◆◇◆◇
小学五年生の時、ニュースで皆既日食が話題になった。
当時皆既日食は実に四十六年ぶりだったそうで日本中の人がベランダや外に出て、その珍しい現象を一目見ようと躍起になった。
僕自身もちょうど理科の時間に日食と月食について勉強していたので、固唾をのんで見守っていた。
その時見えたのが、ダイヤモンドリングという現象だ。
月と太陽が交差する際に、太陽の端が月から若干はみ出ることによって、まるで輝くダイヤモンドが付いた指輪のように見えることからそう名付けられたらしい。
日食はその現象自体がそもそも貴重なのだが、天候によっては簡単に見えなくなってしまう。
いくつもの奇跡が重なり、その現象は目で見ることができるのだ。
もう生きているうちに、あそこまで綺麗な日食は見れないだろう。
今でも鮮明に覚えている。
扉を開けて、僕はそんな幼い頃のことを思い出した。
僕と冬野を太陽と月に例えたのは案外正しかったのかもしれない。
太陽と月も何十年何百年に一度の確率で出会うのだ。
想像もしていなかったけれど、図らずともそれは起きた。
一生交わるはずのない二つの線が交わった瞬間だった。
僕の席の前には僕の文庫本を手にした冬野未羅が月明かりに照らされ立っていた。
なぜこんな時間に?彼女が?僕の机の前に?まずそんなことを疑問に思うのが普通だろう。
でもそれらの疑問が出てきたのは、「綺麗だ」の後だった。
透き通った肌が月明かりを浴びて青白く輝いているその姿は正直綺麗という言葉だけで足りることはなく、厳かな雰囲気すら感じられた。
まるでこの世のものが近づくことを許されていないかのようだった。
二人の目が合っていたのは、ほんの数秒だったのかもしれない。
しかしその数秒は僕からしたら、切り取られた一枚の写真の中に閉じ込められたかのように長く感じられた。
何秒目が合っていたのかはわからないが、このまま目を逸らして何もなかったことにすることが出来ないこの状況を打開しようと先に試みたのは、僕だった。
「あの、それ・・・僕の本、ですよね?」
冬野さんは困惑しているようで、少し考えた後口を開いた。
「あ、はいっ。そうです。
勝手にごめんなさい」
見た目とは裏腹な温かく優しい声がくすぐったい。
「いえ。大丈夫ですけど」
「あの・・・葉山さん、ですよね?
葉山さん、この本好きなんですか?」
「えーと、まだ途中で・・・」
「あ、そっか」
何かはっと改まるようなそぶりを見せ、
「この本面白いですよ。
私が保証します」
と続けた。
微笑みながらそういう彼女に見とれて会話が途切れると、冬野は我に返ったかのように僕から目を背け、月光に照らされたその横顔はどこか切なさを孕んでいた。
なぜこんな時間に教室に残っていたのだろう。
そしてなぜ、一度も話したことのない僕の机の前に立っていたのだろう。
小説が気になったのだろうか。
たしかに自分の好きな小説を読んでいる人を見かけると何とも言えない嬉しさがこみあげてくる。
しかし、コミュニケーション能力に長けている彼女なら昼間に普通に話しかけてくるはずだ。
まさか、壱の言ったことが本当で話しかけてくるのが恥ずかしかったのだろうか。
いや、ないない、あるはずがないだろう。
そんな考えを一瞬でも抱いた自分を殴りたくなった。
結局いくら考えても答えは出てこず、気まずい沈黙が続いたが今度は冬野からその沈黙を破った。
「あ、あの・・・たまたま私も好きな本だったから気になったんです。
気を悪くさせるつもりはなかったんですけど・・・勝手に机から出してごめんなさい。
ほんとにそれだけだから・・・今のは忘れてください」
俯いたまま言った。
本を持つ手に若干力が入っているのが伝わってくる。
人間いくら怪しいと思った相手にでも、急にしおらしい姿を見せつけられると妙な罪悪感が湧いてくる。
しかもその相手が女子なら尚更だ。
気づいたら冬野をフォローしようとしていた。
「い、いえ。
べつに疑ってなんていませんよ。
心配しないで」
自然とため口になる。
「・・・本当に?」
女の子と、というか壱以外の人間とコミュニケーションを取るのが久しぶりな僕は、とにかく問題が生じないように、相手に不快な思いをさせないようにと必死で、彼女の絶妙な上目遣いで繰り出された言葉に首をぶんぶんと縦に振っていた。
我ながら情けないと思う。
しかしその懸命さが伝わったのか
「・・・ありがとう。
まだちゃんと話したことなかったよね」
と軽く微笑んだ。
「うん。そうだね」
少々不愛想すぎる返事になってしまったが、そんな僕の一瞬の後悔をよそに
「葉山君、いっつも一人だもんね。
話しかけないでほしいって葉山君のオーラが言ってるよ?」
と近づいてきて、食い気味に僕の顔を覗き込むようにしていった。
「いや、そんなことはないけど。
本を読むのが好きなだけだよ」
「それは伝わってくる。あ、そーだ。
その本、ほんと面白いから読み終わったら教えてね。
話せてよかった」
冬野はそう言うと僕の返事を待つことなく教室から去っていった。
一瞬だったが嵐のような出来事だった。
心臓が飛びそうなくらいバクンバクンしている。
しかも一方的に話を終わらせ出て行ってしまったため、状況もよく把握できていない。
そもそもなぜ僕の机の前に立っていたのだろう。
彼女が教室を出て行ってから数秒経った。
冷静な心を取り戻すとやはり不可解に思うのはそこだ。
冬野と僕の共通点はほんとにいくら考えても出てこなかったので、推測が立てられない。
もしやと思い彼女が手にしていた文庫本をペラペラめくってみたが、隠されたメッセージ的なものも当然ながら無い。
思い当たるのは壱の言葉だけだ。
それなら、推測が立てられなくはない。
僕の様子を普段からうかがっていたという壱の情報が本当なら、観察の過程で僕が読んでいる本の表紙にでも目が留まったのだろう。
だが、そんな話あり得るのだろうか。
彼女のような華のある人は通常僕みたいな影の薄い人など眼中にないものだろう。
そういう人は、黙っていても他人が寄ってくるものだから自分が周りを動かしている、周りの行動に影響を及ぼしていると無意識に考えている人が多い。
少なくとも、壱以外は経験上みんなそうだった。
一瞬でも目が合えば、「ああ、こんな人種にはなりたくないな」と言わんばかりの憐れみと軽蔑の意が込められた視線が贈られてくる。
いわば、ちょっと性格が悪いステージ上のアイドル気分なわけだ。
その場に存在しているだけでもてはやされ、失敗ですらお茶目な一面として可愛がられる。
下から眺められ、声援を送られることに慣れすぎた彼らは、わざわざ自分から新たに友好関係を築こうなんて思わないのだ。
決め付けは良くないとわかっても、目立たない日影の中でひっそりと生きることに慣れすぎた僕は思考さえもすっかりと影に侵食され、他人が絡むこととなるとすぐにマイナスな方に考えが片寄ってしまう。
我に返り、良くない良くないと首を横に振り、何とか良い方面の可能性も考えてみたが、やはり答えらしいものは一つも出てこなかった。
しかしまあ、ほんの数分前に彼女と会話したのは事実なわけで、その内容は他愛もないものだったが、苦い印象を与えるものでもなかった。
考えることを一度やめ、事実に目を向けると言葉にできない幸福感と優越感がじわじわと込み上げてきた。
おそらくこのクラスで一番冬野から離れた位置にいる僕が彼女と言葉を交わしたのだ。
ひとまず、その事実を嚙み締めようではないか。
心臓の高鳴りが押さえられない。
それは嬉しさとは異なる、初めての感覚だった。
何かが始まる気がした。
あるいはもうとっくに始まっていたのかもしれない。
まるで自分の奥深くに鍵をかけて押し込まれた何かが溢れだそうとしているような、感情とは別の何かがこみあげてくるような、そんな感覚が体を支配していた。
優しい月明かりに包まれた空間に漂う柑橘系の香水の香りで、僕は確かにそこに居た彼女の存在をいつまでも確かめていた。
小学五年生の時、ニュースで皆既日食が話題になった。
当時皆既日食は実に四十六年ぶりだったそうで日本中の人がベランダや外に出て、その珍しい現象を一目見ようと躍起になった。
僕自身もちょうど理科の時間に日食と月食について勉強していたので、固唾をのんで見守っていた。
その時見えたのが、ダイヤモンドリングという現象だ。
月と太陽が交差する際に、太陽の端が月から若干はみ出ることによって、まるで輝くダイヤモンドが付いた指輪のように見えることからそう名付けられたらしい。
日食はその現象自体がそもそも貴重なのだが、天候によっては簡単に見えなくなってしまう。
いくつもの奇跡が重なり、その現象は目で見ることができるのだ。
もう生きているうちに、あそこまで綺麗な日食は見れないだろう。
今でも鮮明に覚えている。
扉を開けて、僕はそんな幼い頃のことを思い出した。
僕と冬野を太陽と月に例えたのは案外正しかったのかもしれない。
太陽と月も何十年何百年に一度の確率で出会うのだ。
想像もしていなかったけれど、図らずともそれは起きた。
一生交わるはずのない二つの線が交わった瞬間だった。
僕の席の前には僕の文庫本を手にした冬野未羅が月明かりに照らされ立っていた。
なぜこんな時間に?彼女が?僕の机の前に?まずそんなことを疑問に思うのが普通だろう。
でもそれらの疑問が出てきたのは、「綺麗だ」の後だった。
透き通った肌が月明かりを浴びて青白く輝いているその姿は正直綺麗という言葉だけで足りることはなく、厳かな雰囲気すら感じられた。
まるでこの世のものが近づくことを許されていないかのようだった。
二人の目が合っていたのは、ほんの数秒だったのかもしれない。
しかしその数秒は僕からしたら、切り取られた一枚の写真の中に閉じ込められたかのように長く感じられた。
何秒目が合っていたのかはわからないが、このまま目を逸らして何もなかったことにすることが出来ないこの状況を打開しようと先に試みたのは、僕だった。
「あの、それ・・・僕の本、ですよね?」
冬野さんは困惑しているようで、少し考えた後口を開いた。
「あ、はいっ。そうです。
勝手にごめんなさい」
見た目とは裏腹な温かく優しい声がくすぐったい。
「いえ。大丈夫ですけど」
「あの・・・葉山さん、ですよね?
葉山さん、この本好きなんですか?」
「えーと、まだ途中で・・・」
「あ、そっか」
何かはっと改まるようなそぶりを見せ、
「この本面白いですよ。
私が保証します」
と続けた。
微笑みながらそういう彼女に見とれて会話が途切れると、冬野は我に返ったかのように僕から目を背け、月光に照らされたその横顔はどこか切なさを孕んでいた。
なぜこんな時間に教室に残っていたのだろう。
そしてなぜ、一度も話したことのない僕の机の前に立っていたのだろう。
小説が気になったのだろうか。
たしかに自分の好きな小説を読んでいる人を見かけると何とも言えない嬉しさがこみあげてくる。
しかし、コミュニケーション能力に長けている彼女なら昼間に普通に話しかけてくるはずだ。
まさか、壱の言ったことが本当で話しかけてくるのが恥ずかしかったのだろうか。
いや、ないない、あるはずがないだろう。
そんな考えを一瞬でも抱いた自分を殴りたくなった。
結局いくら考えても答えは出てこず、気まずい沈黙が続いたが今度は冬野からその沈黙を破った。
「あ、あの・・・たまたま私も好きな本だったから気になったんです。
気を悪くさせるつもりはなかったんですけど・・・勝手に机から出してごめんなさい。
ほんとにそれだけだから・・・今のは忘れてください」
俯いたまま言った。
本を持つ手に若干力が入っているのが伝わってくる。
人間いくら怪しいと思った相手にでも、急にしおらしい姿を見せつけられると妙な罪悪感が湧いてくる。
しかもその相手が女子なら尚更だ。
気づいたら冬野をフォローしようとしていた。
「い、いえ。
べつに疑ってなんていませんよ。
心配しないで」
自然とため口になる。
「・・・本当に?」
女の子と、というか壱以外の人間とコミュニケーションを取るのが久しぶりな僕は、とにかく問題が生じないように、相手に不快な思いをさせないようにと必死で、彼女の絶妙な上目遣いで繰り出された言葉に首をぶんぶんと縦に振っていた。
我ながら情けないと思う。
しかしその懸命さが伝わったのか
「・・・ありがとう。
まだちゃんと話したことなかったよね」
と軽く微笑んだ。
「うん。そうだね」
少々不愛想すぎる返事になってしまったが、そんな僕の一瞬の後悔をよそに
「葉山君、いっつも一人だもんね。
話しかけないでほしいって葉山君のオーラが言ってるよ?」
と近づいてきて、食い気味に僕の顔を覗き込むようにしていった。
「いや、そんなことはないけど。
本を読むのが好きなだけだよ」
「それは伝わってくる。あ、そーだ。
その本、ほんと面白いから読み終わったら教えてね。
話せてよかった」
冬野はそう言うと僕の返事を待つことなく教室から去っていった。
一瞬だったが嵐のような出来事だった。
心臓が飛びそうなくらいバクンバクンしている。
しかも一方的に話を終わらせ出て行ってしまったため、状況もよく把握できていない。
そもそもなぜ僕の机の前に立っていたのだろう。
彼女が教室を出て行ってから数秒経った。
冷静な心を取り戻すとやはり不可解に思うのはそこだ。
冬野と僕の共通点はほんとにいくら考えても出てこなかったので、推測が立てられない。
もしやと思い彼女が手にしていた文庫本をペラペラめくってみたが、隠されたメッセージ的なものも当然ながら無い。
思い当たるのは壱の言葉だけだ。
それなら、推測が立てられなくはない。
僕の様子を普段からうかがっていたという壱の情報が本当なら、観察の過程で僕が読んでいる本の表紙にでも目が留まったのだろう。
だが、そんな話あり得るのだろうか。
彼女のような華のある人は通常僕みたいな影の薄い人など眼中にないものだろう。
そういう人は、黙っていても他人が寄ってくるものだから自分が周りを動かしている、周りの行動に影響を及ぼしていると無意識に考えている人が多い。
少なくとも、壱以外は経験上みんなそうだった。
一瞬でも目が合えば、「ああ、こんな人種にはなりたくないな」と言わんばかりの憐れみと軽蔑の意が込められた視線が贈られてくる。
いわば、ちょっと性格が悪いステージ上のアイドル気分なわけだ。
その場に存在しているだけでもてはやされ、失敗ですらお茶目な一面として可愛がられる。
下から眺められ、声援を送られることに慣れすぎた彼らは、わざわざ自分から新たに友好関係を築こうなんて思わないのだ。
決め付けは良くないとわかっても、目立たない日影の中でひっそりと生きることに慣れすぎた僕は思考さえもすっかりと影に侵食され、他人が絡むこととなるとすぐにマイナスな方に考えが片寄ってしまう。
我に返り、良くない良くないと首を横に振り、何とか良い方面の可能性も考えてみたが、やはり答えらしいものは一つも出てこなかった。
しかしまあ、ほんの数分前に彼女と会話したのは事実なわけで、その内容は他愛もないものだったが、苦い印象を与えるものでもなかった。
考えることを一度やめ、事実に目を向けると言葉にできない幸福感と優越感がじわじわと込み上げてきた。
おそらくこのクラスで一番冬野から離れた位置にいる僕が彼女と言葉を交わしたのだ。
ひとまず、その事実を嚙み締めようではないか。
心臓の高鳴りが押さえられない。
それは嬉しさとは異なる、初めての感覚だった。
何かが始まる気がした。
あるいはもうとっくに始まっていたのかもしれない。
まるで自分の奥深くに鍵をかけて押し込まれた何かが溢れだそうとしているような、感情とは別の何かがこみあげてくるような、そんな感覚が体を支配していた。
優しい月明かりに包まれた空間に漂う柑橘系の香水の香りで、僕は確かにそこに居た彼女の存在をいつまでも確かめていた。