地を砕き、人を惑わせ世界を混沌に追い込んだ。

それを立ち向かったのは、たったひとりの勇敢な青年だった。

ある時は知恵で、ある時は力で。
辛抱強く龍と対話を重ねた彼に龍が根負けしたのか、はたまた天晴れと認めたのかはさて知らず、龍は暴れ狂うことを止め、青年に力を貸すことにした。

龍をその身に宿した青年は、人でありながらも人あらざる者となり、荒廃しきった国を建て直した。
龍の加護を得た青年は、崩れた大地を潤して花を芽吹かせ、孤独に慄く人々の手を取り絆の輪を結ばせた。
鎮めた龍は青年に寄り添い、その力を惜しみなく与えたようである。
かくして、一度滅びた国に新たな礎が築かれた。

──それが初代皇帝陛下の伝説である。

そこから果てしない年月を経てもなお、始祖の血を継ぐ皇帝には、龍の力が宿るという。
鎮められたとはいえ、やはり元は暴れ龍。
代替わりの度に、次代の皇帝は自分の力を宿すに相応しいかと見定めるかのように、身の内で騒ぎ出すのだ。
それをたしなめ鎮めることが、何よりの正統を示す根拠となる。

そして微力ながら、皇帝陛下の内で暴れる龍を鎮めるお手伝いを担ってきたのが私たち──音で龍を慰める(チン)家である。

「姉さん、僕は大きくなったら鎮めの楽士になるんだろう?」
「そうよ。貴方の奏でた音色を聞いただけで犬も花もすやすや眠ってしまったでしょう?」

幼い頃、同じ問答を繰り返した記憶がある。

鎮めの楽士。

それが沈家の代々担うお役目である。

ある者は歌で。ある者は琵琶で。
力を乗せた旋律は、暴れ龍の渇きを潤し鎮めていく。
春蕾は幼い頃から巧みに横笛を操り、稀代の楽士となる片鱗を見せていた。
彼の笛は心地良い。
鎮めの力云々を除いても、聞いているこちらの心が安らかになる。
まさに名前通り、春霞の中でまどろむ蕾を思わせる。
きっとこの音色を聞けば、暴れ龍とて喉を鳴らして長い眠りに就いてくれるに違いない。
そう確信させるだけの才が、春蕾には備わっていた。

「でも僕は姉さんの音色が好き。しゃっきりするというか……そう、母様に背中を押されてる気持ちになれるよ」

うっとりとしたまなざしで私を見つめていた春蕾のまなこに映るのは、私ではなく母様だろう。

「そう? 私は母様ほど優しくはないけれど──でも背中を叩いて目覚めさせてあげることはできるわよ」

そうおどけて腕を振れば、春蕾は首をすくめて笑って逃げた。
何度私の音色について話を振られても、こうして誤魔化すしかないのが情けなかった。
何せ血を分けた姉弟とはいえ、私の奏でる音色には鎮めの力はないのだから。
賢帝と称えられた先帝の崩御に伴い、即位された新たな皇帝陛下は、皇太子時代から類まれなる知性を発揮されて政務に励んでいらした。
文武両道、詩歌や管弦にも秀でてなおかつ驕らない温和なお人柄。このお方の治世であれば我が国はますます栄えることが約束されているも同然だ。
これに加えて誰もが振り向く美丈夫とまで言われるのだから、前世でも今世でも数え切れぬほどの徳を積まれたお方なのだろう。

だというのに後宮には足を運ばれたことが少ない。いずれ劣らぬ百花繚乱の女の園は、蝶の訪れを今か今かと待ち侘びている。
それだけが臣下の気がかりではあったが、共に国を治める重責に耐えられる女性を見つけ、定めるには時間がかかろう。
なに、まだお若いのだから。臣下の目もそう語っていた。

「皇帝陛下の御為、龍を鎮めて後の世まで語り継がれる治世を育むお手伝いをしてみせる。それが僕の音色が成すべきことだ」

そう、春蕾は目を輝かせて語っていた。
姉としての贔屓目ではあるけれど、弟にも類まれな才がある。
それは見事な旋律を王都に響かせるだろうと──思っていた。
市の立つ日、月鈴が馬に撥ねられその若く瑞々しい生命を散らしたのは、春蕾がお役目につく三日前だった。
彼女が携えていたのは小さな飾り紐。
春蕾の笛に括り、心は傍に居ると伝えたかったのか。
今となっては聞く術も無い。

「月鈴」

家に戻され、清められた亡骸に呼びかける春蕾を扉の向こうから見守っていた。
春蕾の指が月鈴の頬に触れる。
もう冷たく硬くなったそれは二度と笑わない。
春蕾の名前を呼ぶこともない。
頬を染めて、いつか執り行われる華燭の典に胸をときめかせることもない。

崩れ落ちた春蕾は慟哭の後、失神した。

そして目覚めた時には──鎮めの力を失っていた。
強すぎる精神的衝撃が力を一時的に失わせたのか。
いつかまた宿るものなのか。
そうした可能性について、文献を紐解いたり議論する日にちの余裕は無かった。
一両日中に支度をせねば間に合わない。
すっかり弱ってしまい床に伏せた春蕾に粥を運んだ時、枕元に座していた父様は私を見てかすかに顎を引いた。
やはりこの道しかない──言わずとも伝わった父様の覚悟に、喉の奥が震えた。

急いで弟の服の丈を詰め、垂らしていた髪を簪で纏める。
体格に著しい差がないことを喜ぶ間もなく姿見の前に立てば、男のなりをした──否、春蕾に成り代わった私がそこに居た。
屈強さを求められるお役目でなくて本当に良かった。そして自分が豊満な体型でなかったことにも生まれて初めて感謝した。
咳払いをして低い声を出してみる。
そっと姿見に触れて目の前の自分を見つめる。
不安そうなまなざしが見つめ返してきた。それを安心させるように大きく頷いて胸を張る。

「暁蕾姉さん。僕は──春蕾は、鎮めの楽士の任、見事務めてみせよう!」

随分と芝居がかった言い回しだ。だがこれでいいと確信もあった。
私は弟を──春蕾を演じてみせるのだから。
「姉さん」

明くる出立の日、まだ青ざめた顔の春蕾がよろめきながら駆け寄って来た。
大丈夫よと落ち着かせるより早く抱きつかれて言葉を失う。

「急にごめん。ただ、母様が昔──悪い夢を見た僕にこうしてくれた。そしたら、きちんと眠れたんだ」

頼りなげな吐息と共に背中をぽんぽんと優しく叩かれて、鼻の奥がつんと痛くなる。
浮かびかけた涙は、春蕾の後ろにいた父様を見てなんとか引っ込めることに成功した。

「……ありがとう。悪い夢は貴方と母様が鎮めてくれるのね」
「気休めにしかならないけど……でも、でも」
「大丈夫」

今度はきちんと言えた。体を離して春蕾と目を合わせる。

「言っちゃなんだけど、貴方より気は強いし口も立つの。暴れ龍が目覚めようが口でやりこめて眠ってもらうわ」

そう冗談を飛ばせば春蕾は小さく笑った。
月鈴を失ってから見ていなかった、いつものはにかみだ。

──大丈夫。私はやれる。

春蕾の肩越しに父様に頷く。
いつもは言葉少なな父様が、頑なな口を開いた。

「お前に鎮めの力はない。その上で鎮めの任を果たせなどと愚かな父と思うだろう」
「父様、そんな」
「だが」

遮るように手のひらで制した父様は言葉を続ける。

「お前の才は──、何かを成し得る力だ。儂はそれを信じている」

──だから、自分の心のままに奏でなさい。暁蕾。

穏やかに結ばれた手向けの言葉を胸に、私は皇城へ入ったのであった。