布が踊る。
 白い布が、ひらひらと、まるで生き物のように蠢いている。


 ***


 小高い土手沿いに、桜並木が圧巻であった。雨のように降る花びらが美しく、明美はしばし、呆気にとられた。
 まだ早朝である。霧がふわりと漂う中を、明美はただただ歩いている。
 春休みだ。とはいっても、毎日部活で忙しくしている明美にとって、休みというのはつまり運動する時間が増える、というだけの話であった。いつものように早く起き、いつものように登校して、それで、気づいた。今日は休みだった、らしい。設備の点検かなにかで、一切登校ができない日だったようだ。
 やってしまった。
 そんな訳で、せっかくだから高校の周りを探検してやろうと思ったのである。

 思えば入学して二年目になるが、ほとんど駅と学校の行き帰りだけで、全くと言っていいほど散策をしていなかった。もしかしたら、何か面白い発見があるかもしれない。
 通学路とは真反対に歩くと、住宅街が広がっていた。まだ早い時間なので、人通りはほとんどない。見たことのない景色を楽しみながら家と家の隙間を縫うように歩き、暫くすると、一気に視界が開けた。
 川辺に出たのである。朝が早いせいか、はたまた霧が出ているからか、人影は見あたらない。ただ一面の白い世界の中に、薄桃色の桜並木がひっそりと並ぶ様は、なんとも幻想的であった。
 こんな場所を知らなかっただなんて、勿体ないことをした。
 もやりと霧の漂う中、桜の白が空気に溶けている。
 歩く。
 歩く。
 視界が白で埋め尽くされる。
 明美は桜が好きであった。花弁がつやりとしているところが特に気に入っていた。幹の無骨な感触。ごつごつした男性的な枝から、このような艶やかな花が開く。そういうところが、好きであった。
 霧の影響か、水分を含んだ花弁が、しらりしらりと落ちてくる。風はほとんどなかった。川のせせらぎと、彼女の足音だけが、早朝の空気に響いている。
 その足音に、ひとつ、別の物が混じった。反対側から、誰かが歩いてくる。その姿を見て、明美はあっと叫びそうになった。
 クラスメートの、聡だ。
 歩きながら本を読んでいた。明美には気づいていないようで、背を少しだけ丸め、本にかぶりつくように視線を落としているのである。
 こっちに、来る。顔に熱が集まっていく。
 聡は物静かな少年であった。高校生にしては線が細く、どこか女性的な風貌で、教室の片隅で、いつも本を読んでいる、そんな印象であった。
 だからといって、人付き合いが苦手なわけではないらしい。友人たちと談笑したりする姿もよく見ていたし、放課後にみんなで連れ立って、近所のヒレカツ屋さんで買い食いしているところを見かけたこともある。
 色が白くて、儚げで、穏やかに話す口調が、ちょっと良い。
 そこまで考えて、明美は己の姿を顧みるのだ。部活に明け暮れて、真っ黒に日焼けした肌。眉は太く、鼻は低く、化粧気のない顔。髪は邪魔にならないようにざっくりとショートにして、手入れもほとんどしていない。
 自分を構成する全てが不釣り合いに見えて、明美はちくりと胸が痛む。
 聡はゆったりと歩いてくる。学校に入れないことを、知らないのであろうか。なれば、教えてあげねばなるまい。跳ねる鼓動をなだめるように、明美は深呼吸した。
「植草くん」
 はっと顔を上げた聡に、一瞬見入ってしまう。白い視界に、溶けてしまいそうなほど白い顔。
 通った鼻筋。長い睫。琥珀色の瞳に自分が映っているのだ、と思うと、それだけでもう逃げ出したくてたまらなかった。
「今日、学校入れないんだって」
 そう告げると、聡は目を見張り、桜の蕾が開くように、笑った。
「そうなんだ。ありがとう」
 そんなことをつらりと話す。
「笹原さんも間違えた口?」
「うん。部活あると思って。……植草くんは?」
「本を返しに来たんだ。早く起きて損したな」
「そっか」
 それじゃあ、と、聡は首をことりと傾けた。
「お茶、しない?」
 耳の奥で、血の流れる音がした。
「あたしと?」
「うん」
「でも」
「だめ?」
「でも、制服だし」
「ばれなきゃ大丈夫だよ」
 ああ、彼はずるいのだ。涼しい顔で、さも優等生のふりをして、こういうことをする。そういうところが。
「訂正。早く起きて、よかった」
 そう言って、聡がゆったりと笑う。
 そのときである。
 聡のシャツの首元から、するすると白い物がのびる。布のように見えた。白く、細長いものが、ひらひらと、まるで生き物のように蠢いてそのまま、すう、と消えてしまった。


 ***


「で、お茶したの?」
 葉子の、揶揄を含んだ瞳に射抜かれて、明美は思わずテーブルに突っ伏した。
「した。もう死にたくなった」
 黒髪を揺らしながら、なにそれ、と、葉子はからからと笑う。
 ――他人事だと思って。
 明美はもそりと起きあがると、目の前のソーダフロートをずずっと啜った。
 葉子は明美の家の住人である。正確には、親が大家をしているアパートに入居している女性であった。
 大学生だという彼女は、大層な美人である。長い黒髪に、白い肌。黒の革ジャンに、足にぴたりとしたジーンズがすらりとした体に良く似合っている。女性から見ても何とも魅力的で、最初に会ったときは、思わずほうっと溜息が出たくらいだ。
 歳が近いこともあって、葉子と親しくなるのにはそれほど時間はかからなかった。それで、こうして他愛もないことを話したり、定期的にお茶までする仲になったのである。
 葉子はいちごパフェを食べながら、にやりと笑う。
「何話したの?」
「覚えてない。もう、緊張して、それどころじゃなくて」
 明美は再びテーブルに突っ伏した。
 かわいいなあ、と、柔らかな声が落ちてくる。明美はきっと葉子をにらんだ。
「全然かわいくないよ。葉子さんみたいに生まれたかった」
 葉子は、ゆったりと笑みを浮かべた。
「人は、得てして自分の魅力には気づきづらいものなんだね」
 この人は、たまにこういうことを言う。妙に老成したところがあるのだ。明美と大して歳も違わないのに、大人然とした姿に、明美は益々不貞腐れる。
「よく、わかんないよ」
 アイスクリームが溶けて、マーブル状になったソーダをかき混ぜながら、明美は大きく溜息をついた。


「笹原さん、テニス部だっけ」
 聡はそう言って、机に頬杖を突いた。
 昼休みも終わりかけの時である。
 一度お茶をしてから、聡は明美に気を許したらしい。明美の方も、多少は免疫がついて、休み時間に雑談をするくらいには仲良くなった。
「そうだけど。植草君は? 文芸部だっけ」
 確か、ちらっと名前を見たことがあった。一年の時の会報である。友人が文芸部だったので読ませてもらったのだが、そこに彼の作品も載っていたように記憶している。
「読んだよ、去年の会報」
 他の人が小説の形態を取っているのに対し、彼の作品は童話調だったので、よく覚えている。
 蝶と蜘蛛の話であった。自分の巣にかかった蝶を哀れに思い、食べることができない蜘蛛。そんな蜘蛛を詰り、食えと訴える蝶。やがて二人はそれぞれの話をし、お互い愛し、許し合って最終的に共に死ぬ。昔々、から始まるオリジナルの話なんて初めて読んだことと、その内容が衝撃的で、暫く頭から離れなかったのだ。
「今年のも楽しみにしてる」
 そう言うと、聡は首を横に緩く振った。
「今年は無理かなあ」
「え」
「退部したんだ」
「そうなの!? 勿体ない!」
 思わず、口をついて出た言葉に、聡は困ったように微笑んだ。
「ぼくも、続けたかったんだけど。書くのは部活じゃなくてもできるから」
 少しだけ寂しそうな表情に、明美は言葉を呑んだ。何故退部したのか、聞いてもいいのだろうか。
 いや。誰にでも事情はある。友人だからと言って、聞いていいことと悪いことはあるだろう。口を噤んだ明美に何を思ったのか、聡はほっとしたように息を吐き、そのままゆったりと微笑んだ。

 聡と他愛のない話をするのは楽しかった。彼は博識で、明美の知らない世界をたくさん知っている。明美が感心してそう言うと、本で読んだだけだ、と、彼は、はにかむのである。
「笹原さんの方が、すごいよ」
「あたし?」
「うん。だってぼく、スポーツ苦手だし」
「そうなの?」
「この間の試合。三年生に勝ってたでしょ」
 先日の、ゴールデンウィークのことだ。別の学校の三年生と練習試合をして、接戦の末に明美が勝ったのである。あの時は必死だったので気が付かなかったが、どうやら聡は試合を見に来てくれていたようであった。
「笹原さん、格好良かったなあ」
 また、臆面もなく、そういうことを言う。明美は急に恥ずかしくなって俯いた。
 聡と話していると、ふわふわする。それは春の陽気にも似た、少し浮かれた感情であった。温かく、柔らかで、どこか期待に満ちている。そんな心持ちになったものだ。
 クラスで揶揄われたりもしたが、思った以上に明美は気にならなかった。聡が気にしていなかったというのもあるし、そういう関係だと周りが勘違いしているだけで、二人の間には何の取り決めもない。いちいち反応していたら聡に失礼である。
 そもそも、自分は聡には釣り合わない。けれど、友人としてなら、こうやって肩を並べることができるのだ。それだけで明美は十分満足だったのである。


 夏休みに入ってからは、明美も部活が忙しくなった。朝早くから夜遅くまで、コートを走り回る毎日である。来年からは受験もあるし、これが部活に専念できる最後の夏かもしれない。そう思うと、一層練習にも力が入るというものだ。
 聡は、よく図書室に来ているようであった。
 明美の学校の図書室は、四階にある。彼はその窓際の席で、分厚い本を読んでいた。
 図書室の窓はテニスコートの向かいなので、彼の様子は良く見えた。
 練習中に、明美は度々顔を上げ、彼の横顔を盗み見るのである。たまに、目が合った。彼は嬉しそうに微笑むと、小さく手を振るのだ。明美はやはり、どうにも恥ずかしくなって、軽く手を挙げるだけである。
 二人で話すのも、噂されるのも慣れてしまったが、どうにも恥ずかしいのだけは直らない。彼の瞳に自分が映っている、そう考えると、居ても立ってもいられないのだ。

 そんな、夏も盛りの頃であった。
 その日は、帰るのが随分と遅くなった。後輩の練習に付き合った後で、自主練習をしていたのだ。つい夢中になり、時間を見るのを失念してしまったのである。
 あまり遅くなると、家族に怒られる。
 暗くなったテニスコートを後にして、急いで着替える。外に出ると、むわりと蒸し暑い空気が明美を包み込んだ。風はほとんどない。運動疲れで気怠い体も相まって、噎せ返るような湿気に溺れそうになる。
 ゆるゆると泳ぐように歩き、校門に差し掛かった時の事であった。
 その横に、聡がいた。真っ白い開襟シャツが、夜の闇にぼんやりと浮かび上がっている。
 一人ではなかった。
 明美の後輩と一緒であった。
 慌てて、傍の木の陰に隠れる。見つかってはいけないような気がしたのだ。それでもやはり気になって、そっと覗いてみた。
 何やら、話し込んでいるようであった。途切れ途切れに、小さな声が届く。

 ――ぼくは……だから。
 ――でも、先輩は……。
 ――……は関係ない……ろう。
 ――私じゃ……ですか?

 しまった。
 明美は己の不運を呪った。これは、もしかするともしかたら、正しく告白のシーンなのではないだろうか。
 ――好きです。
 やはり。
 後輩は、可愛い。背が小さく、すらりとしていて、白のスコートが良く似合う。髪を切るのが嫌だと言って、ポニーテールにしているのが特徴だった。あんな可愛い子に告白されたら、承諾しないわけがない。
 胸の中を、隙間風が抜けていくような心持ちであった。
 邪魔しちゃいけない。今ここに、自分がいることに気づかれてはいけない。自分の友人と可愛い後輩の恋路を邪魔するなんて野暮なこと……。
 そうして、その場をそっと離れようとした時であった。目の端に、ちらりと見えたのである。
 白い、布。
 春の日。早朝の散歩で初めて見たときと同じ物が、再び聡の首に巻き付いていた。
 布は先端を天に伸ばし、ひらひらと揺れている。風はなかった。それなのに、何故あの布は動いているのか。
 ――……サナイ。
 女性の声が聞こえた気がした。低い声。ぽそぽそと、小さく泡が弾けるような声。
 目の前が薄ぼんやりと、白く霞んでいく。あれほど暑かった空気に、急に異質なものが混じり合っていく。

 寒い。
 雪が。
 雪が降っている――。

「笹原さん?」
 声をかけられ、明美は我に返る。
 すぐ近くに聡がいた。
 目を瞬かせる。すっきり伸びた首元には、何も巻き付いてなどいなかった。
「あ、れ?」
 後輩は、いなかった。帰ってしまったのだろうか。
「どうしたの? 随分遅いじゃない」
「う、うん、練習が」
「こんな遅くまで? 危ないよ」
「植草くん。あの子は」
「ああ……」
 聡はバツが悪そうに頭を掻いた。
「見てたんだ」
「うん、何を話してたかまでは、聞こえなかったけど……」
 嘘だ。本当は少しは聞こえていた。けれど、正直に言うのも躊躇われたのである。
 聡はあからさまにほっとした顔になった。
「とにかく、駅まで送るよ」
「え、でも」
 明美はあの桜並木でのことを思い出す。聡の家は、駅とは反対方向であったはずだ。
「いいから。ほら、行こう」
 そう言って、聡は先に立って歩き始めた。その背中を追いかけるように、明美は着いていく。
 既視感。
 こんなことが、前にもあった気がする。先に行く背中を、じっと見つめて、二、三歩遅れて歩いている自分の姿。
 ――気のせいだ。
 明美は、首を振った。連日の練習で、少し疲れているのかもしれなかった。

 ***


 聡の様子が、変だ。
 そう気づいたのは、夏休みも終わり、二学期もひと月あまりが過ぎた、初秋の頃であった。
 聡が、珍しく学校を休んだのである。滅多にないことであった。風邪でも引いたのだろうと思っていたのだが、それが二日になり、三日、四日、週をまたいでも聡は登校しなかった。
 流石におかしい。
 何かあったのだろうか、と囁かれ、噂されるようになった。休みの理由を担任に聞いても、言葉を濁される。それが噂に拍車をかけた。
 さすがに明美も、心配になる。何か悪い病にでもかかってしまったのだろうか。そんなことを考えながら、部活を終え、帰ろうと下駄箱に向かった時であった。

 夕方ではあったが、空はまだ明るかった。りいりいと、せっかちな虫が鳴いている。その鈴の音が降る廊下の窓際に、聡がいた。今日も休みのはずであったのに、かっちりと学生服を着こんだ姿である。
 窓の外を眺めていた。
 一人である。
 周りには誰もいなかった。
 明美は思わず息を止める。まだ夏の残り香を感じる強い西日が、彼の横顔に濃い陰影をつけている。まるで、そこだけ切り取られているかのような、絵画的な光景であった。
 ふと、聡が視線を向けた。その顔を見て、明美は絶句した。
 頬がこけている。ただでさえ線が細いのに、一回りも小さくなってしまったようである。いっそ気の毒なほど、彼は痩せ細ってしまっていた。
「笹原さん」
 聡は呟いた。涙が、聡の白皙の頬を伝い、滑らかな首筋を滑り落ちた。
「……どうしたの?」
 かろうじて息に声を乗せる。
「なんか、あった?」
 聡の顔が、歪む。
「……みんなぼくを置いていく」
 幽鬼のような、生気のない顔。生きながらにして、死んでしまっているような、明美が今まで一度も見たことがない表情であった。
 その時である。
 するり、と、首に布が巻き付いた。
 その白が、きゅう、と、聡の首を絞めている。そのたびに聡は、苦しそうに眉を寄せ、またひとつ、涙が落ちる。
 見ていられない。
 思わず聡の肩に手を伸ばした。ほとんど無意識の行動であった。かき抱いた体は、痛々しいほど細かった。頭一つ分高い聡を見上げるようにして、明美は口走る。
「大丈夫」
 涙がきらきらと夕日に輝いていた。長い睫に宿ったそれがあまりにも綺麗で、そのまま、吸い寄せられるように。
 首に、手を回し――。
「やめろ!!」
 強い衝撃が、走った。
 明美は呆然とする。右手の甲に痛みを覚え、視線を落とす。みるみる赤くなる肌に、今のは夢ではないと認識する。
 叩き落とされた。首に回そうとした手を、思い切り、はねのける勢いで。
「あ……」
 頭を、鈍器で殴られたような衝撃であった。
 聡は顔を青くしている。罪悪感に染まった顔で、自分の手と明美を交互に見つめている。そんなことより、今、自分は何をしようとした。首に手を伸ばして、もう少しで。
「ごめん」
 青ざめた顔で、聡が言った。
「ごめん。違うんだ」
 もう、何も耳に入らない。
「笹原さん!」
 明美は、その場から逃げ出した。
 自分のしたことが信じられなかった。聡がもし、手を叩き落とさなければ、自分は今、もう少しで……聡に口づけていたのではなかろうか。


「明美? 植草君って子が来てるけど」
 その日の夜である。
 母が、そう言いながら明美の部屋の扉を叩いた。予想外の言葉に、明美は頭から被っていたタオルケットをはねのける。
「うそ」
「嘘じゃないよ。ほら、待ってもらってるんだから早く行きな」
 恋人か、とにやついている母を押しのけ、明美はあわてて玄関へを向かった。
 所在なさげに立っていたのは、確かに聡であった。先程の、危うい、幽鬼のような雰囲気は幾分和らぎ、目には力が戻ってきている。
「笹原さん」
 明美を見て、聡はほっとした顔で笑う。
「いきなりごめん。連絡網見て、家、このあたりかなって」
 聡は申し訳なさそうに頭を掻く。
「ちょっと出れる? 帰りはちゃんと送るから」
 こくん、と明美は頷いた。

 ゆるゆると歩く。
 夜であった。見上げれば、霞んだ空に申し訳程度に星が瞬いている。月が大きい。今日は満月であろうか。丸々と肥った月が、笑い掛けているようであった。
 二人は近くの公園の、ブランコに腰掛けた。誰もいない公園は何だかとても物寂しく、明美は迷子になったような心持ちになる。
 聡は、月を眺めていた。色白の肌に月が影を落としている。
「今日は、ごめんね」
 おもむろに、聡が口を開く。明美は首を振った。謝るのはこちらの方だ。自分がしでかしたことを思い出しただけで、顔から火が出そうであった。
「あたしこそ、ごめん。その……」
 うまく言葉にできなくて、明美はぱくぱくと口を動かした。
 聡は、ゆっくりと首を振る。
「ぼく、笹原さんが嫌だったわけじゃないんだ」
 噛みしめるように、聡は呟いた。
「多分、呪いなんだと思う」
「呪い?」
 明美は首を傾げた。普段あまり聞きなれない単語だ。意味が浸透するまで、少しばかり時間がかかったのである。
「――先日、祖母が、死んだ」
「え!?」
「自殺だった」
 明美は絶句した。聡が学校を休んでいたのも、こんなに痩せ細ってしまった理由も、それで全部説明がつく。
「元々気に病む性質だったらしいんだけど。ついに、耐えきれなくなったらしい」
「……耐えきれなくなった?」
「祖母は、母のことをずっと気に病んでいたんだ。そう、遺書に書いてあった」
 ブランコが、きいと鳴る。いや、鳴ったのは明美の心だろうか。
「ぼくの母は、もういない。自殺したんだ。ぼくが七つの時だった」
 一体、明美に何が言えただろう。聡は、二人の近しい家族を失っているのだ。しかも、自ら命を絶つ、という方法で。
「母を最初に見つけたのは、ぼくだ。倉の梁に、白い布を巻き付けて……」
 明美は息を呑む。胸が苦しい。今、このことを話している聡の心情を考えるだけで、心がぎしぎしと悲鳴を挙げる。
 ブランコをきい、と揺らして、聡は困ったように微笑んだ。
「実は、その時のことはあんまり覚えていないんだ。ただ……」
 ――首に巻かれた、布が白かった。
 ――それだけが、鮮明に目に焼き付いていて。
 そう聡が口にしたとたん、空気が粘ついた。夜の闇がもったりと、それでいて急速に膨れ上がるように。
 明美は瞠目する。
 聡の首に、巻き付く。白い布。いや、違う。あれは、手だ。ほっそりとした手が、聡の首にひたりと巻き付いている。
「それから、ぼくは首に触られるのが怖くなった」
 巻きついた手に気づかないのだろうか。聡は切なげに目を伏せ、自らの首の下に手を添えた。その手に、ふわりと白い手が重なる。優しく包み込むように、明美に見せつける様に、手は聡の手に絡みつき、やんわりと握りこんだ。
「笹原さん」
 聡はブランコから立ち上がった。そのままゆらりと振り返って、明美へと向き直る。
「……みんな、ぼくを置いていく」
 月を背負った聡は、夜の王だった。かしゃりと音を立ててブランコが揺れる。鎖を握りしめた明美の手に、聡の手が重なった。
「置いていかないで」
 かしゃりと音が鳴る。聡の顔が近づいた。影が落ちるほどの長い睫。すらりとした鼻筋。少し薄い唇。
 明美の唇に、吐息がかかる。
 ――だめ。
 拒絶ではない。警告だ。明美の本能が逃げろと信号を送っている。
「ぼくは、君が」
 ――ワタサナイ。
 白い。白い布が。するりと巻き付いて。

 眩暈がするほどの夜であった。
 初めての接吻に喘いだのは、息をするのを忘れていたわけではない。明美は、見てしまったのだ。
 聡の首から伸びた白い布が、自分の首に、するすると巻き付いていく様を。


 ***


 それから聡は、毎日明美を待っているようになった。
「部活、終わり? じゃあ帰ろうか」
 試合が近いので、毎日遅くまで練習があった。テニスコートのフェンスに体を預け、本を読んでいた聡は、明美が着替えて出てくるといつも笑ってそう言うのだ。
 二人で帰るのも、だいぶ慣れた。
 聡とは、駅まで一緒に帰る。そのまま別れることもあるし、家まで送るといって電車に乗りこむこともある。
 たまに寄り道もした。塀の上で寝そべっている猫や、川沿いに蹲っていた蟇蛙などを興味深げに見て、聡は笑う。
 ――猫は、自分の国を持っているんだ。そこには王様がいて、役人もいて、国民もいるんだって。
 ――児雷也って知ってる? 昔の盗賊で、蝦蟇の妖術使いなんだよ。
 聡の話は面白かった。そのひとつひとつに命があるようであった。
 今日も寄り道しよう、との、聡の言葉で、秋枯れた桜並木を歩いた。川沿いの並木道は落ち葉に埋もれるようであった。さくさくとした、ミルフィーユのような葉を踏みしめ、ただ、歩く。
 随分と、日が落ちるのが早くなった。もうじき冬である。街灯に照らされた木々の梢が黒々とした影を伸ばしている。
 隣を、自転車が走り抜けていく。遠くでバイクの音がする。川にかかった大きな鉄橋を、電車が音を立てて走る。
 後の、静寂。
 誰もいない。
 梢から一片黄の葉が舞う。くるりと渦をまき、はさり、と落ちる。
 明美はそっと顔を上げ、聡の横顔を盗み見る。彼は以前と同じような、柔らかな笑みを浮かべていた。痩せこけていた頬も元に戻り、以前と変わらないように見える。
 あの時以来、祖母の事も、母の事も彼の口からは発せられない。だから明美もそのことについては何も言わなかった。元通りだ。何もかも。
 しかし、以前とは明らかに変わったこともある。
 ――ほら。
 つ、と指先が触れ合った。そのまま絡めら取られ、明美は、ああ、まただ、と眉を下げる。聡と触れ合うとき、明美はその都度後悔をする。
 この関係を、何と呼ぶのだろう。
 自分と聡は何かを言い交わしているわけではない。明美からも何も言わない。言えない、といってもいいかもしれない。
 聡の気持ちが分からなかった。
 たまたま、近くにいたのが自分で、その自分に心情を明かしたことで、心を許してくれていることは、わかる。
 明美とて、ただの友人とは手を繋がないということも、勿論口づけをすることもないことくらいは知っている。
 けれど、聡は何も言わない。
 だから、明美も何も聞けない。
 接吻も、もしかしたら気の迷いだったのかもしれないし、彼にとって手を繋ぐことは、特別なことではないのかもしれない。

 あの満月の夜以来、明美は度々夢を見る。
 雪が降っている。土蔵の見える濡れ縁に、明美は座っている。火鉢の炭がほろりと落ちる。言い知れぬ、胸の奥から泉のように湧き出る感情。その白い手に、白いさらし布を持ち、それをぎゅうと掴むのだ。
 そんな、夢である。
 気味が悪いというわけではない。怖い思いをするわけでもない。ただ、その夢をみた朝は、寂寥感に苛まれる。
 それと同じ感情を、聡と一緒にいると強く感じるのである。

 聡の指先は冷たかった。ただひたすらに前を向くその白い肌が、秋の夜空ほの白く浮かぶ。 不意に、つう、と天を仰いだ。つられて見ると、煌々とした月が昇りかけている。
 満月にほど近い、瓜のようなそれを見て、聡は呟いた。
「ねえ笹原さん。ぼくたちはどこから来て、どこへ行くんだろうね」
 絡めた指先に力が籠もる。くいと引かれて立ち止まる。
「行かないで。どこにも」
 目が合った。琥珀の色。すうと通った鼻筋、薄い唇。ほっそりとした首筋に、するりと絡む白い布……。
 月の影に蠢くそれは、天女の羽衣のようであった。
 実は、聡は天界の人間なのではないだろうか。
 布はしゅるしゅると首から伸び、その先端を五つに裂いた。蛇のように鎌首をもたげ、布は手に変化する。
 ――ワタサナイ。
 頭の中で声がする。
 囁くように紡がれる、掠れた女の声。耳の奥で、ざらりと小石が鳴った。


 葉子の部屋に招かれたのは、その数日後の事である。
 夜であった。
 風呂を浴び、火照った体を冷まそうとベランダに出たときのことである。
 手すりに手をかけて、仰ぎ見れば望月。まるまると太った月にうっすらと雲がかかり、まるで夢のような美しさであった。
 夜風が明美の短い髪の毛を嬲る。あまり長く外にいると、湯冷めしてしまうかもしれない。でも、何となく離れがたい。そんな矛盾した心持ちで、ぼうっと外を眺める。
 明美の自宅、道路を挟んだ向かいに、父母が管理しているアパートがあった。
 葉子はその階段を上っていた。買い物の帰りだったようで、手にスーパーの袋をぶら下げていた。
 随分と久しぶりに、顔を見た気がする。あの喫茶店でのお茶以来であろうか。
 明美はその姿をじいと見つめる。頼りないアパートの蛍光灯に、葉子のすらりとした長身が、ぼんやりと映し出されている。まるでテレビを見ているような錯覚を覚える。すぐそこにいるように見えるのに、どこか遠い。
 葉子はひとつの扉の前で止まった、202号室。ジーパンのポケットから鍵を取り出し、扉を開けて中に入ろうとする。その顔がこちらを向いた――目が、合った。
 葉子は驚いたようであった。目を見開き、こちらをじいと見つめている。彼女は小さく何かを呟いた。それはこちらには届かない。
 やがて葉子はゆっくりと、ゆっくりと、手招きを、した。
 夜の闇にほの白い手が蛇のように動く様に、明美は自分の首元を抑える。
 似ている。あの手に。
 誘われるままに、家を出た。両親には告げてある。二人とも、若くて綺麗なアパートの住人が大層お気に入りだったので、特にお咎めもなしであった。

「そこに座って。今お茶を淹れるから」
 明美は、ぐるりと部屋を見回した。
 初めて入った葉子の部屋は、秘密基地のようであった。
 六畳一間の純和室。その壁一面をぐるりと本棚が囲んでいる。その隙間には、様々な物が飾られていた。
 ゼンマイ式のオルゴール。ガラスでできた地球儀。大小の万華鏡。古い紙束。他にも用途の分からない物たちが、ごちゃりと息を潜めている。
 床にうず高く積まれた紙は、何かの資料のようであった。入れ損ねたのだろう、くしゃりと丸められた紙が、屑籠の側に何個も落ちている。本棚に寄せて置かれた文机には、原稿用紙と万年筆が無造作に置かれていた。
 雑多な部屋だ。それでいて、空気はどこか静謐であった。乱雑と、整頓。その矛盾が成り立っている。
 畳の中央に、小さなちゃぶ台。煎餅のように薄く潰れた座布団が二枚。その一枚の上に正座して、明美は、ぼうと視線を宙に彷徨わせる。
 時計の、時を刻む音。火にかけられた薬缶の煮沸の音。
 茶葉を準備する葉子の、かさりとした、音。
 静かだ。
 やがて、ちゃぶ台の上に、湯のみがことりと置かれた。
「どうぞ」
 綺麗な緑色の煎茶である。お茶受けに、と出されたのは苺。パックに入ったままでんと置かれたそれを見て、明美は苦笑した。煎茶と、苺。食べ合わせとしてはどうなのだろう。
 鳩時計が、軽やかに鳴る。
 二十一時。
 葉子も明美の向かいに座る。彼女は黙って湯呑を手にし、お茶を啜り、苺を口に運ぶ。明美も同じようにした。口に含んだ煎茶の苦味が、意外にも苺の甘さを引き立てている。瑞々しいその果物の甘い味わいに、明美はほうっと息を吐く。
 どのくらい、そうしていたのだろう。煎茶がほとんど空になり、苺のヘタが山になるくらいの時間を経て、思い出したかのように、葉子は言葉を息に乗せたのである。
「――白布」
「しろぬの?」
「そう。……どうしたの、それ」
 そう言って、明美の首に、つと手を伸ばした。その手は触れるか触れないかのところで、明美は慌てて身を引いた。
 怖い。首に触られるのが。
 葉子の顔が少し歪んだ。そのまま立ち上がり、本棚に手を伸ばす。そこから彼女が取り上げたのは、古ぼけた風呂敷の包みであった。
 葉子はそれをちゃぶ台の上に置くと、ゆっくりと包みをほどき始める。
 目に飛び込んできたのは、鮮やかな藍色であった。慎重に取り上げて、葉子はその藍を畳の上に広げる。着物の肩掛けだろうか。まるで雪のような白の絞りが、青に映えて美しい。
「これを、持っていてほしい」
「え?」
「お願い」
 有無を言わせぬその口調に、明美は首を縦に振った。元のように畳むと風呂敷に戻し、きゅっと絞ると、葉子がほっとした表情を浮かべふわりと笑った。
 微かに漂う、沈丁花の香り。
 ――ワタサナイ。
 不意に聞こえた声に、明美は息を呑んだ。
 急速に意識が浸食されていく。頭の中に、じわりと忍び込んだ触手が、ゆっくりと明美自身を絡めとっていくかのような感覚。
 甘い香り。沈丁花の香り。この香りを明美は知っている。
 雪が積もっている。
 ――雪?
 明美は彼の後を、二歩ほど下がって歩いている。
 ――彼って、誰?
 さくさくと、白に染まる世界を歩いている。抜けるような晴天。青が目に眩しく、明美は目を瞬かせる。
 道の両脇、左右に伸びた長屋の屋根には、うず高く雪が積もっていて、それが時々どさりと落ちた。
 不意に、明美は足を止めた。軒先に干してある青が、新鮮な輝きで目に映ったのである。
 目の覚めるような青。雪の白、長屋の焦げ茶に、その色がよく映えている。
 思わず、ほう、と感嘆の息を吐く。
「綺麗だなあ」
 呟く声が、耳に届いた。
「なあ、八重。見事な青だなあ」
 その声が本当に真摯に溢れていたので、明美は、嬉しかったのだ。彼の心からの声を久しぶりに聞いたような気がして、明美はようやく、笑った。笑うことができた。
「本当に。綺麗な藍染でございますね」
 習いは性になるとは言ったもので、そういう振りをしているはずが、歳を重ね、すっかり笑い方を忘れてしまったように思える。
 自らの生家に冠する名や立場が、ある一定の価値観の人からは喉から手が出るほど欲しいものだということに、明美は――八重はとうに気づいていた。だからこそ、早すぎる見合いも、父や母の期待も、仕方のなかったことだと頭では分かっている。
 だけど、と八重は思う。胸を焦がすような感情。手と手が触れ合う温かさ。読本で知った、甘酸っぱいような恋を、諦めたくなかったのだ。
 自分の容姿が人より優れていることには気付いている。だから、八重は一芝居打つことにしたのだ。
 笑わない。泣かない。感情を外に出さない。読本に出てくる雪女のように、冷たい表情の自分であれば、まとまる縁談も壊れるだろう。自分の周りに布を張り巡らせるかのように八重は振舞った。
 さぞかし、父や母は嘆いたであろう。当初はそれこそやむことのない雪のように舞い込んでいた縁談も、適齢を過ぎてから持ち込まれることはなくなっていた。
 最後の見合いだ、と言われて、彼の写真を見たとき、八重は心底驚いたものだ。
 幼い頃の面影そのままの彼。背は伸び、体つきもがっしりとして、身に纏う雰囲気も物慣れた大人然としていたが、その瞳は変わらない。あの雪の日に出会った時のままだ。
 覚えず胸が高鳴った。見合いの日を指折り数え、当日の服装も何度も確認し、立ち居振る舞いもしっかりとおさらいをした。しかし、長年笑うことのなかった表情だけは、治すことができない。
 きっと彼は、あの日の約束なんて忘れてしまっているだろう。
 けれど、八重は忘れていない。きちんと伝えなければ。この氷に閉じ込められた感情を溶かし、笑顔と共に、気持ちを打ち明けなければ。
 そう思っていた。それなのに。

 ――ワタサナイ。

 八重は――明美は、立ち上がる。
 眩暈がする。首からするすると白布が伸びる。
 声を出す。その声は、掠れている。
「――ワタサナイ」
 葉子が目を見開いた。薄めの唇を震わせて、低い声でぽつりと呟く。
「八重さん……」
 明美の首から伸びた、白い布――手が、蛇のようにうねり、葉子へと伸びていく。葉子は、裁かれるのを待つ罪人のように、青ざめた顔で布を見つめている。
 
 晩秋の夜。空には望月がかかっていた。薄羽にくるまれたかのような静謐な部屋で、葉子はがくりと首を落とす。
 明美の視界が白く染まっていく。そのままぐるぐると旋回するかのように、明美は白の世界へと落ちていった。


 ***


 雪が、降っていた。
 粉雪のようであった。しらりと舞う白が、桜の花弁のようである。
 ここは、どこだろう。確か自分は、葉子の部屋にいたのではなかっただろうか。妙に痛む頭を抱えて、明美はゆっくりと周りを見やった。
 大きな屋敷である。瓦の乗った木造の門構えに、しらしらと雪が舞い落ちている。
 門は固く閉ざされていた。ここからはきっと入れない。首を巡らせると、その横に設けられた小さな木戸が目に留まる。きっと、ここなら開くだろう。明美は昔見た時代劇を思い出す。こういう門には、必ずこういった小さな戸が付いていて、そこから出入りするものだ。
 そっと押すと、小さな軋み音を立て、戸がゆっくりと内側に開く。体を潜らせると、右手側に白壁の古い倉。左手側に平屋造りの屋敷。
 しんしんと雪が降り積もっていた。 玉砂利に敷かれた飛び石。そこにうっすらと降り積もった白が、目に眩しい。
明美はその上に足を置く。足跡はつかなかった。
 ――夢?
 ふと、人の気配を感じ、明美は顔を上げた。
 雪の降る縁側、その火鉢の前に、女性が腰を下ろしている。結い上げた黒髪、薄紫の着物に、たすき掛けし、白いさらし布を握りしめていた。
「ここは、白布の中」
「葉子さん!?」
 驚いて振り向くと、そこには葉子が立っていた。静かに降る雪の下、その黒髪に落ちる雪片がきらきらと輝いている。
「あの人は、ここでずっと同じ一日を、繰り返している」
 葉子の視線の先には、あの女性がいた。表情の見える位置にいるというのに、こちらには気づく様子はない。
 綺麗な人であった。
 線が細い。ともすれば折れそうなほどの細身である。背筋はすうと伸びており、凛とした佇まいに、厳しくも清冽な美しさを感じる人だ。
 白皙の頬、琥珀の目。墨を流したような黒髪。
 明美は首を捻った。見覚えのある顔である。いったいどこで……。
 女性は、立ち上がると、ゆっくりと、一歩一歩、確かめるようにこちらに向かって近づいてくる。
 握りしめた白い布が、ひらひらと揺れていた。
 風が吹く。
 雪片が舞う。
 手を伸ばせば届く距離まで来ても、女性は明美に気づかない。
「ほら」
 葉子の、低い声が響いた。
「額だ」
 明美は目を凝らし、そして絶句した。
 美しい白皙の肌。その額に生えていたのは、小さな二本の角。
「ごめんなさい」
 言葉を失った明美の後ろで、小さく声が聞こえた。
「葉子さん……?」
 葉子は、目を伏せていた。眉を寄せ、今にも泣き出しそうに見えた。
「葉子さん、あの人って」
「あれは、鬼だ」
「鬼……?」
 改めて、女性の姿を目で追った。生えた角に、女性は気づいていないのだろう。手に布を握りしめたまま、二人の横を通り過ぎる。
 その先には、倉があった。大きな観音開きの扉はぽっかりと開き、まるで何か大きな生き物が、口を開けて待ちかまえているかのようであった。
「もしかして」
 白皙の肌。
 琥珀の瞳。
 どこかで見たことがあるような気がした。そうだ、見ている。明美はその顔をよく知っている。色素の薄い琥珀の瞳。
 聡の瞳にそっくりだ。
「葉子さん、あの人は、もしかして」
 葉子は顔を上げ、口を開き、また、閉じた。
 女性は倉へと吸い込まれるように消えていく。
「白布は封印のあかし」
 不意に、葉子が呟いた。
「思いを封印して、外に出さないようにする。そうすれば、一見何も起こらない。けれど……」
 倉の扉が、ぎい、と閉まった。
「思いは水のようなもの。流れがないと腐ってしまう」
 葉子は再び目を伏せた。まるで、祈りを捧げているような表情であった。
「こんなことになるなんて、思わなかったんだ」
 がたり、と音がする。倉の中だ。何か、重い物を動かすような音。
 軋む。倒れる。微かな、うめき声。
 倉の中から聞こえていた音が、止んだ。痛いくらいの静寂が辺りを包んでいる。
「私は彼女を助けたい」
 葉子は顔を上げた。視線の先を追い、明美は目を見開いた。
 倉の中にいるはずの女性が、縁側にいたのである。火鉢の前に腰を下ろし、薄紫の着物にたすきを掛け、手に白いさらし布を持ったまま。
「明美ちゃん、お願いしてもいいかな」
「お願い?」
「彼を、連れてきて欲しい」
 葉子はつ、と明美の肩に手を置いた。
「渡した肩掛けがあるね。それが縁になる。辿っておいで。二人で」
 ごうと風が吹いた。
 下から吹き上げるような風である。葉子の黒髪が、天に巻き上げられるように踊っている。 粉雪が渦を巻く。激しい風に、明美は思わず目をつむり、その一瞬、葉子の表情を見た。
 葉子は微笑っていた。眉を寄せ、目を細めて、確かに微笑んでいた。まるでこの世界のあらゆる後悔を、一身に背負っているかのような。ひどく切ない笑みであった。

 ***

 目を開けると、葉子の部屋にいた。明美はゆっくりと起き上がる。頬が痛い。畳に直に寝ていたのだ。きっと跡になっているだろう。
 またあの夢を見た。
 雪が降っている。土蔵の見える濡れ縁に、座っている。ただし、今回は明美ではなかった。綺麗な着物姿の女性が座っていて、確か、葉子が……。
 そこまで考えて、明美は目を見開いた。
「葉子さん……?」
 ちゃぶ台の向こう側。本棚に背を預けて、葉子は目を閉じていた。
「葉子さん!」
 声をかける。
 葉子は目覚めない。慌てて駆け寄ると、葉子の肩に手をかけた。
 冷たい。まるで氷のようだ。
 呼吸はある。寝息のような微かな呼吸音とともに、緩やかに体が上下している。ただ、その体が異様に冷え切っているのである。
 何か、病気だろうか。救急車を呼んだ方がいいのだろうか。混乱し、真っ白になった頭に、葉子の言葉が過った。
 ――お願いしてもいいかな。
「お願い……」
 弾かれたように、肩から手を離した。
 先程の出来事は、夢ではなかったということか。
 明美は唇を噛みしめる。
 部屋の蛍光灯に照らされた葉子の顔は青白かった。力なく投げ出された手足は人形のようであった。
 二人で、と彼女は言った。一人は明美だ。そしてもう一人は、言われなくても誰だか分かる。
 明美は風呂敷包みを手に取った。横目で時計をみる。二十三時。ぎりぎりではあるが、電車はまだ動いている。
 行こう。
 聡に会わなければ。


 木枯らしが、裸に近い木々の間を吹き抜けていく。吐く息もすっかり白い。限りなく冬に近い、晩秋の夜。
 聡の家は、広かった。大きな門は内側に開かれ、外からでも中の様子がよく見える。右手側に白壁の古い倉。左手側に平屋造りの屋敷。庭を一望できるように作られた濡れ縁が、闇に輪郭を溶かしこんでいる。
  ――夢と、同じだ。
 あの縁側に、女性が腰を下ろしていた。手に白い布を握りしめて。
 両親には、葉子の部屋に泊まる、と伝えてあった。勉強を教えてもらうのだと嘘を吐き、教科書などを取りに行くふりをして、明美はこっそり連絡網をもち出すことに成功したのである。
 明美は風呂敷包みを抱き、きゅうと抱きしめた。心臓が、鼓動を速めている。既に、深夜だ。抑えきれない黒い予感が、胸中に渦巻いている。
 おそるおそる門を潜り、玉砂利に敷かれた飛び石を踏んだ。静かだ。動いている人の気配がない。
「ごめんください」
 玄関の格子戸の外から、声をかけた。
 返事はない。
 聞こえなかったのかもしれない。それとも、寝入ってしまったのか。それもそうだ。明美だって普段であれば、この時間は布団の中にいる。
 逡巡し、引き戸に手をかけると、鍵はかかっていなかった。門の事といい、不用心すぎるのではないだろうか。
 ゆっくりと戸を引き開けて、明美はもう一度声をかける。
「夜分に失礼いたします。聡君のクラスメートの、笹原と申します」
 広い三和土と、まっすぐに伸びた板張りの廊下に、明美の声が反響する。闇に沈んだ廊下。やはり人の気配はない。
「……笹原さん?」
 ふいに声が聞こえ、明美は目を瞬かせた。
 廊下の奥、凝った闇に溶け込むように、ぼんやりと白い輪郭が浮かびあがった。
「どうしたの!?」
 そこに、聡がいた。

 事情を説明しても、聡は笑わなかった。それどころか顔を引き締め、その色をやや青に染めながら、こう呟いたのである。
「そうか、君にも見えていたのか」
 聡はつう、と首を抑えた。
 案内されたのは、倉の中であった。分厚い扉を開け、入り口近くの紐を引くと、ぽちりと小さな明かりが灯る。
 豆電球の頼りない光が、倉の内部をぼんやりと浮かび上がらせていた。むき出しの土には茣蓙、その上に古い道具類が無造作に積まれている。定期的に手を入れているのだろうか、随分と古い物なのに、埃をかぶっている様子はない。
 聡は倉の中をゆっくりと歩く。
 雑然とした、その倉の中で、中央だけがぽかりと空いていた。
「ここで、母が自殺した」
 聡は立ち止まり、天を仰ぐ。倉の梁だ。太く黒光りするそれが、豆電球の光に濃い陰影を描いている。
「母は、父が亡くなってから気を病んでいたらしい」
 あんまり覚えていないんだけどね、と聡は寂しそうに笑う。
「ぼくの父さんは、ぼくが生まれる直前で亡くなったんだって。母さんはそれでおかしくなっちゃったんだって、そう、祖母が言ってるのを聞いたことがある」
 ――そんな。
 父も母も死に、先日祖母が死んだという。
 では、聡はこの広い屋敷で、たった一人で暮らしているのだろうか。明美の強張った顔に気づいたのであろう、聡は目の端に笑みを浮かべた。
「うん。ぼくは今、一人だ。祖母が亡くなってからは、三日に一度、親戚が来てくれている」
 明美は言葉が見つからない。
「母が死んでから。ぼくにはずっと呪いがかかっていた。白い布の呪いが」
「白い、布……」
 聡は今にも泣きそうであった。手は小刻みに震えていた。
「きっと祖母にも見えていたんだと思う。布が……白い布が、目の端に移り込んで……だから、母はもしかしたらぼくを連れて行こうとしているのかと」
 明美は思わず聡の手を握った。
「もしかしたら、ぼくも、母や、祖母のように……!」
 聡は顔を歪める。
「大丈夫」
 明美は思わず聡を抱き締める。
「そんなことには絶対にならない。あたしがさせない」
 胸の奥から、ふつふつと熱い思いが沸き上がる。その思いのままに腕に力を込めた。風呂敷包みが床に落ち、ばさりと乾いた音を立てる。
「……植草くん、これ、何だか分かる?」
 明美はそろそろと聡から体を離し、しゃがみ込むと風呂敷包みを手に取った。そっと結び目を解いていく。あの藍染めの肩掛けを取り出すと、空気がざわりと揺れた気がした。
 開け放してあった倉の戸から、風が舞い込んだ。急速に空気が冷たくなっていく。これは冬の寒さではない。もっと危険な、季節とは全く無関係の、異様なまでの冷気であった。
 すう、と聡の首元から布が伸びた。
 それはゆっくりと、手拭いを握った明美の腕を這い、肩をなぞり、首元に絡みつく。
 ――ワタサナイ。
「笹原さん!」
 明美は喘いだ。
 聡の首から伸びた布が、明美の首を締め上げる。その明美の首からも、吹き出すように、布が伸びる。先端を五指に替え、首に、手に、腕に、布がぬらりと這い上がる。
「植草、く、ん」
 明美の首から伸びた布が、聡の首に巻き付いた。二つの布は絡み合い、燃えるように、舐めるように、二人の体を包み込んでいく。
 視界が白く染まっていく。
 揺れる。落ちる。
 藍染の肩掛けを握り締めていた明美の拳に、温かな手が重なった。そのまま強く握られる。目を開けているのか閉じているのかも分からない真っ白な世界の中で、その手の力強さだけが頼もしく感じられた。
 聡だ。聡がそこにいる。

 ***


 雪が降っていた。明美は瞠目する。粉雪のようであった。桜の花びらのような雪が、さらさらと舞う。大きな屋敷。玉砂利に敷かれた飛び石に、うっすらと降り積もった白が目に眩しい。
「……ここ、ぼくの家だ」
 聡がぽつりとつぶやく。握り合っていた手をそうっと放し、聡は呆然と立ちすくんでいた。
「あ……」
 雪の降る縁側、その火鉢の前に、女性が腰を下ろしている。結い上げた黒髪。握りしめた白いさらし布。
「母さん……?」
 聡が目を見開いた。
「良かった」
 背後からの声に明美が振り返ると、そこに、葉子がいた。彼女は微笑んでいた。困ったように眉を寄せ、小首を傾げて、目を細めていた。
「明美ちゃん、ありがとう」
 葉子は眉を下げて、また笑う。
「聡くんだね。……よく似てる」
「似、てる?」
 聡の問いに、葉子はなんでもないと言うように軽く首を振った。
「明美ちゃん、その肩掛けを」
 言われるままに、葉子に藍染の肩掛けを渡す。彼女はそれを丁寧な手つきで受け取ると、すうと目を細めた。
 縁側の女性は、つうと立ち上がると、ゆっくりと。一歩一歩、確かめる様に此方に向かって近づいてくる。その手に持った白い布が、ひらりと揺れた。
 風が吹く。
 雪片が舞う。
 手を伸ばせば届く距離まで来ても、女性はこちらに気づかない。
 美しい白皙の肌。
 その額に生えた、小さな二本の角。
「八重さん」
 ふわりと漂う沈丁花。葉子の香り。女性の足が、ひたりと止まった。
 ――ワタサナイ。
 からくり人形のように、女性の顔がかくりと揺れた。
 その目がぎこちなく動き、葉子を捕えた。琥珀色の瞳が、まるで染料を流し込んだかのように真紅に変わる。額の角がめきり、と鳴いた。
 ――ワタサナイ。
 白く舞う雪が、もったりと間延びする。ゆるゆると伸ばし、曇天から降るそれは、もはや雪ではなかった。
 布だ。白い布が、先端を五指に替えて降り注ぐ。
 二人をかばうように、葉子が一歩、前にでる。聡は黙っていた。黙って、目の前の女性が変貌する様を見つめている。
 口が裂けた。その赤い唇から、鋭い牙がぞろりと生える。結い上げた黒髪が解れ、墨を吸い取られるかのように、色味を失くしていく。白髪を振り乱し、牙をはやしたその姿は、まさしく鬼であった。
「かあ、さん」
 聡が小さく呻いた。明美は聡の手を握りしめる。力を込めると、聡も、明美の掌を握り返す。
 ――ワタサナイ。
 女性の首から、布が伸びた。それは一瞬、蛇が鎌首をもたげているかのようにゆらゆらと揺れて、そのまま。
 一直線に、走った。
 先端を五指に替え、空を切り、葉子へと伸びていく。
「葉子さん! 危ない!」
 明美は叫ぶ。あれは良くないものだ。危険なものだ。
 葉子は、そっと微笑んだ。
「八重さん」
 葉子は眉を下げ、手渡した藍染の肩掛けを、天に放り投げた。
「連れてきましたよ」
 藍の肩掛けが宙を舞う。その影から、ゆうらりと人が現れた。
 男のようである。線の細い男性であった。優しげに細められた瞳。ぼさりと伸びた、茶色がかった髪。

 ――八重。

 男は、そっと女性の名を口にした。柔らかな声であった。伸びていた布が止まる。勢いを失くし、地面にはさりと落ちていく。
「すまなかった、八重」
 女性の真紅の目から、つうと涙が落ちた。
「八重……」
 天から降る白布が、ゆうるりと青に染まっていく。青い青い布が舞う中、男はゆっくりと八重に近づいた。
「要、さん」
「八重、俺はずっと言えなかった。言ったらあんたがいなくなると思っていた。けど、こんなことになる前に言わなきゃいけなかったんだ」
「――要さん」
 女性の、角が割れた。目に光が宿る。墨を吸い上げるように、髪の色が戻っていく。
「……雪の日の約束を覚えているか」
「……ええ」
「俺は、あんたを縛っていたかもしれない。けど、あの雪の日からずっと、八重のことだけが好きだった……」
 八重の瞳から、ぼろりと涙がこぼれた。
「私も、ずっと――お慕い、しておりました……」
 降り積る青布に包まれ、二人はしっかりと抱き合った。
 耳に届くのは、不思議な旋律。これは葉子の声だ。葉子が歌っている。低く、高く響く歌声が、清涼な響きで空気を塗り替えていく。風が吹く。巻き上がる風は、青い布を巻き込んで、天高く昇って行く。
 歌声に混じり、明美の耳に嗚咽が聞こえた。目が眩むような青の中、聡の両親の、幸せそうな笑顔がちらりと見えた。
 隣で、聡が泣いていた。嗚咽を噛み殺し、必死に歯を食いしばって。
 明美はそっと決意する。自分は、決してこの人を一人にしない。一秒たりともするものか。
 そばにいる。自分だけは絶対に、この人を置いていったりはしない。
 ゆるゆると、視界が青に染まっていく。その青に飲み込まれるように、明美はゆっくりと目を閉じた。


 目を開けると、そこは元の倉の中であった。
 ゆっくりと起き上がる。頬が痛い。茣蓙の上に直に寝ていたのだ。きっと跡になっているだろう。
 明美はそっと頬を撫でる。開け放した倉の扉から、うっすらと明かりが差し込んでいた。吹き込む晩秋の風に、身を震わせる。
 何が起こったのだろう。記憶を反芻し、明美は目を見開いた。
「植草くん」
 倉の中央、ぽかりと開いたその場所に、聡が目を閉じて倒れていた。
「植草くん!」
 駆け寄って抱き起すと、力の抜けた体がひくりと動いた。 ゆっくりと目を開ける聡の、琥珀色の瞳に色が戻っていく。
 明美は安堵の息を吐いた。
「良かった」
「笹原さん……」
 聡は震えていた。白い顔を更に白く染めて、顔を歪めていた。
「夢じゃないんだよね」
「――うん」
「母さんは、父さんも」
「うん」
「ぼくは」
「うん」
「ぼくだけが」
「あたしが、いる!」
 思わず、叫んだ。聡がぴたり口を噤む。
「笹原さん……?」
「あたしがいる。あたしは植草くんを置いていかないし、一人にしない。約束する!」
「笹原さん……」
 聡の体は冷え切っていた。少しでも温かくなるように、きつく、きつく腕に力を入れて、明美は聡を抱き寄せる。
 白い雪の降りしきる中、天に上った青い布。聡の両親は報われたのだろうか。それは明美には分からない。けれど、腕の中で赤子のように泣く聡は、きっと傷ついたに違いないのだ。
 聡の冷えた体が、徐々に温まっていく。二人でいよう。二人でいれば、きっと温かい。
 頼りない朝の光が、倉の中に差し込んで線を描いた。

 もう冬だ。
 今日は雪になるのかもしれなかった。


 ***


「本当の事をいうとね」
 明美はクリームソーダに浮かんだアイスクリームをスプーンでつついた。
「あたし、すごく腹が立ったの」
「ん?」
 学校帰り。久しぶりに、こっそりと喫茶店に寄ったのである。
 聡は珈琲を嗜んでいた。香ばしい香りが辺りに漂っている。
「だって、あの二人とも、植草くんのこと」
 そこまで言って、明美は口をつぐんだ。
「ごめん、なんでもない」
 流石に言えなかった。それでも、明美は苛立っていたのだ。
 聡の両親は、それで幸せだったのかもしれない。でも、その息子の聡が一人残されたことには違いないのだ。
 聡は微笑んだ。
「ううん。分かるよ。ぼくも、そう思ってた」
「ごめん」
「いいんだ」
 聡は、目を細める。
「ありがとう」
「……え?」
「笹原さんが、僕のために怒っている。それだけでぼくは嬉しいんだ」
 そう言って、聡はほうと息を吐いた。
「葉子さんにも、お礼を言いたかったんだけどね」
 葉子はアパートを退居した。退居した、と、両親から聞かされた。親戚に不幸があって、すぐに郷里に帰らなければならない、とのことであった。
「葉子さんって、何者なんだろう」
「さあ。……でも」
 聡は珈琲カップをかたりとおいた。
「すごく、素敵な人だったね」
 明美もうなずいた。
 何となく、明美には分かっていた。空っぽの202号室を見て、明美は思ったものだ。
 もう二度と、葉子には会えない。あの不思議な麗人は、二度と自分たちの前に姿を現すことはないのだろう。
「ねえ、笹原さん、お願いがあるんだ」
 改まった表情の聡に、明美はぱちりと目を瞬かせる。
「お願い?」
「ぼくにマフラー編んでくれない?」
「へっ!?」
「実は憧れてたんだ。彼女の手編みマフラー」
「え、え、え!?」
「だめ?」
 明美は盛大に困惑する。今、彼は、何と言った?
 明美の顔が一気に朱に染まる。
「あの、あのね、確認なんだけどね」
 聞かなければと思っていたのだ。ずるずるとここまで来てしまったが、今が最後のチャンスである。
 明美は深呼吸した。
「……あたしたちって、付き合ってる……の?」
 聡は、瞠目した。
「え」
「え」
「あ、そうか、言ってなかったのか」
「聞いて、ない」
「あ……」
「うん」
「……あの、さ」
 聡は顔を机に臥せた
 その耳が赤く染まっているのを、明美は見逃さなかった。
「笹原さん、ぼくは」


 冬だ。
 雪が、桜の花のように舞う。
 手を繋ぐ。首に巻かれた白いマフラーが、木枯らしに揺れている。
 曇天から舞う雪を見て、明美は微笑んだ。
 この手を、絶対に離さない。
 もう一人にはしない。そう決めた。
 幻想的な風景であった。
 歩く。
 歩く。
 視界が白で埋め尽くされる
「ねえ明美ちゃん」
「うん」
 交わされた約束。
 それが、十年後に叶うことになるのを、まだ二人は知らなかった。

 雪が、降っていた。
 白い、白い、雪が。

 彼女の絵は正に鏡であった。




 高校二年生までの希美は、輝いていた。それは決して自己満足の領域ではなかったと記憶している。
 幼い頃より、絵を描くのが好きであった。好きこそもののとはよく言ったもので、好きから得意に変わるのはそれほど遅いことではなかった。描けば描くほど上達し、上達すれば描きたくなった。楽しかった。思う線が描けたとき、思う色が出せたとき、希美はただひたすらに、喜び、はしゃぎ、そして満足した。

 もっと描きたい。専門的に勉強したい。そんな思いが芽生えるのも当然であった。それで、中学卒業後、美術専攻のコースがある学校に進学したのである。

 そこで、出会ったのが美由紀であった。

 最初に席が隣になったこともあって、美由紀とはよく喋るようになった。彼女は、ほわりとしていて、危なっかしい。元来世話好きの希美が心を砕くようになるには対して時間はかからなかった。
「美由紀、ほら、ちゃっちゃと食べちゃってよ。もう移動しなきゃ」
「うん、ごめんねのんちゃん」
「ちょっとご飯粒落としてる」
「あっ」
「焦んなくていいよ。私、待ってるから」
「ありがとう。いつもごめんね」
 ありがとう、ごめんね。彼女の使う二大用語は感謝と謝罪。何をするにもおっとりで、人より時間がかかるタイプ。謙虚で、呑気で、笑みを絶やさない、美由紀はそういう子であった。
「のんちゃんの絵はすごいなあ」
 美由紀は希美の絵を見る度に、感嘆の息を吐く。
「本当に綺麗。わたしこんな色出せないもん」
「ありがと」
「うん、わたし、本当にのんちゃんの絵、好きだよ」
 そう言って、彼女はにっこりと笑うのだ。

 そんな美由紀の描く絵は、いっそ手抜きと言われてもいいくらいにシンプルなものであった。白いキャンバスの隅、あるいは真ん中に、描かれた四角形。
 それは大きかったり、小さかったり、一つだけだったり、沢山連なっていたりしたが、いつも必ず四角であった。
 当時希美は色を作ることに執心していて、キャンバスを色で埋め尽くすような絵ばかりを描いていたものだから、美由紀の絵のよさが全くと言っていいほど分からなかった。特に難しい技法を使うわけでもない。色もほとんど作らずに、既存の物だけで描いている。凡庸な、のっぺりとした、何の面白さもない絵。
「まだ終わらないの」
「うん……ちょっと」
「もう提出しないと。時間だよ」
「うん……」
 課題で隣の席になった時、キャンバスを前にうんうん唸る彼女を見て、希美は笑った。
何を悩むことがあるのだろう。ただ四角を描けば、その課題は終わりだろうに。


 最終学年になった時、希美と美由紀は同じコンクールに参加した。学生だけのコンクールだが、全国規模のもので、そこに入選するだけで大したものだと言われる大会であった。
「梶山さんなら、入選確実だと思うよ」
 担任の教師もそう太鼓判を押してくれた。
「上位三名は大学推薦枠だから、まあ大丈夫だと思うけど、頑張ってね」

 出品したものは希美にとっても自信作で、緑と青をふんだんに使った、宇宙をイメージした絵であった。我ながら良い色だ、と、希美は悦に入ったものだ。
 入選は確実だと教師も言っている。もしかしたら金賞も狙えるのではないだろうか。そしたら大学にも推薦で入れるし、この賞を取れたら自分の名にも箔がつく。そしたら夢であった個展も開けるかもしれないし、大学に通いながら画家として名をあげることもできるのかもしれない。

 胸をときめかせながら発表の会場に行き、そこで目にしたのは、金色の、大きな額に入れられた――美由紀の絵。
 中央に、黒縁で描かれた四角。ただそれだけの作品。

 『鏡』

 一文字で描かれたタイトル。
 その右横には、自分の絵が飾られていた。銀色の枠に入れられて、明らかに美由紀のものよりも、一歩下がった展示をされている。
 状況を理解するのには、少々の時間を要した。つまり、美由紀のこの絵が金賞で、自分は銀だということだろうか。こんな、たかが四角を描いたものが金で、自分が銀……。 

 ――いやあ、素晴らしい。

 そんな声が耳に入った。ぎこちなく横を見る。品のよさそうな老夫婦が、しきりと頷きあっていた。
 ――銀の子のもいいが、わたしはこちらの方が好みだな。
 まさか、美由紀の絵の事を言っているのだろうか。
 自分の絵よりも、たったひとつの四角の方が評価されている。色だって、構図だって、自分の方がしっかり描いているのに、何故。



 その後、作品の返送とともに、自作の評価が届いた。
 『色遣いが素晴らしい』『構図が計算されている』『技巧派』など、きらきらしい誉め言葉が舞う評価であった。


 それなのに、美由紀が金で自分は銀なのだ。


 希美は、返ってきた絵と、その評価を、火にくべて燃やした。
 立派な額に飾られた美由紀の絵が、頭から離れなかった。
 時間をかけて、丁寧に、全力で取り組んできたつもりだ。構図も、色を作るのも努力した。今までで一番の自信作だったのだ。その自作よりも、たった一つの四角に自分は負けた。

 いったい、彼女の絵の何が評価されたのだろう。自分と比べてどこが秀でているのだろう。技巧。色使い。構図。それが優れていたとしても、美由紀の四角には劣るのだ。それでは、もう、絵なんて勉強する意味がないではないか――。


 話をいただいていた美術大学を蹴り、夜間の専門学校へ通うこととなった。元々あまり裕福な家庭ではなかったので、推薦を貰える大学を蹴ったことは希美の家庭にとっても大打撃だったようだ。そこを何とか、と、お願いして、夜間の学校ならと折れてもらったのである。
 調理師の専門学校だ。ずっと絵ばかりを描いてきたので、その絵を失くした自分には、もう何も残らない。それならば手に職をつけよう。そう考えての事であった。

「のんちゃん」
 卒業証書を持った彼女が言った。
「ねえ、嘘でしょ」
「なにが」
「大学、蹴ったの?」
「誰に聞いたの」
「ねえ、なんで?」
「一身上の都合、よ」
「そ、そっか……」
 沈黙が重かった。美由紀は、そっと上目遣いで希美の様子を伺っている。そのおどおどとした態度が、希美の感情をどんどん逆撫でしていくのだ。黒い感情が、ふつふつと溜まっていく。
 美由紀は何回か口を開け、閉じ、絞り出すように言葉を紡ぎ出した。
「でも、どこに行っても描くのは続けられるもんね! のんちゃんの絵ならどこでだって通用するよ」
「ねえ」
 もう聞きたくなかった。
「わたし、のんちゃんの絵が」
「やめてくれない? そういうの」
 今の自分は、きっと醜い顔をしているだろう。
「美由紀。私ね、あんたのそういうとこすごく嫌」
「え?」
「もう、顔も見たくない」
 美由紀になんて、出会わなければ良かった。そしたら、絵筆を折ることもなかっただろう。

 大きく見開かれた美由紀の目には、希美が映っていた。その自分の表情を、希美は一生忘れることはないだろう。衝撃、絶望、怒り、悲しみ、嫉妬、あらゆるマイナスの色を浮かべたその顔。
 美由紀の瞳から、みるみる涙が盛り上がった。一粒零れる。その涙にも、希美の顔が映りこんでいた。大きく歪んでほたりと落ちる。
 醜い。なんて醜いのだろう。




 専門学校に入学してすぐ、希美はカフェでアルバイトを始めた。夜間の学校は、昼に働くことができるのが利点だ。少しでも働いて、学費の足しにしなければならない。これは両親と交わした約束のひとつでもあった。
 そのカフェは、路地裏にひっそりと佇む隠れ家のような店で、メニューも豊富で味もいい。最大の特徴は、店内にアクアリウムが設置されていることだ。青い光で満ちた水槽の中を、カラフルな熱帯魚が優雅に泳いでいる。

 このアクアリウムは、マスターの趣味なのだそうだ。
「業務に魚の世話もあるんだけど、大丈夫?」
 面接の際に、マスターが、髭を撫でつけながら心配そうに言うのがおかしくて、希美は思わず笑ってしまったものだ。

 グラスを磨きながら物思いに耽っていると、来店を告げる鐘の音。
「いらっしゃいませ」
 女性だ。長身に、長い黒髪を靡かせた、二十代くらいの。細い体には、春風は寒く感じるのだろうか、革ジャケットを着こんでいるのが印象的だった。スキニーのジーパンに包まれた、すらりと伸びた形の良い足。
 整った顔立ちに希美はハッとする。モデルか。少なくとも会社員ではないだろう。平日の昼だ。勤め人がふらふらするような時間ではない。では、学生か。いや、違う。歳は近いような気もするが、雰囲気が学生のそれではない。

 彼女は物馴れた様子でカウンター席に腰掛ける。
 お冷を出し、注文を取りに行くと、彼女は掠れた声で。
「いちごパフェ」
 と、呟いた。



「マスター、いちごパフェ、ひとつ」
「あ、いつもの人か」
 マスターは冷蔵庫から苺を取り出し、ほれぼれする手つきでカットを始めた。
 綺麗な飾り切りだ。少しだけ果肉を残して細く切れ目を入れ、少しずつずらしながら盛り付けると、螺旋階段のようになる。希美も実習でやったことがあるのだが、思いのほか難しかった。特に熟した苺は潰れやすく、綺麗に切ろうとしてもなかなかうまくいかない。
「いつもの人?」
「そう、常連。べっぴんさんだよねえ」
 話しながらマスターはパフェを仕上げていく。綺麗に完成したそれはまさに芸術品で、希美はほうと息を吐いた。

 出来上がったパフェを持っていくと、その女性は顔を綻ばせた。その顔が心底喜んでいるようで、希美もつられて笑顔になる。
「失礼します」
 希美が去ろうとした時であった。
「待って」
 くいと服を引かれた。驚いて振り返ると、女性の真剣な瞳とかち合った。
「なんでしょう」
「鏡」
「……え?」
「鏡、に覚えがない?」
 女性の、黒々と切れ上がった、涼しげな瞳に自分が映っている。

『鏡』
 ――美由紀の絵。

「……仕事中なので。失礼します」
 失礼にならないように、その手を振りほどき、希美はその場を離れた。
 バックヤードに戻ると、マスターが新聞を広げていた。一日中店に居ると言っていたから、チェックする時間がここしかないのだろう。
 戻ってきた希美に、彼は人のよさそうな顔を緩めてこう言った。
「梶山さんは、今いくつだっけ」
「十八、ですけど」
「じゃあ、この子知ってる?」
「……え?」
「ほら、出身学校同じだよこの子。すごいねえ若いのに」
 嫌な、予感がした。
 マスターが喜色満面で差し出した新聞。
 その芸術欄に、彼女が。美由紀が、いた。少しはにかんで映っているその隣に、彼女の絵。
 四角い、四角い。
「ちょっと、すみません」
 思わず駆け出した。
 洗面所に飛び込んで、ひたすら嘔吐く。

 若き逸材。
 新進気鋭の。
 四角に魅せられた。

 見出しが、頭の中を木の葉のように舞った。ぐるりぐるりとそれは竜巻のようになり、黒く、黒く踊っている。この感情はなんだ。このどろどろとした。淀んだ感情は。

 気持ち悪い。

 何かがぐるぐると渦巻いている。
 顔を上げた。
 洗面所の鏡に希美が映る。
 その顔が歪んだ。
 顔の中央に黒影が渦巻いて、ぶすぶすと煙を上げている。
 なんて顔をしているのだ。
 

 醜い。

 心配したマスターの計らいで、その日は早く上がらせてもらった。当然学校に行けるような精神ではない。休む旨を連絡し、帰宅することにする。

 珍しく晴天であった。ここ数日は雨が降ったり止んだりで、じとりとしていた空気も今日で少しは乾くだろう。
 桜並木の花はだいぶ落ちてしまったようだ。所々にできた水たまりをよけながら、希美は歩く。花の絨毯は湿り気を帯び、ねちょりと地面にこびりついていた。
 茶色く変色した桜の花弁が、スニーカーに張り付く。

 醜い。

 足を蹴り上げた。どんなに蹴り上げても、その花弁は落ちなかった。無性に腹が立った。むしゃくしゃしながら希美は歩く。
 びちゃり、びちゃり。
 茶褐色の花弁をわざと踏むようにして、希美は歩く。歩道の中央に、大きな水たまりがあった。避けようとして、何の気なしに覗き込み――希美は、絶句する。
 水たまりに映った希美の顔。その顔は、真っ黒く変色していた。吸い込まれるような黒さであった。
 よく見ると、渦を巻いている。風呂場の栓を抜いたときのように、ゆるゆると巻いたそれは、どんどん勢いを増していく。
「あ……」

 体が、動かない。
 声が、出ない。
 すり抜けた自転車が、不審そうにこちらを見た。
 誰も気づかない。
 黒い渦は激しさを増している。
 駄目だ。
 一歩、足が動いた。
 ぱしゃり、と水たまりに波紋が広がる。
 もう一歩。
 ぱしゃり。
 嫌だ。
 吸い込まれる。
 誰か。

 ――いやだ!

「駄目」
 不意に腕を掴まれて、希美は大きくのけ反った。そのまま後ろ手に引かれ、とさりと抱き留められる。
 視界の横に、黒絹のような髪が流れた。
 ふわりと漂う、花の香り。
「良かった」
 耳元で声。少し掠れた低めの。
 振り返ったそこに、あの人がいた。
 カウンター席に座っていた、いちごパフェの、綺麗な女性。
「良かった、間に合って」
 そういって、彼女は、笑った。
 ひどく慈愛に満ちた笑みであった。
「鏡は、良くないんだ」
 公園のベンチに腰掛けて、その女性はぽつりと呟いた。

 昼下がりの公園は、平和そのものであった。まだ小学校に上がる前くらいの子どもが、嬌声を上げて走り回っている。それを見守る母親たちの温かな視線に、凝った心が少しずつ溶けていくようであった。
「良くないって、どういうことですか」
「鏡は、映してしまうから。そして増幅してしまう」
「……え」
 女性は、歌うように呟く。
「容赦がないね。こちらを全て映し出してしまうものだから」
「こちらを、全て……」 
「隠しておきたいものも、心も、全部見えてしまう。厄介だよね」
 希美は、俯いた。

 鏡。
 美由紀の絵。

 あの絵を見たときに、希美は暴かれたのだ。傲慢、思い上がり、ほんの少しの蔑み。そして、嫉妬。そのことに希美は動揺した。
 描いていれば、しあわせだった。楽しかったはずなのに。いつから自分は、誰かと比べるようになってしまったのだろうか。

「私」
「うん」
「私、本当は」
「うん」
「描きたい」
「うん」
「描きたい……」
 思いが鈴なりになって降ってくる。もやりとした夢が醒めるように、視界が開いていく。


 ぽつり、と雨が降った。さっきまで晴れていたはずなのに。天を仰いだ。いや、今も晴れている。燦々と降り注ぐ陽光に、雨がさらさらと輝いていた。
「狐が、嫁を迎えたのかな」
 そういって彼女は笑い、小さく歌を口ずさむ。
 どこか懐かしい、柔らかな響き。低く高く響く歌の言葉の意味までは分からない。けれど、胸の奥に温かな光が灯るような、優しい音をしていた。
「大丈夫」
 彼女の黒の瞳が細められる。
 ふわりと漂う、花の香り。
 目を閉じだ。この香り、知っている。春告げの花、沈丁花の香り――。


 そっと目を開くと。
 もう、その女性はいなかった。

「……のんちゃん?」
 電話越しの美由紀の声は、怯えていた。当たり前だ。あんな言葉を投げつけてきた相手である。電話越しでも怖いだろう。
 希美は息を吸い込んだ。
「ごめんね」
 息に声を乗せる。少し震えたかもしれない。
「え?」
「ごめん」
「どうしたの?」
「私、酷いこと言った。ごめん」
「のんちゃん」
「新聞、見たよ、おめでとう」
 息を呑む気配がした。
挫けてはだめだ。美由紀に、きちんと謝らなければ。そうしないと、希美は戻ってこられない。
「私、あの時からずっと」
「うん」
「ずっと」
 しっかりしろ。
 自分に言い聞かせる。
「あんたに、嫉妬してた。……本当にごめん。謝って許されることじゃないけど」
「のんちゃん」
 遮った声は、思いもよらぬ柔らかな響きであった。
「のんちゃんから電話くれたってことは、仲直り、していいんだよね」
「美由紀」
「のんちゃん、ありがとう」
 希美は電話を握り締めた。心から、あらゆる温かな感情が溢れ出るようであった。
「美由紀、私、描きたい。また、描いても、いいかな」
「え!? 本当!? 良かった!」
「怒らないの?」
「なんで? 前も言ったよわたし! わたしね」
 美由紀はそこで言葉を切った。そして、晴れやかな声でこう言ったのだ。
「のんちゃんの絵、好きなんだ!」
 敵わない、美由紀には。
 自然と流れる涙を拭って、希美は微笑んだ。





「いやぁ、梶山さんに頼んでよかったよ」
「本当ですか?」
「うん。想像以上。すごいよ。常連さんにも褒められたんだ」
 マスターは、大きく頷いた。
 壁一面、上から下までを使って描かれた、大きな絵。
 青と緑の、宇宙の中に魚が沢山泳いでいる。その魚の呟く泡に、大きく描かれたメニューの名前が楽しそうに踊っている。
 恐る恐る手を挙げてよかった。
 店に壁画を描きたい、と言ったときは流石に驚いていたようだが、マスターは快諾してくれた。半月間、店を閉めての改装である。感謝してもし足りない。希美は頭が下がる一方であった。
「梶山さん、名刺、持ってないの?」
「え」
「常連さんの中にね、やっぱりお店をやってる人がいてね」
 マスターは髭を撫でながらにやりと笑った。
「描いて欲しいそうだ。連絡先、教えてもいいかな」


 それからというもの、希美の元には度々壁画の依頼が入るようになった。大きな物から小さな物まで、様々な仕事があったが、希美は来た物全てに、なるだけ答えるようにしている。
 ありがたい。自分の絵を気に入ってくれている人がいる、そのことがとても嬉しかった。
 調理師の学校も続けている。こちらも身を入れてみると、絵に通ずるところがちらほらあって、とても面白い。

「飾り切り、上手くなったなあ」
「え?」
 苺を切っていた時に、マスターがほとりと呟いた。
「前はぐしゃぐしゃだったけれど」
「マスター、それいつの話ですか」
「うんうん、若いっていいねえ」
 しきりに頷くマスターをじろりと睨み、希美はパフェを仕上げた。
 少しだけ、苺を盛ってある。マスターには内緒だ。
 相変わらずの姿でカウンターに座る彼女を見て、希美はほくそ笑む。あの人はきっと喜ぶだろう。この間も、嬉しそうに苺を頬張っていた。今度は生クリームもこっそり増量してみようか。
 今度の日曜日は休みを取った。美由紀の個展があるのだという。学生の身分で個展が開けるのだから、流石美由紀、といったところだ。
「楽しみだなあ」
 声に出していたらしい。それを聞いたマスターが、新聞を捲りながら笑った。
「若いって、いいねえ」

 
 季節は二回目の春を迎えようとしていた。
 希望の春であった。
 見下ろしていたその人は、とても優しい、青い色をしていた。抜けるような青空。雲一つない晴天に、すっくと立っていたのである。
 青の巨人。
 緑が煙る山の向こう、その稜線から、唯の頭の上にまで。空に溶けるような色をして、手を四方に広げ覆いかぶさるように。
 手にしたラムネ瓶を取り落とす。熱を伴う文月の風が、サイダーの甘い香りをくゆらせる。

 なんて綺麗な人だろう。まるで、このラムネのようだ。しゅわりしゅわりと体の中に泡が大小立ち昇り、循環し、弾けては消えまた生まれ……。
「あれが、見えるんかい」
 口をあんぐりと開けて見入っていた唯の頭を撫で回し、祖母は笑った。
 唯の顔をじっくりと見て、祖母はくしゃりと顔を歪める。鼻先に掠める土のにおい。祖母の手のひらは大きく、がさがさとしていて、そして、とても温かかった。
「さすが、ばあちゃんの孫だ」
 そう言って目を細めた祖母は。

 もう、いない。


 ***


「唯、何やってんだ」
 どうやら呆けていたようであった。兄が呆れたようにこちらを一瞥する。喪服の裾をぎゅうと握りしめ、唯は笑った。
「ごめん」
 目尻に溜まった雫を拭う。
 人間の骨というものは、とても愛おしいものでできているのだ、と唯は思った。幼い頃、あんなに大きく見えた祖母は、これ以上ないほど小さくなって、母の手の中に抱かれている。
 火葬場から戻ると、ただでさえ寂しげな田舎の風景が。更にがらんと感じられた。家主の居なくなった家は何かが足りないのだと分かっているかのように、目を伏せているように、ひっそりと佇んでいる。

「唯」
 目を瞬かせる。兄が、呆れた顔をして頭を小突いた。
「早く入れよ」
「うん」
 唯は、開け放しになっていた玄関から座敷に上がった。
 余所行きに整えられた、黒と白の幕に覆われた座敷。そこにはかつての思い出と、悲しみの色が混じってしまって、まるで知らない場所のようだ。線香の匂いに耐え切れず、大きく深呼吸をする。油断すると、また涙腺が緩んでしまいそうだ。

 居るべき人が居ないということ。どうにもならないと分かっているけれど。やはり、まだ、つらい。

「おい」
 声をかけられて振り向くと、丁度兄が玄関をくぐったところであった。
「唯は、どうする。俺は一度東京に戻るけど」
 兄は、手に持っていたらしい車のキーをちゃらりと回した。
「うん……戻ってもいいんだけど」

 会社員の兄と違って、自分は在宅の仕事をしている。パソコンも一応持ってきているし、こちらにいても、何の支障もない。

「もうちょっと、ここにいようかな」

「そうしてくれると助かるわ」
 母が奥座敷から姿を現した。目が、まだ、赤い。随分と憔悴した様子だった。
「お母さんたち、一度戻らなきゃいけないんだけど。まだお別れを言いに来る人、いるかもしれないし……どうしようかってお父さんとも言っていたのよ」
 母の後ろから、父がぬうと現れた。
「なに、親父たちも帰るの?」
「ああ。色々手続きがな……」
 父はそう言って、そっと母の肩に手を置いた。

 父母も、兄も、そして自分も、別の家に住んでいる。家を継ぐような親戚もいない。この家には祖母だけが住んでいたのだ。
 そして、その祖母は、今はもう、いない。
 手続きとは、そういったことなのだろう。

「それじゃ、残るよ。お母さんも、少し体を休めないと」
 唯は無理やり笑顔を作った。
 母には休息が必要である。祖母の遺体に取り縋り、号泣していた様子を思い出し、また、こみ上げてくるものを感じていた。
 あんな、子どものような泣き方をする母を見たのは初めてだ。
「それじゃ、唯、あとは、頼んだわね」
「うん」
「線香は毎日あげるのよ。お水も取り替えて」
「分かってる」
「もし誰かが訪ねてきたら、必ず名前と住所を聞いてね」
「はいはい」
「夜は電気をつけておくこと。お別れの挨拶に来る人がいつ来てもいいようにね」
「分かった」
「何かあったらすぐに連絡してね。携帯はつながるようにしておくから」
 母はまるで、自分が子どもの頃のように、再三注意を促した。



 二台の車が坂道を下っていく。車を見送りながら、少しだけ心もとない気分になる。

 唯は振り返り、家に向き直った。
 平屋造りの一軒家、その広い前庭はまるでジャングルのようで、見知らぬ生き物や植物が生い茂る、魔女の庭のようであった。

 幼い頃は、よくここで虫取りをした。大小のバッタ、キリギリス。アブラゼミや、ツクツクホウシ。夜には近くの川から蛍が飛んできたりもした。草の蔓を使った、引っ張り相撲。ホトケノザの蜜の味。

 教えてくれたのは祖母である。

 あれは美味いぞ。
 これは食うな。
 この虫は跳ねるぞ、そら、あっちへ行った。
 祖母の声を思い出して、唯は思わず天を仰いだ。 

 空は、青かった。あの思い出そのままに、キラキラと輝いていた。
 かつて見た。山の稜線。その上から覆い被さるように手を広げていた青の巨人。まるで自分たちを守るかのように、大きな手を広げて、空いっぱいに広がっていたのに。

 抜けるように青い空を見上げても、どんなに目をこらしても。
 そこにあの巨人はいなかった。







「だいだらほうし」
 祖母は、そう言って、空を仰いだものだ。
 青い人が見える。そう告げたとき、信じてくれたのは祖母だけであった。兄も、父母も、そんなものは見えないと首を振った。

 見えると告げた日から、祖母は唯に色々なことを教えてくれたものだ。
 青い人が、『だいだらほうし』という名であること。
 自分たちを昔から見守ってくれているということ。
 それから。
「ゆんは、自分がいんだらどうなるか、知ってるんかい?」
「いんだら……?」
「死んだら」

 やはり、夏の日であった。

 道路に横たわった猫。
 車に轢かれたようで、下半身が潰れていた。それでもまだ辛うじて息があったらしく、近付いた唯に向かって、小さく鳴いた。
 そして、二、三度体を震わせ、事切れた。
 手当てをすることもかなわず失われた命に、唯はしばし呆然とし、そして、泣いた。

 庭に埋葬し、墓標を立ててくれたのは、祖母であった。傍らで泣きじゃくる唯の頭をぽんと叩き、それで、あの言葉を口にしたのである。

 自分の死後。それは、幼い唯には難しい質問であった。考えても、分からない。死んだあと、自分はどうなってしまうのだろう。
 祖母はくしゃりと笑って、唯の髪の毛を掻きまわした。
「ばあちゃんも、ゆんも、この猫もな。いんだあとは、だいだらほうしの中に行くんよ」
 そう言って、祖母は天を仰ぐ。
 しゅわしゅわと、泡を立ち昇らせた大きな人は、相変わらずそこにいた。手を四方に広げ、傘のように、唯と祖母を見下ろしていた。
「だいだらほうしには、じいちゃんもいる。この猫もいるし、ばあちゃんもな……」
「やだ」
 唯は思わず祖母にしがみつく。そうしないと、今すぐにでもそこに行ってしまいそうに思えたのだ。
「ゆんはやさしいんなぁ」
 祖母の大きな手が、また、唯の頭をそっと撫でた。
「この猫は可哀想だったけんど、ゆんが泣いてくれたからなあ。きっと今頃、だいだらほうしの中でにこにこしてらあ」
 唯は、祖母に益々抱きつく。
「ゆん」
 祖母の声は優しかった。
「ゆんがだいだらほうしが見えるって知ったときなあ、ばあちゃんは嬉しかったんよ」
「……どうして?」
 祖母は、その問いには答えなかった。ただ黙って、唯の頭を撫でている。
「なあ、ゆん」
「なあに?」
「お願いがあるんよ。ゆん」
「なあに、ばあちゃん」
「もしばあちゃんがいんだらなあ。そんときは」
 ――そんときは。
 そのあと、祖母は何と言っただろう。




 家に戻ると、線香の匂いが鼻を突く。

 東京に引っ越した唯は、滅多にこの家に来ることはなくなっていた。
 成功してからは尚の事、忙しさを理由にほとんど帰らなかった。けれど、心のどこかで、この場所は桃源郷のような気がしていたものだ。
 決して、色あせない場所。
 ここに来れば、変わらぬ風景があって、いつも、祖母が迎え入れてくれるものだと、そう思っていたのだ。
 馬鹿な話だ。
 がらんどうになった田舎の家は、記憶の物よりもずいぶん広い。管理者のいなくなったこの家は、どうなってしまうのだろう。

 つん、とこみ上げる気持ちに気づかないようにして、居間の隅に立てかけられていた、こたつ机を引き出した。
 鞄からパソコンと、資料の一式を取り出して、机の上に置く。
 電源を入れた。
「ああ、やっぱり」
 一人ごちる。
 メールが入っていた。仕事の、催促のものだ。開かなくても分かるそれを、唯はそっと非表示にする。



 唯が、児童文学の作家になれたのは、ただの偶然である。



 昔から見えていた、あらゆることを、唯はよく記録した。
 見上げれば見上げるほど、大きくなる巨人。足の先を駆け抜けていく、犬のようなもの。電柱の下にうずくまる、青い坊主。神社に現れた火を纏う男や、けらけらと笑う女性の姿……。
 なるべく詳細に、丁寧に記録して、それを本にして楽しむのが、唯の趣味であった。

 祖母に見せると、祖母はいつも手を打って喜んだものだ。
「すごいんなあ」
 祖母はにこにこ笑って、唯の頭を撫でる。
「ゆんのおかげで、きっとみんな喜んでる」
「そうかな」
「そうさ」
 心底嬉しい、といった風情で、祖母は笑った。
「みいんな見えんくなっていく。そんなかで、ゆんはみんなが見えんものを書いて、みいんなに見てもらうことができるんな」
「それって、すごいことなの?」
「すごいんよ。ゆん、もっと自信を持ってええ。ゆんはな、見えんものに、命を与えてるってことなんよ」
 首を捻った唯に、祖母は笑いかける。
「見えんものは、見えるようになってはじめて命を持つんよ。だから、ゆん、沢山書き。書いて、みいんなに見てもらえ」
 その言葉に後押しされたのかもしれない。

 自分だけで楽しむだけでなく、誰かに読んでもらいたくなった。 
 お試し気分で、公募に出した。賞を取ろうとか、そういう野望はなかった。ただ誰かに読んでもらいたい。けれど、どうすればいいか分からない。それで、目に付いた雑誌の適当な欄に記載してあった、公募、の文字に引かれたのである。
 だから、大きな賞をもらったときは、正直面食らったというのが事実であった。

「今、流行ってるんすよ!」
 担当だと紹介された青年は、顔を真っ赤にしてこう言った。
「こういうの。あやかしものっていうんでしょうかね。いいっすねー! 夢があって」
「夢、ですか」
「ええ。今の子供に足りないのは、こういったファンタジー要素のものだと僕は思っているんです!」
 まだ若い、その担当は息を荒くする。
「特に、本郷さんのやつはすごくリアリティがあって、でもどこか非現実的で、今の流行りにばっちり、合います! くーっ、これは売れますよ!」
 その言葉の通りになるなんて、当時の唯は思いもしなかった。
 一作目が当たり、二作目の話が舞い込んだ。それも当たれば、そこからはとんとん拍子である。あれよあれよと唯のもとに、仕事が舞い込むようになった。

 けど、今は。
 手にした資料を一瞥し、唯は溜め息を吐いた。
「ばあちゃん、わたし、どうしたらいい?」
 居間の奥にちょこなんと置かれた白木の箱。小さい骨になった祖母が今の唯を見たら、どう思うのだろう。
 ――いけない。
 唯は堅く目をつむる。瞼の奥で、赤や黄色の光がはじける。

 夢なんかじゃない。リアリティがあって当たり前だ、
 だって、自分には見えていたのだ。それをただ、書けばいいだけであった。
 でも、今は、それができない。
 
 




 とんとん、と、音が聞こえた、ような気がした。
 唯は目をこする。
 いつの間にか、眠ってしまっていたようである。腕時計を見ると、もう夜の十二時になろうかというところであった。
 家の中は暗い。電気もつけずにうたた寝とは、自分も疲れがたまっていたのであろう。
 立ち上がり、電気の紐に手を伸ばした、そのときである。

 とん、と、また。
 聞こえた。

 どうやら、来訪者のようだ。
 唯は身構える。
 すでに深夜だ。
 弔問客だろうか。にしては、時間がおかしい。人の家を訪ねるには遅すぎる。
 それとも、こういう田舎では、この時間の弔問でも普通のことなのだろうか。
 そう言えば、母にもそう言われていたような気がする。
 ゆっくりと、玄関に近付いた。

 土間に降りる。玄関は曇り硝子の引き戸である。
 その奥に、誰かが、いた。白い手の甲が、もう一度、引き戸を打ち鳴らしている。
「……はい?」
 意を決して、声をかけた。
「こんばんは」
 低く、かすれた声。あからさまにほっとしたような、安堵の響きを帯びている。
 女性のようであった。唯は幾分安心する。いくら治安のいい田舎とはいえ、この時間に家にあげるには、同性の方がいい。

 土間の明かりをつけ、引き戸を開けた。
 そこにいたのは、思った以上に若い、綺麗な女性の人であった。 


 葉子、と名乗った女性は、白木の箱の前にきっちりと正座をした。丁寧にお辞儀をし、お焼香をする。
 唯は一歩下がり、その後ろ姿を見つめていた。
 明かりの下で見ても、美しい人である。
 長い黒髪。体にぴったりとした、黒い礼服。その黒と相まって、肌の白さが際だっている。
 丁寧な手つきであった。ひとつひとつを噛みしめるように、葉子は死者に挨拶をする。
「……美智」
 葉子が、親しげに祖母の名を呼んだ。
「美智、今まで、ありがとう」
 涙混じりの声である。微かに聞こえるのは、嗚咽であろうか。
 聞いている方も、胸が締め付けられるような声であった。
 


 引き戸の先にいた、予想外の麗人を前にして、唯は首を傾げたものだ。
 彼女は、随分と若いように見える。おそらく、自分の五つ、六つは下であろう。もしかしたらまだ学生なのかもしれない。
 だから、最初は義務での訪問かと思ったのだ。
 誰かの代理か、それか、なにか役所の関係で、弔問せざるを得ない立場の人か……。
 けれど、彼女の所作は丁寧である。義務感は感じられない。心の底から祖母の死を悼み、悲しみを覚えているように見えた。 


「ありがとう」
 お焼香がすむと、葉子は目尻をハンカチで拭い、赤くなった目を細めて、改めて、と言った風情でお礼をのべた。
「どうぞ」
 唯は用意のお茶をグラスに入れて差し出した。冷えた緑茶である。暑い中、弔問に訪れる人用に、と、昼に用意していたものだ。

 もう一度お礼を言って、葉子はそれを受け取った。冷やしていたためであろう、グラスに付着した水滴が、ほたり、と葉子の黒服に吸い込まれていった。
唯は、しまった、と心の中で呟く。何か、コースターなどを準備するべきだったか。それとも一度、グラスを拭いてから渡せばよかったのか。
 こういった形での弔問を受けるのは、初めてであった。作法も何も分からない。

「君は、お孫さんの……?」
「ええ」
「美智に、よく似ている」
「そうでしょうか」
「うん、そっくりだ」
 落ちた雫を拭こうともせず、葉子は唯に微笑みかけた。どうやら、彼女は細かいことにあまり頓着しないタイプのようである。

「あの、失礼ですが」

 唯は思い切って、声をかける。

「祖母とは、どちらで」
「え?」
「ああ、いえ、住所を、お聞きしてもよろしいでしょうか? のちほどお礼をと思いまして。その……」
 嘘ではない。
 母からも、名前と住所を聞くようにと厳命されている。
 しかし、それ以上に、興味があった。祖母は、この人と、いったいどういうところで知り合ったのであろうか。
「美智は、私の友人なんだ」
「友人……?」
「そう。長いつきあいだった」
 葉子は、グラスの縁を、つ、となぞった。そのままそっと口をつけ、美味しそうに喉に流し込む。
「何か、役場の行事かなにかで」
 祖母はほとんど自給自足の生活を送っていたことは知っていた。だから、なにかそういう、村関係の知り合いであるのだろうか。以前は農業体験などで、役所に協力したこともあったと聞いているし、もしかしたら、そういったボランティアなどで知り合ったのかもしれない。

 葉子はグラスを机に置くと、首を静かに振って顔を上げた。切なげに眉をよせ、祖母の遺影を見つめている。
 唯も、同じようにする。

 遺影の中の祖母は、しわしわの顔を更にしわくちゃにして笑っていた。その祖母と、目の前の人が友人であるという。
 どうにも解せない。

「それ……」
 つ、と葉子が小首を傾げた。
 視線の先を追って、唯はああ、と頷いた。パソコンと資料を出しっぱなしにしていたのを忘れていたのである。
「すみません、散らかっていて」
「いや。……そうか、美智が言っていた。君が、作家の」
 瞬間、顔に血が集まるのを感じた。祖母は、いったいこの人に何を言ったかは知らないが、大体想像がつく。
「読んだよ。どの話も、面白かった。君は妖怪が好きなんだね」
「……ええ、まあ」

 やめてほしい。特に今、この話題には触れてほしくない。

 きっと祖母は、この麗人に自慢げに話したのだろう。孫が作家であるということを、近所の人にも言っていたのを、唯は知っている。きっとそのパターンだ。
 前は、それが誇らしいと思っていた。
 でも、今は。
 唯の表情に、何を思ったのであろうか。葉子はそっと目を細め、唯をじいっと見つめている。
 柔らかな表情である。黒々とした瞳に、唯の顔が写り込んでいる。
 どきりとした。
「君のことは、美智からよく聞いていたよ」
 そう言って、葉子は微笑む。
「見える、と。そう言って、私に嬉しそうに報告してきたんだ。見えた物を書いているのだと。立派な仕事だと、君のことをほめていた」
「え」
 耳を疑った。
 見える、と。
 まさか、話したというのか、祖母が、この女性に。
「待ってください。……見えるって、何が」
「君が見てきたものは、美智にも見えていた。そして、私も」
 余程、驚いた顔をしていたのだろう。葉子は唯の顔をまじまじと見て、ややあって、くすりと笑みを零す。

「ねえ、美智と私が、同じ時代を生きていた。って言ったら、信じる?」
 笑いながら、ことりと首を傾げて、葉子はそう言った。
「同じ、時代?」
「そう。美智と私は、この村で、同じ学校に通って、同じように暮らして……」
「ちょ、っと待って」
 唯は混乱する頭を抱えた。
「あの、あなた、だって、まだ若いですよね?」
 祖母は少なくとも、八十は越えていたはずだ。その祖母と、学生のような風貌のこの女性が、同じ学校に通っていただなんて、そんなはずがない。
「うん、だから、信じる? って聞いたんだ」
 この人は、どこかおかしいのかもしれない。唯がそう思ったのも、無理はないだろう。

 ――どうしよう。

 母に連絡するべきか。でも、こんなことで連絡しても。
「唯さん」
 突然名を呼ばれる。唯は目を瞬かせた。自分は、この人に名を名乗ったであろうか。
 葉子は、もう一度、首を傾げ、そして、こう言った。

「今も、見える?」
「え?」
「……だいだらほうし」
 唯は、目を見開いた。







 祖母の思い出は、いつだって夏に起因する。
 それは、唯が夏休みを利用してこの家に来ていたからなのかもしれない。
 燦々と照りつける太陽。
 白くまばゆい、陽の当たる縁側と、家の暗さ。光と影のコントラストに目がくらむ。
「昔はみいんな知ってたんになあ」
 縁側で、サヤエンドウの筋をとりながら、祖母はそう呟いたものだ。
「だいだらほうし。今はみいんな見えんようになった」
「見えないの?」
「そうさ。ゆんのお父さんもお母さんも見えん。兄ちゃんもそう」
「でも、わたしは見えるよ」
「そう。だから、ばあちゃんはうれしい」
 祖母は目を細めた。
「昔はみいんな知ってた。だいだらほうしがいることも、ほれ、あいつも」
 そう言って、祖母はサヤエンドウの筋を庭の片隅に放り投げる。
 ちい、と小さく声が聞こえ、茂みがガサガサと音を立てる。
「今のは?」
「家鳴り」
「家鳴り?」
「そう。なあんもないときに、家がぎしぎし言うときがあるんよ。あれはみいんな家鳴りのしわざ」
「悪いものなの?」
「いいや」
 祖母は首を振る。
「いいも悪いもないん。家鳴りは、そういうものってだけ」
 唯は首を傾げた。
 家がぎしぎし鳴るのは、怖い。それに、その家鳴りのせいで、もし家が倒れたら困るではないか。そう訴えたら、祖母はくしゃりと笑ったものだ。
「ゆん、覚えておきな。この世には、いいも悪いもいっさい、ないんよ。あるんは、人様の都合だけ」

 祖母はいつもそうであった。
 唯の見える不思議な物を、決して悪くは言わなかった。

「なあ、ゆん、もしなあ」
 祖母の話し方はいつもゆったりと、耳に優しく響く。
「もし、ばあちゃんが、いんだら……」
 青の巨人が、見下ろしていた。
 とても優しい、青い色。抜けるような青空。雲一つない晴天に、すっくと立っている。
 緑が煙る山の向こう、その稜線から、唯の頭の上にまで。空に溶けるような色をして、手を四方に広げ覆いかぶさるように……。






 時計の秒針が時を刻む音が、やけに大きく聞こえる。
 唯は小さく喘いだ。
 今、目の前の人は、なんと言った?
 今も見える、と聞いた。
 何故知っているのだろうか、唯が見えなくなったことを。
 目の前の麗人は、姿勢を崩さない。背筋を伸ばして、唯を見つめている。
 その瞳が、ふいに和らいだ。
「いい顔してるね、美智」
 どうやら、遺影のことのようである。唯は頷いた。
「……これ、わたしが撮った写真なんです」
 懐かしい。
 あれは、確か自分の本が初めて手元に届いたとき。真っ先に報告したのが祖母であった。
 ――ゆん、おめでとう。
 祖母は、目に涙をためて、そう言った。
「すごいんなあ。ゆん、本当におめでとう」
「ばあちゃん、ありがとう」
「な、写真、撮ってくれんか」
「え?」
「この本といっしょに」
「なんで」
「なんでも」
「まあ……いいけど」
 承諾すると、祖母は心底嬉しいと言った顔で笑った。
 そのときに撮った写真が、あまりにも幸せそうだったので、唯も誇らしく思ったものだ。
「ほら、見てみい」
 祖母が、空に手を伸ばす。そこにはあの、青い巨人。
「ゆんは、こんなに立派な仕事をしてるんよ」
「やめて、ばあちゃん。恥ずかしい」
「何が恥ずかしいもんか。ゆんはすごい。すごいことをしてるんよ」
 誇らしげに笑う、祖母の顔。
「なあ、ゆん、もしな、もしばあちゃんがいんだら」
 あのときはまだ、見えていた。青い巨人。祖母と一緒に見上げて……。

 ――立派なんかじゃないよ、ばあちゃん。
 唯は心の中で呟く。
 結局自分は、自分に見える物しか書けない。
 だから、見えなくなったらそれで終わりだ。


「ねえ唯さん」
 葉子がことりと首を傾げる。
「いつから」
「……え?」
「見えなくなったの。だいだらほうし」
 どきりとする。

 この人は、自分の心が読めるのではないだろうか。





 ――ばあちゃん、長く、生きすぎた。
 
 覚悟をしてほしい、と、医師に言われたときには、祖母の意識は既になかった。
 年寄りの一人暮らしで、訪ねる人もほとんどいない。だから、気づくのが遅れたのだと、救急隊からは連絡を受けた。
「数日前から風邪を引いたと言っていたそうです。近所の方が医者に行くように薦めたとのことだったのですが」
 年輩の医師は、眉を寄せながらそう言った。
「夏ですから。この時期は、体力のない老人はどうしても。……残念ですが」
 母も、父も、兄も、大急ぎで向かっていると聞いた。
 自分が間に合ったのは偶然だ。
 たまたま自由業で、たまたま仕事がない時期で。そんな状況であったから、時間の都合がつきやすかっただけ。
 白いベッドの上の祖母は、随分と小さく見えた。
 体中に繋がれたチューブが痛々しい。
 枕元に近寄った。
 大きな窓からは、日の光が射し込んでいる。
 抜けるような青空に、もくもくと入道雲が湧いている。
 祖母は、意識がないようであった。呼吸器の人工的な音。規則正しい機械音を聞きながら、唯は。
 手を、握ったのである。
「ばあちゃん」
 声をかけた。
 反応はない。
「ばあちゃん、やだよ」
 唯は握りしめた手に力を込めた。そのとき、うっすらと聞こえたのである。

 ――だいだら、ほうし。

 祖母の声。
 慌てて顔を見やる。うっすらとだが、祖母の目は開いていた。
「ばあちゃん!」

 ――ようやく、あっちに行けるんなあ。

「何言ってるの、ばあちゃん」
 早く、医者を呼ばなければ。
 ナースコールに手をかけた、その手を、祖母がつかんだ。
 驚くほど強い力であった。

 ――ゆん。
 ――ばあちゃん、長く生きすぎた。

「……え?」
 ふと、視界が陰った。
 窓の外いっぱいに、青が広がっている。
「だいだら、ほうし」
 青の巨人が、その大きな手を広げて、どんどん近付いてくるのである。
「やめて」
 呟いた。

 ――いんだあとは、だいだらほうしの中に……。

 あの巨人は、きっと祖母を迎えにきたにちがいない。あの大きな手で祖母の魂を持って行ってしまうのだ。
「やめて!」

 ――ゆん、ばあちゃんが、いんだらな。

 何度も言っていた。祖母の言葉。
 夏の日の縁側で。
 事切れた猫の傍で。

 ――もし、ばあちゃんがいんだらな、ゆん。書いてくれんか。
 ――書く?
 ――そう。あのだいだらほうしに、ばあちゃんがいる、って。書いてほしい。

「いやだ」
 あんなもの、見たくない。自分には見えない。
 だいだらほうしなんて嘘っぱちだ。そんなものはこの世に存在しないのだ。

 だから、祖母は死んだりなんかしない。
 するものか……。

 唯は愕然とする。
 思わず喉に手を当てた。
 もしかして。

 あれから、なのだろうか。
 記憶を反芻する。
 確かに、そうだ。あのとき、見えた。だいだらほうし。それを唯は否定した。
 自分から、拒否をしたその日から、唯は見えなくなってしまった。
「君は、優しいね」
 葉子は静かに微笑んでいる。黒々とした瞳が、ゆったりと細められている。
「……美智は、公平な人だった」
 そう言って、葉子は再び遺影を見上げた。
「決して否定することもなく、悪だと決めつけることもない。本当にすばらしい人だったんだ。だから、私のことも、美智は受け入れてくれたんだろう」
 確かに、祖母は公平な人であった。唯の見えていたものを一切否定もしなければ、悪いものだとも決めつけなかった。

 改めて、唯は葉子を見る。
 綺麗な人だ。やはり若い。この人が、祖母と同じ時を過ごしていたなど、とてもではないが信じられない。けれど、と唯は思い直す。
 きっと、この世にはそういうことがあるのではないだろうか。自分にだいだらほうしが見え、他の人には見えなかったように。
「葉子さん」
 初めて、名前を呼んだ。
「改めて、ありがとうございました。葉子さんに会えて……祖母もきっと、喜んでいると思います」
 葉子は驚いたように目を見開き、ややあって、花が綻ぶように、微笑んだ。








 玄関の引き戸を開けると、外は、夏の夜とは思えない涼しさである。降るような虫の鳴き声。木々のざわめき。ほんの少し湿った香りは、土の匂いだろう。

 月が出ていた。
 細い三日月だ。頼りない月光と、それが霞むくらいの満天の星空。

「あの、本当に、これから帰るんですか?」
 既に真夜中と言っていい時間だ。
 葉子は、これから麓の町まで降りるのだという話であった。 
 この時間なので、泊まっていってもらおうと提案したのだが、一蹴されてしまったのである。それで、せめて見送りだけでもと思ったのだが、それも断られてしまった。
 それでも、この家から麓町まで、歩けばゆうに一時間以上はかかる。しかもこんな夜だ。さすがに危ないのではないだろうか。
 唯が、そう声をかけようとしたときのことである。
「ほら」
 葉子が、つ、と上を見上げた。
 満天の星空。月が細々と輝く。
 その奥の、黒々とした山の稜線に、あの巨人が立っていた。
青の巨人。
 とても優しい、青い色。降るような星空を背負い、大きな手を広げて。
「だいだら、ほうし……」
 喉の奥から、熱いものがこみ上げてくる。耐えきれずに、嗚咽を零す。
葉子も、同じものを見ていた。大きな巨人に、まるで祈りを捧げるように。その瞳に浮かんでいるのは、唯と同じものであった。
「……わたし、あなたのことも、書きます」
 口から出た言葉に、唯は自分でも驚いた。
 ――そうすればな。
「そうすれば」
 ――ずっと、一緒に。
「ずっと一緒ですから」
 記憶が、唯の脳内によみがえる。夏の日。縁側に腰掛けて、祖母はこう言ったのではなかっただろうか。

「もし、ばあちゃんがいんだらな、ゆん。書いてくれんか」
「書く?」
「そう。あのだいだらほうしに、ばあちゃんがいる、って」
「……どうして?」
「そうすれば、ばあちゃんは本当に、だいだらほうしと一緒にいれるんよ。だいだらほうしや、先にいんだみいんなと、ずっと一緒にいられるんよ。だから、な、ゆん」

 ――書いてくれんか、ゆん……。

 葉子は大きく目を見開くと、眉を下げる。
 そのまま唯に一礼すると、ゆっくりと踵を返した。

 唯の耳に、小さく声が届く。歌だ。葉子が歌っている。
 不思議な旋律であった。高く、低く響く旋律。どこかで聞いたことのあるような、懐かしい響き

 やがてその姿はゆっくりと、闇に飲まれて消える。
 のちの、静寂。
 虫の声。
 風の音。
 見上げれば、そこには青色の巨人。

「ばあちゃん」
 唯は天に手を伸ばす。
「見ててね」


 書店に並んだ新刊を前に、唯は顔を綻ばせる。
 我ながら、よい作品がかけたと思う。
 題材は勿論、青の巨人と、そして。

「いやあ、いいですよねえ!」
 喜色満面でそういったのは、担当である。
 今まで連絡をしなかったことを詫びたときも、彼は朗らかにこう言ったものだ。
「いいんっすよ! 作家にはそういうことがあるって、僕、聞いてましたから!」
 あまりにもあっけらかんとした様子に、唯は面食らった。
「でも、迷惑かけたでしょう」
「いいんっす! それも含めての担当っす。それに、あれっすよね。充電ってやつっすよね! それでこういう作品書いてくれるなら、僕的には全然オッケーなんで!」
 彼は朗らかに笑った。

「いや、ほんと、いいっすよこれ! この巨人もなんですが。なにより少女の友情物語……。時を越えて再び出会う! 片方は老人で、片方は少女で……いいっすね、くーっ!」
 反応が大げさだ。
 唯は思わず苦笑する。
「今こう言うの、流行りなんですよ、時をかけちゃって出会っちゃう系! 運命の出会い!しかもあやかしもので! いいっすね、これ、売れますよ!」
 その言葉通り、新しい作品の評判は上々であった。それで、サイン会を、と頼まれたのである。

 都内の大きな書店のバックヤードに通される。さすがに、緊張した。こんなに大々的なイベントに出るのは初めてだ。
「本郷さん!」
 大張り切りであちこちを走り回っていた担当が、嬉しそうに声を挙げた。
「見てください、これ!」
 今まさに届いたのであろう大きな花束を抱え、彼は顔を真っ赤にしながら力説する。
「あの、植草先生からですよ! すごい、大御所からこんな花束! 手紙まで! くーっ、すごい! これはもう、イベント大成功間違いなし!」
 驚いた。
 名前は勿論知っている。超大御所の作家大先生だ。こんなぽっと出の、しかも児童文学作家に個人的に花を贈るような立場の人間ではない。
「今度対談しませんか、ですって! うわーっ! もう本郷さん、これ、来るとこまで来ちゃってます!」

 担当の狼狽ぶりに、今度こそ、唯は、破顔した。
 
 見下ろしていたその人は、とても優しい、青い色をしていた。抜けるような青空。雲一つない晴天に、すっくと立っている。

 祖母の家は、唯が住むことになった。もともと気楽な自由業だ。書くことさえできれば、それでいい。だったら、もう、ここに住んでしまおうと考えたのである。

 今度、くだんの作家先生と対談をすることになった。
 先んじて電話をもらった。実際に話してみると、大御所というわりには砕けた話し方で、唯はほっとしたものだ。

「実はね、これ、内緒なんだけれど」
 ある程度日程を決めて、それでは、と電話を置こうとした時であった。こっそりと、内緒話という体で、彼はこう言ったのである。

「あの話に出てくる、この、葉子、という少女だけれど。多分、ぼくも知っているよ」




 窓の外は晴天。
 見上げれば、青の巨人。
 緑が煙る山の向こう、その稜線から、唯の頭の上にまで。空に溶けるような色をして、手を四方に広げ覆いかぶさるように。

「ばあちゃん」
 唯は、小さく呟いた。
「見ててね」


 だいだらほうしが、手を伸ばす。
 優しい色をした、青い巨人は。
 今も変わらずに、空いっぱいに、広がっている。
 見渡す限りの白であった。
 古い町並みである。昨晩降った雪は道を覆い隠し、屋根も綿帽子をかぶっているかのようであった。その白とは対照的な、抜けるような蒼天が眩しい。まだ気温も上がりきっていないからだろうか、道のぬかるみが少ないことが幸いである。
 降雪の後は、普段よりも音が耳に残りやすい。ほた、ほた、と歩く雪の道。その足音にはた、はた、ともうひとつ、足音が重なり耳に届く。
「八重」
 要は妻に声をかける。この妻は、決して夫の前に出ない。それは、普段の生活もそうであるし、こうやって歩いているときもそうだ。必ず三歩下がり、自分の後をついてくる。
「大丈夫か」
 立ち止まり、やはり遅れて歩く妻を見る。ただでさえ身重の身体だ。雪の道を歩かせるのは心配であった。
八重は問いには答えなかった。いつものことなので、要は気にせず話しかける。
「体が冷えただろう。もうすぐ家だ、辛抱してくれ」
 親戚筋の挨拶回りだ。最初は要一人で向かう予定であったが、八重が頑として引かなかったのである。
薄紫の色無地。海老茶の肩掛けをさらりと着こなす我が妻の、その凛とした立ち姿に要は覚えず感嘆の息をつく。八重は、色素が薄い。こうして雪の中に立っていると、まるで雪女の風情である。
 八重は口を閉ざしたまま、つう、と横に視線をずらした。その目が何かを見つけたのを見て、要も視線を向けてみる。
 そこにあったのは、藍染めの布であった。
 職人の家なのだろうか、軒先に渡された縄に、青が幾重にも重なって流れている。晴天の空の色よりも鮮やかな、目が覚めるような色合いであった。
「綺麗だなあ」
 思わず声に出す。
「なあ、八重。見事な青だなあ」
「――本当に」
 思いがけず返ってきた答えに、要は首を巡らせ、瞠目した。
八重が、微笑んでいる。まるで、春、ようやく硬い蕾が緩み始めた花のように、柔らかで、かすかではあったが、ほころぶような笑顔であった。
「綺麗な藍染でございますね」


  ***


「で、私はいつまでその惚気を聞かされているのかな?」
 そういって、葉子はことりと首を傾げた。藍鼠色の着物をたすき掛けし、土間に立つ姿は奥様然としているが、この家には彼女一人しか住んでいないことを要は知っている。
「まあ、そういうなよ。聞かせる相手がいないんだ。ほら、大根。隣からいただいたんだが、どうにも量が多くてね」
 要は板の間に腰掛け、笊に入れた大根を土間に降ろした。葉子はさっそく大根を手に取ると流し台の前に立つ。
「もうすぐだっけ、子供」
「そうだなあ。そろそろ生まれてもいい頃合いだと、産婆は言っていたかな」
「そっか。楽しみだね」
水を使う音を聞くともなしに聞きながら、要はぼんやりと葉子の後姿を眺めていた。
 葉子と要が知り合ってから、じきに半年になる。
 その日は友人の松原と酒を飲んでいて、遊びの話になった。要が女を買ったことがないというと、彼は大層嘆き、「とっておき」として葉子を紹介してもらったのである。
 ――たまには羽目外せよ。嫁があれじゃあ息が詰まるだろう。
 そう言ってにやついていた松原には悪いが、要と葉子はまだ一度も体を重ねてはいない。たまに会い、こうして話したり、茶を飲んだり、おすそ分けをしあったりはしているが、良い友人としてのお付き合いに留まっている。
 黙認される風潮こそあるものの。一人暮らしの女の家に、妻帯している自分が長居するのは外聞が悪い。しかも、身を売って口に糊する女だ。もし見つかりでもしたら、面倒なことになる。
しかし、要は葉子の持つ独特の気配が気に入っていた。儚げで、どことなく厭世的な香りがするが、話すと意外と朗らかである。居心地がよく、どうにも入り浸ってしまう。
「で、今日はなに」
「あ?」
「まさか、大根を届けに来ただけじゃないんでしょ」
「ああ……」
 要は唇を舐める。
「実は、あんたにお願いがあるんだ」
「何」
「買い物に付き合ってもらいたい」
 なおも後ろを向いたままの葉子に、要は声を投げかけた。
「八重にな。その……つまり、贈り物をしたいと思っている。その品を一緒に選んでほしい」
 葉子からの返事はない。大根を洗う水の音だけが、狭い土間に木霊している。
「目星はつけてある。けど、本当に喜んでもらえるかが不安でな。女のあんたから見て、判断してもらえないだろうか」
 大根を洗う音が止まった。流れる水をそのままにして、葉子はぽつりとつぶやいた。
「悪い人」
「え?」
「……鈍いにもほどがある」
「鈍い?」
 そう、と葉子は呟く。
 水を止め、洗い終わった大根を笊に戻すと、前掛けで手を拭った。その手の白さに、要は柄にもなくどきりとする。
この女も、八重と同じように色素が薄い。
「他の女が選んだものを贈り物にするのは、野暮だと思う」
「なにぃ?」
 唐突な言葉に、要は間抜けた声を上げてしまう。
「怒るよ」
「八重が?」
「そう」
「怒るかな」
「きっとね」
 それはぜひ見てみたい。八重は怒った顔も美しいだろう。しかし、それは葉子の想い違いである、と要は思う。
 八重は、表情が乏しい。
 見目麗しい姿なのに、適齢を過ぎて尚、婿を迎えられなかったのは、八重のその特性が原因だと聞いている。なにせあの美しさだ、それこそ見合い話が何件も降ってわいたと聞いているが、その席で男の方がたじろいでしまうのだという話であった。
――いや、たしかにお美しいのですが。
要の知人にも、見合いで断りを入れた者がいる。
――どうにも造り物のようで。私にはとても、とても。
 けれど、と要は思い出す。八重に出会ったときのこと。その頃の八重は、今の氷のような冷たさを感じさせない少女であった。
 ふたりが初めて会ったのも、冬だ。
 その日も、雪が降っていた。


 ***


「内緒にしてくれる?」
 そういって、雪女――八重は目尻にたまった涙を拭った。歳にして齢、十二。要はまだ九つ、八つ。そのくらいの年齢であったはずだ。
 要の父は商売がうまく、顔が広いことを自慢にする、そういう男であった。そんな父に連れられて、要は幼い頃からあちこちの屋敷を訪ねて回るのが常であった。
 初めて植草家を訪れたのも、そんな頃の話である。
 要は大人同士の付き合いなどどこ吹く風で、広い屋敷の庭をてほてほと歩いていた。
 雪が降っていた。
 植草家は純和風の邸宅で、庭も広く取ってある。母屋を背に、右手に門。左手には倉があり、飛び石がそれらを緩やかに繋ぐ。その飛び石に、雪がさらさらと降っては、消え、降っては積もり、を繰り返しているのである。石灯籠にぽってりと積もった雪。松、紅葉、辛夷の木。
 その木の下に、少女が立っていた。
 ほっそりとした体を薄青の着物に包み、木にもたれかかるようにして立っている。肌の色は抜けるように白い。炭を刷いたような黒髪が、白一色の景色にぼんやりと浮かび上がっているかのようであった。
 ――雪女。
 先日読んだ読本にそんなばけものが書かれていたことを思い出す。
 読本と違ったことは、その雪女がまだ少女であることと――泣いていたことである。切れ長の目尻を赤く染め、少女は雪の中でひそやかに涙を落していた。
「……誰?」
 要ははっと目を瞬かせた。
 切れ長の瞳がこちらを見ている。寒い場所にいるからなのか、それとも泣きすぎたせいなのか、鼻の頭も薄っすらと赤い。
 要は逡巡し、一歩足を踏み出した。
 飛び石に積もった雪が、じゃらりと湿った音を立てた。

 ――内緒にしてくれる?
 少女の言葉に、要はことりと首を傾げ、問う。
 雪はまだ、さらさらと降り続けている。
「うん。だって……悔しいから」
 そういって八重は、口をぎゅっと引き絞った。唇の色も薄い。まるで血が通っていないかのようである。薄青の着物は見るからに薄く、寒そうだ。要は自分の羽織を脱ぎ、背伸びをして、八重の肩にぱさりとかける。
 八重は驚いたようである。切れ長の目を見張り、くしゃりと笑った。
「ありがとう」
要は首を振る。風が吹いていないからだろうか、それとも、少なからず興奮していたからであろうか。寒さはほとんど感じなかった。
「――私、来月お見合いだって」
 唐突に、八重はそう言った。
「もう決まっていることだからって、お父様が引かないの」
「嫌なの?」
 要は訝しく思う。要とて、植草家には叶わないが、それなりの財力のある家の子供である。お見合いも、それによる婚姻も、彼とっては普通の事だ。取り立てて嫌だと思ったこともないし、いずれ自分もそうやって、妻を持つものだと思っている。
 要の問いに、八重は首を振った。
「お見合いが嫌なわけじゃない。でも……」
 八重はほうと息をつく。白く煙ったため息が、曇天にするすると吸い込まれていった。
「私……まだ恋もしたことがないのに」
 要は目を見張り、ややあって吹き出した。今になって思えば、随分と失礼な振る舞いであったと思う。しかし、当時の要は、自分よりも年上の、もうじき女学校に通うような年齢の少女がそんなことで悩み、泣いているのが可笑しく感じられたのだ。
 要の態度は少女の勘に触ったようである。八重はじろりと要を睨み、口を尖らせた。
「言わなければよかった」
「……ごめんなさい」
「謝ったって許してあげない」
 色白の顔が赤く染まる。ころころと変わる少女の表情を、要は素直に美しいと感じたものだ。
「ねえ、雪女って知ってる?」
「雪女……」
「僕、あなたをさっき見たとき、雪女がいるって思った」
「なにそれ、私がばけものだって言いたいの?」
 要は首を振る。どうやったらうまく伝わるだろう。
「それくらい、綺麗だって言いたかったんだ」
 言ってしまってから、要は首の後ろが熱くなる自分を自覚した。恥ずかしい。要は俯く。まだ短い彼の人生の中で、初めて女性への誉め言葉を口に出した瞬間であった。
 八重は目を見張った。そのまま俯き、手を唇に添えて黙りこくってしまう。
「……そっか、うん、雪女、か……」
 八重は顔を上げ、要ににっこりと微笑みかけた。
「ありがとう。私、いいこと考えちゃった」
「いいこと?」
「そう。雪女、ね。任せて頂戴。そういうの、得意なの」
 要は首を傾げる。そういうの、とは何のことなのだろう。
「私は、好きな人と――本当に好きな人と、一緒になりたい」
 そう言って、八重は要に小指を差し出した。意図が分からず、硬直する要の小指に、八重は自分のそれを絡ませる。
「約束。今日のことは絶対に、他の人には言わないで」
「――え?」
「ね、約束。私とあなただけの……」
 少女の瞳に熱を感じ、要は首筋にちりちりとした痛みを感じた。絡めた小指に力が入る。その指越しに伝わる熱や、瞳の温度、吐息の白さを、要は今でも覚えている。思い出すたびにくすぐったくて、甘酸っぱい、大切な思い出だ。

 雪の日の約束。それを、要は今でも律義に守っている。いや、正直に言うと、自分に見合い話が来て、その相手が八重だと知るまではすっかり忘れていたのだ。
 見合いの席の八重は、少女の頃の面影そのままに、凛とした美しさを湛えていた。しかし、唯一違ったのはその表情である。
 造り物のような、美しさ。ただ静かに、静かにそこにいるだけ。八重は、笑わない。泣かない。怒らない。
 一緒になってからも、八重の造り物めいた表情が変わることはなかった。どんなものを見ても、何をしていても、感情を見せないのである。
あの雪の日の約束のことを話してみようか、と考えたこともある。自分があの時の約束の主だと知ったら、もしかしたら何かしらの反応を示してくれるのではないか、と。
 しかし。
 ――本当に好きな人。
 八重の願いは、叶わなかった願いだ。自分と彼女の婚姻は家同士の思惑であった。もっと正直に言うと、名家の肩書と財力が欲しかったのは、要の家の事情である。八重が適齢をとうに超えており、問題のある女性だったからこそ叶った婚姻だ。そこに本人同士の恋愛感情などあろうはずもない。
 だから、要はあえて話さない。
その約束を口にしてしまったら、八重があの日のことを思い出してしまったら……きっと雪女は消えてしまうのだろう。


 葉子は軽く腰に手を当てたまま、要を見つめていた。要はぱちりと目を瞬かせて葉子を見やる。
 あの雪の日のことを思い出すと、どうにもいけない。自分自身の女々しさに要は苦笑した。
「まあ、八重なら、心配しなくて大丈夫さ」
 そういって、要は葉子に肩を竦めてみせる。八重はきっと、自分が誰と出かけようと眉ひとつ動かさない。寂しくもあったが、それが事実だ。
「あんたしか頼れる人がいないんだ。頼むよ」
 手を合わせ、頭を垂れる。葉子は肩を竦め、わかった、と苦笑した。


  ***


 今にも泣き出しそうな空の下、要は葉子と共に帰路についていた。手にした風呂敷の中には、求めたばかりの藍染めの肩掛けがきちんと畳まれて包まれている。
「今日は助かった。おかげで良いものを選ぶことができた、と思う」
 葉子を伴い呉服店に入ったはいいが、あまりの種類の多さに眩暈を起こしそうになった要である。藍染めだけに絞っても、ざっと十数種類以上はあっただろうか――世の中の女性は、どのようにして自分の欲しいものを選び取っているのだろう、と心底不思議に思ったものだ。
 葉子が選んだのは、絞り模様が花のように広がった肩掛けであった。
 ――雪花絞りと言いましてね。
 店の者は愛想よくそう言った。
 ――西の絞りなんですが。雪の花のような模様になるのが特徴なんですよ。
 それはいい、と要は頷く。八重に贈るものだ。雪にちなんだもの、というところが気に入った。
 意気揚々と道を歩く。
 冷え冷えとした空気に、湿り気が混じる。もうじき、雪が降るに違いない。
「よかった。でも、私が選んだものだってことは、内緒にしておいた方がいいと思う」
「そうか、そうだな」
 頷くと、葉子は要を見上げてゆったりと微笑んだ。この女性は、背が高い。八重よりも頭一つほど高いのではないだろうか。色白の肌や黒髪の見事さは八重にも通じるところがあるが、瞳の色だけがやや違う。八重の瞳は薄茶色で、その色の薄さが白い肌によく似合っている――。
そこまで考えて、要は思わず苦笑する。違う女性と道を歩いていても、自分は、八重のことを考えてしまう。それが何を意図するかくらい要にだって分かっている。分かっているからこそ、要は怖い。
八重と一緒になり、子をなしても尚、要には拭いきれない不安があった。
要と彼女の婚姻は、要側に決定権があった。要が八重に否を言えば、取り消すことができた話である。八重の望みを絶ってしまったのは、外ならぬ要自身なのかもしれない。
自分は、八重の『本当に好きな人』ではないのだから。
立ち止まり、黙ってしまった要に何を思ったのであろうか。葉子は首をことりと傾げ、要の顔を覗き込むようにする。
「あのさ」
「――なに」
「ちゃんと言葉にして、言った方がいい」
 唐突な言葉に、要は目を瞬かせた。
「伝えようとしないと、伝わらないよ。大切な人なら尚のこと」
 この女は、心が読めるのであろうか。瞠目している要に、葉子は言葉を重ねた。
「時間は限られているんだ。後悔しないようにした方がいい」
 そういって、葉子は笑った。ふわりと漂う花の香り、沈丁花の匂い。
 その時である。
「へえ、随分とよろしくやっているようじゃないか」
 ふいに割り込んだその声に、葉子がびくりと体を震わせた。
 要は振り返る。
「――松原」
にやにやしながらこちらに近づいてくる友人の、その漂う臭気に要は眉を潜めた。ひどく酔っている。いや、酔っているだけではない。松原の目に浮かんでいるのは明らかな敵愾心だ。
「おい、葉子、あんた話が違うじゃねえか」
 松原はそう言って葉子の肩に手をかけた。葉子は顔を背けている。漂う剣呑な雰囲気に、道行く人々が足を止め、遠巻きにこちらを見ていることが分かった。
「植草よお。お前、どうやってこいつを引っ張り出したんだ?」
「何のことだ?」
 尋ねると、松原は口の端を歪めて嗤った。嫌な笑い方だ。そのまま要の問いには答えず、ぐい、と葉子の腕を引いた。
「すかしやがって。なにが『もうやめる』だと? こいつの誘いには乗るのに、なんで俺は駄目なんだ。選べる立場じゃねえだろう!」
「やめて」
 葉子は身をよじった。黒髪がはらはらと空に舞う。松原は手を緩めない。ぎりぎりと腕を締め上げている。
「やめろよ。痛がってるだろ!」
 あまりに乱暴な扱いに、植草は思わず声を荒げた。
「少しくらい痛い目に合った方がいいだろ、こんな女はよ」
「おい、お前」
「同じ穴の貉の癖に、いい人ぶるのはよせよ」
 松原は葉子の耳に口を寄せる。
「行こうぜ、葉子。嫌とは言わせねえぞ。ずっとあんたが忘れられなかったんだ」
 そう言うと、松原は葉子の腰に手を這わせた。
「やめて!」
「うるせえ! 来いって言ってるだろう!」
逃がさじと腰を抱き留める松原の腕を引きはがし、葉子は体をよじり――どう、と道に倒れこむ。
「ひっ……」
 声を漏らしたのは、誰だっただろうか。道行く人だっただろうか、それとも要自身であっただろうか。
 葉子が道に倒れている。着物の裾ははだけ、白い襦袢に包まれていた素足が投げ出されている。その足が、赤い。皮膚が爛れた痕だろうか、無事な皮膚がないくらい、あちこち引き攣れ、斑になっている。
 葉子は俯いたまま、着物の裾をす、と直した。ぬかるんだ泥と、おそらくどこかを擦ってしまったのであろう血が入り混じり、着物は斑模様に染まっている。
「相変わらずきったねえ足しやがって。かわいがってやろうってんだから、ありがたく思えよ!」
 要は瞠目する。この男は、何を言っているのだろう。
「……おい」
 口に出した声は、思った以上に怒りを孕んでいた。
「いい加減にしろ。それがご婦人に対する態度か」
「うるせえ! なにがご婦人だ。お前だって俺と同じ癖に、偉そうにご高説か?」
「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「俺はばけもんを抱いてやって、金を恵んでやってるんだ。それの何が悪い!」
 顔を赤くして怒鳴る松原を一瞥し、要は葉子の肩に手を回した。細い肩がびくりと震える。
「行こう、葉子。こんなやつ相手にしない方がいい」
 立ち上がるように、葉子を促す。おずおずと歩き始めた葉子を松原の視界から隠すように、要は葉子の肩を抱いた。
 踵を返したその時、視線の先に――八重が、いた。
 八重がこちらを見ている。氷のような冷たい瞳で、要と、葉子をじ、と見つめている。
「八重……」
 その言葉に、葉子がはっと顔を上げた。
「八重、違う」
 声を上げながら、要はうっすらと期待する。怒るだろうか。八重はその氷の表情を溶かし、どういうことだと自分に詰め寄ってくれるのではないか。
 八重はすう、と息を吸い、そのままゆっくりと吐き出した。そして、姿勢を正したまま、ゆっくりと――まるで何もなかったかのようにゆっくりと、二人の横を通り過ぎて行った。
 鼓動が激しい。息がうまくできない。目の前が暗くなっていくのを感じて、風呂敷を持つ手で胸を押さえた。
 心臓が冷たくなっていく。まるで氷の息を吹きかけられたかのような鋭い痛みが、要の心を貫いた。
 大丈夫だ、八重は気にしない、と口ではそう言っていた。そう思ってもいた。しかし、実際にそうであると突き付けられた現実は、要に思った以上の衝撃を与えたのである。
 やはり、八重は自分のことなど――。
「要さん!」
 葉子だ。何やら緊迫した声で、肩に回された要の手を外そうともがいている。
「早く、逃げて」
「な、なに」
「早く!」
 その声と重なるように、幾重の悲鳴が上がった。
 要は振り返り――。
 衝撃が、走った。何か、ひんやりとした物が――鋭い氷のようなものが――腹から背中にかけて刺さっている。
 身体がじわじわと熱くなる。足に力が入らなくなり、もつれるようにして地面に倒れこんだ。熱い。だくだくと熱い液体が流れ出ていく。震える手でそれを触り、理解した。刺された、何かに。刺されたのだ。
 体中が引き裂かれるような激痛に、声なき声を挙げた。
痛い。
 体が急速に冷えていく。頬の下で、雪交じりの砂利がざらざらと音を立てる。
「まつ、ばら」
「ざまあみろ!」
 言い捨て走る後ろ姿が、徐々に霞む。地に落ちた風呂敷がほどけ、藍染めの肩掛けが毒々しい色に染まっていった。
――た、あなた……!
 半狂乱の声が耳に届く。あの声は、八重ではないのか。
「や……え」
 冷たい手が、頬を撫でた。ひいやりと気持ちいいその感触に要は微笑んだ。目が霞む。もう光も入らない暗い闇の中で、その冷たい掌だけが要をこの場に繋ぎとめている。
 ――……なないで、死なないで……
 八重の声だ。自分のために、必死になっているのか、泣いてくれているのか。
 体がゆっくりと沈んでいく。もはや痛みも感じない。ただ、静かな冷たさだけが、要をしんしんと包み込んでいた。
 ――時間は限られているんだ。後悔しないようにした方がいい。
 葉子の声が、脳裏によみがえる。本当にその通りだな、と要はひどく後悔をする。
「やえ」
 頬に、ほたりと落ちたのは、涙だろうか、それとも雪か。
 死にたくない。まだ伝えられていないのに――。

 しらしらと雪が降る。
 雪が降る。
 昔、紀伊国にわたつみと申す神おはします。その神、年毎まつりにていけにへを奉るなり。ひとの女かたちよく色白く姿らうたげたるもの求めて奉りける。
 ある女いけにへにさし当てられにけり。親なく国の生まれならず逆ふものありしもせむかたなし。女月日嘆きて過すほどに、やうやう命つづまりけり。
 そのまつりの日になりて宮司よろづの人々こぞり集まりて長櫃に女入れわたつみのもとへこれを浮かべ火をつけけり。
 かくのごとく見るほどにむら雲大空に引き蓋ぎて、雷光満ち車軸のごとくなる雨降りて火はしり風おしおほひて家に移りて煙り炎くゆりける。

 わたつみ怒らせにけりと人のくちずさみなほやまず。
 げにおそろしきことなり。

 浜辺に、女性が佇んでいる。
 長い黒髪を靡かせて、彼女は、ただ。ただ。海を見ていた。
 まるで、物語のようであった。
 かつて読んだ様々な絵本、小説、戯曲、なんでもいい。その印象的な一頁のように。
 海と、彼女は、そこに確かに存在していた。
 
 目を奪われるということが本当にあるのだということを、夏彦はその日、初めて知ったのである。


  ***


「何、お前、懸想したの」
「懸想って、お前な」
「想いを懸ける。良い言葉だよねえ」
 聡はそういってくふりと笑った。
 全く腹の立つ野郎である。

 大学帰りに寄り道をしては、喫茶店で、少しお高い珈琲を嗜むというのが、ここ最近の夏彦の日課である。特にこの場所は、色々な喫茶店に顔を出し、調査した結果、ようやく見つけたお気に入りの場所であった。

 人は、食事をする際には暖色を好むのだという。それ故に、飲食店では温かみのある照明を使うところが多いのだが、夏彦御用達のこの喫茶店は、一味違う。
 まるで水の中のように、青の照明が使われているのである。
 これだけだとイロモノの喫茶店のようであるが、なかなか本格的で、珈琲も料理も、デザート系も、どれも皆一流の味である。
 聡は目の前で青に染まったショートケーキを頬張っている。初めて連れてきたときは、食欲が失せる、と、あまりいい顔はしなかったのだが、何回か来ているうちにすっかり慣れてしまったようだ。
 視線に気がついたのだろう、聡は顔を上げる。目が合うと、口を下弦の月のように歪めて笑った。嫌な顔だ。明らかに楽しんでいる。
「で、相手はどんなコ?」
「おい」
「いいじゃないか。教えてよ」
「やだね。お前、楽しんでるだろ」
「当たり前でしょ。惚れた腫れたで大変なのは当人のみさ。周りはただの観客と相場が決まっている」
「本当に、やなやつだなお前は」
「いのち短し、恋せよ乙女。男なのが残念だ。ああ甘酸っぱい、甘酸っぱい」
 歌うように呟いて、彼はショートケーキの上の苺をぱくりと口に含んだ。
 夏彦と聡は大学の二回生である。同じ文学部在籍であった。
 聡は目立つ容姿であった。線が細く、顔立ちも中性的で、物柔らかな物腰。当然女学生にも人気があり、いつも誰かしらに囲まれている印象であった。
 対する夏彦は、頬骨の張った厳つい顔で、体もずんぐりと大きい。ただでさえ怖がられる風貌であるのに、それに加えて人見知りで、特に女性に関しては、どうにも鯱張ばってしまうところがあった。そのため、この二十年間というもの、ガールフレンドが出来たこともなければ、勿論お付き合いをしたこともない。
 何とも、不公平な世の中だ。
 人見知りなのは、置いておいても。せめてこの男に比肩するくらいの容貌であれば、また違ったかもしれないのに。
 夏彦は恨めし気な目で、目の前の男を眺めた。
「お前はいいよな、お相手がいるんだから」
 涼しい顔をしたこの男が、軽薄そうに見えて実は結構一途だというのを知ったのは、つい最近である。
 聡にはガールフレンドがいる。明美という名の、ボーイッシュで、背の高い、エキゾチックな顔立ちの女性であった。高校からの付き合いなのだという。一度だけ会ったことがあるが、明るく快活なその様子に夏彦は癒されたものだ。
「ふふん。いいだろう。ほら、これ、手作り」
 そういって見せつけてきた白いマフラーは、歪な形であったが、それすらも、一生懸命編んだのだと暗に主張しているようで、なんとも腹立たしい。
「ぼくは純粋に興味があるんだ。お前みたいな朴念仁が一目惚れするなんて、きっと相当な美人なんだろうな」
「ちがう、ただ少し気になっただけで」
「それを恋と言わずしてなんという」
「ちがうと言っているだろう」
「まあ、何とでもいいなよ。目は口ほどに物を言うってね」
 にやにやと笑う聡をじとりとねめつけて、夏彦は珈琲をずずっとすすった。


 
 夏彦がその女性に出会ったのは、つい先日のことであった。
 彼の住むアパートは、海の近くに建っている。大学に通うためだけに借りたその場所は、狭く、ぼろぼろで、壁も薄い。こんな風に寒い冬の日などは、隙間風が入り込む。
 炬燵やストーブは、甘えだ。学生ならば学生らしく、慎ましく暮らすべき、という謎の義務感にかられて、夏彦はこの冬も安い毛布で過ごそうと決めていた。一度贅沢を覚えたら、そのままなし崩しになってしまうような気がしたのだ。心頭滅却すれば火もまた涼しという。その逆だって可能なはずだ。

 その日も、彼は毛布にくるまって寒さをしのいでいた。

 朝の五時である。風の強い日であった。凍えるような風がひっきりなしに入り込み、夏彦の体温を容赦なく奪っていく。
 一度、目が覚めたら、もう駄目だった。何度寝なおそうとしても、体の芯を抉られるような冷たさが、彼の睡魔を奪っていく。
 ――起きよう。
 彼は布団をはね上げた。
 眠れないのなら、このままだらだらと布団の中にいても、仕方がない。
 それで、朝の散歩に出かけたのである。
 早朝の海は、静かであった。さすがに寒い。芯から順々に凍えるような感覚である。着ているダウンジャケットの襟を合わせるようにして、彼は浜辺に佇んでいた。
 まだ太陽も顔を出さない、けれど夜とも言い切れない。朝と夜の狭間。
 背後の月が、幽かな光で海原を照らしていた。青紫の水面はぬらぬらと光り、やがて来る夜明けの気配をうっすらと漂わせている。
 白く砕ける波しぶきが、月光を浴びてベールの様に輝いていた。
 絶え間なく続く、波の音。
 吹きおろしの風が、夏彦の少し伸びた髪を荒々しくかき混ぜていく。
 夏彦は、海が好きであった。
 心の、一番深いところが、ざわざわとざわめくのである。
 人は、海から来て、海に還る。どこかで聞いたフレーズであるが、まさにそれだ。
 きっと、自分は、前世は魚だったに違いない。
 理屈ではない。夏彦には、そんな、確信めいた思いがあった。深い青の底に沈む。手足はヒレに変わり、人間の皮を破り捨てて、深く、深く。
 そんなことを考えている折であった。
 吐く息が、白い。暗闇にすうと溶けていく。その息の先を視線で追って、彼は息をのんだ。

 女性が、居た。

 ほんの数メートル先である。いつからいたのだろうか。暗闇に溶けるように、彼女はそこに佇んでいた。
 海を、見ているようであった。風に乱れた長い黒髪。体にぴったりとしたジーンズに、革のジャケット。随分と細身である。すらりとした姿に、男性のような恰好がよく似合っていた。走り屋だろうか。バイクの音は、聞こえなかったが。いったい、いつから。
 夜が明けていく。藍色、薄ぼんやりとした紫、そして海原を金に染めながら、朝が、生まれようとしていた。水面に顔を出した太陽は、彼女の輪郭を金に染め上げていく。
 まるで、物語のようであった。
 かつて読んだ様々な絵本、小説、戯曲、なんでもいい。その印象的な一頁を思わせる光景であった。
 女性は、たなびく髪をつうと抑え、ゆっくりと振り返る。
 夏彦は、動けない。
 もう寒さも感じなかった。
 音の一切を吸い込まれたかのような感覚。
 波の音も、海を渡る風の音も、最早、遠い。

 目が、合った。

 黒曜石の瞳が、濡れ濡れと光っている。
 その光を隠すかのように、彼女はそっと目を伏せた。
 泣いていたのかもしれなかった。
 長い睫毛のふちに、雫を宿し、自嘲するかのような笑みを浮かべていた。
 さくり、と音がした。黒の靴の足元で、砂が鳴る。
 女性はゆっくりと歩み、そのまま、夏彦の横をすうと通り抜けた。
 翻る黒髪から、幽かな、甘い香り。
 香水ではない。
 何か、花のような、懐かしさを感じる香りであった。

 目を瞬かせる。

 気づけば、朝日はとっくに昇り切っていた。
 まるで、立ったまま夢を見ていたかのようであった。
 夏彦は頭をひとつ振り、そっと後ろを振り返った。

 もう、あの女性はいなかった。ただ、甘い香りが。胸を締め付けるように、残っていた。


  ***


「それは、恋だわね」

 古本を整理しながら、頬を染めていったのは、夏彦のアルバイト先のオーナーである。五十がらみの女であった。名前を芳子という。
「恋」
 壁一面の棚にはたきを掛けながら、夏彦は憮然とする。
 この人も、聡と同じことを言う。
「違いますよ。俺はただ……ちょっと気になっただけで」
 舞う埃に顔をしかめながら、夏彦は呟いた。
 馬鹿馬鹿しい。そんなものではないのだ。
 ただ、振り向いた時の、長い睫毛に宿った光、輪郭を金に染めた姿、あの香り、それが少し気になる。それだけの話である。
「気になるってんなら、それはもう、囚われている証拠なのよ。囚われてからが恋のはじまり。もうそこからは逃げ出せないの。ああ、楽しいわねえ。いいわねえ、若いって」
 芳子は古本を手にしたまま、それに頬を寄せ、むふりと笑った。
「わたしにもあったわあ、身を焦がすような。赤いリンゴに唇寄せて……ふふふ」
 本に、口づけを落としそうな勢いである。
 夏彦は溜息を一つ吐くと、今にも芳子の餌食となりそうな古本をそっと取り上げることに成功した。
「芳子さん、ここは俺がやりますから」
「あらそお、じゃこの本、全部、しまっておいてくれるかしら」
「わかりました」
「それじゃ、わたしはちょっと失礼して……」
 昼の三時である。ちょうど芳子がいつも見ているテレビドラマの再放送の時間であった。
 夏彦は苦笑し、手に持った本を棚にしまう。


 壁一面の本棚には、様々な古本が積み上げられている。芳子には申し訳ないが、この本を読み漁ることもまた、午後三時の夏彦の日課であった。
 今日は、どの本にしようか。昨日は鏡花を嗜んだので、少し違った作風のものがいい。久しぶりに乱歩にしようか。しかし、今はどちらかというとそういうアンダーグラウンドな物ではなく、もう少しかっちりとしたものを読みたい気分だ。

 逡巡しながら、手を彷徨わせている時であった。
 入口の、呼び鈴が、鳴った。
「いらっしゃいま……」
 夏彦は口をあんぐりと開ける。
 本屋の入り口。今にも崩れ落ちそうに積まれた古本の隙間を縫うようにして店内を物色している。
 あの、女性だ。
 長い黒髪、すらりとした姿。黒曜石の瞳。
 海辺で会った、あの人が、今、ここにいる――。


  ***


「え、なに、それで、何も話さなかったっていうわけ?」
 聡は目を丸くした。
 翌日。
 講義終わりに構内をうろうろしていた聡を捕まえ、缶珈琲一本分の時間をもらうことに成功したのである。
 この男に相談事とは我ながら情けないが、夏彦は、心底困っていた。
 昨日の女性のことが、頭から離れない。
 しっかりとした日の下で見ても、彼女は変わらず美しかった。
 ゆっくりと、狭い店の中を歩く姿。立ち止まって、本を選ぶ指先。背に流れる黒髪。夏彦に、本を差し出した、白魚の手。先のほうだけ少し赤い、ふっくらした指。少し低めの掠れた声。花のような香り。
 そういったものが、ちらちらと頭に住み着いて、何も手につかなかった。アルバイトを終え帰宅しても、その姿はより一層鮮やかになり、まるで万華鏡を覗き込んだ時のような心持ちになったものだ。
 端的に言うと、夏彦は焦っていた。まるで自分が自分でないようである。
 今まで、二十年間生きてきて、こんな経験をしたことがない。あの女性のことを考えるだけで、心がざわざわとざわめいて、ちっとも落ち着かないのである。

 二人は寒風吹きすさぶベンチに並んで腰を下ろしていた。もう随分とそうしている。相談しようと思えど、夏彦とて、何を言えばいいか分からなかったのだ。
 逡巡し、ようやく口を開いた時には、温かかった缶珈琲は、とうに冷めきっていた。
「で? 奇跡的にも、アルバイト先で? 運命的な再会をしたというのに? 何も、できなかったというのかお前は」
「本は売ったぞ。会話も、した」
「あのさ」
 聡はあきれたように笑った。
「まさかその会話って、ウン百円になります。お釣りはこちら、じゃあなかろうね」
 その通りだったので、夏彦は押し黙った。
「……奥手奥手とは思っていたけど」
「んなこと言っても、何を、話せばよかったんだよ」
「いろいろあるだろう。名前とか、年齢とか……電話番号まで聞けたら完璧だけど、流石にぼくもそこまでは言わないさ、けどねぇ」
 聡はため息をついた。冬空に、白く消える息を目で追って、夏彦はぼそりとつぶやく。
「でも、そんなこと聞いて」
 いったい、どうしろというのだ。
「あのね」
 聡は冷えた珈琲をすすった。
「誰かと誰かが繋がるためには、どちらかが働きかけなきゃだめだ。だろう?」
「でも」
「現に、ぼくはそうした」
 確かに、そうだ。この男と、ガールフレンドの話は、耳にタコができるほど聞かされていた。
 夏彦は考える。自分は、あの女性と繋がりたいと思っているのだろうか。
 ――そもそも、繋がるとはどういうことだ。
「まあ、次に会った時に、せめて名前くらいは聞いておけよ」
「……次、と言っても」
 夏彦は下唇を噛み締める。
「また、お前の店に来ることもあるんじゃないのか」
「店に?」
「そう」
「でも、彼女が来たのは昨日が初めてだぞ」
「さあ、どうだか」
 聡の声が、のっぺりと耳に響いた。
「見えていなかっただけかもしれないだろう」
「どういうことだ」
「お前が意識していなかっただけかもしれないぞ」
「何を、言っているんだお前は」
 聡は朗らかに笑った。
「気になる人ができるっていうのは、そういうことだからさ」
 意味が分からなかった。いったい、聡は何を言っているのだろう。
「まあ、大丈夫だ。二度まで会ったのだから、縁があれば、あと一回くらいは好機があるだろう」
「――好機」
 ぽそりと呟いた言葉は、思いの外期待に満ちた響きであった。そのことに夏彦自身もぎくりとする。
 自分は、期待、しているのだ。もう一度彼女に会えることを。
「二度あることは、三度あると言うし、な」
 夏彦の言外の思惑に気づいているのであろう、聡はにやりと笑った。
「そして、三度目の正直とも言う」
 黙ってしまった夏彦に、聡はたたみかける。
「言ってみろ」
「は?」
「感情に、仕切りが必要だ。今のお前は混乱している。整理する必要があるだろう」
「……何を」
「覚悟を決めろよ。口に出して言うんだ」
 そう言うと、聡は口の端をひょいと持ち上げた。そのまま珈琲を一息に飲み、立ち上がる。
 風が吹いた。
 聡の白いマフラーが、ひらひらと舞っている。それをつうと抑え、聡は笑った。
「お前は、その人のことが好きなんだ」
 夏彦を取り囲む音が、一切合切、消えた。
 違う。そう言おうとしても、口が動かない。
 ――好き、だと?
 ――自分が、あの女性を?
 ――名前も知らぬその人を?
 聡の手から放れた空き缶が放物線を描き、屑籠に吸い込まれる。
「まあ、ぼくはね、全面的にお前を応援するよ。お前のそんな顔を見たら、せざるを得ないからな」
 思わず顔を片手で覆った。今、自分がどんな顔をしているのか、自覚したら最後だ。
 聡は高らかに笑うと、片手を上げて踵を返す。
 夏彦は、その後ろ姿を目で追った。
 顔が熱い。
 真冬だというのに、自分はいったい、どうしてしまったのであろうか。


  ***


「ああ、もう、何やってるの!」
 芳子の悲鳴で、夏彦は目を瞬かせた。目の前で、本が雪崩を起こしている。
 確か、検品をしていたはずであった。破れているものがないか、状態はどうなっているのか、それを確認してから、値段をつける。そんな作業である。
 今日は講義が四限まであったので、午後六時からの勤務であった。時計を見る。夜の八時を過ぎていた。あと一時間で閉店である。それなのに、夏彦の前に積まれた本は、一向に減ってはいない。
 いったい、自分はこの二時間、何をしていたのだろう。
「どうしたの、北村君。随分と上の空じゃない」
 芳子が溜息交じりに呟いた。
「す、すみません」
「も・し・か・し・て、恋の病かしらぁ」
「……違います」
 はたきを持って、腰をくねらせる芳子を一瞥し、夏彦は息を吐く。この人はいつもこうだ。聡にしても、芳子にしても、どうして自分をそんなに恋愛に絡めたがるのだろうか。
 夏彦とて、恋愛に興味がないわけではない。むしろ、大いにあると言ってもいい。けれど、たった二度しか会っていない、名も知らぬ人のことを、好きだ、というには抵抗があった。
 そう、確かに気にはなっているけれど。人を好きになるということは、その人の、人と為りを確かめて、ある程度の時間を経て、ようやく芽生える感情なのではないだろうか。
 崩れた本の雪崩は、床にまで及んでいる。随分派手に散らばしてしまったものだ。
 直そうと、手を伸ばし――ふと、一冊の本が目に留まった。
 頁が開いてしまっている。
 随分と古い。
 和綴じの本である。
 黄ばんだページには、墨で描かれた絵と、うねうねとした崩し字が踊っていた。
 思わず、手に取った。
「これ……」
 描かれているのは、女だ。綺麗な人であった。
 裸体である。女は水の――おそらく海の中にいる。
 すうと切れ上がった瞳は悲しげに伏せられていた。長い黒髪は乱れて体に張り付き、ふくよかな乳房がその隙間からちらりと覗いている。その乳房の下の方、ちょうど影になっているところから、鱗が、生えていた。
 まばらに生えたその鱗は、下半身にいくに従って密度を増していく。鱗に覆われた下肢は、魚の尾となり、力強く水しぶきを上げて。
 上半身は人、下半身は魚。
 ――人魚だ。
 異形の女は、その身を海に沈め、荒れ狂う海に抗うように泳いでいる。
 そんな、絵であった。
 不思議と、胸の奥がぎゅうと痛くなる。何だかとても懐かしいような気がする。この絵を、いや、この情景を自分は知っている……。
「ああ、それ」
 芳子は本を手に取った。画集のようであった。表紙にはタイトルと思しき文字が、これまた崩し字で踊っている。
「面白いわよねえ」
「面白い、ですか?」
「ええ」
 そう言って芳子は本を指さす。
「日本の人魚には、なかなか見ないタイプの絵だわね」
 芳子は、本屋の店主なだけあって、こういうものには結構詳しい。特に、古書に関しては博識で、打てば響くような答えが返ってくる。普段がああなだけに、そのギャップに最初は驚いたものであった。
「見ないタイプですか?」
「ええ。日本の人魚って、いかにも化け物然としているものが多いのよ」
「化け物?」
「般若のような顔に鯉の体がくっついていたり……、上半身が河童のように描かれているものも多いわね」
「ああ……」
 夏彦は頷いた。
 妖怪の類に関しては、夏彦はあまり詳しくない。しかし、聡から本を貸してもらったことがある。彼は専らその手の読み物が好きなのだ。
 面白いから読んでみろ、とのお言葉をいただき、一、二冊借りて読んでみた。図録と、読み物がセットになった本である。その中の一冊に、確か人魚もいたはずだ。夏彦が見知っている、童話の物と随分違ったのを覚えている。
 こちらは、どちらかというと、一般的によく知られている、アンデルセンの人魚に近い姿であった。
「それ、誰が描いたやつなんです?」
 夏彦は本を指さした。
「さあ。それが分からないのよ。古いものであることは、確かなのだけれど」
「……それ、俺が買ってもいいですか?」
「北村君が?」
「ええ。友人が好きそうなんです」
 嘘だ。
 聡に見せたら、どんな反応をするだろう。そう思ったのも事実である。しかし、それよりも、その人魚の絵が、気になった。
 妙に離れがたい。手元に置いておきたい。そんな心持ちになったのである。
「残念ながら、だめなのよ」
「え?」
 芳子は本を閉じ、机に置いた。
「これ、実はもう買い手が決まっているのよね」
「買い手?」
「そう」
 呼び鈴が、なった。
「噂をすれば」
 芳子が、笑った。
 入口を見て、夏彦は絶句する。
 そこにいたのは、あの――。
「いらっしゃい、葉子ちゃん」
「芳子さん、いつもありがとう」
「いいのよぉ。あ、これ、例の本」
 そう言って、芳子は本を彼女に手渡した。
 夏彦は息ができない。魚のように、口をパクパクさせるので精いっぱいである。
 確かに、あの女性だった。海で会った、そして、この店で先日会った、あの。
 彼女は本を検分しているようであった。白い指先が、黄ばんだ本の頁をひと繰り、ひと繰り確かめるように捲っている。
 真剣な表情であった。
「どう?」
「まだ私が持っていないものです」
 上目づかいでそう尋ねる芳子を安心させるように、葉子、と呼ばれた女性は微笑んだ。
「流石、芳子さん」
「ふふふ、良かった」
 芳子もつられたように笑う。
 夏彦は――未だに動けない。
 目の前の光景を、まるで水槽越しに見ているかのようであった。現実感がないというのだろうか。薄青に包まれた視界に、葉子と芳子が笑っている。
 黒髪が、さらりと流れた。
 ふわり、と漂う、花の香り。
 あの時も――海で会った時もそう思ったが、ひどく懐かしい香りであった。
「……くん、北村君!」
 夏彦は目を瞬かせる。
 青い視界は一瞬で消え、目の前には、呆れた風情の芳子が仁王立ちしていた。
「もう、なにぼーっとしてるの!」
「あ……」
「ちょっと奥に行くから、葉子ちゃんの相手、お願いね」
 電話がけたたましく鳴っている。奥の方だ。店の電話ではないので、芳子の私用であろう。
 慌てたように奥に消える芳子の背を目で追い、夏彦は慌てた。
 二人きりに、なってしまった。
 視線を戻すと、目の前の麗人は、相変わらずの風情で本の頁を繰っている。
 奥からは芳子の朗らかな笑い声が聞こえてきた。どうやら知り合いからの電話だったようで、何やら盛り上がっている。
 夏彦は、焦った。
 相手、と言っても。いったい何をすればいいのだろう。
 じっと見る。
 確かに、あの人だ。海で会った。そして、ここでも一度会っている。
 葉子ちゃん、と呼ばれていた。芳子の知り合いなのだろうか。
 それにしても、睫毛が長い。白皙の頬。きっと触ると少し冷たいのだろう。鼻は高めで、細い。少し開いた薄い唇から、真珠のような歯がちらりとのぞいている。
 覚えず、不躾な視線を送っていたようだった。葉子が、つうと顔を上げた。
 目が、合った。
 黒々とした瞳に、夏彦が映り込んでいる。
 体が、震えた。
 何か、喋らなくては。
 何を言えばいい。
「あ……」
 口が、上手く動かない。
 ――好機。
 聡の声が、聞こえた気がした。
 好機だ。
 しかし、何の好機だ。
 名前は既に知っている。
 ――年齢。
 女性に聞くのは失礼だ。
 ――電話番号。
 無理だ。不審がられるに決まっているではないか。
「あ……の」
「はい」
「う、海に……」
 口をついて出たのは、そんな言葉であった。
「海?」
「う、海に、いましたよね……」
 葉子は目を見張った。やがて、その瞳をゆっくりと細める。
「ああ……あの時、浜にいた人」
 少し低い、掠れた声だった。
「それじゃあ、恥ずかしいところ、見られちゃったかな」
 夏彦はぎくりとし、机の角に頭をぶつけたい衝動に駆られた。よりによって、なぜ自分は、その話題を選んでしまったのだろう。
 そうだ、この人は、泣いていたのではなかったか。
 睫毛に宿った雫を思い出す。その理由を知りたいと思わないでもなかったが、いくらなんでも、ほぼ初対面の相手に振っていい話題ではない。
 夏彦は慌てて話題を探した。
「よ、よく行くんですか」
「え?」
「う……海に」
「うん」
 葉子は本の頁を慈しむように撫でた。指の先を追って、夏彦は息を呑む。
 ――人魚だ。
「行くよ」
 そう言って、葉子は目を伏せた。視線は人魚の頁に注がれている。
 狂おしいまでの光を秘めた瞳であった。絵を見ているはずなのに、絵の奥の奥を覗き込もうとしているかのようである。
「海は故郷だからね」
「故郷?」
「そう。人は、海から来て、海に還るっていうけれど」
 葉子の言葉に、夏彦はどきりとする。
「もしかしたら、私は昔、魚だったのかもしれない。そう言ったら笑うかな?」
 顔を上げて、葉子は苦笑した。夏彦は……笑えなかった。
 全く同じことを、自分も考えてはいなかっただろうか。
「お、俺も」
 思わず言葉に出した。葉子は小首を傾げる。その拍子に、艶やかな黒髪がさらりと零れた。
「俺も、同じこと、考えます」
「君も?」
「ええ、なんていうか、青いのが落ち着くって言うか」
 しどろもどろになりながら、夏彦は言葉を探す。
「理屈じゃなくて、なんとなくなんですけど。海の底に行きたいとか、前世は実は魚だったんじゃないかってよく考えます。――その人魚も」
 ちらり、と人魚を見やった。
「なぜか、懐かしい気がして。だからその頁をあなたが見つけて、あなたがそんなことを言うなんて、なんだかすごく運命を感じて」
「運命?」
「あ、いえ、その」
 焦った。顔が熱い。自分は何を口走っているのだ。これではまるで、ただの遊び人か、危ない人だ。
 葉子は目を丸くし、一拍置いて、爆笑した。体をくの字に曲げて、笑い転げている。
「す、みません、俺、変なこと」
 葉子はまだ笑っている。
「違う、違う。顔、真っ赤で」
「え!?」
「君、おもしろいね」
 夏彦の顔が、ますます熱くなる。自分でも火照っているのが分かるくらいだ。さぞひどいことになっているのだろう。
「ああ、笑った、笑った」
 目じりにたまった涙をぬぐいながら、葉子は笑みを零している。
「なあに、随分盛り上がってるじゃない」
 いつの間に帰ってきたのだろう、芳子がにやにやしながら隣に立っていた。
「どう? 葉子ちゃん、ウチの秘蔵っ子。将来性抜群、性格真面目、顔は怖いけど気は優しくて力持ち」
「……よしてくださいよ」
 げんなりする夏彦を見て、葉子はまた、笑った。


 葉子は、よく店に現れるようになった。
 とは言っても、それは昔からのことだったらしく、単に夏彦が気づいていなかっただけだった、という話である。
「なぁに言ってるの! うちのお得意様なのよぉ」
 そう言ったのは芳子である。
「北村君も、何回か顔を合わせてると思ったけれど。あんな美人に気がつかないなんて、朴念仁もいいところね」
 芳子は朗らかに笑った。
「いい子よ。すっごく。古書が好きでねえ。それで、あの子の好きそうなのが入ると、一応取っておくのよ」
「古書、ですか」
「そう。特に、妖怪画ね。コレクションしているんだって話よ」
「へえ……」
「まだ若いのに、偉いわよねえ」
 その話が本当なら、なぜ自分は彼女に気がつかなかったのだろう。
 呼び鈴が鳴った。
 黒髪を靡かせて、本棚の前に立つ麗人を見て、夏彦はひっそりと頷いた。
 ――見えていなかっただけかもしれないだろう。
 ああ、そういうことか。
 聡が言っていたのは、このことだったのだ。
 自分は、彼女に恋を、している。
 だから、見えるようになった。
 つまり、そういうことなのだ。


  ***


「ついに、認めたか」
 学食できつねうどんをすすりながら、聡はにやりと笑った。
 対する夏彦はハヤシライスをスプーンの先でつつきまわしている。
「で、誘ったの?」
「何に」
「決まってるだろう。デートだよ、デート」
「デっ……」
 音を立てて、スプーンが皿の上に跳ねた。ハヤシライスの黒褐色が夏彦の服に飛び散る。
「うわ!」
 慌てて布巾で服をこする夏彦を見て、聡は呆れたようにため息をついた。
「その様子じゃ、まだなんだな」
「だって、おい、会って間もないご婦人に、そんな」
「そんなに固く考えることもないだろう。お茶しませんか、で済む話じゃないか」
「んな、簡単に言うなって!」
「何も、ホテルに誘え、って言ってるわけじゃないんだぞ」
「なっ、ちょっ、待て!」
「待たん。どうにもお前はじれったさすぎる」
 しれっと言いながら、聡はうどんの油揚げをかじっている。
「それで、名前は? 聞けたんだろうな」
「あ、ああ。葉子、と」
 瞬間、聡の動きが止まった。
「……葉子? 苗字は?」
「分からん」
 聡の事だから、きっとまたにやにやと笑い、こちらをからかってくるに決まっている。夏彦は、そう思っていた。
 しかし、聡はにこりともしない。
 顎に手を添え、何やら考え込んでいる風情である。
「植草?」
「ああ……いや」
 聡は目を瞬かせる。
「葉子、なんて名前、珍しくもないしな」
「は?」
「こっちの話だ。……ともかく、頑張れよ」
 その様子に、少しだけ違和感を覚えた。
 後に思えば、この時に。
 もっと深く突っ込んでおくべきであった。
 葉子、という名に何か意味があるのか、と。
 訪ねておけばよかったのだ。


 ***


「お茶、しませんか」
 そう初めて声をかけたのは、寒さも厳しい、夕の刻であった。
 その日は大学が休みだったので、午前からの勤務である。そのため、珍しく夕方には上がりの時間だった。
 そのタイミングで、彼女が来店したのだ。
 今しかない、そう思った。
 葉子は目を丸くし、そして。ゆっくりと、花が綻ぶように、笑った。
 通いなれた店で、初めて食べたケーキの味を、夏彦は一生忘れないだろう。青い照明のあの喫茶店を、葉子は気に入ったようであった。海の色に染まった苺のショートケーキをパクつきながら、彼女は笑っている。
 海の中にいるようだ、と言っていた。青の底は、こんな案配なのだろうか。それは随分と心地よいに違いない。
 とりとめない話ばかりを、した。
 好きな本の話。
 好きな食べ物の話。
 好きな音楽の話。
 人には、相性というものがあるのだと思う。夏彦も今回ばかりはそれを実感せざるを得なかった。
 彼女といると、気が楽になる。
 女性が苦手な夏彦にしては珍しく、自然体で話せる相手であった。


 それから暫くの間、そんな日々が続いた。特に約束をしたわけではない。しかし、夏彦の仕事が早く終わる日に、彼女はいつもふらりと店に現れるのである。
 葉子との逢瀬は楽しかった。
 不思議と、出自については話さなかった。向こうも聞かなかったし、こちらも触れずに会話をした。気にならなかったわけではない。けれど、聞いてどうなることでもないし、聞けば必ずはぐらかされる。そんな確信があった。
 どんな生涯を送ってきたかなど、そんなことは大した問題ではないのだ。
 目の前に彼女がいる。名前を呼び、呼んでもらう、それだけでもう十分なのだと、彼には分かっていた。
 ただ一つ、どうしても気になることがあるのだとすれば。それは、彼女が時々酷くつらそうな顔をすることだ。
 あの日も、そうであった。
 寒さも少しばかり緩んだ、午後のことである。
 この頃になると、もう仕事とは関係なく、二人は会うようになっていた。相変わらず約束はしていない。休みの日や、時間の空いた時に、夏彦はあの喫茶店に足を向けるのだ。葉子は、大抵そこにいた。会える日もあったし、会えない日もあった。会えた日はそのまま同席し、そのまままったりと過ごすのである。
 その日の彼女は、呆けていた。
 ここ最近、ぎっしりと縮まった蕾が、ゆっくりと花開くように、春の気配を感じるようになった。春は、好きだ。何かが始まるようなワクワクとした心持ちになる。
 暖かな予感に胸を膨らませ、夏彦は店の扉を潜った。
 青に照らされた店内、静かなジャズの響く中、壁際の席に、葉子は、いた。
「やあ」
 声をかけて、向かいの席に座る。
 葉子はひどく塞ぎ込んでいるようであった。いつもなら嬉々として食べ進めているはずのいちごパフェも、一向に減っていないように見える。
 来たばかりなのだろうか。
 いや、そうではない。
 パフェの上に乗っているアイスクリームが、だいぶ溶けている。青の照明に照らされたバニラアイスは、まるで海のようであった。その中で、苺が辛うじて頭を出し、助けてくれと言わんばかりである。
 葉子は無言であった。
 頬杖を突き、ぼんやりと青に照らされた店内を眺めている。
 彼女が話さないのは、今に始まったことではない。しかし、いつものそれとはどうにも調子が違うような気がしたのも事実である。
 夏彦は珈琲を注文し、鞄から文庫を取り出した。
 話したいことがあれば口を開くだろうし、そもそも口を出していい関係でもない。だから、いつも通りに過ごそうと思ったのである。
 運ばれてきた珈琲を一口、二口飲み、本を捲る。
 どのくらいの時間が経ったのであろうか。夏彦のカップが二度、空になるほどの時を経て、彼女はようやくぽそりと呟いたのである。
「魚は、いないのかな」
「魚?」
 脈絡のない言葉に、夏彦は目を瞬かせる。
「そう。せっかく海の底みたいなんだから。魚がいればいいのにと思う」
「一応、飲食店だから、それは難しいんじゃないか?」
「……そっか」
 そう言ったきり、彼女はまた口を噤んでしまう。眉を寄せたその表情に、夏彦はどきりとした。どういうことか、と聞くのは簡単である。しかし、そこまで踏み込んでいいものなのだろうか。
 葉子はスプーンで溺れかけている苺を掬い上げ、再び、パフェの中に沈ませている。
 夏彦は本を閉じると、葉子の様子を見るともなく見つめていた。
「切り離された水は」
 何回目かの救出劇の後、不意に発せられた言葉に、夏彦は首を傾げた。
「流れが止まってしまったら、やっぱり腐ってしまうのだろうか」
 夏彦は顎をさすった。切り離された水、とは、どういうことであろうか。質問の意味が理解できない。
「淀んでしまうのかな。循環させないと、いけないのかな」
 ああ、と夏彦は手を打った。
「もしかして、水槽の、話か」
 葉子は驚いたように顔を上げ、ややあって、こくりと頷いた。
「俺は、そう聞いたことがある。水は流れているから綺麗なままでいられるんだと。だから、魚を飼う際には、何かそういった、循環器のような物をつけるんだそうだ」
「そっか……。うん、そうだよね」
 そう言って、葉子はまた黙ってしまう。
 夏彦は逡巡した。
 葉子の様子は、明らかに普段と違っている。何か悩みがあるのだろうか。でも、それを聞いてもいいのだろうか。
 結局、その日はそのまま閉店時間になってしまった。いちごパフェは一度も口をつけられずに終わったようだ。
 店の前で踵を返す彼女の後姿を見て、夏彦は少しだけ後悔をした。
 もしかしたら、さっきの問いは、彼女の内側から出た言葉なのではないだろうか。だとしたら、やはり、突っ込んで聞くべきだったのかもしれない。しかし、どうやって聞けばいい。そもそも、この関係自体もあやふやであるのに、そこまで聞いていいものかどうか。
 自分は、彼女にとって、どういう存在なのだろう。
 空を見上げると、靄に包まれたかのような夜空が広がっていた。
 もう冬の色ではない。
 春が、近いのだ。


  ***


「よう」
 そう声をかけてきたのは、案の定、聡だった。
 講義が終わって、さあ飯にでも行くか、と思った時のことである。
 良い天気である。
 大教室の大きな窓からは日の光が燦々と降り注ぎ、ひと続きになった机にまだら模様の絵を描いていた。
 春休みの集中講義、というものに出席していたのである。
 せっかく学び舎に来ているのだから、精一杯学ぶことが自分の仕事である。夏彦はそういう考え方の持ち主であった。高い授業料を払っているのだ。勉強する機会があるなら、進んで行うべき、との自身の信念にしたがって、彼は長期休暇も頻繁に学校に来ているのである。
 だから、聡がそこにいたことに、夏彦は少なからず驚いた。
 彼はどちらかというと、座学はほどほどに、それよりも、外に出て、様々なものを見て、糧にしていく。そういう学びを取るタイプであった。
「これから、飯だろ? ぼくも行く」
 そんなわけで、二人で食堂にしけこむことになったのである。
「実は、ウチのツレがね」
「ツレ?」
 夏彦はナポリタンをかき混ぜながら聞き返す。
「明美が」
 聡はカツ丼の上の三つ葉を箸で器用につまみ、蓋の上によけた。
「気にしてて」
「何を」
「その……例の彼女とは、最近どうなのかって」
「どうって」
 今日のナポリタンは、ウインナーが多い。ここの学食は、日によって具材が変わることで有名である。この間頼んだ時は、パスタの半量ほどの人参がぶち込まれていた。
 ごろごろと転がったその肉片をフォークで突き刺し、夏彦は思案する。
 最近、どうなのか。
 この言葉に正確に答えるのは難しい。何故なら、彼とて『どう』なのかは分からないのである。
 確かに、よく会う。彼女は夏彦を拒否しないし、会話もする。名前を呼ぶことも多くなった。けれど、自分たちは何かを約束しているわけではないのだ。
「ちょっと、変なことを言ってもいいか?」
 カツを几帳面に一口大に切り分けながら、聡は言った。妙に歯切れの悪い言い方である。
 珍しい。
 いつもの彼は、いっそ小気味のいいほどの切れ味でもって、すぱりすぱりと言うはずだ。
 よほど言いにくいことなのだろうか。
「実は、ツレと、ぼくは、以前不思議なことにあってね」
「不思議なこと?」
 いったい何の話をするつもりなのだろう。夏彦は首を傾げる。
 聡は切ったカツを箸の先で転がしながら、もう片方の手を自らの首元に持っていき、そのまま何度かさすった。
 まるで、そこにあった何かを思い出しているかのような仕草であった。
「詳しくは、話せないんだけど。まあ、超常的現象と思ってくれていい」
「はあ」
「ねえ。おかしなことを聞くよ」
「なんだよ」
「その、お前の、その、『葉子』って人は、もしかして」
 聡は、そこで一度言葉を区切った。
「……長い黒髪で。黒の革ジャン、ぴったりしたジーパンを履いている、そんな人だったりするのか?」
 まるで、そうではないことを祈るような口調であった。目は、まっすぐと夏彦を見据えている。その狂おしい光に射すくめられ、夏彦は言葉を飲み込んだ。
 その通りの人であった。けれど、それを伝えてはいけないような気がした。もし伝えてしまったら、何か、とんでもないことが起こる。そんな気配すら感じていた。
 黙ってしまった夏彦を見て、思うところがあったのだろう。聡は、奥歯に物が挟まったかのような口調で、ぼそりと呟いた。
「もし、お前が、ぼくが言った通りの人と親しくしているようなら――」
 聡は、目を閉じる。
「――やめておいた方が、いい」
 夏彦は何も言えなかった。
 やめる、も、何も。
 ナポリタンを一口、含む。味はほとんど感じられなかった。それなのに、口の中には嫌な酸味ばかりが残る。
 よく、分からない。
 そんな夏彦に何を思ったのだろう、聡は軽く、じゃあ、と言い、カツ丼にほとんど手を付けぬまま食堂を後にした。


 聡の後姿を目で追いながら、夏彦は考える。
 何を示唆されているのかも、正直分からない。しかし、彼は信頼できる男である。そして、あの言葉が自分を気遣ったうえでの言葉なのも、彼にはよく分かっていた。
 だからこそ、解せない。
 聡は、言いたいことに遠慮はしない。夏彦のことを考えた上で忠告するのであれば、もっと具体的に言葉を落とすはずである。
 超常的現象と彼は言ったが、それがいったい葉子と何の関係があるのだろう。


  ***


 その日の晩のことである。
 夏彦は暗闇の中で、ぽっかりと目を開けた。様々なことが頭を駆け巡り、すっかり目が冴えてしまっている。
 時計を見ると、朝の四時であった。
 夏彦はむくりと起きあがる。
 考えていてもしかたがない。こういうときは、外に出た方がいい。
 行こう。久しぶりに。
 海を見に、行こう。
 早朝の海は、相変わらず静かであった。春とはいえ、この時間はまだ寒い。夏彦は着ているジャケットの襟を合わせるようにした。
 そういえば、初めて葉子に会った時も、この浜辺であった。彼女はここで、いったい何を見ていたのだろう。
 薄紫に染まる海原は、一定の音楽を保っている。まるで鼓動のようだ。ただ静かに、寄せては返しを繰り返し。
 どれだけの年月を、この波は繰り返しているのだろう。そこにあるのは、同じ水なのか、それとも違う水なのか。留まってしまったら、この海は海でなくなるのか。そんなことを考えて、夏彦は迷子のような心細さを覚えた。
 人は、海から来て、海に還る。
 深い青の底に沈み、手足はヒレに変わり、人間の皮を破り捨てて、深く、深く。
 ――人魚。
 ふと、思い出した。
「肉を食べると、不老不死になるって話だ」
 そう言ったのは、聡であった。古書で見た人魚が気になって、聡に訪ねた時の事である。食堂でカレーライスをつついていた彼は、首を傾げ、暫く何かを思い出そうとするそぶりをみせる。やがて紡がれた言葉が、それであった。
 ――不老不死。
「西洋と東洋では随分と違うようだけれどね。日本ならば、それが有名だ」
「へえ」
「だから、捕まえようとする人が多かった。しかし、捕まえたら捕まえたで、その人、あるいは村に、良くないことが起きる」
「ちょっと待て、その前に。――人魚は、いるのか」
「いるのか、って?」
「つまり、その。実在するのか、という意味だ」
「ナンセンスだな」
「しかし」
「お前も文学が好きなら分かるはずだ。いる、いないの問題ではない。いると書かれていることが重要なんだ。つまり」
 聡はそこで一度言葉を区切った。
「信じていること。それが一番大切だ。いる、と描かれているのなら、その当時の人にはいる存在だったのだろう」
 話を戻そう、と聡はスプーンで皿を叩いた。
「では。なぜ食べると不老不死になるか、と言う話だけれど。ぼくが思うに、海の印象に関係あるんじゃないかと思うね」
「海」
「そうだ。海の、波を見るとわかるだろう。寄せては返しというけれど。あの動きは永遠を連想させるに相応しいものなのだと思う」
「ああ」
「それに。海は、異界だしな」
「異界?」
「そう。常世の国だとか、ニライカナイだとか。つまり、海の向こうには理想郷があって、そこでは皆不老不死で幸せに暮らしている。そんな考え方が基盤にあるんだ」
 聡は、こういう話になると普段以上に饒舌になる。夏彦も、彼のこういう話を聞くのは好きであったので、ミルクセーキを吸い上げながら、話の続きを促した。
「そこに現れる不可思議な生き物――人でもなく、魚でもない。それを見た人が、不老不死の国から来たのだと思うのも当然の流れだ」
「ああ……」
「だから、それを食せば、その力を――つまり、不老不死の力を、そっくりそのまま体内に取り込むことができる、と考えたんじゃないかな」
 聡は見せつけるように、カレーから肉片をひとつ掬い上げ、ぱくりと口に入れる。
 夏彦は胸を撫でた。思った以上に、気味の悪い話だ。
 今の話を反芻する。
 要約すれば、不老不死のイメージは海から来ているのだということだろう。それならば、人魚を食すことは、海を食べることでもあるのかもしれない。
 それは、何となくしっくりとくる考えであった。
 海の律動ごと体内に取り込んで、血液の代わりに潮でもって、その寄せ返す波を鼓動の代わりとする。そうすれば、体内に永遠の海が完成するという寸法だ。
「羨ましいと思うか?」
 唐突に、聡が呟いた。先程の、滔々と話していた口調とは少し違った、どこか切なげな響きを持った言葉であった。
「何が」
「不老不死。お前は、どう思う」
 夏彦は考える。
 もし、自分が、余命幾許であれば。今日明日で儚くなることが分かっているのなら、それを望むのかもしれない。しかし。失うものがほとんどであろう。家族も、恋人も、友人も、皆自分より先に死んでしまう。時代も変わる。時の流れに切り離され、もう『自分』を知る人が一人もいなくなる。そんなことに耐えられる人間がいるとは到底思えなかった。
「俺は、ごめんだな」
「そうか。……ぼくもだ」
 そう頷いた聡が、どこかほっとした表情であったのを、夏彦はよく覚えている。


 海が、きらりと光った。
 夜明けが近いのだ。
 吐く息が、白い。暁にすうと溶けていく。その息の先を視線で追って、彼は息を呑んだ。
 葉子が、いた。
 ほんの数メートル先である。いつからいたのだろうか。海原の金に溶けるように、彼女はそこに佇んでいた。
 海を、見ているようであった。風に乱れた長い黒髪、その一本一本が金に染まっている。
 まるで、物語のようだ。
 かつて読んだ様々な絵本、小説、戯曲、なんでもいい。その印象的な一頁のように、忘れられない挿絵のように。海と、葉子の後姿は、ただそこに存在していた。
 たなびく髪をつうと抑え、葉子はゆっくりと振り返る。
 夏彦は、動けない。
 同じだ。初めて、葉子と会った時と。
 音の一切を吸い込まれたかのような感覚。
 波の音も、海を渡る風の音も、最早、遠い。

 目が、合った。

「……夏彦君?」
 少し低い、掠れた声。
 沈丁花の香り。
「――随分、早いね」
 黒曜石の瞳が、濡れ濡れと光っている。
 駄目だ、と夏彦は唇を噛みしめる。どう足掻いても、もう否定できない。自分の心は、この人を欲している。
 手に入れたい。つなぎ止めたい。自分だけの物にしたい――。
 夏彦は一歩踏み出した。
 足元で、砂がきしりと音を立てる。
 耳奥で聞こえるのは、血の音か。
 いや、違う。
 これは海だ。
 夏彦の体の中に、海があって。
 それが今、耳元に響いてきているのだ。
 夏彦は無言であった。
 もう一歩。手を伸ばせば、彼女に届く。
 葉子の、黒曜石の瞳に、夏彦が映っている。
 その瞳ごと飲み込むように、夏彦は、葉子を抱き締めた。
 思った以上に、その体は細く、頼りなかった。
 彼女は一瞬身を固くし、むずがるように体を捩る。それを抑え込むように、夏彦は腕の力を強めた。
「葉子さん」
「……放して」
「葉子さん、聞いて」
「いやだ」
「俺は、あなたが」
「やめて!」
 悲痛な叫びであった。
 夏彦の腕の中で、葉子は体を震わせている。強くなる沈丁花の香りに眩暈がした。
「後悔すると分かっていた」
 呟かれた言葉に、夏彦は目を見開いた。
 湿度の高い音であった。ほとんど泣き声と言ってもいい。表情は分からない。俯いた彼女の黒髪から、白いうなじが覗いている。
「ごめんなさい」
「……なんで謝るの」」
「私は何度、同じことを繰り返すのだろう」
「葉子さん」
「罰が当たったんだ」
「葉子さん、何、言ってるの」
「あの時、あれを口にしなければ……違う」
「何」
「いっそのこと、私が本当に人魚なら」
「葉子さん」
「この肉を君に食わせたのに」
 抉るような言葉であった。心の奥底の、濁ったものを吐き出すかのように、彼女は呟いた。
「私は切り離された水だから」
「何を、言っているのか、分からない」
「流れないと、腐ってしまう」
 そう言って、葉子は顔を上げ、ゆったりと微笑んだ。
 世にも優しい、慈悲の笑みであった。
「もうきっと、君には会えない」
 そっと解きほぐすように、彼女は彼の腕から抜け出した。金色に染まる海原を背負ったその女性は、ぞっとするほど美しかった。
「ありがとう……ごめんなさい」
「待って」
 引き止めなければいけない。そうしないと、もう二度と、彼女には会えない。
「どうか、覚えていてほしい。私の最後のお願い」
 金に滲む空に、彼女の体が溶ける。絵の具に水を落とした時のように、輪郭が曖昧になっていく。
「……人として生まれたのだから」
「葉子さん!」
「しあわせに……」

 伸ばした指先は、届かなかった。金に染まる世界に、彼女は。
 泡のように。
 ぱしゃり、と。
 溶けた。




 夏彦は暗闇の中で、ぽかりと目を開けた。
 ――夢か。
 喉が、乾いている。張り付いた気管に息を通すように、彼は大きく咳をした。視界が滲んでいる。どうやら泣いてしまっていたようであった。何か、酷くつらい夢を見ていた。寝ながら泣くだなんて、まるで子どものようだ。
 今は、何時だろうか。
 むくりと起きあがり、台所に向かうと、彼は蛇口を捻る。流れ落ちる水に、海の音が重なった。
 シンクに渦を巻く、水の流れを見て、彼は。
「……ああ」
 夢か、現か。分からないけれど。
 きっと。


 それから、夏彦が、葉子を見ることはなくなった。


  ***


「やあ、久しぶり」
 呼び鈴の音に振り返ると、幾分老けた顔がそこにあった。
「植草! 久しぶりだなあ」
「すごいな」
 聡はそう言うと、ぐるりと店の中を見回すようにした。照明の代わりに、壁や柱に埋め込まれたアクアリウムが、青や緑の光で店内を照らし出している。
 水槽で泳ぐ、色とりどりの魚を目で追って、彼は破顔した。
「海の中みたいだ」
「だろう?」
 夏彦は得意げに笑ってみせた。
「まさか、本当に開くとは思わなかった」
「俺も、お前が来るとは思わなかった」
 そういうと、聡は椅子に腰かけながら、笑った。
 今日は、カフェのプレオープンの日であった。朝からどたばたと準備をしていたが、それもようやく落ち着いて、あとは時間を待つのみ、という案配だ。
 大学を中退し、調理の道に入ると言った時も、聡は何も詮索しなかった。そのことがあの当時の夏彦にはただただありがたかったのである。
 思えば随分遠くまで来たものだった。がむしゃらに修行し、免許を取り、ようやく自店を持つことができたときは、嬉しさよりもむしろ、ほっとしたものであった。


 夏彦がこだわったのは、海の底をコンセプトにするということだ。本物の魚を眺めながら、ゆっくりできるカフェを作ろうと、そう決めていた。
 アクアリウム・カフェ、ということで、そこそこの注目を浴びているのだという話であった。それで、開業前なのにも関わらず、雑誌の取材が入った。今回のプレオープンに、作家を呼んで、記事を書いてもらうことになったのである。
 その作家の名を聞いて、夏彦は仰天したものだ。
「売れっ子だもんなあ、植草先生よぉ」
「おかげさまでね」
 聡は端正な顔をにやりと歪めた。まったく、変わらない、この男も。学生のときのまま、時間が巻き戻ったかのようである。
 ちくり、と差し込む胸の痛みに気がつかないふりをして、夏彦は笑った。
「頼むぞ、先生」
「任せろ。いい記事にしてやるから」
 そう言って、聡は持参の花束を渡した。
「これ、開店祝い。明美も喜んでたぞ」
「ああ、明美さん。元気かい? 一緒に来ればよかったのに」
「それが、あいつ。今、こうだから」
 聡は笑って、腹のあたりを撫でた。幸せそうな様子に、夏彦は破顔する。
「もう少ししたら、始まるから。もう少しだけ待っててくれな」
 そう言って、厨房に戻ろうとした時の事であった。
「ちゃんと、書くからな」
「え?」
「きっとあの人の目にも、止まるはずだ」
 夏彦は、そっと目を伏せる。
 長い黒髪。すらりとした姿。少し低い声。沈丁花の香り。一度たりとも、忘れたことがない、その姿を思い浮かべて、夏彦は笑った。
「誰の事だ?」
 そう言い放つと、聡は、やっていられない、と言わんばかりに、眉を下げ、肩を竦めた。


 月日は流れていく。
 体中に満ち満ちていた若さも、無鉄砲さも、年齢と共にすうと潮が引いていくようだった。
 ――もう随分と、歳を取った。
 夏彦は椅子に腰かけ、アクアリウムの光に満ちた店をぼうっと眺めていた。
 よくぞ、ここまで続けていけたものだ。幾分古くなった調度は、その年月の分だけ重さを増し、煌やかに輝く熱帯魚の群れも、もう何代目になったのかは分からない。
 白が混じった髭を撫でつけ、彼はよいしょと腰を上げる。
 外は良い天気であった。
 朝である。初夏の、まだ柔らかな日差しが、窓硝子越しに店に模様を描いている。アクアリウムの青と、あたたかな陽光が溶け合って、まるで南国の海のようだ。
 新聞の天気予報では、午後は崩れるとのことであった。
 雨宿りのために、少し混むかもしれない。アルバイトの子は、今日は休みである。
 夏彦は厨房に入った。少し多めに仕込みをした方がいいだろう。
 そうして、ゆるゆると店を開けていたのだ。
 どうやら、天気予報は当たったようで、午後になって幾許もしないというのに差し込む光に陰りが見えた。
 雨になるのだろう。
 夏彦が重い腰を上げて、傘立てを準備していた時の事であった。
 呼び鈴が、鳴り、入ってきたのは、男女のペアであった。男の方は常連だった。爽やかな出で立ちの、好青年然とした、気持ちのいい客である。
 いつもは一人で来るのに。女づれは、初めてではなかろうか。
「いらっしゃいませ」
 ほぼ機械的に声をあげ、夏彦は――絶句した。
 ――おごりますよ。何でも好きなものを頼んでください。
 ――いちごパフェ。
 ああ。
 長い黒髪。黒いジャケットにジーンズ。黒曜石の瞳。
「すみません、注文、お願いします」
 青年が手を挙げている。
 そんなことより、彼の前に座った女性は。
 記憶の時のままの。
 ――そんな。まさか。
 ――何年前だと思っている。
 夏彦がきちんと注文を取りに行けたのは、彼の意志が強かったからではない。体に染みついた、何十年もの経験が、彼を動かしただけである。女性は、震える手の夏彦を見て、何を思ったのだろう。軽く目を見張り、そっと、目を伏せた。その悲し気な黒曜石の瞳は、あの時のままであった。
 ――いっそ私が本当に人魚なら。
 そういう、ことか。
 そういうことなのか。
 厨房に戻った夏彦は、冷蔵庫から苺を取り出し、丁寧にカットした。透明な、足の高い器にババロア、シリアル、バニラアイス、ホイップクリームを乗せ、その上に、先ほど切った苺をたっぷりと乗せる。
 口元が、歪んだ。
 こらえきれずに、嗚咽となった。
「――葉子、さん」
 きっともう、呼んではいけないのだ。あの彼女と、この彼女を線で結んでしまったら、今度こそ彼女はいなくなってしまう。
 運んだパフェを、彼女は嬉々として食べる。夏彦はその姿を、そっと横目で眺めていた。

 これでいい。
 この距離で、いいのだ。


  ***


「マスター、いちごパフェ、ひとつ」
「あ、いつもの人か」
 夏彦は冷蔵庫から苺を取り出し、慣れた手つきでカットを始めた。
「いつもの人?」
「そう、常連、べっぴんさんだよねえ」
 話しながら夏彦はパフェを仕上げていく。
 もしも彼女が、切り離された水なのであれば。この場所が、葉子にとって、海であればいい。そんなことを考えながら、夏彦は微笑んだ。

 運ばれたパフェを見て、彼女は、笑った。
 世にも優しい慈悲の笑みだった。

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