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 次の日、学校が終わると壱には先生に呼び出されたと言って、先に帰らせた。
 これはあの時以来の壱に対する嘘だ。
 壱は少し疑う素振りを見せたが、そのあと納得したような顔をしてあっさりと帰っていった。
 恐らくすでにばれているのだろう。
 壱は勘と洞察力に優れているから、僕の目線やいつもと僅かに違う挙動に気づき、そこから察したのかもしれない。
 なんであれ、気づいたうえであえて触れないでいてくれるよくできた友人を持ったことに僕は感謝しておこう。
 人気がなくなる時間帯まで僕は高校の近くの書店で時間をつぶすことにした。
 学校が終わったのが午後三時過ぎで、日が暮れる六時半ごろまではずいぶんと時間があったが小説を立ち読みしていたらすぐに時間が過ぎてしまった。
 むしろ気が付いた頃には時計の針は六時四十分を回っていたので急いで書店を後にした。
 校舎の入り口にたどり着くと、そこはあの時と同じ雰囲気に包まれていた。
 だが、今回は冬野がそこに居ることが前提だったこともあり、そこまで気にならなかった。
 別にいけないことをしているわけではないのに自然と抜き足になってしまうのは彼女と話すのが後ろめたいと思ってしまっているからだろうか。
 そうやって、また別の機会に先延ばししようと思ってしまっている自分を奮い立たせながらあえて勇み足で教室のある三階まで登った。
 教室はやはり電気がついている。
 ガタッという物音と軽やかな足音が中から聞こえる。
 やはり、冬野がいる。
 そう確信した。
 そして、息を整えゆっくりと教室の入り口をくぐった。
 期待を裏切ることなく彼女はそこに居て、今度は自分の席で本を読んでいた。
 冬野は僕が来たのを確認すると一度動きを止めたが、また本に目を戻し、そのまま口を開いた。
「やっほ。久しぶりだねぇ。
また忘れ物?」
「いや、忘れものじゃない。
冬野さんに用があったから来た」
 そういうと、ページをめくる彼女の手が止まりそのまま動かなくなった。
 本が邪魔をして表情まではわからなかったが、明らかに不自然な沈黙が続いた。
 まずい。
 単刀直入すぎた。
 こっちからしたらずっと冬野と接触する機会をうかがっていたわけだが、彼女からしたらこの返答は気持ち悪いと感じざるを得ないだろう。
 綿密な計画を立てて二人きりになる機会をうかがっていたんです僕は、と言っているようなものだ。
 自分の不器用さを憎んだ。
 普段人と話さないでいるといざというときに自然な距離の詰め方がわからなくなる。
 しかし一度そう言ってしまったからには、もう相手の返答を待つしかない。
 僕は次の彼女の言葉を祈るような気持ちで待った。
 数秒の沈黙の後、彼女はまるで僕から顔を隠すように本を観ながら口を開いた。
「そっか。
もしかしてあの小説のこと?」
「そう。面白かったよ」
「それだけのために来てくれたの?」
 彼女は未だに目を合わせようとしない。
「まあ、そうなるね」
「へぇ。以外だなぁ。
もう忘れられてるかと思ってたよ」
「それはこっちも同じことを思ってた。
冬野さん、絶えずにいろんな人と話してるから、もしかしたら僕との会話忘れてるかと思ってたよ。
だから、今日ここに来るのも若干不安だったんだけどね」
「あははっ、・・・・・・ないよ」
 その3文字を聞いた途端意識が遠のくような感じがして手足の力が抜けていくのが分かった。
 何が“ない”のだろうか。
 この状況だと僕にとってあまりいい意味を持たないだろう。
 冬野は、ずっと本で顔を覆ったままだ。
 あまりにも不自然で、不安に飲まれ気づいた頃には意に反して勝手に口が走っていた。
「あ、あの、もしかして迷惑だった?
ごめん。
あまり人と話さないからちょっとした約束とかでも気になっちゃって、わざわざ人がいない時間帯狙ってまでまたここに来ちゃって。
冗談だったよね、多分。
ほんと気にしないで。ごめんね?」
 そう言い残して、僕は早々と立ち去ろうとしていた。
 彼女の次の言葉を聞くのが怖かった。 
 完全に失敗した。
 もっと自然な接触方法があったはずだ。
 可能性はあったはずなのに、普段の自分の行いがあだとなり、そこまで難しくないところでつまずいてしまったのだ。
 こんなに自己嫌悪に陥ったのは初めてかもしれない。
 恥ずかしくて死にそうだった。
 綺麗な子とちょっと会話をしたからというだけで浮かれて、わざわざ人のいないタイミングを狙って話すためだけにストーカーじみたことまでして、最終的には拒絶されるのが怖くて逃げようとしている。
 情けない、というほかない。
 そんなナイーブになっている僕の心をつなぎとめたのは彼女の一言だった。
「待って!冗談なんかじゃない!」
 急に大声で放たれたその一言に驚き冬野の方に振り替えると、彼女の目は潤んでいて表情は優しさに満ちていた。
「あれは、冗談なんかじゃないよ?
これでも一応いつ話しかけてきてくれるのかって待ってたんだから。
葉山君ってば学校だと本を読んでるだけだし、あの次の日も全くいつもと変わらなかったから私も不安だったんだ。
こっちから話しかけて拒絶されたらどうしようって・・・」
 予想外の答えだった。
 そんな風には全く見えなかったし、なにより自分と全く同じ考えだったことが一番信じられなかった。
 そして、そのことを知るや否やもどかしい気持ちから解放されたことによる安堵の念で心に余裕が生まれ、緊張していたことや、わざわざ計画立てて冬野に会おうとしていたことがなんだか急に馬鹿らしく思えてきた。
「あははっ・・・なんだ、そうだったんだ。
同じだったってことか。 
口に出してみないとわからないことって意外と多いんだな」
「うん、まったくだよ。
紛らわしい反応してごめんね?」
「いや、こちらこそわざわざ言わせちゃってごめん」
 ここで冬野は一息つくと空気を切り替えるように笑顔になり、こう続けた。
「さあっ、それで?
話に来てくれたってことは読んだってことだよね?あの本読んでどう思った?」
 冬野は拒絶なんかしなかった。
 それどころか冬野自身の本心まで良く知りもしない僕にさらけ出してくれた。
 なぜそこまで必死に肯定してくれたのかは疑問に思ったが、今そこは重要ではなかった。
 冬野は、他の人とは違う。
 さっきの表情を見ればそれはなんとなくわかる。
 なぜか分からないが冬野の表情は人を信用させるような力があるみたいだ。
 今までの人付き合いで、僕の“人を信用する心”を完璧に覆い隠してしまっていた氷が少し溶けるような心地がした。
 ああ、本当にいつぶりだろう。
 人と話しがしてみたい。
 そう思った。