見渡す限りの白であった。
 古い町並みである。昨晩降った雪は道を覆い隠し、屋根も綿帽子をかぶっているかのようであった。その白とは対照的な、抜けるような蒼天が眩しい。まだ気温も上がりきっていないからだろうか、道のぬかるみが少ないことが幸いである。
 降雪の後は、普段よりも音が耳に残りやすい。ほた、ほた、と歩く雪の道。その足音にはた、はた、ともうひとつ、足音が重なり耳に届く。
「八重」
 要は妻に声をかける。この妻は、決して夫の前に出ない。それは、普段の生活もそうであるし、こうやって歩いているときもそうだ。必ず三歩下がり、自分の後をついてくる。
「大丈夫か」
 立ち止まり、やはり遅れて歩く妻を見る。ただでさえ身重の身体だ。雪の道を歩かせるのは心配であった。
八重は問いには答えなかった。いつものことなので、要は気にせず話しかける。
「体が冷えただろう。もうすぐ家だ、辛抱してくれ」
 親戚筋の挨拶回りだ。最初は要一人で向かう予定であったが、八重が頑として引かなかったのである。
薄紫の色無地。海老茶の肩掛けをさらりと着こなす我が妻の、その凛とした立ち姿に要は覚えず感嘆の息をつく。八重は、色素が薄い。こうして雪の中に立っていると、まるで雪女の風情である。
 八重は口を閉ざしたまま、つう、と横に視線をずらした。その目が何かを見つけたのを見て、要も視線を向けてみる。
 そこにあったのは、藍染めの布であった。
 職人の家なのだろうか、軒先に渡された縄に、青が幾重にも重なって流れている。晴天の空の色よりも鮮やかな、目が覚めるような色合いであった。
「綺麗だなあ」
 思わず声に出す。
「なあ、八重。見事な青だなあ」
「――本当に」
 思いがけず返ってきた答えに、要は首を巡らせ、瞠目した。
八重が、微笑んでいる。まるで、春、ようやく硬い蕾が緩み始めた花のように、柔らかで、かすかではあったが、ほころぶような笑顔であった。
「綺麗な藍染でございますね」


  ***


「で、私はいつまでその惚気を聞かされているのかな?」
 そういって、葉子はことりと首を傾げた。藍鼠色の着物をたすき掛けし、土間に立つ姿は奥様然としているが、この家には彼女一人しか住んでいないことを要は知っている。
「まあ、そういうなよ。聞かせる相手がいないんだ。ほら、大根。隣からいただいたんだが、どうにも量が多くてね」
 要は板の間に腰掛け、笊に入れた大根を土間に降ろした。葉子はさっそく大根を手に取ると流し台の前に立つ。
「もうすぐだっけ、子供」
「そうだなあ。そろそろ生まれてもいい頃合いだと、産婆は言っていたかな」
「そっか。楽しみだね」
水を使う音を聞くともなしに聞きながら、要はぼんやりと葉子の後姿を眺めていた。
 葉子と要が知り合ってから、じきに半年になる。
 その日は友人の松原と酒を飲んでいて、遊びの話になった。要が女を買ったことがないというと、彼は大層嘆き、「とっておき」として葉子を紹介してもらったのである。
 ――たまには羽目外せよ。嫁があれじゃあ息が詰まるだろう。
 そう言ってにやついていた松原には悪いが、要と葉子はまだ一度も体を重ねてはいない。たまに会い、こうして話したり、茶を飲んだり、おすそ分けをしあったりはしているが、良い友人としてのお付き合いに留まっている。
 黙認される風潮こそあるものの。一人暮らしの女の家に、妻帯している自分が長居するのは外聞が悪い。しかも、身を売って口に糊する女だ。もし見つかりでもしたら、面倒なことになる。
しかし、要は葉子の持つ独特の気配が気に入っていた。儚げで、どことなく厭世的な香りがするが、話すと意外と朗らかである。居心地がよく、どうにも入り浸ってしまう。
「で、今日はなに」
「あ?」
「まさか、大根を届けに来ただけじゃないんでしょ」
「ああ……」
 要は唇を舐める。
「実は、あんたにお願いがあるんだ」
「何」
「買い物に付き合ってもらいたい」
 なおも後ろを向いたままの葉子に、要は声を投げかけた。
「八重にな。その……つまり、贈り物をしたいと思っている。その品を一緒に選んでほしい」
 葉子からの返事はない。大根を洗う水の音だけが、狭い土間に木霊している。
「目星はつけてある。けど、本当に喜んでもらえるかが不安でな。女のあんたから見て、判断してもらえないだろうか」
 大根を洗う音が止まった。流れる水をそのままにして、葉子はぽつりとつぶやいた。
「悪い人」
「え?」
「……鈍いにもほどがある」
「鈍い?」
 そう、と葉子は呟く。
 水を止め、洗い終わった大根を笊に戻すと、前掛けで手を拭った。その手の白さに、要は柄にもなくどきりとする。
この女も、八重と同じように色素が薄い。
「他の女が選んだものを贈り物にするのは、野暮だと思う」
「なにぃ?」
 唐突な言葉に、要は間抜けた声を上げてしまう。
「怒るよ」
「八重が?」
「そう」
「怒るかな」
「きっとね」
 それはぜひ見てみたい。八重は怒った顔も美しいだろう。しかし、それは葉子の想い違いである、と要は思う。
 八重は、表情が乏しい。
 見目麗しい姿なのに、適齢を過ぎて尚、婿を迎えられなかったのは、八重のその特性が原因だと聞いている。なにせあの美しさだ、それこそ見合い話が何件も降ってわいたと聞いているが、その席で男の方がたじろいでしまうのだという話であった。
――いや、たしかにお美しいのですが。
要の知人にも、見合いで断りを入れた者がいる。
――どうにも造り物のようで。私にはとても、とても。
 けれど、と要は思い出す。八重に出会ったときのこと。その頃の八重は、今の氷のような冷たさを感じさせない少女であった。
 ふたりが初めて会ったのも、冬だ。
 その日も、雪が降っていた。


 ***


「内緒にしてくれる?」
 そういって、雪女――八重は目尻にたまった涙を拭った。歳にして齢、十二。要はまだ九つ、八つ。そのくらいの年齢であったはずだ。
 要の父は商売がうまく、顔が広いことを自慢にする、そういう男であった。そんな父に連れられて、要は幼い頃からあちこちの屋敷を訪ねて回るのが常であった。
 初めて植草家を訪れたのも、そんな頃の話である。
 要は大人同士の付き合いなどどこ吹く風で、広い屋敷の庭をてほてほと歩いていた。
 雪が降っていた。
 植草家は純和風の邸宅で、庭も広く取ってある。母屋を背に、右手に門。左手には倉があり、飛び石がそれらを緩やかに繋ぐ。その飛び石に、雪がさらさらと降っては、消え、降っては積もり、を繰り返しているのである。石灯籠にぽってりと積もった雪。松、紅葉、辛夷の木。
 その木の下に、少女が立っていた。
 ほっそりとした体を薄青の着物に包み、木にもたれかかるようにして立っている。肌の色は抜けるように白い。炭を刷いたような黒髪が、白一色の景色にぼんやりと浮かび上がっているかのようであった。
 ――雪女。
 先日読んだ読本にそんなばけものが書かれていたことを思い出す。
 読本と違ったことは、その雪女がまだ少女であることと――泣いていたことである。切れ長の目尻を赤く染め、少女は雪の中でひそやかに涙を落していた。
「……誰?」
 要ははっと目を瞬かせた。
 切れ長の瞳がこちらを見ている。寒い場所にいるからなのか、それとも泣きすぎたせいなのか、鼻の頭も薄っすらと赤い。
 要は逡巡し、一歩足を踏み出した。
 飛び石に積もった雪が、じゃらりと湿った音を立てた。

 ――内緒にしてくれる?
 少女の言葉に、要はことりと首を傾げ、問う。
 雪はまだ、さらさらと降り続けている。
「うん。だって……悔しいから」
 そういって八重は、口をぎゅっと引き絞った。唇の色も薄い。まるで血が通っていないかのようである。薄青の着物は見るからに薄く、寒そうだ。要は自分の羽織を脱ぎ、背伸びをして、八重の肩にぱさりとかける。
 八重は驚いたようである。切れ長の目を見張り、くしゃりと笑った。
「ありがとう」
要は首を振る。風が吹いていないからだろうか、それとも、少なからず興奮していたからであろうか。寒さはほとんど感じなかった。
「――私、来月お見合いだって」
 唐突に、八重はそう言った。
「もう決まっていることだからって、お父様が引かないの」
「嫌なの?」
 要は訝しく思う。要とて、植草家には叶わないが、それなりの財力のある家の子供である。お見合いも、それによる婚姻も、彼とっては普通の事だ。取り立てて嫌だと思ったこともないし、いずれ自分もそうやって、妻を持つものだと思っている。
 要の問いに、八重は首を振った。
「お見合いが嫌なわけじゃない。でも……」
 八重はほうと息をつく。白く煙ったため息が、曇天にするすると吸い込まれていった。
「私……まだ恋もしたことがないのに」
 要は目を見張り、ややあって吹き出した。今になって思えば、随分と失礼な振る舞いであったと思う。しかし、当時の要は、自分よりも年上の、もうじき女学校に通うような年齢の少女がそんなことで悩み、泣いているのが可笑しく感じられたのだ。
 要の態度は少女の勘に触ったようである。八重はじろりと要を睨み、口を尖らせた。
「言わなければよかった」
「……ごめんなさい」
「謝ったって許してあげない」
 色白の顔が赤く染まる。ころころと変わる少女の表情を、要は素直に美しいと感じたものだ。
「ねえ、雪女って知ってる?」
「雪女……」
「僕、あなたをさっき見たとき、雪女がいるって思った」
「なにそれ、私がばけものだって言いたいの?」
 要は首を振る。どうやったらうまく伝わるだろう。
「それくらい、綺麗だって言いたかったんだ」
 言ってしまってから、要は首の後ろが熱くなる自分を自覚した。恥ずかしい。要は俯く。まだ短い彼の人生の中で、初めて女性への誉め言葉を口に出した瞬間であった。
 八重は目を見張った。そのまま俯き、手を唇に添えて黙りこくってしまう。
「……そっか、うん、雪女、か……」
 八重は顔を上げ、要ににっこりと微笑みかけた。
「ありがとう。私、いいこと考えちゃった」
「いいこと?」
「そう。雪女、ね。任せて頂戴。そういうの、得意なの」
 要は首を傾げる。そういうの、とは何のことなのだろう。
「私は、好きな人と――本当に好きな人と、一緒になりたい」
 そう言って、八重は要に小指を差し出した。意図が分からず、硬直する要の小指に、八重は自分のそれを絡ませる。
「約束。今日のことは絶対に、他の人には言わないで」
「――え?」
「ね、約束。私とあなただけの……」
 少女の瞳に熱を感じ、要は首筋にちりちりとした痛みを感じた。絡めた小指に力が入る。その指越しに伝わる熱や、瞳の温度、吐息の白さを、要は今でも覚えている。思い出すたびにくすぐったくて、甘酸っぱい、大切な思い出だ。

 雪の日の約束。それを、要は今でも律義に守っている。いや、正直に言うと、自分に見合い話が来て、その相手が八重だと知るまではすっかり忘れていたのだ。
 見合いの席の八重は、少女の頃の面影そのままに、凛とした美しさを湛えていた。しかし、唯一違ったのはその表情である。
 造り物のような、美しさ。ただ静かに、静かにそこにいるだけ。八重は、笑わない。泣かない。怒らない。
 一緒になってからも、八重の造り物めいた表情が変わることはなかった。どんなものを見ても、何をしていても、感情を見せないのである。
あの雪の日の約束のことを話してみようか、と考えたこともある。自分があの時の約束の主だと知ったら、もしかしたら何かしらの反応を示してくれるのではないか、と。
 しかし。
 ――本当に好きな人。
 八重の願いは、叶わなかった願いだ。自分と彼女の婚姻は家同士の思惑であった。もっと正直に言うと、名家の肩書と財力が欲しかったのは、要の家の事情である。八重が適齢をとうに超えており、問題のある女性だったからこそ叶った婚姻だ。そこに本人同士の恋愛感情などあろうはずもない。
 だから、要はあえて話さない。
その約束を口にしてしまったら、八重があの日のことを思い出してしまったら……きっと雪女は消えてしまうのだろう。


 葉子は軽く腰に手を当てたまま、要を見つめていた。要はぱちりと目を瞬かせて葉子を見やる。
 あの雪の日のことを思い出すと、どうにもいけない。自分自身の女々しさに要は苦笑した。
「まあ、八重なら、心配しなくて大丈夫さ」
 そういって、要は葉子に肩を竦めてみせる。八重はきっと、自分が誰と出かけようと眉ひとつ動かさない。寂しくもあったが、それが事実だ。
「あんたしか頼れる人がいないんだ。頼むよ」
 手を合わせ、頭を垂れる。葉子は肩を竦め、わかった、と苦笑した。


  ***


 今にも泣き出しそうな空の下、要は葉子と共に帰路についていた。手にした風呂敷の中には、求めたばかりの藍染めの肩掛けがきちんと畳まれて包まれている。
「今日は助かった。おかげで良いものを選ぶことができた、と思う」
 葉子を伴い呉服店に入ったはいいが、あまりの種類の多さに眩暈を起こしそうになった要である。藍染めだけに絞っても、ざっと十数種類以上はあっただろうか――世の中の女性は、どのようにして自分の欲しいものを選び取っているのだろう、と心底不思議に思ったものだ。
 葉子が選んだのは、絞り模様が花のように広がった肩掛けであった。
 ――雪花絞りと言いましてね。
 店の者は愛想よくそう言った。
 ――西の絞りなんですが。雪の花のような模様になるのが特徴なんですよ。
 それはいい、と要は頷く。八重に贈るものだ。雪にちなんだもの、というところが気に入った。
 意気揚々と道を歩く。
 冷え冷えとした空気に、湿り気が混じる。もうじき、雪が降るに違いない。
「よかった。でも、私が選んだものだってことは、内緒にしておいた方がいいと思う」
「そうか、そうだな」
 頷くと、葉子は要を見上げてゆったりと微笑んだ。この女性は、背が高い。八重よりも頭一つほど高いのではないだろうか。色白の肌や黒髪の見事さは八重にも通じるところがあるが、瞳の色だけがやや違う。八重の瞳は薄茶色で、その色の薄さが白い肌によく似合っている――。
そこまで考えて、要は思わず苦笑する。違う女性と道を歩いていても、自分は、八重のことを考えてしまう。それが何を意図するかくらい要にだって分かっている。分かっているからこそ、要は怖い。
八重と一緒になり、子をなしても尚、要には拭いきれない不安があった。
要と彼女の婚姻は、要側に決定権があった。要が八重に否を言えば、取り消すことができた話である。八重の望みを絶ってしまったのは、外ならぬ要自身なのかもしれない。
自分は、八重の『本当に好きな人』ではないのだから。
立ち止まり、黙ってしまった要に何を思ったのであろうか。葉子は首をことりと傾げ、要の顔を覗き込むようにする。
「あのさ」
「――なに」
「ちゃんと言葉にして、言った方がいい」
 唐突な言葉に、要は目を瞬かせた。
「伝えようとしないと、伝わらないよ。大切な人なら尚のこと」
 この女は、心が読めるのであろうか。瞠目している要に、葉子は言葉を重ねた。
「時間は限られているんだ。後悔しないようにした方がいい」
 そういって、葉子は笑った。ふわりと漂う花の香り、沈丁花の匂い。
 その時である。
「へえ、随分とよろしくやっているようじゃないか」
 ふいに割り込んだその声に、葉子がびくりと体を震わせた。
 要は振り返る。
「――松原」
にやにやしながらこちらに近づいてくる友人の、その漂う臭気に要は眉を潜めた。ひどく酔っている。いや、酔っているだけではない。松原の目に浮かんでいるのは明らかな敵愾心だ。
「おい、葉子、あんた話が違うじゃねえか」
 松原はそう言って葉子の肩に手をかけた。葉子は顔を背けている。漂う剣呑な雰囲気に、道行く人々が足を止め、遠巻きにこちらを見ていることが分かった。
「植草よお。お前、どうやってこいつを引っ張り出したんだ?」
「何のことだ?」
 尋ねると、松原は口の端を歪めて嗤った。嫌な笑い方だ。そのまま要の問いには答えず、ぐい、と葉子の腕を引いた。
「すかしやがって。なにが『もうやめる』だと? こいつの誘いには乗るのに、なんで俺は駄目なんだ。選べる立場じゃねえだろう!」
「やめて」
 葉子は身をよじった。黒髪がはらはらと空に舞う。松原は手を緩めない。ぎりぎりと腕を締め上げている。
「やめろよ。痛がってるだろ!」
 あまりに乱暴な扱いに、植草は思わず声を荒げた。
「少しくらい痛い目に合った方がいいだろ、こんな女はよ」
「おい、お前」
「同じ穴の貉の癖に、いい人ぶるのはよせよ」
 松原は葉子の耳に口を寄せる。
「行こうぜ、葉子。嫌とは言わせねえぞ。ずっとあんたが忘れられなかったんだ」
 そう言うと、松原は葉子の腰に手を這わせた。
「やめて!」
「うるせえ! 来いって言ってるだろう!」
逃がさじと腰を抱き留める松原の腕を引きはがし、葉子は体をよじり――どう、と道に倒れこむ。
「ひっ……」
 声を漏らしたのは、誰だっただろうか。道行く人だっただろうか、それとも要自身であっただろうか。
 葉子が道に倒れている。着物の裾ははだけ、白い襦袢に包まれていた素足が投げ出されている。その足が、赤い。皮膚が爛れた痕だろうか、無事な皮膚がないくらい、あちこち引き攣れ、斑になっている。
 葉子は俯いたまま、着物の裾をす、と直した。ぬかるんだ泥と、おそらくどこかを擦ってしまったのであろう血が入り混じり、着物は斑模様に染まっている。
「相変わらずきったねえ足しやがって。かわいがってやろうってんだから、ありがたく思えよ!」
 要は瞠目する。この男は、何を言っているのだろう。
「……おい」
 口に出した声は、思った以上に怒りを孕んでいた。
「いい加減にしろ。それがご婦人に対する態度か」
「うるせえ! なにがご婦人だ。お前だって俺と同じ癖に、偉そうにご高説か?」
「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「俺はばけもんを抱いてやって、金を恵んでやってるんだ。それの何が悪い!」
 顔を赤くして怒鳴る松原を一瞥し、要は葉子の肩に手を回した。細い肩がびくりと震える。
「行こう、葉子。こんなやつ相手にしない方がいい」
 立ち上がるように、葉子を促す。おずおずと歩き始めた葉子を松原の視界から隠すように、要は葉子の肩を抱いた。
 踵を返したその時、視線の先に――八重が、いた。
 八重がこちらを見ている。氷のような冷たい瞳で、要と、葉子をじ、と見つめている。
「八重……」
 その言葉に、葉子がはっと顔を上げた。
「八重、違う」
 声を上げながら、要はうっすらと期待する。怒るだろうか。八重はその氷の表情を溶かし、どういうことだと自分に詰め寄ってくれるのではないか。
 八重はすう、と息を吸い、そのままゆっくりと吐き出した。そして、姿勢を正したまま、ゆっくりと――まるで何もなかったかのようにゆっくりと、二人の横を通り過ぎて行った。
 鼓動が激しい。息がうまくできない。目の前が暗くなっていくのを感じて、風呂敷を持つ手で胸を押さえた。
 心臓が冷たくなっていく。まるで氷の息を吹きかけられたかのような鋭い痛みが、要の心を貫いた。
 大丈夫だ、八重は気にしない、と口ではそう言っていた。そう思ってもいた。しかし、実際にそうであると突き付けられた現実は、要に思った以上の衝撃を与えたのである。
 やはり、八重は自分のことなど――。
「要さん!」
 葉子だ。何やら緊迫した声で、肩に回された要の手を外そうともがいている。
「早く、逃げて」
「な、なに」
「早く!」
 その声と重なるように、幾重の悲鳴が上がった。
 要は振り返り――。
 衝撃が、走った。何か、ひんやりとした物が――鋭い氷のようなものが――腹から背中にかけて刺さっている。
 身体がじわじわと熱くなる。足に力が入らなくなり、もつれるようにして地面に倒れこんだ。熱い。だくだくと熱い液体が流れ出ていく。震える手でそれを触り、理解した。刺された、何かに。刺されたのだ。
 体中が引き裂かれるような激痛に、声なき声を挙げた。
痛い。
 体が急速に冷えていく。頬の下で、雪交じりの砂利がざらざらと音を立てる。
「まつ、ばら」
「ざまあみろ!」
 言い捨て走る後ろ姿が、徐々に霞む。地に落ちた風呂敷がほどけ、藍染めの肩掛けが毒々しい色に染まっていった。
――た、あなた……!
 半狂乱の声が耳に届く。あの声は、八重ではないのか。
「や……え」
 冷たい手が、頬を撫でた。ひいやりと気持ちいいその感触に要は微笑んだ。目が霞む。もう光も入らない暗い闇の中で、その冷たい掌だけが要をこの場に繋ぎとめている。
 ――……なないで、死なないで……
 八重の声だ。自分のために、必死になっているのか、泣いてくれているのか。
 体がゆっくりと沈んでいく。もはや痛みも感じない。ただ、静かな冷たさだけが、要をしんしんと包み込んでいた。
 ――時間は限られているんだ。後悔しないようにした方がいい。
 葉子の声が、脳裏によみがえる。本当にその通りだな、と要はひどく後悔をする。
「やえ」
 頬に、ほたりと落ちたのは、涙だろうか、それとも雪か。
 死にたくない。まだ伝えられていないのに――。

 しらしらと雪が降る。
 雪が降る。