見下ろしていたその人は、とても優しい、青い色をしていた。抜けるような青空。雲一つない晴天に、すっくと立っていたのである。
 青の巨人。
 緑が煙る山の向こう、その稜線から、唯の頭の上にまで。空に溶けるような色をして、手を四方に広げ覆いかぶさるように。
 手にしたラムネ瓶を取り落とす。熱を伴う文月の風が、サイダーの甘い香りをくゆらせる。

 なんて綺麗な人だろう。まるで、このラムネのようだ。しゅわりしゅわりと体の中に泡が大小立ち昇り、循環し、弾けては消えまた生まれ……。
「あれが、見えるんかい」
 口をあんぐりと開けて見入っていた唯の頭を撫で回し、祖母は笑った。
 唯の顔をじっくりと見て、祖母はくしゃりと顔を歪める。鼻先に掠める土のにおい。祖母の手のひらは大きく、がさがさとしていて、そして、とても温かかった。
「さすが、ばあちゃんの孫だ」
 そう言って目を細めた祖母は。

 もう、いない。


 ***


「唯、何やってんだ」
 どうやら呆けていたようであった。兄が呆れたようにこちらを一瞥する。喪服の裾をぎゅうと握りしめ、唯は笑った。
「ごめん」
 目尻に溜まった雫を拭う。
 人間の骨というものは、とても愛おしいものでできているのだ、と唯は思った。幼い頃、あんなに大きく見えた祖母は、これ以上ないほど小さくなって、母の手の中に抱かれている。
 火葬場から戻ると、ただでさえ寂しげな田舎の風景が。更にがらんと感じられた。家主の居なくなった家は何かが足りないのだと分かっているかのように、目を伏せているように、ひっそりと佇んでいる。

「唯」
 目を瞬かせる。兄が、呆れた顔をして頭を小突いた。
「早く入れよ」
「うん」
 唯は、開け放しになっていた玄関から座敷に上がった。
 余所行きに整えられた、黒と白の幕に覆われた座敷。そこにはかつての思い出と、悲しみの色が混じってしまって、まるで知らない場所のようだ。線香の匂いに耐え切れず、大きく深呼吸をする。油断すると、また涙腺が緩んでしまいそうだ。

 居るべき人が居ないということ。どうにもならないと分かっているけれど。やはり、まだ、つらい。

「おい」
 声をかけられて振り向くと、丁度兄が玄関をくぐったところであった。
「唯は、どうする。俺は一度東京に戻るけど」
 兄は、手に持っていたらしい車のキーをちゃらりと回した。
「うん……戻ってもいいんだけど」

 会社員の兄と違って、自分は在宅の仕事をしている。パソコンも一応持ってきているし、こちらにいても、何の支障もない。

「もうちょっと、ここにいようかな」

「そうしてくれると助かるわ」
 母が奥座敷から姿を現した。目が、まだ、赤い。随分と憔悴した様子だった。
「お母さんたち、一度戻らなきゃいけないんだけど。まだお別れを言いに来る人、いるかもしれないし……どうしようかってお父さんとも言っていたのよ」
 母の後ろから、父がぬうと現れた。
「なに、親父たちも帰るの?」
「ああ。色々手続きがな……」
 父はそう言って、そっと母の肩に手を置いた。

 父母も、兄も、そして自分も、別の家に住んでいる。家を継ぐような親戚もいない。この家には祖母だけが住んでいたのだ。
 そして、その祖母は、今はもう、いない。
 手続きとは、そういったことなのだろう。

「それじゃ、残るよ。お母さんも、少し体を休めないと」
 唯は無理やり笑顔を作った。
 母には休息が必要である。祖母の遺体に取り縋り、号泣していた様子を思い出し、また、こみ上げてくるものを感じていた。
 あんな、子どものような泣き方をする母を見たのは初めてだ。
「それじゃ、唯、あとは、頼んだわね」
「うん」
「線香は毎日あげるのよ。お水も取り替えて」
「分かってる」
「もし誰かが訪ねてきたら、必ず名前と住所を聞いてね」
「はいはい」
「夜は電気をつけておくこと。お別れの挨拶に来る人がいつ来てもいいようにね」
「分かった」
「何かあったらすぐに連絡してね。携帯はつながるようにしておくから」
 母はまるで、自分が子どもの頃のように、再三注意を促した。



 二台の車が坂道を下っていく。車を見送りながら、少しだけ心もとない気分になる。

 唯は振り返り、家に向き直った。
 平屋造りの一軒家、その広い前庭はまるでジャングルのようで、見知らぬ生き物や植物が生い茂る、魔女の庭のようであった。

 幼い頃は、よくここで虫取りをした。大小のバッタ、キリギリス。アブラゼミや、ツクツクホウシ。夜には近くの川から蛍が飛んできたりもした。草の蔓を使った、引っ張り相撲。ホトケノザの蜜の味。

 教えてくれたのは祖母である。

 あれは美味いぞ。
 これは食うな。
 この虫は跳ねるぞ、そら、あっちへ行った。
 祖母の声を思い出して、唯は思わず天を仰いだ。 

 空は、青かった。あの思い出そのままに、キラキラと輝いていた。
 かつて見た。山の稜線。その上から覆い被さるように手を広げていた青の巨人。まるで自分たちを守るかのように、大きな手を広げて、空いっぱいに広がっていたのに。

 抜けるように青い空を見上げても、どんなに目をこらしても。
 そこにあの巨人はいなかった。







「だいだらほうし」
 祖母は、そう言って、空を仰いだものだ。
 青い人が見える。そう告げたとき、信じてくれたのは祖母だけであった。兄も、父母も、そんなものは見えないと首を振った。

 見えると告げた日から、祖母は唯に色々なことを教えてくれたものだ。
 青い人が、『だいだらほうし』という名であること。
 自分たちを昔から見守ってくれているということ。
 それから。
「ゆんは、自分がいんだらどうなるか、知ってるんかい?」
「いんだら……?」
「死んだら」

 やはり、夏の日であった。

 道路に横たわった猫。
 車に轢かれたようで、下半身が潰れていた。それでもまだ辛うじて息があったらしく、近付いた唯に向かって、小さく鳴いた。
 そして、二、三度体を震わせ、事切れた。
 手当てをすることもかなわず失われた命に、唯はしばし呆然とし、そして、泣いた。

 庭に埋葬し、墓標を立ててくれたのは、祖母であった。傍らで泣きじゃくる唯の頭をぽんと叩き、それで、あの言葉を口にしたのである。

 自分の死後。それは、幼い唯には難しい質問であった。考えても、分からない。死んだあと、自分はどうなってしまうのだろう。
 祖母はくしゃりと笑って、唯の髪の毛を掻きまわした。
「ばあちゃんも、ゆんも、この猫もな。いんだあとは、だいだらほうしの中に行くんよ」
 そう言って、祖母は天を仰ぐ。
 しゅわしゅわと、泡を立ち昇らせた大きな人は、相変わらずそこにいた。手を四方に広げ、傘のように、唯と祖母を見下ろしていた。
「だいだらほうしには、じいちゃんもいる。この猫もいるし、ばあちゃんもな……」
「やだ」
 唯は思わず祖母にしがみつく。そうしないと、今すぐにでもそこに行ってしまいそうに思えたのだ。
「ゆんはやさしいんなぁ」
 祖母の大きな手が、また、唯の頭をそっと撫でた。
「この猫は可哀想だったけんど、ゆんが泣いてくれたからなあ。きっと今頃、だいだらほうしの中でにこにこしてらあ」
 唯は、祖母に益々抱きつく。
「ゆん」
 祖母の声は優しかった。
「ゆんがだいだらほうしが見えるって知ったときなあ、ばあちゃんは嬉しかったんよ」
「……どうして?」
 祖母は、その問いには答えなかった。ただ黙って、唯の頭を撫でている。
「なあ、ゆん」
「なあに?」
「お願いがあるんよ。ゆん」
「なあに、ばあちゃん」
「もしばあちゃんがいんだらなあ。そんときは」
 ――そんときは。
 そのあと、祖母は何と言っただろう。




 家に戻ると、線香の匂いが鼻を突く。

 東京に引っ越した唯は、滅多にこの家に来ることはなくなっていた。
 成功してからは尚の事、忙しさを理由にほとんど帰らなかった。けれど、心のどこかで、この場所は桃源郷のような気がしていたものだ。
 決して、色あせない場所。
 ここに来れば、変わらぬ風景があって、いつも、祖母が迎え入れてくれるものだと、そう思っていたのだ。
 馬鹿な話だ。
 がらんどうになった田舎の家は、記憶の物よりもずいぶん広い。管理者のいなくなったこの家は、どうなってしまうのだろう。

 つん、とこみ上げる気持ちに気づかないようにして、居間の隅に立てかけられていた、こたつ机を引き出した。
 鞄からパソコンと、資料の一式を取り出して、机の上に置く。
 電源を入れた。
「ああ、やっぱり」
 一人ごちる。
 メールが入っていた。仕事の、催促のものだ。開かなくても分かるそれを、唯はそっと非表示にする。



 唯が、児童文学の作家になれたのは、ただの偶然である。



 昔から見えていた、あらゆることを、唯はよく記録した。
 見上げれば見上げるほど、大きくなる巨人。足の先を駆け抜けていく、犬のようなもの。電柱の下にうずくまる、青い坊主。神社に現れた火を纏う男や、けらけらと笑う女性の姿……。
 なるべく詳細に、丁寧に記録して、それを本にして楽しむのが、唯の趣味であった。

 祖母に見せると、祖母はいつも手を打って喜んだものだ。
「すごいんなあ」
 祖母はにこにこ笑って、唯の頭を撫でる。
「ゆんのおかげで、きっとみんな喜んでる」
「そうかな」
「そうさ」
 心底嬉しい、といった風情で、祖母は笑った。
「みいんな見えんくなっていく。そんなかで、ゆんはみんなが見えんものを書いて、みいんなに見てもらうことができるんな」
「それって、すごいことなの?」
「すごいんよ。ゆん、もっと自信を持ってええ。ゆんはな、見えんものに、命を与えてるってことなんよ」
 首を捻った唯に、祖母は笑いかける。
「見えんものは、見えるようになってはじめて命を持つんよ。だから、ゆん、沢山書き。書いて、みいんなに見てもらえ」
 その言葉に後押しされたのかもしれない。

 自分だけで楽しむだけでなく、誰かに読んでもらいたくなった。 
 お試し気分で、公募に出した。賞を取ろうとか、そういう野望はなかった。ただ誰かに読んでもらいたい。けれど、どうすればいいか分からない。それで、目に付いた雑誌の適当な欄に記載してあった、公募、の文字に引かれたのである。
 だから、大きな賞をもらったときは、正直面食らったというのが事実であった。

「今、流行ってるんすよ!」
 担当だと紹介された青年は、顔を真っ赤にしてこう言った。
「こういうの。あやかしものっていうんでしょうかね。いいっすねー! 夢があって」
「夢、ですか」
「ええ。今の子供に足りないのは、こういったファンタジー要素のものだと僕は思っているんです!」
 まだ若い、その担当は息を荒くする。
「特に、本郷さんのやつはすごくリアリティがあって、でもどこか非現実的で、今の流行りにばっちり、合います! くーっ、これは売れますよ!」
 その言葉の通りになるなんて、当時の唯は思いもしなかった。
 一作目が当たり、二作目の話が舞い込んだ。それも当たれば、そこからはとんとん拍子である。あれよあれよと唯のもとに、仕事が舞い込むようになった。

 けど、今は。
 手にした資料を一瞥し、唯は溜め息を吐いた。
「ばあちゃん、わたし、どうしたらいい?」
 居間の奥にちょこなんと置かれた白木の箱。小さい骨になった祖母が今の唯を見たら、どう思うのだろう。
 ――いけない。
 唯は堅く目をつむる。瞼の奥で、赤や黄色の光がはじける。

 夢なんかじゃない。リアリティがあって当たり前だ、
 だって、自分には見えていたのだ。それをただ、書けばいいだけであった。
 でも、今は、それができない。
 
 




 とんとん、と、音が聞こえた、ような気がした。
 唯は目をこする。
 いつの間にか、眠ってしまっていたようである。腕時計を見ると、もう夜の十二時になろうかというところであった。
 家の中は暗い。電気もつけずにうたた寝とは、自分も疲れがたまっていたのであろう。
 立ち上がり、電気の紐に手を伸ばした、そのときである。

 とん、と、また。
 聞こえた。

 どうやら、来訪者のようだ。
 唯は身構える。
 すでに深夜だ。
 弔問客だろうか。にしては、時間がおかしい。人の家を訪ねるには遅すぎる。
 それとも、こういう田舎では、この時間の弔問でも普通のことなのだろうか。
 そう言えば、母にもそう言われていたような気がする。
 ゆっくりと、玄関に近付いた。

 土間に降りる。玄関は曇り硝子の引き戸である。
 その奥に、誰かが、いた。白い手の甲が、もう一度、引き戸を打ち鳴らしている。
「……はい?」
 意を決して、声をかけた。
「こんばんは」
 低く、かすれた声。あからさまにほっとしたような、安堵の響きを帯びている。
 女性のようであった。唯は幾分安心する。いくら治安のいい田舎とはいえ、この時間に家にあげるには、同性の方がいい。

 土間の明かりをつけ、引き戸を開けた。
 そこにいたのは、思った以上に若い、綺麗な女性の人であった。 


 葉子、と名乗った女性は、白木の箱の前にきっちりと正座をした。丁寧にお辞儀をし、お焼香をする。
 唯は一歩下がり、その後ろ姿を見つめていた。
 明かりの下で見ても、美しい人である。
 長い黒髪。体にぴったりとした、黒い礼服。その黒と相まって、肌の白さが際だっている。
 丁寧な手つきであった。ひとつひとつを噛みしめるように、葉子は死者に挨拶をする。
「……美智」
 葉子が、親しげに祖母の名を呼んだ。
「美智、今まで、ありがとう」
 涙混じりの声である。微かに聞こえるのは、嗚咽であろうか。
 聞いている方も、胸が締め付けられるような声であった。
 


 引き戸の先にいた、予想外の麗人を前にして、唯は首を傾げたものだ。
 彼女は、随分と若いように見える。おそらく、自分の五つ、六つは下であろう。もしかしたらまだ学生なのかもしれない。
 だから、最初は義務での訪問かと思ったのだ。
 誰かの代理か、それか、なにか役所の関係で、弔問せざるを得ない立場の人か……。
 けれど、彼女の所作は丁寧である。義務感は感じられない。心の底から祖母の死を悼み、悲しみを覚えているように見えた。 


「ありがとう」
 お焼香がすむと、葉子は目尻をハンカチで拭い、赤くなった目を細めて、改めて、と言った風情でお礼をのべた。
「どうぞ」
 唯は用意のお茶をグラスに入れて差し出した。冷えた緑茶である。暑い中、弔問に訪れる人用に、と、昼に用意していたものだ。

 もう一度お礼を言って、葉子はそれを受け取った。冷やしていたためであろう、グラスに付着した水滴が、ほたり、と葉子の黒服に吸い込まれていった。
唯は、しまった、と心の中で呟く。何か、コースターなどを準備するべきだったか。それとも一度、グラスを拭いてから渡せばよかったのか。
 こういった形での弔問を受けるのは、初めてであった。作法も何も分からない。

「君は、お孫さんの……?」
「ええ」
「美智に、よく似ている」
「そうでしょうか」
「うん、そっくりだ」
 落ちた雫を拭こうともせず、葉子は唯に微笑みかけた。どうやら、彼女は細かいことにあまり頓着しないタイプのようである。

「あの、失礼ですが」

 唯は思い切って、声をかける。

「祖母とは、どちらで」
「え?」
「ああ、いえ、住所を、お聞きしてもよろしいでしょうか? のちほどお礼をと思いまして。その……」
 嘘ではない。
 母からも、名前と住所を聞くようにと厳命されている。
 しかし、それ以上に、興味があった。祖母は、この人と、いったいどういうところで知り合ったのであろうか。
「美智は、私の友人なんだ」
「友人……?」
「そう。長いつきあいだった」
 葉子は、グラスの縁を、つ、となぞった。そのままそっと口をつけ、美味しそうに喉に流し込む。
「何か、役場の行事かなにかで」
 祖母はほとんど自給自足の生活を送っていたことは知っていた。だから、なにかそういう、村関係の知り合いであるのだろうか。以前は農業体験などで、役所に協力したこともあったと聞いているし、もしかしたら、そういったボランティアなどで知り合ったのかもしれない。

 葉子はグラスを机に置くと、首を静かに振って顔を上げた。切なげに眉をよせ、祖母の遺影を見つめている。
 唯も、同じようにする。

 遺影の中の祖母は、しわしわの顔を更にしわくちゃにして笑っていた。その祖母と、目の前の人が友人であるという。
 どうにも解せない。

「それ……」
 つ、と葉子が小首を傾げた。
 視線の先を追って、唯はああ、と頷いた。パソコンと資料を出しっぱなしにしていたのを忘れていたのである。
「すみません、散らかっていて」
「いや。……そうか、美智が言っていた。君が、作家の」
 瞬間、顔に血が集まるのを感じた。祖母は、いったいこの人に何を言ったかは知らないが、大体想像がつく。
「読んだよ。どの話も、面白かった。君は妖怪が好きなんだね」
「……ええ、まあ」

 やめてほしい。特に今、この話題には触れてほしくない。

 きっと祖母は、この麗人に自慢げに話したのだろう。孫が作家であるということを、近所の人にも言っていたのを、唯は知っている。きっとそのパターンだ。
 前は、それが誇らしいと思っていた。
 でも、今は。
 唯の表情に、何を思ったのであろうか。葉子はそっと目を細め、唯をじいっと見つめている。
 柔らかな表情である。黒々とした瞳に、唯の顔が写り込んでいる。
 どきりとした。
「君のことは、美智からよく聞いていたよ」
 そう言って、葉子は微笑む。
「見える、と。そう言って、私に嬉しそうに報告してきたんだ。見えた物を書いているのだと。立派な仕事だと、君のことをほめていた」
「え」
 耳を疑った。
 見える、と。
 まさか、話したというのか、祖母が、この女性に。
「待ってください。……見えるって、何が」
「君が見てきたものは、美智にも見えていた。そして、私も」
 余程、驚いた顔をしていたのだろう。葉子は唯の顔をまじまじと見て、ややあって、くすりと笑みを零す。

「ねえ、美智と私が、同じ時代を生きていた。って言ったら、信じる?」
 笑いながら、ことりと首を傾げて、葉子はそう言った。
「同じ、時代?」
「そう。美智と私は、この村で、同じ学校に通って、同じように暮らして……」
「ちょ、っと待って」
 唯は混乱する頭を抱えた。
「あの、あなた、だって、まだ若いですよね?」
 祖母は少なくとも、八十は越えていたはずだ。その祖母と、学生のような風貌のこの女性が、同じ学校に通っていただなんて、そんなはずがない。
「うん、だから、信じる? って聞いたんだ」
 この人は、どこかおかしいのかもしれない。唯がそう思ったのも、無理はないだろう。

 ――どうしよう。

 母に連絡するべきか。でも、こんなことで連絡しても。
「唯さん」
 突然名を呼ばれる。唯は目を瞬かせた。自分は、この人に名を名乗ったであろうか。
 葉子は、もう一度、首を傾げ、そして、こう言った。

「今も、見える?」
「え?」
「……だいだらほうし」
 唯は、目を見開いた。







 祖母の思い出は、いつだって夏に起因する。
 それは、唯が夏休みを利用してこの家に来ていたからなのかもしれない。
 燦々と照りつける太陽。
 白くまばゆい、陽の当たる縁側と、家の暗さ。光と影のコントラストに目がくらむ。
「昔はみいんな知ってたんになあ」
 縁側で、サヤエンドウの筋をとりながら、祖母はそう呟いたものだ。
「だいだらほうし。今はみいんな見えんようになった」
「見えないの?」
「そうさ。ゆんのお父さんもお母さんも見えん。兄ちゃんもそう」
「でも、わたしは見えるよ」
「そう。だから、ばあちゃんはうれしい」
 祖母は目を細めた。
「昔はみいんな知ってた。だいだらほうしがいることも、ほれ、あいつも」
 そう言って、祖母はサヤエンドウの筋を庭の片隅に放り投げる。
 ちい、と小さく声が聞こえ、茂みがガサガサと音を立てる。
「今のは?」
「家鳴り」
「家鳴り?」
「そう。なあんもないときに、家がぎしぎし言うときがあるんよ。あれはみいんな家鳴りのしわざ」
「悪いものなの?」
「いいや」
 祖母は首を振る。
「いいも悪いもないん。家鳴りは、そういうものってだけ」
 唯は首を傾げた。
 家がぎしぎし鳴るのは、怖い。それに、その家鳴りのせいで、もし家が倒れたら困るではないか。そう訴えたら、祖母はくしゃりと笑ったものだ。
「ゆん、覚えておきな。この世には、いいも悪いもいっさい、ないんよ。あるんは、人様の都合だけ」

 祖母はいつもそうであった。
 唯の見える不思議な物を、決して悪くは言わなかった。

「なあ、ゆん、もしなあ」
 祖母の話し方はいつもゆったりと、耳に優しく響く。
「もし、ばあちゃんが、いんだら……」
 青の巨人が、見下ろしていた。
 とても優しい、青い色。抜けるような青空。雲一つない晴天に、すっくと立っている。
 緑が煙る山の向こう、その稜線から、唯の頭の上にまで。空に溶けるような色をして、手を四方に広げ覆いかぶさるように……。






 時計の秒針が時を刻む音が、やけに大きく聞こえる。
 唯は小さく喘いだ。
 今、目の前の人は、なんと言った?
 今も見える、と聞いた。
 何故知っているのだろうか、唯が見えなくなったことを。
 目の前の麗人は、姿勢を崩さない。背筋を伸ばして、唯を見つめている。
 その瞳が、ふいに和らいだ。
「いい顔してるね、美智」
 どうやら、遺影のことのようである。唯は頷いた。
「……これ、わたしが撮った写真なんです」
 懐かしい。
 あれは、確か自分の本が初めて手元に届いたとき。真っ先に報告したのが祖母であった。
 ――ゆん、おめでとう。
 祖母は、目に涙をためて、そう言った。
「すごいんなあ。ゆん、本当におめでとう」
「ばあちゃん、ありがとう」
「な、写真、撮ってくれんか」
「え?」
「この本といっしょに」
「なんで」
「なんでも」
「まあ……いいけど」
 承諾すると、祖母は心底嬉しいと言った顔で笑った。
 そのときに撮った写真が、あまりにも幸せそうだったので、唯も誇らしく思ったものだ。
「ほら、見てみい」
 祖母が、空に手を伸ばす。そこにはあの、青い巨人。
「ゆんは、こんなに立派な仕事をしてるんよ」
「やめて、ばあちゃん。恥ずかしい」
「何が恥ずかしいもんか。ゆんはすごい。すごいことをしてるんよ」
 誇らしげに笑う、祖母の顔。
「なあ、ゆん、もしな、もしばあちゃんがいんだら」
 あのときはまだ、見えていた。青い巨人。祖母と一緒に見上げて……。

 ――立派なんかじゃないよ、ばあちゃん。
 唯は心の中で呟く。
 結局自分は、自分に見える物しか書けない。
 だから、見えなくなったらそれで終わりだ。


「ねえ唯さん」
 葉子がことりと首を傾げる。
「いつから」
「……え?」
「見えなくなったの。だいだらほうし」
 どきりとする。

 この人は、自分の心が読めるのではないだろうか。





 ――ばあちゃん、長く、生きすぎた。
 
 覚悟をしてほしい、と、医師に言われたときには、祖母の意識は既になかった。
 年寄りの一人暮らしで、訪ねる人もほとんどいない。だから、気づくのが遅れたのだと、救急隊からは連絡を受けた。
「数日前から風邪を引いたと言っていたそうです。近所の方が医者に行くように薦めたとのことだったのですが」
 年輩の医師は、眉を寄せながらそう言った。
「夏ですから。この時期は、体力のない老人はどうしても。……残念ですが」
 母も、父も、兄も、大急ぎで向かっていると聞いた。
 自分が間に合ったのは偶然だ。
 たまたま自由業で、たまたま仕事がない時期で。そんな状況であったから、時間の都合がつきやすかっただけ。
 白いベッドの上の祖母は、随分と小さく見えた。
 体中に繋がれたチューブが痛々しい。
 枕元に近寄った。
 大きな窓からは、日の光が射し込んでいる。
 抜けるような青空に、もくもくと入道雲が湧いている。
 祖母は、意識がないようであった。呼吸器の人工的な音。規則正しい機械音を聞きながら、唯は。
 手を、握ったのである。
「ばあちゃん」
 声をかけた。
 反応はない。
「ばあちゃん、やだよ」
 唯は握りしめた手に力を込めた。そのとき、うっすらと聞こえたのである。

 ――だいだら、ほうし。

 祖母の声。
 慌てて顔を見やる。うっすらとだが、祖母の目は開いていた。
「ばあちゃん!」

 ――ようやく、あっちに行けるんなあ。

「何言ってるの、ばあちゃん」
 早く、医者を呼ばなければ。
 ナースコールに手をかけた、その手を、祖母がつかんだ。
 驚くほど強い力であった。

 ――ゆん。
 ――ばあちゃん、長く生きすぎた。

「……え?」
 ふと、視界が陰った。
 窓の外いっぱいに、青が広がっている。
「だいだら、ほうし」
 青の巨人が、その大きな手を広げて、どんどん近付いてくるのである。
「やめて」
 呟いた。

 ――いんだあとは、だいだらほうしの中に……。

 あの巨人は、きっと祖母を迎えにきたにちがいない。あの大きな手で祖母の魂を持って行ってしまうのだ。
「やめて!」

 ――ゆん、ばあちゃんが、いんだらな。

 何度も言っていた。祖母の言葉。
 夏の日の縁側で。
 事切れた猫の傍で。

 ――もし、ばあちゃんがいんだらな、ゆん。書いてくれんか。
 ――書く?
 ――そう。あのだいだらほうしに、ばあちゃんがいる、って。書いてほしい。

「いやだ」
 あんなもの、見たくない。自分には見えない。
 だいだらほうしなんて嘘っぱちだ。そんなものはこの世に存在しないのだ。

 だから、祖母は死んだりなんかしない。
 するものか……。

 唯は愕然とする。
 思わず喉に手を当てた。
 もしかして。

 あれから、なのだろうか。
 記憶を反芻する。
 確かに、そうだ。あのとき、見えた。だいだらほうし。それを唯は否定した。
 自分から、拒否をしたその日から、唯は見えなくなってしまった。
「君は、優しいね」
 葉子は静かに微笑んでいる。黒々とした瞳が、ゆったりと細められている。
「……美智は、公平な人だった」
 そう言って、葉子は再び遺影を見上げた。
「決して否定することもなく、悪だと決めつけることもない。本当にすばらしい人だったんだ。だから、私のことも、美智は受け入れてくれたんだろう」
 確かに、祖母は公平な人であった。唯の見えていたものを一切否定もしなければ、悪いものだとも決めつけなかった。

 改めて、唯は葉子を見る。
 綺麗な人だ。やはり若い。この人が、祖母と同じ時を過ごしていたなど、とてもではないが信じられない。けれど、と唯は思い直す。
 きっと、この世にはそういうことがあるのではないだろうか。自分にだいだらほうしが見え、他の人には見えなかったように。
「葉子さん」
 初めて、名前を呼んだ。
「改めて、ありがとうございました。葉子さんに会えて……祖母もきっと、喜んでいると思います」
 葉子は驚いたように目を見開き、ややあって、花が綻ぶように、微笑んだ。








 玄関の引き戸を開けると、外は、夏の夜とは思えない涼しさである。降るような虫の鳴き声。木々のざわめき。ほんの少し湿った香りは、土の匂いだろう。

 月が出ていた。
 細い三日月だ。頼りない月光と、それが霞むくらいの満天の星空。

「あの、本当に、これから帰るんですか?」
 既に真夜中と言っていい時間だ。
 葉子は、これから麓の町まで降りるのだという話であった。 
 この時間なので、泊まっていってもらおうと提案したのだが、一蹴されてしまったのである。それで、せめて見送りだけでもと思ったのだが、それも断られてしまった。
 それでも、この家から麓町まで、歩けばゆうに一時間以上はかかる。しかもこんな夜だ。さすがに危ないのではないだろうか。
 唯が、そう声をかけようとしたときのことである。
「ほら」
 葉子が、つ、と上を見上げた。
 満天の星空。月が細々と輝く。
 その奥の、黒々とした山の稜線に、あの巨人が立っていた。
青の巨人。
 とても優しい、青い色。降るような星空を背負い、大きな手を広げて。
「だいだら、ほうし……」
 喉の奥から、熱いものがこみ上げてくる。耐えきれずに、嗚咽を零す。
葉子も、同じものを見ていた。大きな巨人に、まるで祈りを捧げるように。その瞳に浮かんでいるのは、唯と同じものであった。
「……わたし、あなたのことも、書きます」
 口から出た言葉に、唯は自分でも驚いた。
 ――そうすればな。
「そうすれば」
 ――ずっと、一緒に。
「ずっと一緒ですから」
 記憶が、唯の脳内によみがえる。夏の日。縁側に腰掛けて、祖母はこう言ったのではなかっただろうか。

「もし、ばあちゃんがいんだらな、ゆん。書いてくれんか」
「書く?」
「そう。あのだいだらほうしに、ばあちゃんがいる、って」
「……どうして?」
「そうすれば、ばあちゃんは本当に、だいだらほうしと一緒にいれるんよ。だいだらほうしや、先にいんだみいんなと、ずっと一緒にいられるんよ。だから、な、ゆん」

 ――書いてくれんか、ゆん……。

 葉子は大きく目を見開くと、眉を下げる。
 そのまま唯に一礼すると、ゆっくりと踵を返した。

 唯の耳に、小さく声が届く。歌だ。葉子が歌っている。
 不思議な旋律であった。高く、低く響く旋律。どこかで聞いたことのあるような、懐かしい響き

 やがてその姿はゆっくりと、闇に飲まれて消える。
 のちの、静寂。
 虫の声。
 風の音。
 見上げれば、そこには青色の巨人。

「ばあちゃん」
 唯は天に手を伸ばす。
「見ててね」


 書店に並んだ新刊を前に、唯は顔を綻ばせる。
 我ながら、よい作品がかけたと思う。
 題材は勿論、青の巨人と、そして。

「いやあ、いいですよねえ!」
 喜色満面でそういったのは、担当である。
 今まで連絡をしなかったことを詫びたときも、彼は朗らかにこう言ったものだ。
「いいんっすよ! 作家にはそういうことがあるって、僕、聞いてましたから!」
 あまりにもあっけらかんとした様子に、唯は面食らった。
「でも、迷惑かけたでしょう」
「いいんっす! それも含めての担当っす。それに、あれっすよね。充電ってやつっすよね! それでこういう作品書いてくれるなら、僕的には全然オッケーなんで!」
 彼は朗らかに笑った。

「いや、ほんと、いいっすよこれ! この巨人もなんですが。なにより少女の友情物語……。時を越えて再び出会う! 片方は老人で、片方は少女で……いいっすね、くーっ!」
 反応が大げさだ。
 唯は思わず苦笑する。
「今こう言うの、流行りなんですよ、時をかけちゃって出会っちゃう系! 運命の出会い!しかもあやかしもので! いいっすね、これ、売れますよ!」
 その言葉通り、新しい作品の評判は上々であった。それで、サイン会を、と頼まれたのである。

 都内の大きな書店のバックヤードに通される。さすがに、緊張した。こんなに大々的なイベントに出るのは初めてだ。
「本郷さん!」
 大張り切りであちこちを走り回っていた担当が、嬉しそうに声を挙げた。
「見てください、これ!」
 今まさに届いたのであろう大きな花束を抱え、彼は顔を真っ赤にしながら力説する。
「あの、植草先生からですよ! すごい、大御所からこんな花束! 手紙まで! くーっ、すごい! これはもう、イベント大成功間違いなし!」
 驚いた。
 名前は勿論知っている。超大御所の作家大先生だ。こんなぽっと出の、しかも児童文学作家に個人的に花を贈るような立場の人間ではない。
「今度対談しませんか、ですって! うわーっ! もう本郷さん、これ、来るとこまで来ちゃってます!」

 担当の狼狽ぶりに、今度こそ、唯は、破顔した。
 
 見下ろしていたその人は、とても優しい、青い色をしていた。抜けるような青空。雲一つない晴天に、すっくと立っている。

 祖母の家は、唯が住むことになった。もともと気楽な自由業だ。書くことさえできれば、それでいい。だったら、もう、ここに住んでしまおうと考えたのである。

 今度、くだんの作家先生と対談をすることになった。
 先んじて電話をもらった。実際に話してみると、大御所というわりには砕けた話し方で、唯はほっとしたものだ。

「実はね、これ、内緒なんだけれど」
 ある程度日程を決めて、それでは、と電話を置こうとした時であった。こっそりと、内緒話という体で、彼はこう言ったのである。

「あの話に出てくる、この、葉子、という少女だけれど。多分、ぼくも知っているよ」




 窓の外は晴天。
 見上げれば、青の巨人。
 緑が煙る山の向こう、その稜線から、唯の頭の上にまで。空に溶けるような色をして、手を四方に広げ覆いかぶさるように。

「ばあちゃん」
 唯は、小さく呟いた。
「見ててね」


 だいだらほうしが、手を伸ばす。
 優しい色をした、青い巨人は。
 今も変わらずに、空いっぱいに、広がっている。