広場に焚かれた炎が、夜の闇に吸い込まれていくようであった。巨大な火柱である。まるで生きているかのように、天へ伸びていく。
ばちり、ばちりと爆ぜる音に引き寄せられ、明は炎に近づいた。
さながら赤い蛇であった。鎌首をもたげて蠢いている。その蛇に絡みつかれるようにして、 それは、いた。
黒の人影。赤く燃え盛る炎の中で黒い手足を振り回し、まるで踊っているかのようであった。
***
夏祭の夜。
日は落ちても蒸し暑く、まだ宵の口と言わんばかりに、蝉がじわじわと鳴いていた。
高台を上り、赤い鳥居を何度もくぐればもうそこは別世界で、明は心を躍らせたものだ。細く高く響く笛、腹に響く太鼓の音。普段はしんとした人気のない神社である。しかし、今日は違う。赤い提灯、舞う火の粉。境内に立ち並ぶ夜店の数々。風に運ばれるソースや醤油の香りに、明はぐうと腹の虫を鳴らしたものだ。
夜祭に来るのは初めてであった。
家の方針で、夜に外出するときは、家族と一緒にでないと許されなかった。しかし、明も来年から中学生である。家族と仲良く、というよりも、友人たちとの付き合いに重きを置きたい年齢である。今年こそは夜祭に行きたいと何度も母に頭を下げて、皿洗いと肩たたきの約束を向こうひと月ばかりして、それで、ようやく許してもらえたのだ。
「あっちで、いか焼き百円だって!」
幼馴染の勝也が、駆け出した。明も千円札を握り締める。それは聞き逃せない情報だ。腹が空ききっていた明は、勝也の後を猛然と追いかける。
そして、お社の前。広場の中央の、大きく立ち昇る炎の前に差し掛かった時のことであった。
ばちり、と、耳の奥で、弾ける音が聞こえたのである。
大きな炎であった。渦を巻きながら天へと手を伸ばしていた。
気づけば、足を止めていた。
炎が明の顔を赤く染める。その熱すら心地よく、たらりと伝う汗が頬をすべり、首元へ、そしてTシャツに吸い込まれていった。
祭囃子が遠のいていく。
ばちり。
ばちり、と炎が、弾けた。
その炎の中に、人影が、ゆらりと現れたのである。
踊っている。楽しそうに。
炎の中心に、手足を跳ねさせて踊る、人影。
男のようであった。
顔の凹凸は分かるものの、表情までは読み取れない。手足を振り回す様は地団太を踏むようでもあった。あるいは救いを仰ぐかのようにも見えた。男は踊っている。業火が蔦のように絡みついて、男の手足を舐っている。ばちり。ばちり。爆ぜる音が近づいていく。手足を振り回し。
ばちり。
こちらを、見ていた。
黒に落ち窪んだ眼と思しき窪み。その果てしない闇が、ひた、とこちらを、見つめていた。
炎が、燃えている。
男が、見ている。
――あちいよお。
つい、と、男は手を差し出し、ゆっくりと。
ゆっくりと。
手招きを、した。
「いけない!」
がしり、と腕を掴まれ、明は振り返った。女性である。すらりとした佇まいの、若い女が、明の腕を掴んでいる。力の込められた指が、明のまだやわらかな腕にじわりと食いこんだ。
「……痛!」
思わず顔を顰める。女は明の様子をじいと見つめ、やがて、ほう、と息を吐いた。
「炎の顔を見るのは、毒だよ。気をつけて」
踵を返す女の、赤に照らされた長い黒髪が、左右に揺れて遠のいていく。
明はもう一度振り返り、炎を見た。
もうそこに、あの人影は、いなかった。
***
「明! いい加減に起きなさい!」
寝ぼけ眼をこすると、朝も八時になろうとしているところであった。
明は慌ててベッドから飛び起きる。手早く着替えて階段を駆け下り、息せき切って、明るい日の光が降り注ぐリビングへと飛び込んだ。
「なんでもっと早く起こしてくんないんだよ!」
「何度も起こしたでしょう。まったくあんたはいつもいつも!」
母親の明美が柳眉を逆立てるのを見て、明は頬を膨らませる。
今日は大切な日であった。それは新学期だから、という訳ではない。二学期の一大イベント、修学旅行の班決めの日なのである。
明には、憎からず思っている女の子がいる。同じクラスの、愛子、という子であった。
愛子は、可愛い。学校で一番の美少女だと思っている。にっこり笑うと八重歯がのぞく、そこがまた、いい。最後の学年で一緒のクラスになれたのは明に取って幸運だった。修学旅行で、一緒の班になれたら、ちょっと頑張ってみようか。何といっても来年からは中学生になるわけだし、仲良くしておくにこしたことはない。
だから、今日は早く起きて、何もかも完璧にしておこうと思ったのに、出鼻を挫かれた気分である。
父親の聡が、飲みかけであろう珈琲をかたりと置いて笑った。
「まあまあ。ほら明。急いで食べちゃいなさい」
声が掠れている。また徹夜をしていたのだろう。父親の特殊な職業の事を考え、明は軽く肩を竦めた。
言われるままに食卓に着く。既に用意されていた、純和風の料理たち。ごくりと唾を飲みこみ、白米をかきこんだ。添えられていたお漬物は胡瓜と茄子。キャベツと油揚げの味噌汁が胃に染み渡る。一気に流し込んで、咀嚼する。
「こら、落ち着いて食べなさい」
聡志の声に、明はまた肩を竦める。無茶を言うものだ。急ぐ、と、落ち着く、は対極にあると言ってもいいだろう。
明美も食卓につきながら、苦笑した。
「あんたもね、もうあと少しで中学生なんだから。起こされる前に起きなさいよ」
「無理だって」
口いっぱい頬張りながら、明は抗議する。とはいえ、今日の寝坊は自業自得と言えるだろう。そのくらいは明だって分かっている。何せ昨日は。
そこまで考えて、明は首を傾げた。
昨日は、どうしたのだろう。
確かお祭に行ったはずだ。勝也が迎えに来て、二人で神社に向かって、それから。
ちり、とした頭の痛みと共に、明の脳裏に赤の色が蘇る。赤い、炎。鎌首をもたげた蛇のようであった。確か自分は、炎の前で。
「おい、明!」
聡の声に、明は目を瞬かせた。手に持っていた味噌汁椀から、中身がだらだらと零れている。
「ああ、もう、何やっているの!」
明美は慌てた様子で台所へ走った。布巾を取りにいったのだろう。明は味噌汁まみれの服を呆然と見下ろした。灰色のパーカーに、油揚げが芋虫のように張り付いている。
「体調でも悪い?」
聡はかたりと立ち上がると、明の額に手を置いた。
「熱はないね」
ばたばたと明美が戻ってきて、明の襟ぐりを乱暴に拭った。
「ほら、ぼっとしてないで着替えてきなさいよ! 出汁の匂いぷんぷんさせて学校行きたくないでしょ?」
「ねえ、明、ちょっと体調悪いみたい」
「えっ?」
明美もとっさに明の額に手を当てた。
「熱はないみたいだけど」
「……平気」
心配そうにこちらを見る両親に、明は笑顔で答える。ちくりと不安がよぎったが、そんなもの、気にしなければなんのことはない。今日は何としても学校に行かなければいけないのだ。
「あまり、無理はするなよ」
そう言って、聡は煙草を取り出して火をつけた。
赤い、炎。
――あちいよお。
「明?」
問われて、明は目を瞬かせた。どうにも頭がもやもやとしていけない。
「なんでもない」
心配そうにこちらを窺う両親を安心させるように、明は笑った。自室に戻ってもう一度着替え、ランドセルを背負い、再び階段を駆け下りる。
リビングに戻ると、聡が明美に叱られていた。
「あんたね、子どもの前で煙草はやめてっていつも言ってるでしょ!」
「ごめんごめん、つい癖で」
ソファの上で正座をさせられている聡を見て、明はくすりと笑った。ああ見えて、じゃれ合っているだけなのだ。あの二人は。
明は肩を竦めて、取り込み中の両親に声をかける。
「行ってきます!」
ばたり、と扉を開けて駆け出した。いい天気である。幸先のよさに、先ほど感じた不安が薄れるのを感じながら、明は学校への道を猛然と走り出した。
***
「ねえ、大丈夫なの?」
そう勝也に話しかけられて、明は目をぱちくりさせた。
「なにが?」
ランドセルを机の横にひっかけ、教科書と筆箱を取り出したところであった。
明は勝也を振り仰ぐ。ひょろりと長い姿を認めると、ことりと首を傾げた。勝也はいつもにこにこと笑っている、気の良いやつである。明とは幼稚園から家族ぐるみの付き合いだ。その勝也が、眉をよせて心配そうに、顔を覗きこんでいる。
「いや、明さ、昨日の夜変だったから」
「昨日?」
「ほら、お祭のとき」
ちり、と頭が痛くなった。目の奥にちらりと赤い炎が見える。あれは昨日のお祭りの、大きな炎だ。赤い色をして、じりじりと熱い――。
「明?」
目を瞬かせた。今、何か思い出そうとしていた。大切な事だったはずだ。忘れてはいけないこと。喉の奥に引っかかって、取れない小骨のような、もどかしい思い出があったような気がする。
「保健室行く? やっぱ体調悪いんでしょ」
「……だいじょぶ」
勝也は明らかにほっとした顔で笑った。
「ところでさ」
勝也が指さした。
「それ、なに?」
机の上に乱雑に置かれた教科書。紺色の筆箱、その隣の、銀色のジッポ。
「……父さんのだ」
明は目を見張った。何でここに。何かと間違えて持ってきてしまったのだろうか。
チャイムがなる。勝也は心配そうに明に眼をくべると、自分の席へと戻っていった。
あわててジッポをポケットに突っ込む。きっと、何かの拍子に混じってしまったのに違いない。帰宅したら、リビングの上にでも置いておこう。
がらり、と扉が開き、担任の佐藤が教室に入ってくる。にやにやとしながら箱を携え、それを教卓に置いた。
あれこそが、本日のメインイベント。班決めの籤に違いない。明は大きく息を吸って、手に『人』の文字を書いた。
それを見ていた勝也がぽそっと。
「それ、ちがうおまじないだよ」
と、教えてくれた。
祭の日に見かけた女の人に再び出会ったのは、その日の学校帰りのことである。
班決めの結果は散々であった。気合を入れて引いた籤は大いに外れ、愛子と離れてしまったのである。
明は友人が多い。どの班になっても話し相手に困るとか、そういったことの心配はまったくしていなかった。しかし、学校生活最後のチャンスで、想い人と一緒の班になれなかった。そのことが意外なほど、気落ちの原因となっていたのである。
同じ班になれなかったくらい、なんてことない。そう思うようにしても、なかなか胸中は複雑だ。くさくさとした思いを振り切るように、明は頭を軽く振った。
しかし憎らしいのは勝也だ。
彼は、ちゃっかり愛子と同じ班を引き当てたのだ。こちらをちらと見て、ごめん、と言わんばかりの顔に、無性に腹が立った。恐らく勝也は、自分が愛子の事を憎からず思っていることに気づいているのだ。そのこともまた、明を苛立たせる原因になっていた。
愛子は、勝也の事をどう思っているのだろうか。
勝也は、女子に人気がある。優しいところが、いい、と、以前女子が話していた。その中に愛子もいたはずだ。
「あー、やめやめ!」
我ながら、女々しい。終わったことを、ぐちぐちと考えていても仕方がないだろう。
まっすぐ家に帰る気にもならず、かといって行くあてもなく、ぶらぶらと道を歩いていたその視界に、神社の赤い鳥居が目に入ってきたのである。こんもりとした緑が生い茂る、小高い丘の上にちょこなんと見える赤に何となく惹かれて、明は足をそちらに向けた。
石畳の階段を駆け上ると、町が一望できる境内に辿り着いた。もう日も落ちかけている。傾きかけた陽光が、鳥居の影を長く引き伸ばしていた。
吹き抜ける風が心地よく、明はうんと伸びをし、境内をぐるりと歩く。
そこは確かにお祭りの後であった。片付けの途中なのだろう、屋台の骨組みが残っていて、なんとなく、物寂しい。境内の中心には、燃え尽きた焚火の残骸がこんもりと小山になっていた。そっと近づくと、かすかに焦げ臭く、思わず眉を顰める。
ふと、その黒い残骸の中に違和感を覚え、明は目を瞬かせた。
つきん、と頭が痛くなる。
――あちいよお。
その時であった。そっと後ろから、ひやりとしたものが目に覆いかぶさってきたのである。
人の手だ。目隠しをされている。ふわりと微かな、花の香りがした。
「見ちゃだめ」
低い、掠れた声。
ふっくらとした、それでいてひんやりした手の平の感触に、明はどきりと心臓が跳ねる。
「炎の顔を見るのは、毒だよ」
そう言って、手はゆっくりと離れていった。
振り返ると、そこには女が立っている。
背の高い、すらりとした人であった。黒い革のジャンパーと、ぴったりとしたジーンズがよく似合っている。長い黒髪は夕日を浴びてきらきら輝いていた。
あの時の女性だ。祭の夜、炎の前で、同じように声をかけられた。女はゆっくりと言い含める様に、もう一度言葉を口にする。
「炎の顔を見てはいけないよ」
そのまま踵を返す彼女に、明は辛うじて声をかけた。
「……だれ」
女は振り返る。
夕日を背に受けたその姿は、一枚の影絵のようであった。
「葉子」
夕焼けの赤に、鳥居の影が溶け込んで、明を飲み込んでいく。
烏の鳴く声が、遠く木霊した。
***
「どうしたんだ、明」
聡の問いに、明は首を振る。自分でもよく分からないのだ。
食事が終わって、明美が後片付けに席を立った時のことである。
今日の食卓は、玄米ご飯にアジの開き、かぼちゃの煮つけ、ホウレンソウの白和え。根菜たっぷり、具だくさんの味噌汁。和食好きの明としては、まさに夢のような光景であった。普段の彼なら目を輝かせて、かき込む勢いで食べていただろう。しかし、今は全くと言っていいほど、箸が、進まなかった。好物であるアジの開きすら喉を通らず、ただいたずらに身を解しただけである。
聡は心配そうに瞬いて、周囲を憚るようにひそひそと囁いた。
「母さんに言いにくいことなら、ぼくが聞くよ」
ひそひそと、声を潜めて落とされるその言葉に、明は俯く。
「後で、書斎においで」
そう言って、聡はかたんと席を立った。
台所に向かったのは、明美の手伝いと、フォローに行く為だろう。仲の良い夫婦である。
明は並んで台所に立つ両親二人を、座ったままじっと見つめた。
あの後、神社からどう帰ってきたのか、明は覚えていなかった。気づいたら家の前にいて、明美が怒り狂いながら出迎えたのだ。
「こんな時間まで、なにしてたの!」
既に夕闇が辺りを包み込んでいた。
明美は怒りながらも明の手を引き、家の中に連れていってくれた。食卓には聡がいて、心配そうにこちらを見ていた。
明の様子に、何を感じたのかは分からない。しかし、明美は何も聞かなかった。もしかしたらまだその時ではないと思ったのかもしれないし、聡が何とかする、と考えたのかもしれない。
おそらくは後者だろう。
現に今、こうして明は聡と向かい合っている。
聡の書斎は、家の一番奥にひっそりと存在している。
壁一面には本棚。そのどの段にも隙間なくぎっしりと本が詰まり、入りきらなかった本は床にうず高く積まれていた。
窓一つないその場所の、中央にでんと置かれた大きな机と、ふかふかの椅子。古ぼけたソファセット、ガラス製のローテーブル。埃の香りがするソファに腰かけ、明は父親をちらりと盗み見た。
聡は何も言わなかった。向かいのソファに座り、足を組んで頬杖を突き、待ちの姿勢である。こうなった時の父親は、とても頑固だ。理由を離さなければ解放もされないのだろう。そんなことはとうに分かっているのだが、明には話すべき言葉が見つからない。
聡は足を組み直し、ポケットから煙草を取り出した。そしてもう片方のポケットに手を突っ込み、怪訝そうな顔をする。
明は思わず自分のポケットを抑えた。そこには金属の冷たい感触がある。ジッポを入れたままにしていたのを、今、思い出した。どうするか。今返すか。しかし、問い詰められたらどうする。
返さなければ。でも、疑われたら。
――疑う? 何を。
もし、明が取ったと思われたら。いや、取っていない。気づいたら持っていたのだ。それにしても、いつ手にしたのだろう。朝、父が煙草を吸っていた時には、彼の手元にあったはずである。家を出る直前に、リビングに寄ったときであろうか。あの時父は、母に叱られていたはずだ。その時に……。
ばちり。と火が弾けて。
「明?」
そう、父が煙草に火を点けた。その先の揺らめく赤い炎の中で、男が踊っていた。
――あちぃよう。
ばちり。
炎が弾ける音がした。
「明! どこに行くんだ!!」
明は書斎を跳び出した。息せき切って走る。廊下を曲がり、玄関の扉を叩きつけるように開け、靴下のまま、外へと飛び出した。
「明!」
遠くから明美の声が聞こえる。
明は走ることをやめなかった。
自分には為すべきことがあったのだ。
「――そうだ、全て思い出した!」
小高い丘の石畳の階段を登り切り、明は神社にたどり着いた。
月が綺麗な夜であった。人影のない神社の中央。あの燃え滓の上に、男が立っていた。
黒の男はざわりと動き、手足を振り回す。地団太を踏むようでもあった。救いを仰ぐかのようにも見えた。男は踊っている。業火が蔦のように絡みついて、男の手足を舐っている。
生き物のように炎が動く。男の手足に纏わりついて、黒と赤とが、祝福するかのように絡み合った。
ジッポを取り出す手に、躊躇はなかった。
男は踊るのをやめ、ゆらりと明に近づいた。愉悦に歪む明の顔を、男は底知れぬ黒い眼窩でじっくりと眺めていた。
かちり、と火がともる。
――あのときも、そうだった。
それは仄かな、あの炎と比べたら子供のような火であった。
――あんまり熱かったものだから。
指の先から手の先へ、腕を伝って、炎が絡みつく様を思い浮かべて、明は身震いした。
「今度こそ」
明はその火を、ゆっくりと。
自分の服に。
「やめなさい」
手を掴まれた。ぽとりとジッポが落ちる。不服気に振り返った明の目に、女が映る。あの時の女性だ。葉子と言ったか。
長い髪の毛がさらりと靡き、黒の夜に吸い込まれるように、揺らめいていた。
「邪魔をするな……」
しわがれた声だ。まるで明の声ではないような、もっと年齢を重ねた類の声であった。
明はぼろりと涙を零す。
「今度こそうまくやるんだ」
葉子はゆっくりと明に笑いかけた。得も言われぬ、慈悲の微笑みであった。
「大丈夫」
葉子は、囁くように言葉を落とす。
「あなたは、立派だった」
「……何が分かる」
明はぼろぼろと涙を流す。
「お前に、何が分かる」
明の胸を占めていたのは、やりきれなさであった。殆ど一生をかけて、修行してきた。いよいよだった。大願叶うその時を、待ち望んでいたはずなのに。
――あちぃ。
焔が、墨染の衣に移った。
――あちぃよお。
衣を舐めるかのように。まるで蛇のように、業火が肌を焼いていく。目の前が赤く染まっていく。それは、初めて感じる種類の恐怖であった。
ほんの一瞬。
一瞬差し込んだ思考だったのだ。
――死にたくねえよお……!
流れ落ちる涙の熱さに、明は喘いだ。
もう一度やり直したかったのだ。次こそはきっと上手くやる。もうあんな恐怖には負けやしない。
「今度こそ……今度こそ」
明がそう呟いた時であった。
葉子が、笑った。まるで厳しい冬の日に、寒さがふと和らいだかのような、花が綻ぶような笑みであった。
「大丈夫だよ」
滂沱する明を励ますように、葉子は彼の体を抱いた。ふわり、と花のような香りが明を包む。
「目を閉じてごらん」
逆らえず、明は素直に目を閉じた。花の香りが一層強くなる。
「君が立派だったから。迎えが来たよ」
そうして、葉子は唇に歌を乗せたのである。
不思議な旋律であった。
低く、高く響く声に、明はしばし、胸の痛みを忘れた。
彼の脳裏に光がよぎる。暖かな、春の陽だまりのような光であった。
幽かに聞こえるのは鈴の音と、笛の音だ。葉子の声と重なり合い、響き合い、近づいてくるその音に、明は陶然と耳を奪われた。耐えようもなく、美しい調べであった。
体が軽くなっていく。あれほど心を支配していた、黒々とした感情が、炎に照らされた雪のように消えていく。
――光が。
がくん、と明の体が崩れ落ちるのを、葉子が両手で受け止めた。二人の前には、黒の男が立っている。天を仰いでいた。その顔がかすかに微笑んだように見えた。
そして、男は、風にほどける様に。
ゆっくりと、ゆっくりと、消えていった。
***
大きく弧を描き、放り投げられたジュースの缶を、明は慌てて受け取った。
「あっぶね!」
「ナイスキャッチ」
葉子が軽やかに笑った。オレンジジュースだ。おごってくれるということなのだろう。ありがたくいただくことにする。
二人は境内の入り口の、石階段に腰を掛けていた。
虫の鳴き声が、境内に響いている。眼下に広がる家々の明かりが、まるで星空のようである。
葉子も缶ジュースに無言で口をつけている。いちごミルク、と書かれた缶が、葉子の見た目とミスマッチで、明は思わず笑ってしまう。
「なに?」
黒々とした目を向けられて、明はしまったと目をそらした。何となく気まずくて、明は話題を探すことにする。
「……おねーさん」
「葉子」
「葉子さん、いくつ?」
「いくつに見える?」
「何してる人?」
「内緒」
ふーん、と、明は呟いた。
「あのさ。……さっきの、あれ」
明は俯く。先程まで感じていた胸の痛みや、やりきれなさはとうに消えていた。しかし、あの時目の前で起こったことは、何だったのであろうか。
黒い男。まるで救いを仰ぐかのように、炎の中で踊っていた。
「あの人はね」
葉子がほそりと言葉を落とす。
「一生懸命に修行して、修行して、あの場所に行くことだけを考えていた人なんだよ」
「あの場所?」
「苦しみから解き放たれる場所。その場所があることを、心から信じて……それで、自分で自分に火を点けた」
「自分で……?」
「そう。そうすることで、あの場所に行ける、生きた肉体を捨てれば幸せになれると教えられていたんだ。でもね」
そこまで言うと、葉子は一度言葉を区切った。
「最後の瞬間、彼は生に執着した。死にたくない、と思ってしまった。それが後悔となり、焼き付いてしまったんだね」
ちくり、と明の胸に、先程とは違う胸の痛みが走った。
「ねえ、おねーさん」
「葉子」
「葉子さん。あの人は、自分で自分を殺そうとしたってこと? 火を点けて? そんで幸せになれるって信じてたってこと?」
「そうだね」
「そんで、死ぬ瞬間に後悔した……?」
「そうなるね」
明はオレンジジュースの缶を握り締めた。
「そんなん、ばかだよ……」
呟いて、またちくりと胸が痛んだ。あの男の声。
――あちぃよう。
――死にたくねえよお。
男の悲痛な声と、やるせない胸の痛み。あの男は、本当に悔いていたのだ。自分が火に包まれた瞬間に、生に執着したことを。それだけを後悔して、だからもう一度、今度こそきちんとやろうと。
「そうかもしれないね。けど」
ふわり、と花の香りが強くなる。葉子は眼下に広がる街に目を向けていた。
「人の数だけ、幸せがある」
そうして、葉子はゆっくりと明に顔を向け、微笑んだ。
黒々と濡れた瞳が細められる。その唇からすうと歌が零れた。高く、低く響く音。紡がれている言葉は分からない。けれど、温かな光に包まれるような、柔らかな響きであった。
明は昔、聡に聞かされた話を思い出す。
――言祝ぎって、知ってるかい?
「あのさ……おれ、葉子さんのこと、知ってるかもしれない」
そういうと、葉子は歌を止め、不思議そうに目を瞬かせた。
「言祝ぎ、って知っているかい?」
確か、その話が出たのは、どうしてその職業に就いたのかを親に訊ねる、という、学校の宿題の為に、話を聞いていたときのことであった。
聡は、作家だ。
そう言うと、大抵の同級生たちは羨ましそうな視線を向けてくるのだが、そうは問屋が卸さない。彼は一筋縄ではいかないのだ。今回も、きっと訳の分からないことを言われるのだろうと思っていたが、案の定である。
今まで耳にしなかった言葉の響きに、明は首を大いに傾げたものだ。
「ことほぎ?」
書斎の、でんとした椅子に腰かけて、聡は微笑んだ。
「言葉で祝福すること。それを『言祝ぎ』というんだけれどね」
早くも聞く気がなくなってしまう。勝也も連れてくればよかった。あいつは、こういう話がめっぽう好きなのだ。
「お父さんが若い頃にね、言葉を操る人に出会ったんだ」
黒髪の、長身で、大層な美人。名前を、『葉子』と言ったのだ、と目を輝かせて語る聡に、明は不審な目を向けた。
聡は声を上げて笑ったものだ。
「お父さんはね、あの人みたいに。言葉を祝福に使う人になりたいんだ。それで、この仕事を選んだというわけさ」
「なにそれ。しゅーきょーとか、そういうのなの?」
眉に皺を寄せる明の頭を撫でて、聡はこう言ったものだ。
「その人は、言葉を歌に乗せるんだぞ。明にも聞かせてやりたいなあ」
そう懐かしむように呟いて、微笑んだ父の顔を、明はよく覚えている。
「おねーさんって、その『葉子さん』なんじゃねえの?」
葉子はざっくりと笑った。酷く乾燥した笑い方であった。
「そっか」
どこか遠くを眺めるような目つきで、葉子は呟いた。
「運命という言葉は好きではないけれど。時たま、そうとしか思えない出来事が起こる」
「運命?」
「そう。長く生きていても、それがとても不思議で、愛おしくて」
「……葉子さん?」
「そのたびに私は、有限に憧れ、無限を恨まずにはいられないんだ……」
そう言って、葉子は目を細めた。月の光が葉子の顔をきらきらと染めている。
明はひょいと肩を竦めた。
「葉子さんさ、あんまそういうこと、言わない方がいいよ」
「そうかな」
「うん。やべー人だって思われるよ」
「そっか」
明はジュースをぐいと飲みほした。
「ごちそうさま」
「どういたしまして」
「あと、ありがとう」
おや、と葉子は目を見開く。
「何に対する、ありがとう?」
「おれ、何となく分かったよ。葉子さん、……助けてくれたんでしょ」
葉子は静かに首を振った。
「君を助けたんじゃない」
「分かってるよ。だから、ありがとうって言ってんの」
そう言うと、葉子は驚いたように目を見張り、ややあって、ゆったりと微笑んだ。
――……ら!
――明!
両親の声が風に乗って幽かに聞こえる。どうやら探してくれていたようである。境内の下から届く声に、明は冷汗をたらりと流した。
「やっべぇ……」
絶対に、本気で怒られる。明は首をひょいと竦めた。その様子を見て葉子は大きく破顔する。
「さて、君の両親に御挨拶、をしたいところだけれど。私を見たら、御両親はびっくりされるだろうから」
立ち上がり、葉子はくるりと踵を返す。月を背負ったその後ろ姿は、壮絶に美しかった。
「葉子さん」
思わず呼び止める。
「また会えるかな」
振り返った葉子は、笑っていた。世にも優しい笑顔であった。
「ねえ、君にお願いがあるんだ」
明の問いには答えずに、葉子は目をゆっくりと細めた。
「人として生まれたのだから」
彼女は、唇に指をあてる。そのまま囁くように、言葉を落とした。
「幸せに、なりなさい」
葉子はそう言って、ゆっくりとその場を去った。遠のいていく背中の、長い黒髪がゆらゆらと月光を弾く。明の耳に、葉子の歌が聞こえた。高く、低く響く声。不思議な旋律が、夜の空に、すうと消えていくようであった。
さて。その後のことは、想像に難くないだろう。
明は散々怒られ、怒り狂った明美に初めて頬を張られたり、外出禁止令を言い渡されたりする。勝也はそんな明を見て肩を竦め、聡は相変わらずの微笑みで、ふて腐れた明をなだめるのだ。そして、修学旅行で女子の部屋に忍び込んで、担任の佐藤に大目玉をくらったりして。
中学に進学し、高校生になり、大学進学、そして社会に出て、結婚して、あの日の事は次第に思い出になり、夢か現かもあやふやになっていくのだが。
長い黒髪、少し低い声。
優しげな笑み。
花の香り。
月を背負った姿。
そして、あの旋律。
そういったチリチリとしたものが、頭に焼き付いて。
幸せに、なりなさい
あの言葉が、色を持って存在し続けたのは、言うまでもない。
青は、永遠に届かない色なのだ、と、どこかで聞いたことがある。だから勝也は、青が一番好きな色であった。
「ごめんね」
目の前の女性は、俯き、瞼に涙を溜めている。幾度となく見てきたその光景に、勝也は溜息を吐きそうになるのをぐっとこらえた。
可愛い子だと思った。ぽってりとした唇が愛らしい、ふんわりとした印象の、いかにも優しげな空気を纏っていた。きっとこの子と付き合ったなら、休日に腕を組んで遊園地や映画館に行ったりするのだろう。誕生日には少し豪華な食事をして、愛し合って、そして結婚して……。
けれど、そんな未来は、自分には一生やってこないに違いない。
「悪いけど、今忙しくて、そういうこと考えられないんだ」
自分でも、すごく不誠実な答えだとは思っている。だが、ちょっと憂いを込めてそういうと、大抵の女性は納得してくれるのだ。
「そっか、分かった」
こくりと頷いて、女性は涙を拭う。その様子に勝也はそっと安堵の息を吐く。良かった。これで何とかなりそうだ。
ごめんね、と小さく呟いた。走り去る後姿を見て、勝也は緩く首を振った。
***
「お前さあ、いい加減、恋人くらい作れよ」
エイヒレを噛み締めながら、明がむっつりと言った。
「え? なにそれ、なんなの」
ヒラメの刺身に舌つづみを打っていた勝也は、突然の言葉に、それをごくりと丸のまま飲み込んでしまう。勿体ない。まだ噛みしめていなかったのに。
金曜、夜。都心は、雑多な人間で溢れている。
気持ちの良い夜であった。初夏の風が、繁華街の空気を爽やかに塗り替えていく。久しぶりに会おう、と明からの誘いで、勝也は滅多に来ない都心へと足を伸ばしたのである。
この駅で降りるのも久しぶりであった。学生の頃はしょっちゅう飲み会などで訪れていたのだが、卒業し、地元で就職してからはほとんど利用することはない。元々、あまり人の多いところは得意ではないし、ごちゃごちゃとしたビルが立ち並ぶ様を見るのは、どうにも落ち着かないものがある。
息が苦しくなるのだ。
狭い小さなグラスの中に並々注がれた液体のように、ここは人も、思念も、ぎりぎりのところで保たれている。だからだろうか、巧く息が吸えないような気がして、溺れそうになってしまう。その感覚がどうにも苦手なのである。
駅を降り、指定された店まで歩く。
立ち並ぶビルの隙間を抜けたところに、その居酒屋はちんまりとあった。ほとんど露店である。ビール箱をひっくり返した椅子に、同じものに板を渡しただけのテーブル。お世辞にも綺麗な店とは言えないが、時間帯の事もあり、結構繁盛しているようであった。
明は、もう店にいた。既にビールを半杯ほど開けている。上気した顔で手を上げる彼を見て、勝也は訝しげに眉を寄せた。
珍しい。いつもならば五分遅れが定石であるのに。
この店は、刺身が美味いのだ、とは明の弁であった。進められるままに頼んだ刺身の盛り合わせも、ホタルイカの味噌漬けも、今やほとんどが腹の中である。酒も程よく入り、そこそこ気分が良くなった。
そんな案配の頃に言われたのが、先ほどの台詞である。
「お前さ、なんで恋人作んねーの」
「……しつこいなぁ」
「だっておれ、お前がだれかと付き合ってるの見たことねーもん」
甘えびの尾を咥えながら、明は言う。
「もしかして、チェリーなの、お前」
「失礼な。それなりに経験はしてるよ」
「でも彼女いないだろ」
「いないけどさ」
うわ、と明は大げさにのけ反った。
「お前、そういうのよくないぞ。純愛、貫けよ!」
社会人も五年目となると、スーツ姿にも貫録という物が滲み出てくるようだ。ビールをぐいぐい飲む明を見て、勝也は密かに笑った。この頃少し腹が出てきた、と愛子から報告を受けていたので尚更である。
「あんまり飲むと、ビール腹が進行するよ」
「うっせ、貧弱。お前はもっと食って飲め」
勝也のグラスに、どぼりとビールが注がれた。
明は赤ら顔でよく笑った。元々よく飲む方であるが、今日はまた随分とハイペースであった。
「お前、モテるのに。もったいねえなあ」
それを聞いて、勝也は苦い笑いを浮かべる。
人並みに恋愛をしてきたつもりであった。明言しなかっただけで、お付き合いをしたこともあるし、年相応にそれなりの経験も積んでいる。
勝也は茹蛸のようになった明を一瞥した。
この幼馴染は、気づかない。当然である。気づかせないようにしてきたのだから、その努力は報われていると言ってもいい。しかし、こんな時、勝也はどうにもならないジレンマに陥るのだ。
――人の気も、知らないで。
注がれたビールが、グラスの縁を伝ってテーブルに染みを作っている。このビールは、勝也と同じだ。ぎりぎりで保たれている、色々なもの。それが溢れた瞬間、二度と消えない染みとなって、いつまでも残り続けてしまうに決まっているのだ。
零れないように気をつけて、喉の奥に、ビールを流し込む。胃のあたりがかっと熱くなった。そうだ、これでいい。この感情は誰も幸せにならないものなのだから、自分の中に、留めておかなくてはならない。
「ごめん、遅くなった!」
軽やかな声がして、ふわりと良い香りが漂った。
初夏の風を背負って、席に着いたのは、旧友の一人であり、そして、そこでべろんべろんになった明の恋人でもある、愛子である。
「うわ、明、もうそんなになってんの」
愛子は顔を顰める。
「おー愛子、お前からも言ってやれよ。早く恋人作れってさー」
「なに、あんたそんな失礼なこと言ってんの? ごめん、勝也」
気にするな、と手を振ると、愛子は花がほころぶように笑った。
「すみません、オレンジジュース」
愛子が手を挙げて店員を呼ぶ。
「あれ、飲まないの?」
「うん、ちょっとね」
意味ありげな答えに、勝也は少しだけもやもやとした心持ちを覚える。
愛子は、美人である。昔から日本人離れした顔立ちであったが、成長して更に美しくなった。それに、先日会った時とは少しだけ雰囲気が違っている。明を見る目は優しい。零れんばかりの愛情が伝わってくるが、それは以前と同じである。
では何が違うのか。そこまで考えて、そうか、と勝也は軽く頷いた。
服装ががらりと違っているのである。
愛子はどちらかというと、体にぴったりとしたタイトなティーシャツや、足のラインが出るパンツ、高いハイヒールを好んで履くような女性である。しかし、今の彼女は平たいスニーカーにやわらかな色をしたワンピースを纏っている。
それだけで、彼女を包み込む空気が柔らかくなるから不思議なものだ。
愛子は、以前は薔薇のようであった。美しいけれど、近寄りがたい。そんな雰囲気を醸し出していたのだが、今は違う。温かく、包み込むような、陽だまりに咲く蒲公英のような風情がある。
そして、勝也は悟った。
酒を断る理由も、体を締め付けないようなファッションも。そして赤ら顔の幼なじみがひそかに緊張している理由も。
全部分かってしまった。
「勝也、あのね」
飲み物に手を付ける前に、愛子はすっと背筋を伸ばして、はにかむように笑んだ。明も同じように、姿勢を正す。
「今日は、報告があって」
ああ、やっぱり。
勝也は目を閉じる。
「……実は、おれたち」
そんな予感はしていたのだ。いつかはこの時が来る、と分かっていた。
大丈夫だ。祝福する準備はできている。何度も何度も、脳内で練習した通り、勝也は祝辞を口に乗せた。
腹の中で、ビールがぐぶりと泡だったような気がした。
***
その帰り道の事であった。幸せそうに寄り添う二人を見送って、さあ帰ろうと駅に向かった先、ビルの隙間。路地裏から、視線を感じたのである。
繁華街のいかがわしいパネルが立ち並ぶ細い道の、丁度電柱の影になるところから。
青い男が覗いていた。
一つ目であった。ぎょろりと大きな目が、こちらを憐れむような視線を送っている。墨染めの衣に禿頭で、その青い頭が、幾ばくか大きかった。
不思議と恐怖は感じなかった。ああ、青いなあ、と。ただそれだけを思っていた。
「あれが見えるんだね」
振り返ると、そこに女が立っていた。若い女性である。大学生くらいだろうか。いかがわしい店のピンク色の照明に、長い髪が照らされている。革のジャケットにスキニーのジーパンが良く似合う、すらりとした長身の、姿の良い人であった。
「青坊主」
「え?」
「あれの名前」
女は電柱の影を指さす。そこにはもう、あの青い人はいなかった。
勝也は訝しげに女を見やる。彼女はその視線を受けて、ことん、と首を傾げた。
「君は、幸せ?」
「……え?」
「青坊主が見えたのなら、気をつけて」
「気を……つける……?」
「水が、溢れそうになっているから」
それだけ言うと、女は踵を返した。ふわりと漂う、花の香り。
「待って!」
聞こえなかったのか、それとも敢えて無視したのであろうか。繁華街のネオンに溶け込むように、女はその姿を消したのである。
その実、だいぶ酔っていたのだろう。徐々にふらつく足をなんとか動かして帰宅すると、勝也はベッドにうつ伏せに倒れこんだ。趣味のアクアリウムの、こぽりと泡を生み出す音が、耳の奥に木霊する。
少しだけ顔を横にずらし、ベッド脇の水槽を見た。揺らめく青い光。その中に、ネオンテトラの群れが尾びれを煌かせて泳いでいる。その魚の腹に入った赤色が、青の世界を切り裂くようであった。
赤は、明。そして青は、勝也の色だ。幼い頃の決まり事であった。明が赤のシャベルを持ったら、勝也は青の物を持った。明が赤の自転車を買ったら、勝也は青の物を欲しがった。
懐かしい。何も考えず、悩まず。楽しく過ごしていた幼い頃に、戻れたらいいのに。
モーター音が、低く響いている。その音に自らの声を溶け込ませるように、勝也は唸った。やりきれない思いが、後から後から泡のように立ち昇り、今にも溢れてしまいそうであった。
暗い部屋に、アクアリウムの青がぼんやりと影を作る。その影の中に、勝也は再び、青坊主を見た。物言いたげな目で、青坊主は、じい、とこちらを見つめていた。
込み上げるものを飲み込むように、勝也は声を絞り出した。
「……なあ、お前、どうしたの」
青坊主は、何も言わなかった。ただひたすら、勝也を見つめている。
その一つ目から、つうと涙が零れた。
「なんで、泣いてるの」
青坊主は、答えない。零れた涙は、彼の墨染めの衣に吸い込まれていく。
次の日も。その次の日も。青坊主は勝也の部屋に現れた。必ず水槽の青の光の中に、薄ぼんやりとした影を作り、ただひっそりと泣いていた。
一つ目の、青い、異形の男。勝也はごく自然にその存在を受けて入れていた。不思議だとは思わなかった。彼は、いるべくして、ここにいる。青の光の中だけが、彼の場所なのだろう。
この男は、可哀想だ。青の中でしか生きられない。可哀想に。そう思った自分に、勝也は嫌悪した。
***
あの女性と再び出会ったのは、その次の休日のことである。
勝也がのそりと起きあがると、もう正午を幾許か過ぎた頃であった。流石に、寝すぎた。どのみち予定もないが、二度寝するのも勿体ない。
だるい体を引きずるようにして、勝也は部屋のカーテンを開けた。良い天気であった。初夏の、まだ柔らかな日差しが、窓硝子越しに部屋に模様を描いている。
外に出よう。きらきらと輝くような陽光を浴びれば、この鬱屈とした気分も少しは晴れるのではないだろうか。
文庫本をポケットに突っ込み、勝也はふらりと外へ出た。近くには広い公園がある。そこで、本でも読もうと考えたのである。
風が気持ちよかった。ゆるゆると歩く。休日ということもあり、公園は子供が多かった。嬌声を上げて走り回る姿を見て、勝也は微笑む。
思えばあの頃が、一番楽しかったのかもしれない。何も考えずに、泥だらけになって走り回っていた。戻れたらどんなにか幸せだろう。同性だとか、異性だとかを気にすることもなかった。そう、あの頃は。
人は、大人になればなるほど、心の内に秘めたものが納まりきらなくなるのかもしれない。幼い頃はどんな奔流も受け止められた柔らかな器も、歳と共に冷え固まって、決まった量の思いしか入らなくなってしまう。それとも、中に入れる感情の方が、育ちすぎてしまったのだろうか。
適当なベンチに腰掛けて、本を取り出す。
勝也の本好きは、幼なじみである明の父の影響を多分に含んでいる。幼い頃から、家族ぐるみの付き合いをしていたのだ。
明の父親、聡は作家をしていて、当時から彼の書斎には面白い本が無数に並んでいた。怪奇小説から、冒険ファンタジー、ミステリー、伝記物。読んでも読んでも読みつくせないほどの本。遊びに行くと、勝也は大抵書斎に潜り込み、読書に耽るのが常だった。
「お前は、おれんちに、本読みに来てんの?」
明はそんな勝也にいつも呆れたような笑みを零したものだ。
「ごめん、遊ぼうか。何する? ゲーム?」
「いいよ、読んじゃえよ、それ。おれ待ってるし」
そう言って、くしゃっと笑う顔が……。
いけない。勝也ははっと息を呑み、首を振った。
思考を無理やり押し込めて、手にした文庫をもう一度開く。
本を読もう。これ以上変なことを思い出さないうちに。
のめり込むのは簡単であった。一頁、繰ればもう本の中である。最近、どうにも気力が湧かず、なかなかじっくりと読む時間を取らなかったので、丁度良かったのかもしれない。
あまり読まないタイプの、恋愛小説であった。
映画化が決まったので、本屋で大きく取り上げられていたのである。少年少女の淡い恋愛模様を描いた作品で、幅広い年代に受け入れられているのだそうだ。きらきらとした、陰りのない文章は、心を温かな気持ちにさせてくれる。もしも生まれ変わったなら、こんな恋が出来たらいい。
そこまで考えて、勝也は苦笑した。自分の女々しさに我ながら呆れてしまう。
ふと、日が陰った。
雨が降るのかもしれない。少し湿った空気を鼻に受けて、勝也は本を閉じた。そろそろ帰ろう。そう思って立ち上がった時であった。
目線の先に、彼女がいた。
広い公園である、そこここに休憩用のベンチがあり、簡易的なテント、と言っていいのだろうか、オープンテラスのカフェのような、飲食店が出ているような場所であった。
その一つ、隅の方に、彼女は腰かけていた。
風が黒髪をまきあげて、空に昇って行った。それをついとおさえて、彼女は天を仰ぐ。空は、晴れているようであった。しかし、ところどころに黒雲がかかっていた。青青とした空に凝った、雨の予感。
勝也は立ち上がる。
「あの!」
思わず、声をかけていた。女は驚いた様で、目を見開く。
「ちょっと、お茶、しませんか」
その日、勝也は人生初めての、ナンパをした。
***
「おごりますよ。何でも好きなものを頼んでください」
公園から出て、大通りを抜け、角を曲がった路地裏に、ちょっとしたお洒落なカフェがある。
勝也はこのカフェが気に入っていて、よく足を運んでいた。
表通りからは随分と離れた、奥まった場所だ。知る人ぞ知るといったところも良いし、メニューも豊富で味も良い。値段はそれなりにするが、社会人の懐ならば十分にお釣りがくるくらいである。
何より、ここにはたくさんの魚がいる。マスターがアクアリウム好きなのだという。悠々と泳ぐ魚を見ながら、ゆったりと過ごせる貴重な場所であった。
彼女は端的に。
「葉子」
と、名乗った。
窓際の席に腰かけて、勝也はじっくりと葉子を観察した。
恐らく、年下であろう。のっぺりとした人である。肌は白く、黒い髪は艶々としていて、顔立ちは整っているが記憶に残るのが難しい。無個性、という言葉が浮かんで、勝也は苦笑した。今のは、流石に失礼だ。
葉子は真剣な目でメニューに目を落としている。勝也はこっそりと予想を立てた。きっとこの麗人は、珈琲を頼むに違いない。
「いちごパフェ」
そう来たか。
「あれから、君の傍に、いるね」
パフェの苺をざっくりと掬いながら、葉子が言った。
勝也はぎくりとして、おもむろに珈琲をすする。きっと、彼女はあの青い男のことを言っているのだろう。
「……何で分かったんです」
「何で分からないと思ったの」
勝也は視線を彷徨わせた。葉子の後ろには、アクアリウムが青い光を放っている。黒髪をほの青く染めて、彼女は苦笑していた。
「君は、それで幸せ?」
葉子がこくりと首を傾げた。
「青坊主は、思いがより固まって現れるものだから」
「え?」
「心の内に収めておかなければならなかった、けれど抑えきれなかったもの。隠しておかなければいけなかった心」
葉子はそう言うと苺を頬張り、顔を綻ばせた。余程苺が好きなのだろう。
「隠しておかなければいけなかった……心……」
勝也は葉子を見つめながら、そっと胸に手を当てた。息が苦しい。まるであの都心に出たときのようだ。巧く息が吸えない。
「抑えたくても抑えられない気持ちが集まって。まるで水が溢れるように、青坊主は現れる」
葉子が微笑む。ふわりと漂う花のような香りに、胸を締め付けられるようであった。
「もう一度聞くよ。君は、それで、幸せ?」
「……僕は」
幸せだ。
そう口に出そうとしても、上手く言葉が出てこない。逡巡し、視線を彷徨わせた勝也の目に、彼が、映った。葉子の後ろ、アクアリウムの向こう側である。青い光に溶け込むように、青坊主がそこに、いた。こちらを見ている。大きな一つ目が、悲し気に揺らめいて。
その瞳から、つう、と涙が零れた。
「もう気づいているんでしょう?」
「え………」
「彼を受け入れることができるのは、もう気づいているから」
「何に」
「青坊主が、君だってことに」
その言葉を聞いて、勝也は、目を見開いた。
葉子は笑う。世にも優しい慈悲の笑みであった。
花の香りが、一層強くなる。その後ろで、青坊主が泣いていた。大きな一つ目から、涙がぼろぼろと落ちていく。
ああ、そうか。
青坊主は、勝也自身だ。グラスから零れた水のように、留めて置くことができなかった感情の残滓。だからこそ哀れに、可哀想に、と感じたのだ。
「青坊主……」
勝也はそっと目を伏せた。包み込むように持ったカップの中で、珈琲の黒褐色がゆらゆらと揺れている。手が震えた。ギリギリで保たれていたあらゆる感情が、彼の器から溢れ出ようとしている。歯を食いしばった隙間から、堪えきれない嗚咽が漏れた。
込み上げてくる心のままに、勝也は初めて、涙を流した。
葉子は凪いだ瞳で、勝也をじっと見つめた。そしておもむろに、こう呟いたのだ。
「大丈夫」
彼女の口から、小さく、歌が零れる。柔らかな響きであった。まるで水底から太陽を見たときのような、温かく、清涼な光のよう美しさであった。
その光に誘われるように、勝也は言葉を口にする。
「ずっと好きだった……」
「うん」
「言えなかったんだ」
「うん」
「……言わなくて、よかった」
口にするたびに、心の中のグラスが少しずつ広がっていく。あれほど苦しかった息も、溺れそうなほどに膨らんだ感情も、少しずつ凪いでいく。
もしかしたら、勝也は、この感情を、誰かに肯定してもらいたかっただけなのかもしれない。
窓の外で、雨が、しとどに降り始めた。この雨は、自分のために、青坊主のために、泣いてくれているに違いない。
降りしきる雨のように、勝也は泣き続けた。葉子はただ黙って、唇に歌を乗せていた。
その日から、青坊主は勝也の前から姿を消した。きっともう見ることはないのだろう。
勝也は、自分の中の青坊主を自覚したのだ。
もう可哀そうだとは思わない。自分自身の想いを憐れむことは、勝也はもう二度としないだろう。
***
白いタキシードが似合っていた。
快晴である。抜けるような空に、純白の色が気持ち良い。
小さなチャペルの前であった。フラワーシャワーの中を、花嫁と花婿がゆっくりと歩いている。入口から伸びる赤いカーペットに、色とりどりの花が目に鮮やかであった。
愛子は幸せそうであった。真っ白なドレスに身を包み、目尻に涙を浮かべていた。
その手を取る明も、満面の笑みであった。
ゆっくりと、二人は歩む。愛子に宿った、新しい命を大切にしている様子が伝わってきて、勝也も思わず目頭が熱くなった。
その夜の事である。
「今日はありがとうな」
「おー、改めておめでとう」
時計の針が、頂点をとうに回った頃、ふいに明からの電話で起こされたのである。寝ぼけ眼で応対すると、明は電話向こうで、いつものように笑った。
「愛子ちゃんめっちゃ綺麗だったね」
「だろ? 自慢の嫁だから」
ははは、と明が声を挙げ、ややあって沈黙する。
「明?」
「あのさ」
ためらいがちにぽつりと聞こえた声に、勝也は身を固くした。
「言おうか言うまいか、悩んでたんだけどさ」
「うん」
アクアリウムの青い光が、部屋の中を薄ぼんやりと照らしていた。こぽり、と泡の弾ける音がして、勝也はそっと目を閉じる。
大丈夫だ。青い光が心を満たしていく。凪いだ海。晴れ渡る空。あらゆる青が、勝也の心を満たしていた。
「お前、おれになにか、言いたいことがあったんじゃないかって。だからもし、お前が辛いんなら……おれ、お前を招待しちゃいけないんだと思ってて」
携帯を持つ手が震えた。勝也は息をそっと吸い、朗らかに笑ってみせた。
「なに、お前、親友の僕に結婚祝わせないつもりだったの?」
「や、そうじゃなくて! そうなんだけど……」
「ごちゃごちゃうるさいな。このバカ明。お前なんか幸せになればいいんだ」
すう、と涙が頬を伝って、シャツの襟元にほたりと落ちる。その涙に気づかないふりをして、勝也は声を言葉に乗せた。
「お前は、僕の親友だろ」
「……ああ」
「また飲み行こうな」
「ああ」
溢れる涙はそのままに、勝也は微笑んだ。
「なあ明」
「おう」
「僕、純愛、貫いただろ」
一拍おいて、明は爆笑した。
「お前、すっごいこと言うな!」
「ほんと、うるさい。もう。飲み行こう。明のおごりで」
「なんだとこのやろ。お前稼いでるんだから、お前がおごれよ」
「愛子ちゃん連れてきてよ。そしたらおごる」
「ばか、あいつ今飲めないんだって」
「あ、そうか、じゃあ食事会だ」
「お、それ、いいな」
朗らかに笑う明の声を聞いて、勝也はくしゃりと笑みを零す。
青坊主。
――僕は、幸せだ。
「お前は、こんな時でも笑ってるんだな」
そう言って、浩二は去って行った。
夏美の朝は、早い。
都心である。あらゆる路線が集まる駅の、オフィス街にあるカフェが夏美の職場であった。
夏美は、接客が好きだ。高校生からファミリーレストランでバイトを始め、大学四年間はホテルの宴会場で、卒業してから、このカフェに就職した。勤続五年で、今年店長に昇進したところである。
フルサービスが売りの店であった。制服はシックな黒と白、ふかふかのソファにジャズが流れる、少し高級志向の店である。
アイスコーヒー用のグラスを磨きながら、夏美は軽く息を吐く。
土曜日の朝である。駅前ならいざ知らず、オフィス街にあるこの店には閑古鳥が鳴いている。忙しければ問題ないのだ。こう暇になると、意識の隙間に差し込むように、あの時の言葉が突き刺さっているのが分かる。しっかりしなければならない。もう大人なのだから。プライベートのことで仕事に支障をきたすなど言語道断。ましてや自分は店長だ。他の者にも示しがつかない。
からころと来店を告げる鐘がなった。
「いらっしゃいませ」
夏美はにっこりと笑う。
お客様の前では、夏美は『夏美』であってはいけないのだ。
「え!? 店長振られたんですか! 振った方じゃなくて!?」
チーズケーキを切り分ける手を止めて、愛子が目を見開いた。
愛子は夏美の店でアルバイトをしている、大学生である。
カフェは、見た目のお洒落さや制服の可愛さなどでなかなか優雅だと思われがちだが、スピード感を大いに求められる仕事である。また、重いものを持ったり運んだり、時には理不尽なお客様の対応をしたり、その実体育会系であることも多い。
夏美の店も例外ではなく、こんな筈ではなかったと、辞める従業員も多いのである。しかし、愛子はめげずに、もう二年も働いてくれている。
お茶しませんか、と誘ってきたのは愛子からであった。
彼女は、聡い子である。夏美が何も言わずとも、その様子がおかしいことに気づいたのかもしれなかった。しかし、そんなことはおくびにも出さない彼女の優しさが、今の夏美にはありがたい。それで、お言葉に甘えさせてもらう形になったのである。
内容が内容だけに、流石に自店では話しづらい。それで、近くの別のカフェに入った。
初めて入ったその店は、可愛らしい雰囲気の店である。天井には大きなファンが回り、壁には額に入った絵。木目調の机や椅子。床も温かみのあるブラウン。カントリー風というやつであろうか。ただ、壁に掛けられた額には埃が溜まっているし、机にセッティングされた紙ナフキンは残り数枚。あまり目が行き届いていないらしい。
と、そこまで考え嘆息する。職業病も、ここまでくれば深刻だ。
接客業が骨の髄まで沁みついている、そんな自分に浩二が愛想を尽かしても仕方がない。だから夏美は、愛子が笑い飛ばしてくれればいいと思っていたのだが、予想に反して彼女はぷりぷりと怒っている。
チーズケーキにぐさりとフォークを突き刺して、愛子は獰猛に唸った。
「むかつく! 何それ! ありえない!」
可愛い顔を歪めて、愛子は自分の事のように憤慨している。その様子に、当事者の夏美は苦笑した。
「まあ、仕方ないよ。向こうがそういうならさ」
ブルーベリームースケーキをつつきながらそう言うと、愛子はむくれた顔をした。
「仕方なくないです。言い分が酷すぎる! お子ちゃまかよって感じです!」
「……そうかな」
努めて明るく出した声は、思った以上に乾燥していた。
誰彼にも笑いかけるな、と言われたのだ。
その言葉を聞いたとき、夏美は自分が何に対して文句を言われているのか、咄嗟に理解ができなかった。何度か問い返し、浩二が自分の仕事中の態度に怒っているのだと気づいたときは、途方に暮れたものだ。
笑うな、と彼は言う。
仕方ないでしょう。自分が笑うのは仕事だから。お客様の前では笑っていなければならないの、それが自分の仕事なのだから。
そう言うと、浩二は苛立たし気に舌打ちをしたものだ。
「なるほどな。つまり、お前はそういう女だってことだ」
「……え?」
「媚を売ってるってことだろ。俺もまんまと騙されたって訳か」
「なに言ってるの?」
夏美は困惑する。
浩二は元々、自店のお客様であった。何度か会話をし、常連客の一員となり、そしていつの間にか付き合うようになった。笑顔が好きだ、一目惚れだったと言われたときは、舞い上がるような心持ちであったものだ。それなのに。
「あんとき、笑ってたのも、俺が客だからだろ。お芝居だったってことだろ」
「お芝居って何? 私の仕事、接客だよ? 笑うのも、仕事のうちなんだよ?」
「だからって、誰かれ構わずなんて、ただのふしだらな女じゃねえか」
頭を金槌で殴られたような気がした。
涙が出そうになるのをぐっとこらえると、口の端から笑みが零れた。戦慄く唇を何とか引き上げると、浩二はふんと鼻を鳴らし、あの台詞を口にしたのだ。
こんな時でも、笑っている。
そうなのかもしれない。
夏美は自分の腕をさするようにする。接客の仕事だから。どんなときでも笑顔でいなければいけないと思っていた。
だからいつも、唇を引き上げて、目を細めて、頬を上げて――これはお芝居、ということになるのだろうか。初めて浩二に会った時も、そうだったのだろうか。覚えていない。意識して笑いかけたわけでもない。ただ自分はその時確実に、『笑顔』でいたに違いない。
では、笑顔とは、何だろう。笑うとは、どういう感情だっただろう。
込み上げる不安を抑え込むように、慌ててケーキを一口、含んだ。
量販された、インスタントの味がした。ムースの部分は味が薄くて水っぽい。上にコーティングしてあるゼリーは、硬くてまるでゴムのようだ。ブルーベリーの種が舌の上に残る。ざらざらとした食感に、眉を顰めそうになる。
不味い。
無理やり珈琲で流し込む。泥のような味がした。うっすらと滲んだ涙をそのせいにして、夏美は唇を引き上げる。
ほら大丈夫だ。自分はまだ笑えている――本当に?
「……店長、大丈夫ですか?」
「うん」
「でも」
「へーき、へーき。ありがとうね」
心配そうにこちらを伺う愛子を安心させるように、夏美はにっこりと笑ってみせた。乾燥していたのだろうか、唇の端が引き攣れて、妙に痛かった。
その帰りの電車の中である。初めてその女を見たのは。
満員ではないが、そこそこに混んだ電車の中。吊革につかまって、夏美はゆらりと揺れている。その時、微かに聞こえたのである。甲高い嬌声が、幽かに耳に届いた。女の笑い声だ。酔っ払いか。それにしては調子が変だ。
――けら、けら。
おかしい。近づいてやいまいか。
いや、違う。
――けらけら。
――けらけら。
ごう、と音と共に、電車はトンネルに入る。
――けら。
――けら。
トンネルの、暗い穴の中。電車の窓ガラスに映る影越しに夏美は、見た。
女性が、夏美のすぐ後ろにいる。目に鮮やかな山吹色の着物を着て、その袖を口に当て、女はけらけらと笑っていた。細められた目は三日月のようで、心底楽しそうに笑っている。
女は笑う。誰も女に気づかない。
恐る恐る振り返る。
そこに女は、いなかった。
***
「けらけら、だね」
電話越しに、葉子はそう言った。
「けらけら?」
「そう」
変わらぬハスキーボイスに、夏美はほっとする。
葉子は夏美の大学時代の友人である。
なぜ彼女に電話をかけたのか、夏美自身にも分からなかった。誰かに聞いてもらいたくて、スマーフォンの電話帖をぐりぐりいじって、目に留まったのが葉子の名前であったのである。
すでに真夜中に近かった。十コール目で、葉子は電話に出てくれたのである。荒唐無稽な話だが、葉子は笑わずに話を聞いてくれた。そして、一言、こう述べたのだ。
「大丈夫。悪いことにはならない」
「悪いこと?」
「うん。けらけらは優しいから。君のことが心配なんだ」
首を傾げる夏美の表情が見えたかのように、葉子は笑いを零した。
「彼女は、君の味方だよ」
すっと力が抜けた気がした。
そう言えば、葉子はこういう人だった、と夏美は思い出す。他の人が言うと冗談にしか聞こえないようなことでも、彼女の口から出ると、妙に納得してしまう。不思議な優しさと説得力があって、安心するのである。
「そっか」
「うん」
聞いてくれてありがとう、と言ったら、ふふ、と電話越しに含み笑いが聞こえた。
変わっていない。葉子はあの時のままだ。思えば、卒業以来の会話になるのに、不思議なものである。
「葉子は、最近何してるの?」
「あちこちに行ってるよ」
「ああ、出張とか?」
「そんな感じ」
「忙しいんだね」
「まあまあだよ」
電話先に、少しノイズが混じった。ふつり、ふつり、と途切れがちの音に、夏美はスマートフォンを構え直す。
「ごめん、ちょっと電波が悪いみたい」
ノイズは徐々に酷くなっていく。昔懐かしいブラウン管の砂嵐のように、ざあざあという音が耳の奥で響いていた。
その砂嵐の音に混じり、幽かに歌が聞こえた。ネジの切れかけたオルゴールのように、ぷつぷつと途切れがちな旋律。
「ねえ」
密やかな声が耳に届く。何気なく発せられた呼びかけの言葉のはずなのに、夏美の耳にことりと物が置かれたような、違和のある響きに感じられた。
「……葉子?」
「……ありがとう」
「へ?」
「思い出してくれて、ありがとう」
そして、電話は、ふつりと切れた。お礼を言うのはこちらの方なのに、と夏美は苦笑する。葉子は、少し変わった子なのだ。相変わらずの様子に夏美は学生時代を思い出す。黒の革ジャン、スキニーのジーパンをさらりと履きこなす麗人。
葉子の香り、甘くすっきりとした花の香りが、電話越しに漂ってくるようであった。
この日から、けらけらは、毎日現れるようになった。
電車の窓に映っていたり、鏡の隅にこっそり入り込んでいたり、テレビを消した後に、画面にちらと映ったり、そういった案配で、夏美の前に姿を現すのである。最初は気味が悪かったが、見慣れてみるとそうでもない。なんとも楽しそうに笑っているものだから、夏美までつい笑顔になってしまう。
気になったので、ネットで検索をした。けらけらは、遊女のあやかしといわれているのだそうだ。妖怪だと分かっても、夏美は彼女を怖いとは感じなかった。
今もけらけらは、夏美の隣にいる。着物の袖を口に当て、けらりと笑うその顔に、陰りは一切見えなかった。
夏美は眉を下げる。
「けらけら」
囁くように呟くと、けらけらは答えるように目を細めた。遊女は、体を売る仕事だ。辛かったであろう。それなのに、彼女は笑っている。心から楽しそうに、けらりけらりと。
「強いね、けらけらは」
――けら、けら。
***
「店長、ちょっと……!」
ふいに愛子に呼ばれ、厨房に引き戻された。
週末の夕方である。店内も程よく混雑し、夏美は心地よい忙しさに身を置いていた。手が空いたタイミングでお冷をつぎ足しにテーブルを回ろうとした時のことである。
愛子の顔は、少し青ざめていた。すわクレームか、それとも厨房でトラブルか、と身構えたが、それにしては様子が変だ。
愛子はどこか憚るような視線である。
「あの、もしかしたらなんですけど、あれ」
その、目線の先を見て、愕然とした。
店の入り口に浩二がいた。女を連れて、立っていた。
ぐるりと回った視界、強烈な吐き気に、夏美は崩れ落ちそうになる。女は浩二の腕に腕をからめて、しきりに話しかけていた。浩二はにやけた顔でそれに答えている。
「サイアク……見せつけに来たんじゃないですか?」
吐き捨てるように呟く愛子を横目に、夏美は戦慄く唇をきゅっと引き結んだ。
席に案内しなければ。注文を取りに行かなければ。お店に来た以上、あいつはお客様なのだ。
そのまま口の両端を引き上げる。
笑顔になっているだろうか。震えてはいないだろうか。
「あの、店長、私行きますから」
「大丈夫」
拳を握り締めて、夏美は入口へと向かう。
「いらっしゃいませ」
「二人」
浩二は唇を歪めて指を二本立てる。夏美は会釈をして席に先導した。後ろで二人の会話が聞こえる。
「ねえ、これが元カノ?」
「な、言ったとおりだろ?」
くすくす、と耳障りな笑い声が聞こえる。その口調に、明かな揶揄の色を感じた。あることないこと言っているのだろう。夏美はうまく息が吸えず、咳き込みそうになるのを慌てて嚥下した。しっかりしなければ。自分はこの店の店長なのだ。
笑え。
笑え。
――けら、けら。
あの声が聞こえた。
けらけらだ。けらけらがいる。
すっと気持ちが落ち着いていく。
大丈夫。
けらけらが、見ていてくれている。
席に案内し、お冷を出した。浩二は相変わらずにやにやと笑っている。
「メニューはこちらでございます」
二つ折りのメニュー表を渡して、夏美が一度戻ろうとした時である。
「ねえ、店員さん」
浩二は夏美を振り仰いで、口の端を持ち上げるようにして笑った。
「これ、俺の彼女」
「左様でございますか」
「かわいいでしょ。超自慢なんだよね」
「ええ。たいへんかわいらしいと思います」
「結婚したいと思ってるんだよね」
「おめでとうございます」
ちりちりとした痛みが、夏美を襲う。
笑え。笑え。
視界の端に、けらけらがいる。励ますような視線で、けらりと笑っている。
震えそうになる声をぐっと抑えて、特上の笑顔で、夏美は言った。
「ご注文はお決まりですか?」
「いい加減にしろ!!」
浩二が、机を蹴った。静まり返った店内に、彼の怒号のみが響き渡る。
「ふざけんなよ!」
グラスが床へと叩きつけられた。耳を劈く音と共に、みるみる広がる水たまりを、夏美は呆然と見つめていた。
今、いったい何が起きた?
きらきら光るグラスの破片を踏みしめて、浩二が夏美に詰め寄った。肩を掴まれても、夏美は動けない。そのまま前後に強く揺すられて、息が止まりそうになる。
「お前、何なんだよ。なんで笑ってんだよ!」
唾を飛ばして、浩二は怒鳴る。
「結局その程度なんだろ! 俺のこと、その程度の気持ちだったってことだろ!」
「ちょっと、浩二、まずいって」
隣の女は立ち上がると、浩二の服の裾を引いた。
「うるさい!」
浩二の手が、女の手を掴んで引きはがす。
「あ……!」
バランスを崩して、女が体を浮かせる。
その先に、きらりと光った、グラスの破片が――。
「あぶない!」
咄嗟に回り込んで、体で受け止める。夏美は女を抱きかかえたまま、背後から床に倒れ込んだ。
強い衝撃が走った。
背中が熱を持ったように熱い。じわり、と制服が濡れるのが分かった。
「店長!」
愛子が厨房から飛び出してくる。
女が身を起こした。床に流れる血を見て、ひきつった悲鳴を上げる。恐慌状態の彼女を見上げて、夏美は安心させるように笑った。
「お客様、お怪我はありませんか?」
女は一度体を震わせ、ややあって頷いた。
良かった、お客様は怪我をされていない。そう思えたことに夏美は安堵した。
店内の空気が恐る恐る、動き始める。凍っていた物が溶け出したかのように。
「お、おい! 救急車を!」
「ねえ、大丈夫!?」
「ちょっと、あんた何てことするの! 警察、警察を……」
ざわりとする視界の中で、夏美は浩二を見ていた。
青ざめた顔であった。がたがたと震えているようでもあった。その後ろに、けらけらがいた。着物の裾を口に当て、けらりと笑っていた。
そうだね、けらけら、と頷いてみせる。
自分は、プロだから。お客様の前で、みっともないところを見せてはいけないのだ。
笑え。
笑え。
ゆっくりと立ち上がる。つうと熱い感触が背中を伝う。
「店長、だめです! 動かないで!」
愛子の制止も聞こえない。痛みすら感じなかった。
目に力が入る。
姿勢を正し、手を前で組む。
唇の両端を引き上げて、目を柔らかく細め。
笑え。
そう、それでいい。
「お客様。店内での暴力行為は禁止行為です。他のお客様のご迷惑になりますので、即刻お引き取り下さいませ」
「なっ……」
「お引き取り下さいませ」
最上級の笑顔で、夏美はかつての恋人に、そう告げたのである。
***
「傷が浅くて良かったですね」
愛子が、嬉しそうに笑った。
あの事件の後、夏美は意識を失ったようで、気づいたら病院に搬送されていたのである。
制服の上からだったので、大した怪我ではなかったことが幸いであった。会社に報告をしたところ、結果、減給と賞与カットになってしまったのだが、それは致し方ないことである。
責任は、取らねばなるまい。
最悪、クビか、良くて降格かと思っていたのだが、お店の常連と、愛子たちスタッフが庇ってくれたようで、店長の任はそのままであった。
そのことに、夏美は胸を撫で下ろしたものだ。しかし、愛子などは特にこの処置には不満のようで、今もぷりぷり怒っている。
「でも、本当に酷くないですか!? 体張ってお客さん守ったのに、減給なんてありえない!」
「まあ、それは仕方ないよ。元々トラブルを持ち込んだのは私だし」
この間と同じカフェであった。夏美の職場復帰を祝う、という名目で、愛子に誘われたのだ。
愛子はオレンジタルトをつついていた。夏美の前にはブルーベリームースケーキが置かれている。前回失敗したはずなのに、妙においしそうに見えたのだ。
「愛子ちゃん、ありがとうね」
あの後のフォローをしてくれたのは、愛子だったのだという。
救急車を呼び、代われるスタッフを探し出して店を任せ、お客様のフォローを完璧にこなした。そして、自ら救急車に同伴して事情の説明をしてくれたのだ。
「いえ、私は何も……。お客様、皆さん良い方ばかりだったので、良かったですよ」
照れたように笑う愛子に、夏美は頭を下げる。本当に、何度お礼を言っても言い足りないくらいだ。
思わず目頭が熱くなって、慌ててケーキを口に運び、目を見張った。
インスタントの味だなんてとんでもない。味が薄いと思っていたムースはさっぱりとしていながらも濃厚で、、ゴムのようだと思っていたゼリーは、瑞々しいベリーの果実感あふれる味である。
口に含んだ珈琲は、挽きたての香ばしい香りがする。
嗚咽が漏れた。たまらずにしゃくりあげる。
「恰好良かったですよ、店長!」
愛子の言葉が、胸に染み入る。
目尻に溜まった涙を拭い、夏美は破顔した。
けらけらは、遊女の化け物なのだという。
着物の袖で口元を隠し、けらりけらりと笑っていた彼女だって、きっと泣きたい時もあったであろう。
けれど、きっと笑うことが、彼女の誇りなのだ。彼女はそれが仕事だから。どんなときでも笑顔でいるのであろう。
自分は、誇りを守れただろうか。
アイスコーヒーのグラスを磨きながら、夏美は笑った。
からん、と来店を告げる鐘が鳴る。
「いらっしゃいませ」
その後、夏美がけらけらを見ることは、なくなった。
夜の闇に、焔の赤がまるで花のようであった。
全ての小屋に火が廻り、ばちりばちりと爆ぜているのである。盛りではない。もうすべてを燃やし尽くした後である。黒焦げた柱がむき出しになり、そこにちろちろと赤が残っていた。
――可哀想に。
足元に転がった、黒焦げた死体を見て、女はそう呟いた。この有様では、おそらく生きているものはいないだろう。突然の事であったに違いない。つんと漂う異臭に顔をしかめる。行李を背負い直し、女は焼け落ちた邑に足を踏み入れた。
海辺の邑であった。漁業を営む者が多く住んでいたに違いない。
これほどになるまで、火を消す手段はなかったのだろうか。それとも、消えない火であったのだろうか。
ゆっくりと、女は歩いた。
浜辺には、焼けた死体がごろりごろりと転がっていた。
火が付いたものだから。それで、海に逃げ込んだのだ。それでも、間に合わなかったのだろう。
――いったい、どれほどの業火が。
歩くたびに、砂が鳴った。波の音と火の爆ぜる音。そして風の音。
その音に混じって、小さな声が聞こえた。
目を凝らす。
気のせいか。
いや、確かに聞こえた。
「……て」
幽かな声であった。
女は、目を凝らす。
寄せて返す波、その波に洗われるように、人が、倒れていた。
裸であった。下半身は焼けただれ、見るも無残な姿であった。
「た……けて」
美しい娘だ。長い黒髪は先端こそ焦げているものの、夜の闇を溶かし込んだかのようにつやりと輝き、うっすらと開いた瞳は、炎の赤を受けてぬらりと光っている。
――生きている。
しかし、虫の息であるのには間違いない。
女は逡巡する。助けるのは容易だ。けれど、それをこの娘が望むのだろうか。女と同じ役目を、この娘にも負わせることになる。
それでも、いいのか。
「娘」
声をかける。
娘は、瞳を揺らすことで、その声に反応した。
「生きたいか」
黒々とした瞳から、すうと涙が落ちる。
「生きて、切り離された水となるか」
瞳が、揺れた。
「……い」
――生きたい。
声なき声で、娘は呟いた。
女は行李を背中から降ろすと、中の物を取り出した。さらし布に巻かれた包みである。随分小さい。掌に乗る大きさである。女は慎重な手つきで、その包みをそうっと開けていく。
現れたのは、ひとかたまりの肉片であった。それを取り出した小刀で小さくそぎ落とす。
娘の瞳が揺れていた。それを見ないようにして、女はそぎ落とした肉片を彼女の口元に持っていく。
「食え」
差し出した肉片を、娘は薄っすらと開いた唇で、ゆっくりと、食んだ。
娘は濡れた瞳で、女を見上げている。
包みを元に戻すと、それを行李に放り込む。そのまま娘の髪をひと撫でして、立ち上がった。
火の爆ぜる音が、静かに響いている。薄っすらと紫色に染まる海原を見て、女は細く息を吸い、唇に歌を乗せた。
高く低く、歌は海に木霊する。海と空の境目が開き、ようようと金色に染まっていく。
夜明けが近い。長い朝と、夜の始まりであった。
布が踊る。
白い布が、ひらひらと、まるで生き物のように蠢いている。
***
小高い土手沿いに、桜並木が圧巻であった。雨のように降る花びらが美しく、明美はしばし、呆気にとられた。
まだ早朝である。霧がふわりと漂う中を、明美はただただ歩いている。
春休みだ。とはいっても、毎日部活で忙しくしている明美にとって、休みというのはつまり運動する時間が増える、というだけの話であった。いつものように早く起き、いつものように登校して、それで、気づいた。今日は休みだった、らしい。設備の点検かなにかで、一切登校ができない日だったようだ。
やってしまった。
そんな訳で、せっかくだから高校の周りを探検してやろうと思ったのである。
思えば入学して二年目になるが、ほとんど駅と学校の行き帰りだけで、全くと言っていいほど散策をしていなかった。もしかしたら、何か面白い発見があるかもしれない。
通学路とは真反対に歩くと、住宅街が広がっていた。まだ早い時間なので、人通りはほとんどない。見たことのない景色を楽しみながら家と家の隙間を縫うように歩き、暫くすると、一気に視界が開けた。
川辺に出たのである。朝が早いせいか、はたまた霧が出ているからか、人影は見あたらない。ただ一面の白い世界の中に、薄桃色の桜並木がひっそりと並ぶ様は、なんとも幻想的であった。
こんな場所を知らなかっただなんて、勿体ないことをした。
もやりと霧の漂う中、桜の白が空気に溶けている。
歩く。
歩く。
視界が白で埋め尽くされる。
明美は桜が好きであった。花弁がつやりとしているところが特に気に入っていた。幹の無骨な感触。ごつごつした男性的な枝から、このような艶やかな花が開く。そういうところが、好きであった。
霧の影響か、水分を含んだ花弁が、しらりしらりと落ちてくる。風はほとんどなかった。川のせせらぎと、彼女の足音だけが、早朝の空気に響いている。
その足音に、ひとつ、別の物が混じった。反対側から、誰かが歩いてくる。その姿を見て、明美はあっと叫びそうになった。
クラスメートの、聡だ。
歩きながら本を読んでいた。明美には気づいていないようで、背を少しだけ丸め、本にかぶりつくように視線を落としているのである。
こっちに、来る。顔に熱が集まっていく。
聡は物静かな少年であった。高校生にしては線が細く、どこか女性的な風貌で、教室の片隅で、いつも本を読んでいる、そんな印象であった。
だからといって、人付き合いが苦手なわけではないらしい。友人たちと談笑したりする姿もよく見ていたし、放課後にみんなで連れ立って、近所のヒレカツ屋さんで買い食いしているところを見かけたこともある。
色が白くて、儚げで、穏やかに話す口調が、ちょっと良い。
そこまで考えて、明美は己の姿を顧みるのだ。部活に明け暮れて、真っ黒に日焼けした肌。眉は太く、鼻は低く、化粧気のない顔。髪は邪魔にならないようにざっくりとショートにして、手入れもほとんどしていない。
自分を構成する全てが不釣り合いに見えて、明美はちくりと胸が痛む。
聡はゆったりと歩いてくる。学校に入れないことを、知らないのであろうか。なれば、教えてあげねばなるまい。跳ねる鼓動をなだめるように、明美は深呼吸した。
「植草くん」
はっと顔を上げた聡に、一瞬見入ってしまう。白い視界に、溶けてしまいそうなほど白い顔。
通った鼻筋。長い睫。琥珀色の瞳に自分が映っているのだ、と思うと、それだけでもう逃げ出したくてたまらなかった。
「今日、学校入れないんだって」
そう告げると、聡は目を見張り、桜の蕾が開くように、笑った。
「そうなんだ。ありがとう」
そんなことをつらりと話す。
「笹原さんも間違えた口?」
「うん。部活あると思って。……植草くんは?」
「本を返しに来たんだ。早く起きて損したな」
「そっか」
それじゃあ、と、聡は首をことりと傾けた。
「お茶、しない?」
耳の奥で、血の流れる音がした。
「あたしと?」
「うん」
「でも」
「だめ?」
「でも、制服だし」
「ばれなきゃ大丈夫だよ」
ああ、彼はずるいのだ。涼しい顔で、さも優等生のふりをして、こういうことをする。そういうところが。
「訂正。早く起きて、よかった」
そう言って、聡がゆったりと笑う。
そのときである。
聡のシャツの首元から、するすると白い物がのびる。布のように見えた。白く、細長いものが、ひらひらと、まるで生き物のように蠢いてそのまま、すう、と消えてしまった。
***
「で、お茶したの?」
葉子の、揶揄を含んだ瞳に射抜かれて、明美は思わずテーブルに突っ伏した。
「した。もう死にたくなった」
黒髪を揺らしながら、なにそれ、と、葉子はからからと笑う。
――他人事だと思って。
明美はもそりと起きあがると、目の前のソーダフロートをずずっと啜った。
葉子は明美の家の住人である。正確には、親が大家をしているアパートに入居している女性であった。
大学生だという彼女は、大層な美人である。長い黒髪に、白い肌。黒の革ジャンに、足にぴたりとしたジーンズがすらりとした体に良く似合っている。女性から見ても何とも魅力的で、最初に会ったときは、思わずほうっと溜息が出たくらいだ。
歳が近いこともあって、葉子と親しくなるのにはそれほど時間はかからなかった。それで、こうして他愛もないことを話したり、定期的にお茶までする仲になったのである。
葉子はいちごパフェを食べながら、にやりと笑う。
「何話したの?」
「覚えてない。もう、緊張して、それどころじゃなくて」
明美は再びテーブルに突っ伏した。
かわいいなあ、と、柔らかな声が落ちてくる。明美はきっと葉子をにらんだ。
「全然かわいくないよ。葉子さんみたいに生まれたかった」
葉子は、ゆったりと笑みを浮かべた。
「人は、得てして自分の魅力には気づきづらいものなんだね」
この人は、たまにこういうことを言う。妙に老成したところがあるのだ。明美と大して歳も違わないのに、大人然とした姿に、明美は益々不貞腐れる。
「よく、わかんないよ」
アイスクリームが溶けて、マーブル状になったソーダをかき混ぜながら、明美は大きく溜息をついた。
「笹原さん、テニス部だっけ」
聡はそう言って、机に頬杖を突いた。
昼休みも終わりかけの時である。
一度お茶をしてから、聡は明美に気を許したらしい。明美の方も、多少は免疫がついて、休み時間に雑談をするくらいには仲良くなった。
「そうだけど。植草君は? 文芸部だっけ」
確か、ちらっと名前を見たことがあった。一年の時の会報である。友人が文芸部だったので読ませてもらったのだが、そこに彼の作品も載っていたように記憶している。
「読んだよ、去年の会報」
他の人が小説の形態を取っているのに対し、彼の作品は童話調だったので、よく覚えている。
蝶と蜘蛛の話であった。自分の巣にかかった蝶を哀れに思い、食べることができない蜘蛛。そんな蜘蛛を詰り、食えと訴える蝶。やがて二人はそれぞれの話をし、お互い愛し、許し合って最終的に共に死ぬ。昔々、から始まるオリジナルの話なんて初めて読んだことと、その内容が衝撃的で、暫く頭から離れなかったのだ。
「今年のも楽しみにしてる」
そう言うと、聡は首を横に緩く振った。
「今年は無理かなあ」
「え」
「退部したんだ」
「そうなの!? 勿体ない!」
思わず、口をついて出た言葉に、聡は困ったように微笑んだ。
「ぼくも、続けたかったんだけど。書くのは部活じゃなくてもできるから」
少しだけ寂しそうな表情に、明美は言葉を呑んだ。何故退部したのか、聞いてもいいのだろうか。
いや。誰にでも事情はある。友人だからと言って、聞いていいことと悪いことはあるだろう。口を噤んだ明美に何を思ったのか、聡はほっとしたように息を吐き、そのままゆったりと微笑んだ。
聡と他愛のない話をするのは楽しかった。彼は博識で、明美の知らない世界をたくさん知っている。明美が感心してそう言うと、本で読んだだけだ、と、彼は、はにかむのである。
「笹原さんの方が、すごいよ」
「あたし?」
「うん。だってぼく、スポーツ苦手だし」
「そうなの?」
「この間の試合。三年生に勝ってたでしょ」
先日の、ゴールデンウィークのことだ。別の学校の三年生と練習試合をして、接戦の末に明美が勝ったのである。あの時は必死だったので気が付かなかったが、どうやら聡は試合を見に来てくれていたようであった。
「笹原さん、格好良かったなあ」
また、臆面もなく、そういうことを言う。明美は急に恥ずかしくなって俯いた。
聡と話していると、ふわふわする。それは春の陽気にも似た、少し浮かれた感情であった。温かく、柔らかで、どこか期待に満ちている。そんな心持ちになったものだ。
クラスで揶揄われたりもしたが、思った以上に明美は気にならなかった。聡が気にしていなかったというのもあるし、そういう関係だと周りが勘違いしているだけで、二人の間には何の取り決めもない。いちいち反応していたら聡に失礼である。
そもそも、自分は聡には釣り合わない。けれど、友人としてなら、こうやって肩を並べることができるのだ。それだけで明美は十分満足だったのである。
夏休みに入ってからは、明美も部活が忙しくなった。朝早くから夜遅くまで、コートを走り回る毎日である。来年からは受験もあるし、これが部活に専念できる最後の夏かもしれない。そう思うと、一層練習にも力が入るというものだ。
聡は、よく図書室に来ているようであった。
明美の学校の図書室は、四階にある。彼はその窓際の席で、分厚い本を読んでいた。
図書室の窓はテニスコートの向かいなので、彼の様子は良く見えた。
練習中に、明美は度々顔を上げ、彼の横顔を盗み見るのである。たまに、目が合った。彼は嬉しそうに微笑むと、小さく手を振るのだ。明美はやはり、どうにも恥ずかしくなって、軽く手を挙げるだけである。
二人で話すのも、噂されるのも慣れてしまったが、どうにも恥ずかしいのだけは直らない。彼の瞳に自分が映っている、そう考えると、居ても立ってもいられないのだ。
そんな、夏も盛りの頃であった。
その日は、帰るのが随分と遅くなった。後輩の練習に付き合った後で、自主練習をしていたのだ。つい夢中になり、時間を見るのを失念してしまったのである。
あまり遅くなると、家族に怒られる。
暗くなったテニスコートを後にして、急いで着替える。外に出ると、むわりと蒸し暑い空気が明美を包み込んだ。風はほとんどない。運動疲れで気怠い体も相まって、噎せ返るような湿気に溺れそうになる。
ゆるゆると泳ぐように歩き、校門に差し掛かった時の事であった。
その横に、聡がいた。真っ白い開襟シャツが、夜の闇にぼんやりと浮かび上がっている。
一人ではなかった。
明美の後輩と一緒であった。
慌てて、傍の木の陰に隠れる。見つかってはいけないような気がしたのだ。それでもやはり気になって、そっと覗いてみた。
何やら、話し込んでいるようであった。途切れ途切れに、小さな声が届く。
――ぼくは……だから。
――でも、先輩は……。
――……は関係ない……ろう。
――私じゃ……ですか?
しまった。
明美は己の不運を呪った。これは、もしかするともしかたら、正しく告白のシーンなのではないだろうか。
――好きです。
やはり。
後輩は、可愛い。背が小さく、すらりとしていて、白のスコートが良く似合う。髪を切るのが嫌だと言って、ポニーテールにしているのが特徴だった。あんな可愛い子に告白されたら、承諾しないわけがない。
胸の中を、隙間風が抜けていくような心持ちであった。
邪魔しちゃいけない。今ここに、自分がいることに気づかれてはいけない。自分の友人と可愛い後輩の恋路を邪魔するなんて野暮なこと……。
そうして、その場をそっと離れようとした時であった。目の端に、ちらりと見えたのである。
白い、布。
春の日。早朝の散歩で初めて見たときと同じ物が、再び聡の首に巻き付いていた。
布は先端を天に伸ばし、ひらひらと揺れている。風はなかった。それなのに、何故あの布は動いているのか。
――……サナイ。
女性の声が聞こえた気がした。低い声。ぽそぽそと、小さく泡が弾けるような声。
目の前が薄ぼんやりと、白く霞んでいく。あれほど暑かった空気に、急に異質なものが混じり合っていく。
寒い。
雪が。
雪が降っている――。
「笹原さん?」
声をかけられ、明美は我に返る。
すぐ近くに聡がいた。
目を瞬かせる。すっきり伸びた首元には、何も巻き付いてなどいなかった。
「あ、れ?」
後輩は、いなかった。帰ってしまったのだろうか。
「どうしたの? 随分遅いじゃない」
「う、うん、練習が」
「こんな遅くまで? 危ないよ」
「植草くん。あの子は」
「ああ……」
聡はバツが悪そうに頭を掻いた。
「見てたんだ」
「うん、何を話してたかまでは、聞こえなかったけど……」
嘘だ。本当は少しは聞こえていた。けれど、正直に言うのも躊躇われたのである。
聡はあからさまにほっとした顔になった。
「とにかく、駅まで送るよ」
「え、でも」
明美はあの桜並木でのことを思い出す。聡の家は、駅とは反対方向であったはずだ。
「いいから。ほら、行こう」
そう言って、聡は先に立って歩き始めた。その背中を追いかけるように、明美は着いていく。
既視感。
こんなことが、前にもあった気がする。先に行く背中を、じっと見つめて、二、三歩遅れて歩いている自分の姿。
――気のせいだ。
明美は、首を振った。連日の練習で、少し疲れているのかもしれなかった。
***
聡の様子が、変だ。
そう気づいたのは、夏休みも終わり、二学期もひと月あまりが過ぎた、初秋の頃であった。
聡が、珍しく学校を休んだのである。滅多にないことであった。風邪でも引いたのだろうと思っていたのだが、それが二日になり、三日、四日、週をまたいでも聡は登校しなかった。
流石におかしい。
何かあったのだろうか、と囁かれ、噂されるようになった。休みの理由を担任に聞いても、言葉を濁される。それが噂に拍車をかけた。
さすがに明美も、心配になる。何か悪い病にでもかかってしまったのだろうか。そんなことを考えながら、部活を終え、帰ろうと下駄箱に向かった時であった。
夕方ではあったが、空はまだ明るかった。りいりいと、せっかちな虫が鳴いている。その鈴の音が降る廊下の窓際に、聡がいた。今日も休みのはずであったのに、かっちりと学生服を着こんだ姿である。
窓の外を眺めていた。
一人である。
周りには誰もいなかった。
明美は思わず息を止める。まだ夏の残り香を感じる強い西日が、彼の横顔に濃い陰影をつけている。まるで、そこだけ切り取られているかのような、絵画的な光景であった。
ふと、聡が視線を向けた。その顔を見て、明美は絶句した。
頬がこけている。ただでさえ線が細いのに、一回りも小さくなってしまったようである。いっそ気の毒なほど、彼は痩せ細ってしまっていた。
「笹原さん」
聡は呟いた。涙が、聡の白皙の頬を伝い、滑らかな首筋を滑り落ちた。
「……どうしたの?」
かろうじて息に声を乗せる。
「なんか、あった?」
聡の顔が、歪む。
「……みんなぼくを置いていく」
幽鬼のような、生気のない顔。生きながらにして、死んでしまっているような、明美が今まで一度も見たことがない表情であった。
その時である。
するり、と、首に布が巻き付いた。
その白が、きゅう、と、聡の首を絞めている。そのたびに聡は、苦しそうに眉を寄せ、またひとつ、涙が落ちる。
見ていられない。
思わず聡の肩に手を伸ばした。ほとんど無意識の行動であった。かき抱いた体は、痛々しいほど細かった。頭一つ分高い聡を見上げるようにして、明美は口走る。
「大丈夫」
涙がきらきらと夕日に輝いていた。長い睫に宿ったそれがあまりにも綺麗で、そのまま、吸い寄せられるように。
首に、手を回し――。
「やめろ!!」
強い衝撃が、走った。
明美は呆然とする。右手の甲に痛みを覚え、視線を落とす。みるみる赤くなる肌に、今のは夢ではないと認識する。
叩き落とされた。首に回そうとした手を、思い切り、はねのける勢いで。
「あ……」
頭を、鈍器で殴られたような衝撃であった。
聡は顔を青くしている。罪悪感に染まった顔で、自分の手と明美を交互に見つめている。そんなことより、今、自分は何をしようとした。首に手を伸ばして、もう少しで。
「ごめん」
青ざめた顔で、聡が言った。
「ごめん。違うんだ」
もう、何も耳に入らない。
「笹原さん!」
明美は、その場から逃げ出した。
自分のしたことが信じられなかった。聡がもし、手を叩き落とさなければ、自分は今、もう少しで……聡に口づけていたのではなかろうか。
「明美? 植草君って子が来てるけど」
その日の夜である。
母が、そう言いながら明美の部屋の扉を叩いた。予想外の言葉に、明美は頭から被っていたタオルケットをはねのける。
「うそ」
「嘘じゃないよ。ほら、待ってもらってるんだから早く行きな」
恋人か、とにやついている母を押しのけ、明美はあわてて玄関へを向かった。
所在なさげに立っていたのは、確かに聡であった。先程の、危うい、幽鬼のような雰囲気は幾分和らぎ、目には力が戻ってきている。
「笹原さん」
明美を見て、聡はほっとした顔で笑う。
「いきなりごめん。連絡網見て、家、このあたりかなって」
聡は申し訳なさそうに頭を掻く。
「ちょっと出れる? 帰りはちゃんと送るから」
こくん、と明美は頷いた。
ゆるゆると歩く。
夜であった。見上げれば、霞んだ空に申し訳程度に星が瞬いている。月が大きい。今日は満月であろうか。丸々と肥った月が、笑い掛けているようであった。
二人は近くの公園の、ブランコに腰掛けた。誰もいない公園は何だかとても物寂しく、明美は迷子になったような心持ちになる。
聡は、月を眺めていた。色白の肌に月が影を落としている。
「今日は、ごめんね」
おもむろに、聡が口を開く。明美は首を振った。謝るのはこちらの方だ。自分がしでかしたことを思い出しただけで、顔から火が出そうであった。
「あたしこそ、ごめん。その……」
うまく言葉にできなくて、明美はぱくぱくと口を動かした。
聡は、ゆっくりと首を振る。
「ぼく、笹原さんが嫌だったわけじゃないんだ」
噛みしめるように、聡は呟いた。
「多分、呪いなんだと思う」
「呪い?」
明美は首を傾げた。普段あまり聞きなれない単語だ。意味が浸透するまで、少しばかり時間がかかったのである。
「――先日、祖母が、死んだ」
「え!?」
「自殺だった」
明美は絶句した。聡が学校を休んでいたのも、こんなに痩せ細ってしまった理由も、それで全部説明がつく。
「元々気に病む性質だったらしいんだけど。ついに、耐えきれなくなったらしい」
「……耐えきれなくなった?」
「祖母は、母のことをずっと気に病んでいたんだ。そう、遺書に書いてあった」
ブランコが、きいと鳴る。いや、鳴ったのは明美の心だろうか。
「ぼくの母は、もういない。自殺したんだ。ぼくが七つの時だった」
一体、明美に何が言えただろう。聡は、二人の近しい家族を失っているのだ。しかも、自ら命を絶つ、という方法で。
「母を最初に見つけたのは、ぼくだ。倉の梁に、白い布を巻き付けて……」
明美は息を呑む。胸が苦しい。今、このことを話している聡の心情を考えるだけで、心がぎしぎしと悲鳴を挙げる。
ブランコをきい、と揺らして、聡は困ったように微笑んだ。
「実は、その時のことはあんまり覚えていないんだ。ただ……」
――首に巻かれた、布が白かった。
――それだけが、鮮明に目に焼き付いていて。
そう聡が口にしたとたん、空気が粘ついた。夜の闇がもったりと、それでいて急速に膨れ上がるように。
明美は瞠目する。
聡の首に、巻き付く。白い布。いや、違う。あれは、手だ。ほっそりとした手が、聡の首にひたりと巻き付いている。
「それから、ぼくは首に触られるのが怖くなった」
巻きついた手に気づかないのだろうか。聡は切なげに目を伏せ、自らの首の下に手を添えた。その手に、ふわりと白い手が重なる。優しく包み込むように、明美に見せつける様に、手は聡の手に絡みつき、やんわりと握りこんだ。
「笹原さん」
聡はブランコから立ち上がった。そのままゆらりと振り返って、明美へと向き直る。
「……みんな、ぼくを置いていく」
月を背負った聡は、夜の王だった。かしゃりと音を立ててブランコが揺れる。鎖を握りしめた明美の手に、聡の手が重なった。
「置いていかないで」
かしゃりと音が鳴る。聡の顔が近づいた。影が落ちるほどの長い睫。すらりとした鼻筋。少し薄い唇。
明美の唇に、吐息がかかる。
――だめ。
拒絶ではない。警告だ。明美の本能が逃げろと信号を送っている。
「ぼくは、君が」
――ワタサナイ。
白い。白い布が。するりと巻き付いて。
眩暈がするほどの夜であった。
初めての接吻に喘いだのは、息をするのを忘れていたわけではない。明美は、見てしまったのだ。
聡の首から伸びた白い布が、自分の首に、するすると巻き付いていく様を。
***
それから聡は、毎日明美を待っているようになった。
「部活、終わり? じゃあ帰ろうか」
試合が近いので、毎日遅くまで練習があった。テニスコートのフェンスに体を預け、本を読んでいた聡は、明美が着替えて出てくるといつも笑ってそう言うのだ。
二人で帰るのも、だいぶ慣れた。
聡とは、駅まで一緒に帰る。そのまま別れることもあるし、家まで送るといって電車に乗りこむこともある。
たまに寄り道もした。塀の上で寝そべっている猫や、川沿いに蹲っていた蟇蛙などを興味深げに見て、聡は笑う。
――猫は、自分の国を持っているんだ。そこには王様がいて、役人もいて、国民もいるんだって。
――児雷也って知ってる? 昔の盗賊で、蝦蟇の妖術使いなんだよ。
聡の話は面白かった。そのひとつひとつに命があるようであった。
今日も寄り道しよう、との、聡の言葉で、秋枯れた桜並木を歩いた。川沿いの並木道は落ち葉に埋もれるようであった。さくさくとした、ミルフィーユのような葉を踏みしめ、ただ、歩く。
随分と、日が落ちるのが早くなった。もうじき冬である。街灯に照らされた木々の梢が黒々とした影を伸ばしている。
隣を、自転車が走り抜けていく。遠くでバイクの音がする。川にかかった大きな鉄橋を、電車が音を立てて走る。
後の、静寂。
誰もいない。
梢から一片黄の葉が舞う。くるりと渦をまき、はさり、と落ちる。
明美はそっと顔を上げ、聡の横顔を盗み見る。彼は以前と同じような、柔らかな笑みを浮かべていた。痩せこけていた頬も元に戻り、以前と変わらないように見える。
あの時以来、祖母の事も、母の事も彼の口からは発せられない。だから明美もそのことについては何も言わなかった。元通りだ。何もかも。
しかし、以前とは明らかに変わったこともある。
――ほら。
つ、と指先が触れ合った。そのまま絡めら取られ、明美は、ああ、まただ、と眉を下げる。聡と触れ合うとき、明美はその都度後悔をする。
この関係を、何と呼ぶのだろう。
自分と聡は何かを言い交わしているわけではない。明美からも何も言わない。言えない、といってもいいかもしれない。
聡の気持ちが分からなかった。
たまたま、近くにいたのが自分で、その自分に心情を明かしたことで、心を許してくれていることは、わかる。
明美とて、ただの友人とは手を繋がないということも、勿論口づけをすることもないことくらいは知っている。
けれど、聡は何も言わない。
だから、明美も何も聞けない。
接吻も、もしかしたら気の迷いだったのかもしれないし、彼にとって手を繋ぐことは、特別なことではないのかもしれない。
あの満月の夜以来、明美は度々夢を見る。
雪が降っている。土蔵の見える濡れ縁に、明美は座っている。火鉢の炭がほろりと落ちる。言い知れぬ、胸の奥から泉のように湧き出る感情。その白い手に、白いさらし布を持ち、それをぎゅうと掴むのだ。
そんな、夢である。
気味が悪いというわけではない。怖い思いをするわけでもない。ただ、その夢をみた朝は、寂寥感に苛まれる。
それと同じ感情を、聡と一緒にいると強く感じるのである。
聡の指先は冷たかった。ただひたすらに前を向くその白い肌が、秋の夜空ほの白く浮かぶ。 不意に、つう、と天を仰いだ。つられて見ると、煌々とした月が昇りかけている。
満月にほど近い、瓜のようなそれを見て、聡は呟いた。
「ねえ笹原さん。ぼくたちはどこから来て、どこへ行くんだろうね」
絡めた指先に力が籠もる。くいと引かれて立ち止まる。
「行かないで。どこにも」
目が合った。琥珀の色。すうと通った鼻筋、薄い唇。ほっそりとした首筋に、するりと絡む白い布……。
月の影に蠢くそれは、天女の羽衣のようであった。
実は、聡は天界の人間なのではないだろうか。
布はしゅるしゅると首から伸び、その先端を五つに裂いた。蛇のように鎌首をもたげ、布は手に変化する。
――ワタサナイ。
頭の中で声がする。
囁くように紡がれる、掠れた女の声。耳の奥で、ざらりと小石が鳴った。
葉子の部屋に招かれたのは、その数日後の事である。
夜であった。
風呂を浴び、火照った体を冷まそうとベランダに出たときのことである。
手すりに手をかけて、仰ぎ見れば望月。まるまると太った月にうっすらと雲がかかり、まるで夢のような美しさであった。
夜風が明美の短い髪の毛を嬲る。あまり長く外にいると、湯冷めしてしまうかもしれない。でも、何となく離れがたい。そんな矛盾した心持ちで、ぼうっと外を眺める。
明美の自宅、道路を挟んだ向かいに、父母が管理しているアパートがあった。
葉子はその階段を上っていた。買い物の帰りだったようで、手にスーパーの袋をぶら下げていた。
随分と久しぶりに、顔を見た気がする。あの喫茶店でのお茶以来であろうか。
明美はその姿をじいと見つめる。頼りないアパートの蛍光灯に、葉子のすらりとした長身が、ぼんやりと映し出されている。まるでテレビを見ているような錯覚を覚える。すぐそこにいるように見えるのに、どこか遠い。
葉子はひとつの扉の前で止まった、202号室。ジーパンのポケットから鍵を取り出し、扉を開けて中に入ろうとする。その顔がこちらを向いた――目が、合った。
葉子は驚いたようであった。目を見開き、こちらをじいと見つめている。彼女は小さく何かを呟いた。それはこちらには届かない。
やがて葉子はゆっくりと、ゆっくりと、手招きを、した。
夜の闇にほの白い手が蛇のように動く様に、明美は自分の首元を抑える。
似ている。あの手に。
誘われるままに、家を出た。両親には告げてある。二人とも、若くて綺麗なアパートの住人が大層お気に入りだったので、特にお咎めもなしであった。
「そこに座って。今お茶を淹れるから」
明美は、ぐるりと部屋を見回した。
初めて入った葉子の部屋は、秘密基地のようであった。
六畳一間の純和室。その壁一面をぐるりと本棚が囲んでいる。その隙間には、様々な物が飾られていた。
ゼンマイ式のオルゴール。ガラスでできた地球儀。大小の万華鏡。古い紙束。他にも用途の分からない物たちが、ごちゃりと息を潜めている。
床にうず高く積まれた紙は、何かの資料のようであった。入れ損ねたのだろう、くしゃりと丸められた紙が、屑籠の側に何個も落ちている。本棚に寄せて置かれた文机には、原稿用紙と万年筆が無造作に置かれていた。
雑多な部屋だ。それでいて、空気はどこか静謐であった。乱雑と、整頓。その矛盾が成り立っている。
畳の中央に、小さなちゃぶ台。煎餅のように薄く潰れた座布団が二枚。その一枚の上に正座して、明美は、ぼうと視線を宙に彷徨わせる。
時計の、時を刻む音。火にかけられた薬缶の煮沸の音。
茶葉を準備する葉子の、かさりとした、音。
静かだ。
やがて、ちゃぶ台の上に、湯のみがことりと置かれた。
「どうぞ」
綺麗な緑色の煎茶である。お茶受けに、と出されたのは苺。パックに入ったままでんと置かれたそれを見て、明美は苦笑した。煎茶と、苺。食べ合わせとしてはどうなのだろう。
鳩時計が、軽やかに鳴る。
二十一時。
葉子も明美の向かいに座る。彼女は黙って湯呑を手にし、お茶を啜り、苺を口に運ぶ。明美も同じようにした。口に含んだ煎茶の苦味が、意外にも苺の甘さを引き立てている。瑞々しいその果物の甘い味わいに、明美はほうっと息を吐く。
どのくらい、そうしていたのだろう。煎茶がほとんど空になり、苺のヘタが山になるくらいの時間を経て、思い出したかのように、葉子は言葉を息に乗せたのである。
「――白布」
「しろぬの?」
「そう。……どうしたの、それ」
そう言って、明美の首に、つと手を伸ばした。その手は触れるか触れないかのところで、明美は慌てて身を引いた。
怖い。首に触られるのが。
葉子の顔が少し歪んだ。そのまま立ち上がり、本棚に手を伸ばす。そこから彼女が取り上げたのは、古ぼけた風呂敷の包みであった。
葉子はそれをちゃぶ台の上に置くと、ゆっくりと包みをほどき始める。
目に飛び込んできたのは、鮮やかな藍色であった。慎重に取り上げて、葉子はその藍を畳の上に広げる。着物の肩掛けだろうか。まるで雪のような白の絞りが、青に映えて美しい。
「これを、持っていてほしい」
「え?」
「お願い」
有無を言わせぬその口調に、明美は首を縦に振った。元のように畳むと風呂敷に戻し、きゅっと絞ると、葉子がほっとした表情を浮かべふわりと笑った。
微かに漂う、沈丁花の香り。
――ワタサナイ。
不意に聞こえた声に、明美は息を呑んだ。
急速に意識が浸食されていく。頭の中に、じわりと忍び込んだ触手が、ゆっくりと明美自身を絡めとっていくかのような感覚。
甘い香り。沈丁花の香り。この香りを明美は知っている。
雪が積もっている。
――雪?
明美は彼の後を、二歩ほど下がって歩いている。
――彼って、誰?
さくさくと、白に染まる世界を歩いている。抜けるような晴天。青が目に眩しく、明美は目を瞬かせる。
道の両脇、左右に伸びた長屋の屋根には、うず高く雪が積もっていて、それが時々どさりと落ちた。
不意に、明美は足を止めた。軒先に干してある青が、新鮮な輝きで目に映ったのである。
目の覚めるような青。雪の白、長屋の焦げ茶に、その色がよく映えている。
思わず、ほう、と感嘆の息を吐く。
「綺麗だなあ」
呟く声が、耳に届いた。
「なあ、八重。見事な青だなあ」
その声が本当に真摯に溢れていたので、明美は、嬉しかったのだ。彼の心からの声を久しぶりに聞いたような気がして、明美はようやく、笑った。笑うことができた。
「本当に。綺麗な藍染でございますね」
習いは性になるとは言ったもので、そういう振りをしているはずが、歳を重ね、すっかり笑い方を忘れてしまったように思える。
自らの生家に冠する名や立場が、ある一定の価値観の人からは喉から手が出るほど欲しいものだということに、明美は――八重はとうに気づいていた。だからこそ、早すぎる見合いも、父や母の期待も、仕方のなかったことだと頭では分かっている。
だけど、と八重は思う。胸を焦がすような感情。手と手が触れ合う温かさ。読本で知った、甘酸っぱいような恋を、諦めたくなかったのだ。
自分の容姿が人より優れていることには気付いている。だから、八重は一芝居打つことにしたのだ。
笑わない。泣かない。感情を外に出さない。読本に出てくる雪女のように、冷たい表情の自分であれば、まとまる縁談も壊れるだろう。自分の周りに布を張り巡らせるかのように八重は振舞った。
さぞかし、父や母は嘆いたであろう。当初はそれこそやむことのない雪のように舞い込んでいた縁談も、適齢を過ぎてから持ち込まれることはなくなっていた。
最後の見合いだ、と言われて、彼の写真を見たとき、八重は心底驚いたものだ。
幼い頃の面影そのままの彼。背は伸び、体つきもがっしりとして、身に纏う雰囲気も物慣れた大人然としていたが、その瞳は変わらない。あの雪の日に出会った時のままだ。
覚えず胸が高鳴った。見合いの日を指折り数え、当日の服装も何度も確認し、立ち居振る舞いもしっかりとおさらいをした。しかし、長年笑うことのなかった表情だけは、治すことができない。
きっと彼は、あの日の約束なんて忘れてしまっているだろう。
けれど、八重は忘れていない。きちんと伝えなければ。この氷に閉じ込められた感情を溶かし、笑顔と共に、気持ちを打ち明けなければ。
そう思っていた。それなのに。
――ワタサナイ。
八重は――明美は、立ち上がる。
眩暈がする。首からするすると白布が伸びる。
声を出す。その声は、掠れている。
「――ワタサナイ」
葉子が目を見開いた。薄めの唇を震わせて、低い声でぽつりと呟く。
「八重さん……」
明美の首から伸びた、白い布――手が、蛇のようにうねり、葉子へと伸びていく。葉子は、裁かれるのを待つ罪人のように、青ざめた顔で布を見つめている。
晩秋の夜。空には望月がかかっていた。薄羽にくるまれたかのような静謐な部屋で、葉子はがくりと首を落とす。
明美の視界が白く染まっていく。そのままぐるぐると旋回するかのように、明美は白の世界へと落ちていった。
***
雪が、降っていた。
粉雪のようであった。しらりと舞う白が、桜の花弁のようである。
ここは、どこだろう。確か自分は、葉子の部屋にいたのではなかっただろうか。妙に痛む頭を抱えて、明美はゆっくりと周りを見やった。
大きな屋敷である。瓦の乗った木造の門構えに、しらしらと雪が舞い落ちている。
門は固く閉ざされていた。ここからはきっと入れない。首を巡らせると、その横に設けられた小さな木戸が目に留まる。きっと、ここなら開くだろう。明美は昔見た時代劇を思い出す。こういう門には、必ずこういった小さな戸が付いていて、そこから出入りするものだ。
そっと押すと、小さな軋み音を立て、戸がゆっくりと内側に開く。体を潜らせると、右手側に白壁の古い倉。左手側に平屋造りの屋敷。
しんしんと雪が降り積もっていた。 玉砂利に敷かれた飛び石。そこにうっすらと降り積もった白が、目に眩しい。
明美はその上に足を置く。足跡はつかなかった。
――夢?
ふと、人の気配を感じ、明美は顔を上げた。
雪の降る縁側、その火鉢の前に、女性が腰を下ろしている。結い上げた黒髪、薄紫の着物に、たすき掛けし、白いさらし布を握りしめていた。
「ここは、白布の中」
「葉子さん!?」
驚いて振り向くと、そこには葉子が立っていた。静かに降る雪の下、その黒髪に落ちる雪片がきらきらと輝いている。
「あの人は、ここでずっと同じ一日を、繰り返している」
葉子の視線の先には、あの女性がいた。表情の見える位置にいるというのに、こちらには気づく様子はない。
綺麗な人であった。
線が細い。ともすれば折れそうなほどの細身である。背筋はすうと伸びており、凛とした佇まいに、厳しくも清冽な美しさを感じる人だ。
白皙の頬、琥珀の目。墨を流したような黒髪。
明美は首を捻った。見覚えのある顔である。いったいどこで……。
女性は、立ち上がると、ゆっくりと、一歩一歩、確かめるようにこちらに向かって近づいてくる。
握りしめた白い布が、ひらひらと揺れていた。
風が吹く。
雪片が舞う。
手を伸ばせば届く距離まで来ても、女性は明美に気づかない。
「ほら」
葉子の、低い声が響いた。
「額だ」
明美は目を凝らし、そして絶句した。
美しい白皙の肌。その額に生えていたのは、小さな二本の角。
「ごめんなさい」
言葉を失った明美の後ろで、小さく声が聞こえた。
「葉子さん……?」
葉子は、目を伏せていた。眉を寄せ、今にも泣き出しそうに見えた。
「葉子さん、あの人って」
「あれは、鬼だ」
「鬼……?」
改めて、女性の姿を目で追った。生えた角に、女性は気づいていないのだろう。手に布を握りしめたまま、二人の横を通り過ぎる。
その先には、倉があった。大きな観音開きの扉はぽっかりと開き、まるで何か大きな生き物が、口を開けて待ちかまえているかのようであった。
「もしかして」
白皙の肌。
琥珀の瞳。
どこかで見たことがあるような気がした。そうだ、見ている。明美はその顔をよく知っている。色素の薄い琥珀の瞳。
聡の瞳にそっくりだ。
「葉子さん、あの人は、もしかして」
葉子は顔を上げ、口を開き、また、閉じた。
女性は倉へと吸い込まれるように消えていく。
「白布は封印のあかし」
不意に、葉子が呟いた。
「思いを封印して、外に出さないようにする。そうすれば、一見何も起こらない。けれど……」
倉の扉が、ぎい、と閉まった。
「思いは水のようなもの。流れがないと腐ってしまう」
葉子は再び目を伏せた。まるで、祈りを捧げているような表情であった。
「こんなことになるなんて、思わなかったんだ」
がたり、と音がする。倉の中だ。何か、重い物を動かすような音。
軋む。倒れる。微かな、うめき声。
倉の中から聞こえていた音が、止んだ。痛いくらいの静寂が辺りを包んでいる。
「私は彼女を助けたい」
葉子は顔を上げた。視線の先を追い、明美は目を見開いた。
倉の中にいるはずの女性が、縁側にいたのである。火鉢の前に腰を下ろし、薄紫の着物にたすきを掛け、手に白いさらし布を持ったまま。
「明美ちゃん、お願いしてもいいかな」
「お願い?」
「彼を、連れてきて欲しい」
葉子はつ、と明美の肩に手を置いた。
「渡した肩掛けがあるね。それが縁になる。辿っておいで。二人で」
ごうと風が吹いた。
下から吹き上げるような風である。葉子の黒髪が、天に巻き上げられるように踊っている。 粉雪が渦を巻く。激しい風に、明美は思わず目をつむり、その一瞬、葉子の表情を見た。
葉子は微笑っていた。眉を寄せ、目を細めて、確かに微笑んでいた。まるでこの世界のあらゆる後悔を、一身に背負っているかのような。ひどく切ない笑みであった。
***
目を開けると、葉子の部屋にいた。明美はゆっくりと起き上がる。頬が痛い。畳に直に寝ていたのだ。きっと跡になっているだろう。
またあの夢を見た。
雪が降っている。土蔵の見える濡れ縁に、座っている。ただし、今回は明美ではなかった。綺麗な着物姿の女性が座っていて、確か、葉子が……。
そこまで考えて、明美は目を見開いた。
「葉子さん……?」
ちゃぶ台の向こう側。本棚に背を預けて、葉子は目を閉じていた。
「葉子さん!」
声をかける。
葉子は目覚めない。慌てて駆け寄ると、葉子の肩に手をかけた。
冷たい。まるで氷のようだ。
呼吸はある。寝息のような微かな呼吸音とともに、緩やかに体が上下している。ただ、その体が異様に冷え切っているのである。
何か、病気だろうか。救急車を呼んだ方がいいのだろうか。混乱し、真っ白になった頭に、葉子の言葉が過った。
――お願いしてもいいかな。
「お願い……」
弾かれたように、肩から手を離した。
先程の出来事は、夢ではなかったということか。
明美は唇を噛みしめる。
部屋の蛍光灯に照らされた葉子の顔は青白かった。力なく投げ出された手足は人形のようであった。
二人で、と彼女は言った。一人は明美だ。そしてもう一人は、言われなくても誰だか分かる。
明美は風呂敷包みを手に取った。横目で時計をみる。二十三時。ぎりぎりではあるが、電車はまだ動いている。
行こう。
聡に会わなければ。
木枯らしが、裸に近い木々の間を吹き抜けていく。吐く息もすっかり白い。限りなく冬に近い、晩秋の夜。
聡の家は、広かった。大きな門は内側に開かれ、外からでも中の様子がよく見える。右手側に白壁の古い倉。左手側に平屋造りの屋敷。庭を一望できるように作られた濡れ縁が、闇に輪郭を溶かしこんでいる。
――夢と、同じだ。
あの縁側に、女性が腰を下ろしていた。手に白い布を握りしめて。
両親には、葉子の部屋に泊まる、と伝えてあった。勉強を教えてもらうのだと嘘を吐き、教科書などを取りに行くふりをして、明美はこっそり連絡網をもち出すことに成功したのである。
明美は風呂敷包みを抱き、きゅうと抱きしめた。心臓が、鼓動を速めている。既に、深夜だ。抑えきれない黒い予感が、胸中に渦巻いている。
おそるおそる門を潜り、玉砂利に敷かれた飛び石を踏んだ。静かだ。動いている人の気配がない。
「ごめんください」
玄関の格子戸の外から、声をかけた。
返事はない。
聞こえなかったのかもしれない。それとも、寝入ってしまったのか。それもそうだ。明美だって普段であれば、この時間は布団の中にいる。
逡巡し、引き戸に手をかけると、鍵はかかっていなかった。門の事といい、不用心すぎるのではないだろうか。
ゆっくりと戸を引き開けて、明美はもう一度声をかける。
「夜分に失礼いたします。聡君のクラスメートの、笹原と申します」
広い三和土と、まっすぐに伸びた板張りの廊下に、明美の声が反響する。闇に沈んだ廊下。やはり人の気配はない。
「……笹原さん?」
ふいに声が聞こえ、明美は目を瞬かせた。
廊下の奥、凝った闇に溶け込むように、ぼんやりと白い輪郭が浮かびあがった。
「どうしたの!?」
そこに、聡がいた。
事情を説明しても、聡は笑わなかった。それどころか顔を引き締め、その色をやや青に染めながら、こう呟いたのである。
「そうか、君にも見えていたのか」
聡はつう、と首を抑えた。
案内されたのは、倉の中であった。分厚い扉を開け、入り口近くの紐を引くと、ぽちりと小さな明かりが灯る。
豆電球の頼りない光が、倉の内部をぼんやりと浮かび上がらせていた。むき出しの土には茣蓙、その上に古い道具類が無造作に積まれている。定期的に手を入れているのだろうか、随分と古い物なのに、埃をかぶっている様子はない。
聡は倉の中をゆっくりと歩く。
雑然とした、その倉の中で、中央だけがぽかりと空いていた。
「ここで、母が自殺した」
聡は立ち止まり、天を仰ぐ。倉の梁だ。太く黒光りするそれが、豆電球の光に濃い陰影を描いている。
「母は、父が亡くなってから気を病んでいたらしい」
あんまり覚えていないんだけどね、と聡は寂しそうに笑う。
「ぼくの父さんは、ぼくが生まれる直前で亡くなったんだって。母さんはそれでおかしくなっちゃったんだって、そう、祖母が言ってるのを聞いたことがある」
――そんな。
父も母も死に、先日祖母が死んだという。
では、聡はこの広い屋敷で、たった一人で暮らしているのだろうか。明美の強張った顔に気づいたのであろう、聡は目の端に笑みを浮かべた。
「うん。ぼくは今、一人だ。祖母が亡くなってからは、三日に一度、親戚が来てくれている」
明美は言葉が見つからない。
「母が死んでから。ぼくにはずっと呪いがかかっていた。白い布の呪いが」
「白い、布……」
聡は今にも泣きそうであった。手は小刻みに震えていた。
「きっと祖母にも見えていたんだと思う。布が……白い布が、目の端に移り込んで……だから、母はもしかしたらぼくを連れて行こうとしているのかと」
明美は思わず聡の手を握った。
「もしかしたら、ぼくも、母や、祖母のように……!」
聡は顔を歪める。
「大丈夫」
明美は思わず聡を抱き締める。
「そんなことには絶対にならない。あたしがさせない」
胸の奥から、ふつふつと熱い思いが沸き上がる。その思いのままに腕に力を込めた。風呂敷包みが床に落ち、ばさりと乾いた音を立てる。
「……植草くん、これ、何だか分かる?」
明美はそろそろと聡から体を離し、しゃがみ込むと風呂敷包みを手に取った。そっと結び目を解いていく。あの藍染めの肩掛けを取り出すと、空気がざわりと揺れた気がした。
開け放してあった倉の戸から、風が舞い込んだ。急速に空気が冷たくなっていく。これは冬の寒さではない。もっと危険な、季節とは全く無関係の、異様なまでの冷気であった。
すう、と聡の首元から布が伸びた。
それはゆっくりと、手拭いを握った明美の腕を這い、肩をなぞり、首元に絡みつく。
――ワタサナイ。
「笹原さん!」
明美は喘いだ。
聡の首から伸びた布が、明美の首を締め上げる。その明美の首からも、吹き出すように、布が伸びる。先端を五指に替え、首に、手に、腕に、布がぬらりと這い上がる。
「植草、く、ん」
明美の首から伸びた布が、聡の首に巻き付いた。二つの布は絡み合い、燃えるように、舐めるように、二人の体を包み込んでいく。
視界が白く染まっていく。
揺れる。落ちる。
藍染の肩掛けを握り締めていた明美の拳に、温かな手が重なった。そのまま強く握られる。目を開けているのか閉じているのかも分からない真っ白な世界の中で、その手の力強さだけが頼もしく感じられた。
聡だ。聡がそこにいる。
***
雪が降っていた。明美は瞠目する。粉雪のようであった。桜の花びらのような雪が、さらさらと舞う。大きな屋敷。玉砂利に敷かれた飛び石に、うっすらと降り積もった白が目に眩しい。
「……ここ、ぼくの家だ」
聡がぽつりとつぶやく。握り合っていた手をそうっと放し、聡は呆然と立ちすくんでいた。
「あ……」
雪の降る縁側、その火鉢の前に、女性が腰を下ろしている。結い上げた黒髪。握りしめた白いさらし布。
「母さん……?」
聡が目を見開いた。
「良かった」
背後からの声に明美が振り返ると、そこに、葉子がいた。彼女は微笑んでいた。困ったように眉を寄せ、小首を傾げて、目を細めていた。
「明美ちゃん、ありがとう」
葉子は眉を下げて、また笑う。
「聡くんだね。……よく似てる」
「似、てる?」
聡の問いに、葉子はなんでもないと言うように軽く首を振った。
「明美ちゃん、その肩掛けを」
言われるままに、葉子に藍染の肩掛けを渡す。彼女はそれを丁寧な手つきで受け取ると、すうと目を細めた。
縁側の女性は、つうと立ち上がると、ゆっくりと。一歩一歩、確かめる様に此方に向かって近づいてくる。その手に持った白い布が、ひらりと揺れた。
風が吹く。
雪片が舞う。
手を伸ばせば届く距離まで来ても、女性はこちらに気づかない。
美しい白皙の肌。
その額に生えた、小さな二本の角。
「八重さん」
ふわりと漂う沈丁花。葉子の香り。女性の足が、ひたりと止まった。
――ワタサナイ。
からくり人形のように、女性の顔がかくりと揺れた。
その目がぎこちなく動き、葉子を捕えた。琥珀色の瞳が、まるで染料を流し込んだかのように真紅に変わる。額の角がめきり、と鳴いた。
――ワタサナイ。
白く舞う雪が、もったりと間延びする。ゆるゆると伸ばし、曇天から降るそれは、もはや雪ではなかった。
布だ。白い布が、先端を五指に替えて降り注ぐ。
二人をかばうように、葉子が一歩、前にでる。聡は黙っていた。黙って、目の前の女性が変貌する様を見つめている。
口が裂けた。その赤い唇から、鋭い牙がぞろりと生える。結い上げた黒髪が解れ、墨を吸い取られるかのように、色味を失くしていく。白髪を振り乱し、牙をはやしたその姿は、まさしく鬼であった。
「かあ、さん」
聡が小さく呻いた。明美は聡の手を握りしめる。力を込めると、聡も、明美の掌を握り返す。
――ワタサナイ。
女性の首から、布が伸びた。それは一瞬、蛇が鎌首をもたげているかのようにゆらゆらと揺れて、そのまま。
一直線に、走った。
先端を五指に替え、空を切り、葉子へと伸びていく。
「葉子さん! 危ない!」
明美は叫ぶ。あれは良くないものだ。危険なものだ。
葉子は、そっと微笑んだ。
「八重さん」
葉子は眉を下げ、手渡した藍染の肩掛けを、天に放り投げた。
「連れてきましたよ」
藍の肩掛けが宙を舞う。その影から、ゆうらりと人が現れた。
男のようである。線の細い男性であった。優しげに細められた瞳。ぼさりと伸びた、茶色がかった髪。
――八重。
男は、そっと女性の名を口にした。柔らかな声であった。伸びていた布が止まる。勢いを失くし、地面にはさりと落ちていく。
「すまなかった、八重」
女性の真紅の目から、つうと涙が落ちた。
「八重……」
天から降る白布が、ゆうるりと青に染まっていく。青い青い布が舞う中、男はゆっくりと八重に近づいた。
「要、さん」
「八重、俺はずっと言えなかった。言ったらあんたがいなくなると思っていた。けど、こんなことになる前に言わなきゃいけなかったんだ」
「――要さん」
女性の、角が割れた。目に光が宿る。墨を吸い上げるように、髪の色が戻っていく。
「……雪の日の約束を覚えているか」
「……ええ」
「俺は、あんたを縛っていたかもしれない。けど、あの雪の日からずっと、八重のことだけが好きだった……」
八重の瞳から、ぼろりと涙がこぼれた。
「私も、ずっと――お慕い、しておりました……」
降り積る青布に包まれ、二人はしっかりと抱き合った。
耳に届くのは、不思議な旋律。これは葉子の声だ。葉子が歌っている。低く、高く響く歌声が、清涼な響きで空気を塗り替えていく。風が吹く。巻き上がる風は、青い布を巻き込んで、天高く昇って行く。
歌声に混じり、明美の耳に嗚咽が聞こえた。目が眩むような青の中、聡の両親の、幸せそうな笑顔がちらりと見えた。
隣で、聡が泣いていた。嗚咽を噛み殺し、必死に歯を食いしばって。
明美はそっと決意する。自分は、決してこの人を一人にしない。一秒たりともするものか。
そばにいる。自分だけは絶対に、この人を置いていったりはしない。
ゆるゆると、視界が青に染まっていく。その青に飲み込まれるように、明美はゆっくりと目を閉じた。
目を開けると、そこは元の倉の中であった。
ゆっくりと起き上がる。頬が痛い。茣蓙の上に直に寝ていたのだ。きっと跡になっているだろう。
明美はそっと頬を撫でる。開け放した倉の扉から、うっすらと明かりが差し込んでいた。吹き込む晩秋の風に、身を震わせる。
何が起こったのだろう。記憶を反芻し、明美は目を見開いた。
「植草くん」
倉の中央、ぽかりと開いたその場所に、聡が目を閉じて倒れていた。
「植草くん!」
駆け寄って抱き起すと、力の抜けた体がひくりと動いた。 ゆっくりと目を開ける聡の、琥珀色の瞳に色が戻っていく。
明美は安堵の息を吐いた。
「良かった」
「笹原さん……」
聡は震えていた。白い顔を更に白く染めて、顔を歪めていた。
「夢じゃないんだよね」
「――うん」
「母さんは、父さんも」
「うん」
「ぼくは」
「うん」
「ぼくだけが」
「あたしが、いる!」
思わず、叫んだ。聡がぴたり口を噤む。
「笹原さん……?」
「あたしがいる。あたしは植草くんを置いていかないし、一人にしない。約束する!」
「笹原さん……」
聡の体は冷え切っていた。少しでも温かくなるように、きつく、きつく腕に力を入れて、明美は聡を抱き寄せる。
白い雪の降りしきる中、天に上った青い布。聡の両親は報われたのだろうか。それは明美には分からない。けれど、腕の中で赤子のように泣く聡は、きっと傷ついたに違いないのだ。
聡の冷えた体が、徐々に温まっていく。二人でいよう。二人でいれば、きっと温かい。
頼りない朝の光が、倉の中に差し込んで線を描いた。
もう冬だ。
今日は雪になるのかもしれなかった。
***
「本当の事をいうとね」
明美はクリームソーダに浮かんだアイスクリームをスプーンでつついた。
「あたし、すごく腹が立ったの」
「ん?」
学校帰り。久しぶりに、こっそりと喫茶店に寄ったのである。
聡は珈琲を嗜んでいた。香ばしい香りが辺りに漂っている。
「だって、あの二人とも、植草くんのこと」
そこまで言って、明美は口をつぐんだ。
「ごめん、なんでもない」
流石に言えなかった。それでも、明美は苛立っていたのだ。
聡の両親は、それで幸せだったのかもしれない。でも、その息子の聡が一人残されたことには違いないのだ。
聡は微笑んだ。
「ううん。分かるよ。ぼくも、そう思ってた」
「ごめん」
「いいんだ」
聡は、目を細める。
「ありがとう」
「……え?」
「笹原さんが、僕のために怒っている。それだけでぼくは嬉しいんだ」
そう言って、聡はほうと息を吐いた。
「葉子さんにも、お礼を言いたかったんだけどね」
葉子はアパートを退居した。退居した、と、両親から聞かされた。親戚に不幸があって、すぐに郷里に帰らなければならない、とのことであった。
「葉子さんって、何者なんだろう」
「さあ。……でも」
聡は珈琲カップをかたりとおいた。
「すごく、素敵な人だったね」
明美もうなずいた。
何となく、明美には分かっていた。空っぽの202号室を見て、明美は思ったものだ。
もう二度と、葉子には会えない。あの不思議な麗人は、二度と自分たちの前に姿を現すことはないのだろう。
「ねえ、笹原さん、お願いがあるんだ」
改まった表情の聡に、明美はぱちりと目を瞬かせる。
「お願い?」
「ぼくにマフラー編んでくれない?」
「へっ!?」
「実は憧れてたんだ。彼女の手編みマフラー」
「え、え、え!?」
「だめ?」
明美は盛大に困惑する。今、彼は、何と言った?
明美の顔が一気に朱に染まる。
「あの、あのね、確認なんだけどね」
聞かなければと思っていたのだ。ずるずるとここまで来てしまったが、今が最後のチャンスである。
明美は深呼吸した。
「……あたしたちって、付き合ってる……の?」
聡は、瞠目した。
「え」
「え」
「あ、そうか、言ってなかったのか」
「聞いて、ない」
「あ……」
「うん」
「……あの、さ」
聡は顔を机に臥せた
その耳が赤く染まっているのを、明美は見逃さなかった。
「笹原さん、ぼくは」
冬だ。
雪が、桜の花のように舞う。
手を繋ぐ。首に巻かれた白いマフラーが、木枯らしに揺れている。
曇天から舞う雪を見て、明美は微笑んだ。
この手を、絶対に離さない。
もう一人にはしない。そう決めた。
幻想的な風景であった。
歩く。
歩く。
視界が白で埋め尽くされる
「ねえ明美ちゃん」
「うん」
交わされた約束。
それが、十年後に叶うことになるのを、まだ二人は知らなかった。
雪が、降っていた。
白い、白い、雪が。
彼女の絵は正に鏡であった。
高校二年生までの希美は、輝いていた。それは決して自己満足の領域ではなかったと記憶している。
幼い頃より、絵を描くのが好きであった。好きこそもののとはよく言ったもので、好きから得意に変わるのはそれほど遅いことではなかった。描けば描くほど上達し、上達すれば描きたくなった。楽しかった。思う線が描けたとき、思う色が出せたとき、希美はただひたすらに、喜び、はしゃぎ、そして満足した。
もっと描きたい。専門的に勉強したい。そんな思いが芽生えるのも当然であった。それで、中学卒業後、美術専攻のコースがある学校に進学したのである。
そこで、出会ったのが美由紀であった。
最初に席が隣になったこともあって、美由紀とはよく喋るようになった。彼女は、ほわりとしていて、危なっかしい。元来世話好きの希美が心を砕くようになるには対して時間はかからなかった。
「美由紀、ほら、ちゃっちゃと食べちゃってよ。もう移動しなきゃ」
「うん、ごめんねのんちゃん」
「ちょっとご飯粒落としてる」
「あっ」
「焦んなくていいよ。私、待ってるから」
「ありがとう。いつもごめんね」
ありがとう、ごめんね。彼女の使う二大用語は感謝と謝罪。何をするにもおっとりで、人より時間がかかるタイプ。謙虚で、呑気で、笑みを絶やさない、美由紀はそういう子であった。
「のんちゃんの絵はすごいなあ」
美由紀は希美の絵を見る度に、感嘆の息を吐く。
「本当に綺麗。わたしこんな色出せないもん」
「ありがと」
「うん、わたし、本当にのんちゃんの絵、好きだよ」
そう言って、彼女はにっこりと笑うのだ。
そんな美由紀の描く絵は、いっそ手抜きと言われてもいいくらいにシンプルなものであった。白いキャンバスの隅、あるいは真ん中に、描かれた四角形。
それは大きかったり、小さかったり、一つだけだったり、沢山連なっていたりしたが、いつも必ず四角であった。
当時希美は色を作ることに執心していて、キャンバスを色で埋め尽くすような絵ばかりを描いていたものだから、美由紀の絵のよさが全くと言っていいほど分からなかった。特に難しい技法を使うわけでもない。色もほとんど作らずに、既存の物だけで描いている。凡庸な、のっぺりとした、何の面白さもない絵。
「まだ終わらないの」
「うん……ちょっと」
「もう提出しないと。時間だよ」
「うん……」
課題で隣の席になった時、キャンバスを前にうんうん唸る彼女を見て、希美は笑った。
何を悩むことがあるのだろう。ただ四角を描けば、その課題は終わりだろうに。
最終学年になった時、希美と美由紀は同じコンクールに参加した。学生だけのコンクールだが、全国規模のもので、そこに入選するだけで大したものだと言われる大会であった。
「梶山さんなら、入選確実だと思うよ」
担任の教師もそう太鼓判を押してくれた。
「上位三名は大学推薦枠だから、まあ大丈夫だと思うけど、頑張ってね」
出品したものは希美にとっても自信作で、緑と青をふんだんに使った、宇宙をイメージした絵であった。我ながら良い色だ、と、希美は悦に入ったものだ。
入選は確実だと教師も言っている。もしかしたら金賞も狙えるのではないだろうか。そしたら大学にも推薦で入れるし、この賞を取れたら自分の名にも箔がつく。そしたら夢であった個展も開けるかもしれないし、大学に通いながら画家として名をあげることもできるのかもしれない。
胸をときめかせながら発表の会場に行き、そこで目にしたのは、金色の、大きな額に入れられた――美由紀の絵。
中央に、黒縁で描かれた四角。ただそれだけの作品。
『鏡』
一文字で描かれたタイトル。
その右横には、自分の絵が飾られていた。銀色の枠に入れられて、明らかに美由紀のものよりも、一歩下がった展示をされている。
状況を理解するのには、少々の時間を要した。つまり、美由紀のこの絵が金賞で、自分は銀だということだろうか。こんな、たかが四角を描いたものが金で、自分が銀……。
――いやあ、素晴らしい。
そんな声が耳に入った。ぎこちなく横を見る。品のよさそうな老夫婦が、しきりと頷きあっていた。
――銀の子のもいいが、わたしはこちらの方が好みだな。
まさか、美由紀の絵の事を言っているのだろうか。
自分の絵よりも、たったひとつの四角の方が評価されている。色だって、構図だって、自分の方がしっかり描いているのに、何故。
その後、作品の返送とともに、自作の評価が届いた。
『色遣いが素晴らしい』『構図が計算されている』『技巧派』など、きらきらしい誉め言葉が舞う評価であった。
それなのに、美由紀が金で自分は銀なのだ。
希美は、返ってきた絵と、その評価を、火にくべて燃やした。
立派な額に飾られた美由紀の絵が、頭から離れなかった。
時間をかけて、丁寧に、全力で取り組んできたつもりだ。構図も、色を作るのも努力した。今までで一番の自信作だったのだ。その自作よりも、たった一つの四角に自分は負けた。
いったい、彼女の絵の何が評価されたのだろう。自分と比べてどこが秀でているのだろう。技巧。色使い。構図。それが優れていたとしても、美由紀の四角には劣るのだ。それでは、もう、絵なんて勉強する意味がないではないか――。
話をいただいていた美術大学を蹴り、夜間の専門学校へ通うこととなった。元々あまり裕福な家庭ではなかったので、推薦を貰える大学を蹴ったことは希美の家庭にとっても大打撃だったようだ。そこを何とか、と、お願いして、夜間の学校ならと折れてもらったのである。
調理師の専門学校だ。ずっと絵ばかりを描いてきたので、その絵を失くした自分には、もう何も残らない。それならば手に職をつけよう。そう考えての事であった。
「のんちゃん」
卒業証書を持った彼女が言った。
「ねえ、嘘でしょ」
「なにが」
「大学、蹴ったの?」
「誰に聞いたの」
「ねえ、なんで?」
「一身上の都合、よ」
「そ、そっか……」
沈黙が重かった。美由紀は、そっと上目遣いで希美の様子を伺っている。そのおどおどとした態度が、希美の感情をどんどん逆撫でしていくのだ。黒い感情が、ふつふつと溜まっていく。
美由紀は何回か口を開け、閉じ、絞り出すように言葉を紡ぎ出した。
「でも、どこに行っても描くのは続けられるもんね! のんちゃんの絵ならどこでだって通用するよ」
「ねえ」
もう聞きたくなかった。
「わたし、のんちゃんの絵が」
「やめてくれない? そういうの」
今の自分は、きっと醜い顔をしているだろう。
「美由紀。私ね、あんたのそういうとこすごく嫌」
「え?」
「もう、顔も見たくない」
美由紀になんて、出会わなければ良かった。そしたら、絵筆を折ることもなかっただろう。
大きく見開かれた美由紀の目には、希美が映っていた。その自分の表情を、希美は一生忘れることはないだろう。衝撃、絶望、怒り、悲しみ、嫉妬、あらゆるマイナスの色を浮かべたその顔。
美由紀の瞳から、みるみる涙が盛り上がった。一粒零れる。その涙にも、希美の顔が映りこんでいた。大きく歪んでほたりと落ちる。
醜い。なんて醜いのだろう。
専門学校に入学してすぐ、希美はカフェでアルバイトを始めた。夜間の学校は、昼に働くことができるのが利点だ。少しでも働いて、学費の足しにしなければならない。これは両親と交わした約束のひとつでもあった。
そのカフェは、路地裏にひっそりと佇む隠れ家のような店で、メニューも豊富で味もいい。最大の特徴は、店内にアクアリウムが設置されていることだ。青い光で満ちた水槽の中を、カラフルな熱帯魚が優雅に泳いでいる。
このアクアリウムは、マスターの趣味なのだそうだ。
「業務に魚の世話もあるんだけど、大丈夫?」
面接の際に、マスターが、髭を撫でつけながら心配そうに言うのがおかしくて、希美は思わず笑ってしまったものだ。
グラスを磨きながら物思いに耽っていると、来店を告げる鐘の音。
「いらっしゃいませ」
女性だ。長身に、長い黒髪を靡かせた、二十代くらいの。細い体には、春風は寒く感じるのだろうか、革ジャケットを着こんでいるのが印象的だった。スキニーのジーパンに包まれた、すらりと伸びた形の良い足。
整った顔立ちに希美はハッとする。モデルか。少なくとも会社員ではないだろう。平日の昼だ。勤め人がふらふらするような時間ではない。では、学生か。いや、違う。歳は近いような気もするが、雰囲気が学生のそれではない。
彼女は物馴れた様子でカウンター席に腰掛ける。
お冷を出し、注文を取りに行くと、彼女は掠れた声で。
「いちごパフェ」
と、呟いた。
「マスター、いちごパフェ、ひとつ」
「あ、いつもの人か」
マスターは冷蔵庫から苺を取り出し、ほれぼれする手つきでカットを始めた。
綺麗な飾り切りだ。少しだけ果肉を残して細く切れ目を入れ、少しずつずらしながら盛り付けると、螺旋階段のようになる。希美も実習でやったことがあるのだが、思いのほか難しかった。特に熟した苺は潰れやすく、綺麗に切ろうとしてもなかなかうまくいかない。
「いつもの人?」
「そう、常連。べっぴんさんだよねえ」
話しながらマスターはパフェを仕上げていく。綺麗に完成したそれはまさに芸術品で、希美はほうと息を吐いた。
出来上がったパフェを持っていくと、その女性は顔を綻ばせた。その顔が心底喜んでいるようで、希美もつられて笑顔になる。
「失礼します」
希美が去ろうとした時であった。
「待って」
くいと服を引かれた。驚いて振り返ると、女性の真剣な瞳とかち合った。
「なんでしょう」
「鏡」
「……え?」
「鏡、に覚えがない?」
女性の、黒々と切れ上がった、涼しげな瞳に自分が映っている。
『鏡』
――美由紀の絵。
「……仕事中なので。失礼します」
失礼にならないように、その手を振りほどき、希美はその場を離れた。
バックヤードに戻ると、マスターが新聞を広げていた。一日中店に居ると言っていたから、チェックする時間がここしかないのだろう。
戻ってきた希美に、彼は人のよさそうな顔を緩めてこう言った。
「梶山さんは、今いくつだっけ」
「十八、ですけど」
「じゃあ、この子知ってる?」
「……え?」
「ほら、出身学校同じだよこの子。すごいねえ若いのに」
嫌な、予感がした。
マスターが喜色満面で差し出した新聞。
その芸術欄に、彼女が。美由紀が、いた。少しはにかんで映っているその隣に、彼女の絵。
四角い、四角い。
「ちょっと、すみません」
思わず駆け出した。
洗面所に飛び込んで、ひたすら嘔吐く。
若き逸材。
新進気鋭の。
四角に魅せられた。
見出しが、頭の中を木の葉のように舞った。ぐるりぐるりとそれは竜巻のようになり、黒く、黒く踊っている。この感情はなんだ。このどろどろとした。淀んだ感情は。
気持ち悪い。
何かがぐるぐると渦巻いている。
顔を上げた。
洗面所の鏡に希美が映る。
その顔が歪んだ。
顔の中央に黒影が渦巻いて、ぶすぶすと煙を上げている。
なんて顔をしているのだ。
醜い。
心配したマスターの計らいで、その日は早く上がらせてもらった。当然学校に行けるような精神ではない。休む旨を連絡し、帰宅することにする。
珍しく晴天であった。ここ数日は雨が降ったり止んだりで、じとりとしていた空気も今日で少しは乾くだろう。
桜並木の花はだいぶ落ちてしまったようだ。所々にできた水たまりをよけながら、希美は歩く。花の絨毯は湿り気を帯び、ねちょりと地面にこびりついていた。
茶色く変色した桜の花弁が、スニーカーに張り付く。
醜い。
足を蹴り上げた。どんなに蹴り上げても、その花弁は落ちなかった。無性に腹が立った。むしゃくしゃしながら希美は歩く。
びちゃり、びちゃり。
茶褐色の花弁をわざと踏むようにして、希美は歩く。歩道の中央に、大きな水たまりがあった。避けようとして、何の気なしに覗き込み――希美は、絶句する。
水たまりに映った希美の顔。その顔は、真っ黒く変色していた。吸い込まれるような黒さであった。
よく見ると、渦を巻いている。風呂場の栓を抜いたときのように、ゆるゆると巻いたそれは、どんどん勢いを増していく。
「あ……」
体が、動かない。
声が、出ない。
すり抜けた自転車が、不審そうにこちらを見た。
誰も気づかない。
黒い渦は激しさを増している。
駄目だ。
一歩、足が動いた。
ぱしゃり、と水たまりに波紋が広がる。
もう一歩。
ぱしゃり。
嫌だ。
吸い込まれる。
誰か。
――いやだ!
「駄目」
不意に腕を掴まれて、希美は大きくのけ反った。そのまま後ろ手に引かれ、とさりと抱き留められる。
視界の横に、黒絹のような髪が流れた。
ふわりと漂う、花の香り。
「良かった」
耳元で声。少し掠れた低めの。
振り返ったそこに、あの人がいた。
カウンター席に座っていた、いちごパフェの、綺麗な女性。
「良かった、間に合って」
そういって、彼女は、笑った。
ひどく慈愛に満ちた笑みであった。
「鏡は、良くないんだ」
公園のベンチに腰掛けて、その女性はぽつりと呟いた。
昼下がりの公園は、平和そのものであった。まだ小学校に上がる前くらいの子どもが、嬌声を上げて走り回っている。それを見守る母親たちの温かな視線に、凝った心が少しずつ溶けていくようであった。
「良くないって、どういうことですか」
「鏡は、映してしまうから。そして増幅してしまう」
「……え」
女性は、歌うように呟く。
「容赦がないね。こちらを全て映し出してしまうものだから」
「こちらを、全て……」
「隠しておきたいものも、心も、全部見えてしまう。厄介だよね」
希美は、俯いた。
鏡。
美由紀の絵。
あの絵を見たときに、希美は暴かれたのだ。傲慢、思い上がり、ほんの少しの蔑み。そして、嫉妬。そのことに希美は動揺した。
描いていれば、しあわせだった。楽しかったはずなのに。いつから自分は、誰かと比べるようになってしまったのだろうか。
「私」
「うん」
「私、本当は」
「うん」
「描きたい」
「うん」
「描きたい……」
思いが鈴なりになって降ってくる。もやりとした夢が醒めるように、視界が開いていく。
ぽつり、と雨が降った。さっきまで晴れていたはずなのに。天を仰いだ。いや、今も晴れている。燦々と降り注ぐ陽光に、雨がさらさらと輝いていた。
「狐が、嫁を迎えたのかな」
そういって彼女は笑い、小さく歌を口ずさむ。
どこか懐かしい、柔らかな響き。低く高く響く歌の言葉の意味までは分からない。けれど、胸の奥に温かな光が灯るような、優しい音をしていた。
「大丈夫」
彼女の黒の瞳が細められる。
ふわりと漂う、花の香り。
目を閉じだ。この香り、知っている。春告げの花、沈丁花の香り――。
そっと目を開くと。
もう、その女性はいなかった。
「……のんちゃん?」
電話越しの美由紀の声は、怯えていた。当たり前だ。あんな言葉を投げつけてきた相手である。電話越しでも怖いだろう。
希美は息を吸い込んだ。
「ごめんね」
息に声を乗せる。少し震えたかもしれない。
「え?」
「ごめん」
「どうしたの?」
「私、酷いこと言った。ごめん」
「のんちゃん」
「新聞、見たよ、おめでとう」
息を呑む気配がした。
挫けてはだめだ。美由紀に、きちんと謝らなければ。そうしないと、希美は戻ってこられない。
「私、あの時からずっと」
「うん」
「ずっと」
しっかりしろ。
自分に言い聞かせる。
「あんたに、嫉妬してた。……本当にごめん。謝って許されることじゃないけど」
「のんちゃん」
遮った声は、思いもよらぬ柔らかな響きであった。
「のんちゃんから電話くれたってことは、仲直り、していいんだよね」
「美由紀」
「のんちゃん、ありがとう」
希美は電話を握り締めた。心から、あらゆる温かな感情が溢れ出るようであった。
「美由紀、私、描きたい。また、描いても、いいかな」
「え!? 本当!? 良かった!」
「怒らないの?」
「なんで? 前も言ったよわたし! わたしね」
美由紀はそこで言葉を切った。そして、晴れやかな声でこう言ったのだ。
「のんちゃんの絵、好きなんだ!」
敵わない、美由紀には。
自然と流れる涙を拭って、希美は微笑んだ。
「いやぁ、梶山さんに頼んでよかったよ」
「本当ですか?」
「うん。想像以上。すごいよ。常連さんにも褒められたんだ」
マスターは、大きく頷いた。
壁一面、上から下までを使って描かれた、大きな絵。
青と緑の、宇宙の中に魚が沢山泳いでいる。その魚の呟く泡に、大きく描かれたメニューの名前が楽しそうに踊っている。
恐る恐る手を挙げてよかった。
店に壁画を描きたい、と言ったときは流石に驚いていたようだが、マスターは快諾してくれた。半月間、店を閉めての改装である。感謝してもし足りない。希美は頭が下がる一方であった。
「梶山さん、名刺、持ってないの?」
「え」
「常連さんの中にね、やっぱりお店をやってる人がいてね」
マスターは髭を撫でながらにやりと笑った。
「描いて欲しいそうだ。連絡先、教えてもいいかな」
それからというもの、希美の元には度々壁画の依頼が入るようになった。大きな物から小さな物まで、様々な仕事があったが、希美は来た物全てに、なるだけ答えるようにしている。
ありがたい。自分の絵を気に入ってくれている人がいる、そのことがとても嬉しかった。
調理師の学校も続けている。こちらも身を入れてみると、絵に通ずるところがちらほらあって、とても面白い。
「飾り切り、上手くなったなあ」
「え?」
苺を切っていた時に、マスターがほとりと呟いた。
「前はぐしゃぐしゃだったけれど」
「マスター、それいつの話ですか」
「うんうん、若いっていいねえ」
しきりに頷くマスターをじろりと睨み、希美はパフェを仕上げた。
少しだけ、苺を盛ってある。マスターには内緒だ。
相変わらずの姿でカウンターに座る彼女を見て、希美はほくそ笑む。あの人はきっと喜ぶだろう。この間も、嬉しそうに苺を頬張っていた。今度は生クリームもこっそり増量してみようか。
今度の日曜日は休みを取った。美由紀の個展があるのだという。学生の身分で個展が開けるのだから、流石美由紀、といったところだ。
「楽しみだなあ」
声に出していたらしい。それを聞いたマスターが、新聞を捲りながら笑った。
「若いって、いいねえ」
季節は二回目の春を迎えようとしていた。
希望の春であった。
見下ろしていたその人は、とても優しい、青い色をしていた。抜けるような青空。雲一つない晴天に、すっくと立っていたのである。
青の巨人。
緑が煙る山の向こう、その稜線から、唯の頭の上にまで。空に溶けるような色をして、手を四方に広げ覆いかぶさるように。
手にしたラムネ瓶を取り落とす。熱を伴う文月の風が、サイダーの甘い香りをくゆらせる。
なんて綺麗な人だろう。まるで、このラムネのようだ。しゅわりしゅわりと体の中に泡が大小立ち昇り、循環し、弾けては消えまた生まれ……。
「あれが、見えるんかい」
口をあんぐりと開けて見入っていた唯の頭を撫で回し、祖母は笑った。
唯の顔をじっくりと見て、祖母はくしゃりと顔を歪める。鼻先に掠める土のにおい。祖母の手のひらは大きく、がさがさとしていて、そして、とても温かかった。
「さすが、ばあちゃんの孫だ」
そう言って目を細めた祖母は。
もう、いない。
***
「唯、何やってんだ」
どうやら呆けていたようであった。兄が呆れたようにこちらを一瞥する。喪服の裾をぎゅうと握りしめ、唯は笑った。
「ごめん」
目尻に溜まった雫を拭う。
人間の骨というものは、とても愛おしいものでできているのだ、と唯は思った。幼い頃、あんなに大きく見えた祖母は、これ以上ないほど小さくなって、母の手の中に抱かれている。
火葬場から戻ると、ただでさえ寂しげな田舎の風景が。更にがらんと感じられた。家主の居なくなった家は何かが足りないのだと分かっているかのように、目を伏せているように、ひっそりと佇んでいる。
「唯」
目を瞬かせる。兄が、呆れた顔をして頭を小突いた。
「早く入れよ」
「うん」
唯は、開け放しになっていた玄関から座敷に上がった。
余所行きに整えられた、黒と白の幕に覆われた座敷。そこにはかつての思い出と、悲しみの色が混じってしまって、まるで知らない場所のようだ。線香の匂いに耐え切れず、大きく深呼吸をする。油断すると、また涙腺が緩んでしまいそうだ。
居るべき人が居ないということ。どうにもならないと分かっているけれど。やはり、まだ、つらい。
「おい」
声をかけられて振り向くと、丁度兄が玄関をくぐったところであった。
「唯は、どうする。俺は一度東京に戻るけど」
兄は、手に持っていたらしい車のキーをちゃらりと回した。
「うん……戻ってもいいんだけど」
会社員の兄と違って、自分は在宅の仕事をしている。パソコンも一応持ってきているし、こちらにいても、何の支障もない。
「もうちょっと、ここにいようかな」
「そうしてくれると助かるわ」
母が奥座敷から姿を現した。目が、まだ、赤い。随分と憔悴した様子だった。
「お母さんたち、一度戻らなきゃいけないんだけど。まだお別れを言いに来る人、いるかもしれないし……どうしようかってお父さんとも言っていたのよ」
母の後ろから、父がぬうと現れた。
「なに、親父たちも帰るの?」
「ああ。色々手続きがな……」
父はそう言って、そっと母の肩に手を置いた。
父母も、兄も、そして自分も、別の家に住んでいる。家を継ぐような親戚もいない。この家には祖母だけが住んでいたのだ。
そして、その祖母は、今はもう、いない。
手続きとは、そういったことなのだろう。
「それじゃ、残るよ。お母さんも、少し体を休めないと」
唯は無理やり笑顔を作った。
母には休息が必要である。祖母の遺体に取り縋り、号泣していた様子を思い出し、また、こみ上げてくるものを感じていた。
あんな、子どものような泣き方をする母を見たのは初めてだ。
「それじゃ、唯、あとは、頼んだわね」
「うん」
「線香は毎日あげるのよ。お水も取り替えて」
「分かってる」
「もし誰かが訪ねてきたら、必ず名前と住所を聞いてね」
「はいはい」
「夜は電気をつけておくこと。お別れの挨拶に来る人がいつ来てもいいようにね」
「分かった」
「何かあったらすぐに連絡してね。携帯はつながるようにしておくから」
母はまるで、自分が子どもの頃のように、再三注意を促した。
二台の車が坂道を下っていく。車を見送りながら、少しだけ心もとない気分になる。
唯は振り返り、家に向き直った。
平屋造りの一軒家、その広い前庭はまるでジャングルのようで、見知らぬ生き物や植物が生い茂る、魔女の庭のようであった。
幼い頃は、よくここで虫取りをした。大小のバッタ、キリギリス。アブラゼミや、ツクツクホウシ。夜には近くの川から蛍が飛んできたりもした。草の蔓を使った、引っ張り相撲。ホトケノザの蜜の味。
教えてくれたのは祖母である。
あれは美味いぞ。
これは食うな。
この虫は跳ねるぞ、そら、あっちへ行った。
祖母の声を思い出して、唯は思わず天を仰いだ。
空は、青かった。あの思い出そのままに、キラキラと輝いていた。
かつて見た。山の稜線。その上から覆い被さるように手を広げていた青の巨人。まるで自分たちを守るかのように、大きな手を広げて、空いっぱいに広がっていたのに。
抜けるように青い空を見上げても、どんなに目をこらしても。
そこにあの巨人はいなかった。
「だいだらほうし」
祖母は、そう言って、空を仰いだものだ。
青い人が見える。そう告げたとき、信じてくれたのは祖母だけであった。兄も、父母も、そんなものは見えないと首を振った。
見えると告げた日から、祖母は唯に色々なことを教えてくれたものだ。
青い人が、『だいだらほうし』という名であること。
自分たちを昔から見守ってくれているということ。
それから。
「ゆんは、自分がいんだらどうなるか、知ってるんかい?」
「いんだら……?」
「死んだら」
やはり、夏の日であった。
道路に横たわった猫。
車に轢かれたようで、下半身が潰れていた。それでもまだ辛うじて息があったらしく、近付いた唯に向かって、小さく鳴いた。
そして、二、三度体を震わせ、事切れた。
手当てをすることもかなわず失われた命に、唯はしばし呆然とし、そして、泣いた。
庭に埋葬し、墓標を立ててくれたのは、祖母であった。傍らで泣きじゃくる唯の頭をぽんと叩き、それで、あの言葉を口にしたのである。
自分の死後。それは、幼い唯には難しい質問であった。考えても、分からない。死んだあと、自分はどうなってしまうのだろう。
祖母はくしゃりと笑って、唯の髪の毛を掻きまわした。
「ばあちゃんも、ゆんも、この猫もな。いんだあとは、だいだらほうしの中に行くんよ」
そう言って、祖母は天を仰ぐ。
しゅわしゅわと、泡を立ち昇らせた大きな人は、相変わらずそこにいた。手を四方に広げ、傘のように、唯と祖母を見下ろしていた。
「だいだらほうしには、じいちゃんもいる。この猫もいるし、ばあちゃんもな……」
「やだ」
唯は思わず祖母にしがみつく。そうしないと、今すぐにでもそこに行ってしまいそうに思えたのだ。
「ゆんはやさしいんなぁ」
祖母の大きな手が、また、唯の頭をそっと撫でた。
「この猫は可哀想だったけんど、ゆんが泣いてくれたからなあ。きっと今頃、だいだらほうしの中でにこにこしてらあ」
唯は、祖母に益々抱きつく。
「ゆん」
祖母の声は優しかった。
「ゆんがだいだらほうしが見えるって知ったときなあ、ばあちゃんは嬉しかったんよ」
「……どうして?」
祖母は、その問いには答えなかった。ただ黙って、唯の頭を撫でている。
「なあ、ゆん」
「なあに?」
「お願いがあるんよ。ゆん」
「なあに、ばあちゃん」
「もしばあちゃんがいんだらなあ。そんときは」
――そんときは。
そのあと、祖母は何と言っただろう。
家に戻ると、線香の匂いが鼻を突く。
東京に引っ越した唯は、滅多にこの家に来ることはなくなっていた。
成功してからは尚の事、忙しさを理由にほとんど帰らなかった。けれど、心のどこかで、この場所は桃源郷のような気がしていたものだ。
決して、色あせない場所。
ここに来れば、変わらぬ風景があって、いつも、祖母が迎え入れてくれるものだと、そう思っていたのだ。
馬鹿な話だ。
がらんどうになった田舎の家は、記憶の物よりもずいぶん広い。管理者のいなくなったこの家は、どうなってしまうのだろう。
つん、とこみ上げる気持ちに気づかないようにして、居間の隅に立てかけられていた、こたつ机を引き出した。
鞄からパソコンと、資料の一式を取り出して、机の上に置く。
電源を入れた。
「ああ、やっぱり」
一人ごちる。
メールが入っていた。仕事の、催促のものだ。開かなくても分かるそれを、唯はそっと非表示にする。
唯が、児童文学の作家になれたのは、ただの偶然である。
昔から見えていた、あらゆることを、唯はよく記録した。
見上げれば見上げるほど、大きくなる巨人。足の先を駆け抜けていく、犬のようなもの。電柱の下にうずくまる、青い坊主。神社に現れた火を纏う男や、けらけらと笑う女性の姿……。
なるべく詳細に、丁寧に記録して、それを本にして楽しむのが、唯の趣味であった。
祖母に見せると、祖母はいつも手を打って喜んだものだ。
「すごいんなあ」
祖母はにこにこ笑って、唯の頭を撫でる。
「ゆんのおかげで、きっとみんな喜んでる」
「そうかな」
「そうさ」
心底嬉しい、といった風情で、祖母は笑った。
「みいんな見えんくなっていく。そんなかで、ゆんはみんなが見えんものを書いて、みいんなに見てもらうことができるんな」
「それって、すごいことなの?」
「すごいんよ。ゆん、もっと自信を持ってええ。ゆんはな、見えんものに、命を与えてるってことなんよ」
首を捻った唯に、祖母は笑いかける。
「見えんものは、見えるようになってはじめて命を持つんよ。だから、ゆん、沢山書き。書いて、みいんなに見てもらえ」
その言葉に後押しされたのかもしれない。
自分だけで楽しむだけでなく、誰かに読んでもらいたくなった。
お試し気分で、公募に出した。賞を取ろうとか、そういう野望はなかった。ただ誰かに読んでもらいたい。けれど、どうすればいいか分からない。それで、目に付いた雑誌の適当な欄に記載してあった、公募、の文字に引かれたのである。
だから、大きな賞をもらったときは、正直面食らったというのが事実であった。
「今、流行ってるんすよ!」
担当だと紹介された青年は、顔を真っ赤にしてこう言った。
「こういうの。あやかしものっていうんでしょうかね。いいっすねー! 夢があって」
「夢、ですか」
「ええ。今の子供に足りないのは、こういったファンタジー要素のものだと僕は思っているんです!」
まだ若い、その担当は息を荒くする。
「特に、本郷さんのやつはすごくリアリティがあって、でもどこか非現実的で、今の流行りにばっちり、合います! くーっ、これは売れますよ!」
その言葉の通りになるなんて、当時の唯は思いもしなかった。
一作目が当たり、二作目の話が舞い込んだ。それも当たれば、そこからはとんとん拍子である。あれよあれよと唯のもとに、仕事が舞い込むようになった。
けど、今は。
手にした資料を一瞥し、唯は溜め息を吐いた。
「ばあちゃん、わたし、どうしたらいい?」
居間の奥にちょこなんと置かれた白木の箱。小さい骨になった祖母が今の唯を見たら、どう思うのだろう。
――いけない。
唯は堅く目をつむる。瞼の奥で、赤や黄色の光がはじける。
夢なんかじゃない。リアリティがあって当たり前だ、
だって、自分には見えていたのだ。それをただ、書けばいいだけであった。
でも、今は、それができない。
とんとん、と、音が聞こえた、ような気がした。
唯は目をこする。
いつの間にか、眠ってしまっていたようである。腕時計を見ると、もう夜の十二時になろうかというところであった。
家の中は暗い。電気もつけずにうたた寝とは、自分も疲れがたまっていたのであろう。
立ち上がり、電気の紐に手を伸ばした、そのときである。
とん、と、また。
聞こえた。
どうやら、来訪者のようだ。
唯は身構える。
すでに深夜だ。
弔問客だろうか。にしては、時間がおかしい。人の家を訪ねるには遅すぎる。
それとも、こういう田舎では、この時間の弔問でも普通のことなのだろうか。
そう言えば、母にもそう言われていたような気がする。
ゆっくりと、玄関に近付いた。
土間に降りる。玄関は曇り硝子の引き戸である。
その奥に、誰かが、いた。白い手の甲が、もう一度、引き戸を打ち鳴らしている。
「……はい?」
意を決して、声をかけた。
「こんばんは」
低く、かすれた声。あからさまにほっとしたような、安堵の響きを帯びている。
女性のようであった。唯は幾分安心する。いくら治安のいい田舎とはいえ、この時間に家にあげるには、同性の方がいい。
土間の明かりをつけ、引き戸を開けた。
そこにいたのは、思った以上に若い、綺麗な女性の人であった。
葉子、と名乗った女性は、白木の箱の前にきっちりと正座をした。丁寧にお辞儀をし、お焼香をする。
唯は一歩下がり、その後ろ姿を見つめていた。
明かりの下で見ても、美しい人である。
長い黒髪。体にぴったりとした、黒い礼服。その黒と相まって、肌の白さが際だっている。
丁寧な手つきであった。ひとつひとつを噛みしめるように、葉子は死者に挨拶をする。
「……美智」
葉子が、親しげに祖母の名を呼んだ。
「美智、今まで、ありがとう」
涙混じりの声である。微かに聞こえるのは、嗚咽であろうか。
聞いている方も、胸が締め付けられるような声であった。
引き戸の先にいた、予想外の麗人を前にして、唯は首を傾げたものだ。
彼女は、随分と若いように見える。おそらく、自分の五つ、六つは下であろう。もしかしたらまだ学生なのかもしれない。
だから、最初は義務での訪問かと思ったのだ。
誰かの代理か、それか、なにか役所の関係で、弔問せざるを得ない立場の人か……。
けれど、彼女の所作は丁寧である。義務感は感じられない。心の底から祖母の死を悼み、悲しみを覚えているように見えた。
「ありがとう」
お焼香がすむと、葉子は目尻をハンカチで拭い、赤くなった目を細めて、改めて、と言った風情でお礼をのべた。
「どうぞ」
唯は用意のお茶をグラスに入れて差し出した。冷えた緑茶である。暑い中、弔問に訪れる人用に、と、昼に用意していたものだ。
もう一度お礼を言って、葉子はそれを受け取った。冷やしていたためであろう、グラスに付着した水滴が、ほたり、と葉子の黒服に吸い込まれていった。
唯は、しまった、と心の中で呟く。何か、コースターなどを準備するべきだったか。それとも一度、グラスを拭いてから渡せばよかったのか。
こういった形での弔問を受けるのは、初めてであった。作法も何も分からない。
「君は、お孫さんの……?」
「ええ」
「美智に、よく似ている」
「そうでしょうか」
「うん、そっくりだ」
落ちた雫を拭こうともせず、葉子は唯に微笑みかけた。どうやら、彼女は細かいことにあまり頓着しないタイプのようである。
「あの、失礼ですが」
唯は思い切って、声をかける。
「祖母とは、どちらで」
「え?」
「ああ、いえ、住所を、お聞きしてもよろしいでしょうか? のちほどお礼をと思いまして。その……」
嘘ではない。
母からも、名前と住所を聞くようにと厳命されている。
しかし、それ以上に、興味があった。祖母は、この人と、いったいどういうところで知り合ったのであろうか。
「美智は、私の友人なんだ」
「友人……?」
「そう。長いつきあいだった」
葉子は、グラスの縁を、つ、となぞった。そのままそっと口をつけ、美味しそうに喉に流し込む。
「何か、役場の行事かなにかで」
祖母はほとんど自給自足の生活を送っていたことは知っていた。だから、なにかそういう、村関係の知り合いであるのだろうか。以前は農業体験などで、役所に協力したこともあったと聞いているし、もしかしたら、そういったボランティアなどで知り合ったのかもしれない。
葉子はグラスを机に置くと、首を静かに振って顔を上げた。切なげに眉をよせ、祖母の遺影を見つめている。
唯も、同じようにする。
遺影の中の祖母は、しわしわの顔を更にしわくちゃにして笑っていた。その祖母と、目の前の人が友人であるという。
どうにも解せない。
「それ……」
つ、と葉子が小首を傾げた。
視線の先を追って、唯はああ、と頷いた。パソコンと資料を出しっぱなしにしていたのを忘れていたのである。
「すみません、散らかっていて」
「いや。……そうか、美智が言っていた。君が、作家の」
瞬間、顔に血が集まるのを感じた。祖母は、いったいこの人に何を言ったかは知らないが、大体想像がつく。
「読んだよ。どの話も、面白かった。君は妖怪が好きなんだね」
「……ええ、まあ」
やめてほしい。特に今、この話題には触れてほしくない。
きっと祖母は、この麗人に自慢げに話したのだろう。孫が作家であるということを、近所の人にも言っていたのを、唯は知っている。きっとそのパターンだ。
前は、それが誇らしいと思っていた。
でも、今は。
唯の表情に、何を思ったのであろうか。葉子はそっと目を細め、唯をじいっと見つめている。
柔らかな表情である。黒々とした瞳に、唯の顔が写り込んでいる。
どきりとした。
「君のことは、美智からよく聞いていたよ」
そう言って、葉子は微笑む。
「見える、と。そう言って、私に嬉しそうに報告してきたんだ。見えた物を書いているのだと。立派な仕事だと、君のことをほめていた」
「え」
耳を疑った。
見える、と。
まさか、話したというのか、祖母が、この女性に。
「待ってください。……見えるって、何が」
「君が見てきたものは、美智にも見えていた。そして、私も」
余程、驚いた顔をしていたのだろう。葉子は唯の顔をまじまじと見て、ややあって、くすりと笑みを零す。
「ねえ、美智と私が、同じ時代を生きていた。って言ったら、信じる?」
笑いながら、ことりと首を傾げて、葉子はそう言った。
「同じ、時代?」
「そう。美智と私は、この村で、同じ学校に通って、同じように暮らして……」
「ちょ、っと待って」
唯は混乱する頭を抱えた。
「あの、あなた、だって、まだ若いですよね?」
祖母は少なくとも、八十は越えていたはずだ。その祖母と、学生のような風貌のこの女性が、同じ学校に通っていただなんて、そんなはずがない。
「うん、だから、信じる? って聞いたんだ」
この人は、どこかおかしいのかもしれない。唯がそう思ったのも、無理はないだろう。
――どうしよう。
母に連絡するべきか。でも、こんなことで連絡しても。
「唯さん」
突然名を呼ばれる。唯は目を瞬かせた。自分は、この人に名を名乗ったであろうか。
葉子は、もう一度、首を傾げ、そして、こう言った。
「今も、見える?」
「え?」
「……だいだらほうし」
唯は、目を見開いた。
祖母の思い出は、いつだって夏に起因する。
それは、唯が夏休みを利用してこの家に来ていたからなのかもしれない。
燦々と照りつける太陽。
白くまばゆい、陽の当たる縁側と、家の暗さ。光と影のコントラストに目がくらむ。
「昔はみいんな知ってたんになあ」
縁側で、サヤエンドウの筋をとりながら、祖母はそう呟いたものだ。
「だいだらほうし。今はみいんな見えんようになった」
「見えないの?」
「そうさ。ゆんのお父さんもお母さんも見えん。兄ちゃんもそう」
「でも、わたしは見えるよ」
「そう。だから、ばあちゃんはうれしい」
祖母は目を細めた。
「昔はみいんな知ってた。だいだらほうしがいることも、ほれ、あいつも」
そう言って、祖母はサヤエンドウの筋を庭の片隅に放り投げる。
ちい、と小さく声が聞こえ、茂みがガサガサと音を立てる。
「今のは?」
「家鳴り」
「家鳴り?」
「そう。なあんもないときに、家がぎしぎし言うときがあるんよ。あれはみいんな家鳴りのしわざ」
「悪いものなの?」
「いいや」
祖母は首を振る。
「いいも悪いもないん。家鳴りは、そういうものってだけ」
唯は首を傾げた。
家がぎしぎし鳴るのは、怖い。それに、その家鳴りのせいで、もし家が倒れたら困るではないか。そう訴えたら、祖母はくしゃりと笑ったものだ。
「ゆん、覚えておきな。この世には、いいも悪いもいっさい、ないんよ。あるんは、人様の都合だけ」
祖母はいつもそうであった。
唯の見える不思議な物を、決して悪くは言わなかった。
「なあ、ゆん、もしなあ」
祖母の話し方はいつもゆったりと、耳に優しく響く。
「もし、ばあちゃんが、いんだら……」
青の巨人が、見下ろしていた。
とても優しい、青い色。抜けるような青空。雲一つない晴天に、すっくと立っている。
緑が煙る山の向こう、その稜線から、唯の頭の上にまで。空に溶けるような色をして、手を四方に広げ覆いかぶさるように……。
時計の秒針が時を刻む音が、やけに大きく聞こえる。
唯は小さく喘いだ。
今、目の前の人は、なんと言った?
今も見える、と聞いた。
何故知っているのだろうか、唯が見えなくなったことを。
目の前の麗人は、姿勢を崩さない。背筋を伸ばして、唯を見つめている。
その瞳が、ふいに和らいだ。
「いい顔してるね、美智」
どうやら、遺影のことのようである。唯は頷いた。
「……これ、わたしが撮った写真なんです」
懐かしい。
あれは、確か自分の本が初めて手元に届いたとき。真っ先に報告したのが祖母であった。
――ゆん、おめでとう。
祖母は、目に涙をためて、そう言った。
「すごいんなあ。ゆん、本当におめでとう」
「ばあちゃん、ありがとう」
「な、写真、撮ってくれんか」
「え?」
「この本といっしょに」
「なんで」
「なんでも」
「まあ……いいけど」
承諾すると、祖母は心底嬉しいと言った顔で笑った。
そのときに撮った写真が、あまりにも幸せそうだったので、唯も誇らしく思ったものだ。
「ほら、見てみい」
祖母が、空に手を伸ばす。そこにはあの、青い巨人。
「ゆんは、こんなに立派な仕事をしてるんよ」
「やめて、ばあちゃん。恥ずかしい」
「何が恥ずかしいもんか。ゆんはすごい。すごいことをしてるんよ」
誇らしげに笑う、祖母の顔。
「なあ、ゆん、もしな、もしばあちゃんがいんだら」
あのときはまだ、見えていた。青い巨人。祖母と一緒に見上げて……。
――立派なんかじゃないよ、ばあちゃん。
唯は心の中で呟く。
結局自分は、自分に見える物しか書けない。
だから、見えなくなったらそれで終わりだ。
「ねえ唯さん」
葉子がことりと首を傾げる。
「いつから」
「……え?」
「見えなくなったの。だいだらほうし」
どきりとする。
この人は、自分の心が読めるのではないだろうか。
――ばあちゃん、長く、生きすぎた。
覚悟をしてほしい、と、医師に言われたときには、祖母の意識は既になかった。
年寄りの一人暮らしで、訪ねる人もほとんどいない。だから、気づくのが遅れたのだと、救急隊からは連絡を受けた。
「数日前から風邪を引いたと言っていたそうです。近所の方が医者に行くように薦めたとのことだったのですが」
年輩の医師は、眉を寄せながらそう言った。
「夏ですから。この時期は、体力のない老人はどうしても。……残念ですが」
母も、父も、兄も、大急ぎで向かっていると聞いた。
自分が間に合ったのは偶然だ。
たまたま自由業で、たまたま仕事がない時期で。そんな状況であったから、時間の都合がつきやすかっただけ。
白いベッドの上の祖母は、随分と小さく見えた。
体中に繋がれたチューブが痛々しい。
枕元に近寄った。
大きな窓からは、日の光が射し込んでいる。
抜けるような青空に、もくもくと入道雲が湧いている。
祖母は、意識がないようであった。呼吸器の人工的な音。規則正しい機械音を聞きながら、唯は。
手を、握ったのである。
「ばあちゃん」
声をかけた。
反応はない。
「ばあちゃん、やだよ」
唯は握りしめた手に力を込めた。そのとき、うっすらと聞こえたのである。
――だいだら、ほうし。
祖母の声。
慌てて顔を見やる。うっすらとだが、祖母の目は開いていた。
「ばあちゃん!」
――ようやく、あっちに行けるんなあ。
「何言ってるの、ばあちゃん」
早く、医者を呼ばなければ。
ナースコールに手をかけた、その手を、祖母がつかんだ。
驚くほど強い力であった。
――ゆん。
――ばあちゃん、長く生きすぎた。
「……え?」
ふと、視界が陰った。
窓の外いっぱいに、青が広がっている。
「だいだら、ほうし」
青の巨人が、その大きな手を広げて、どんどん近付いてくるのである。
「やめて」
呟いた。
――いんだあとは、だいだらほうしの中に……。
あの巨人は、きっと祖母を迎えにきたにちがいない。あの大きな手で祖母の魂を持って行ってしまうのだ。
「やめて!」
――ゆん、ばあちゃんが、いんだらな。
何度も言っていた。祖母の言葉。
夏の日の縁側で。
事切れた猫の傍で。
――もし、ばあちゃんがいんだらな、ゆん。書いてくれんか。
――書く?
――そう。あのだいだらほうしに、ばあちゃんがいる、って。書いてほしい。
「いやだ」
あんなもの、見たくない。自分には見えない。
だいだらほうしなんて嘘っぱちだ。そんなものはこの世に存在しないのだ。
だから、祖母は死んだりなんかしない。
するものか……。
唯は愕然とする。
思わず喉に手を当てた。
もしかして。
あれから、なのだろうか。
記憶を反芻する。
確かに、そうだ。あのとき、見えた。だいだらほうし。それを唯は否定した。
自分から、拒否をしたその日から、唯は見えなくなってしまった。
「君は、優しいね」
葉子は静かに微笑んでいる。黒々とした瞳が、ゆったりと細められている。
「……美智は、公平な人だった」
そう言って、葉子は再び遺影を見上げた。
「決して否定することもなく、悪だと決めつけることもない。本当にすばらしい人だったんだ。だから、私のことも、美智は受け入れてくれたんだろう」
確かに、祖母は公平な人であった。唯の見えていたものを一切否定もしなければ、悪いものだとも決めつけなかった。
改めて、唯は葉子を見る。
綺麗な人だ。やはり若い。この人が、祖母と同じ時を過ごしていたなど、とてもではないが信じられない。けれど、と唯は思い直す。
きっと、この世にはそういうことがあるのではないだろうか。自分にだいだらほうしが見え、他の人には見えなかったように。
「葉子さん」
初めて、名前を呼んだ。
「改めて、ありがとうございました。葉子さんに会えて……祖母もきっと、喜んでいると思います」
葉子は驚いたように目を見開き、ややあって、花が綻ぶように、微笑んだ。
玄関の引き戸を開けると、外は、夏の夜とは思えない涼しさである。降るような虫の鳴き声。木々のざわめき。ほんの少し湿った香りは、土の匂いだろう。
月が出ていた。
細い三日月だ。頼りない月光と、それが霞むくらいの満天の星空。
「あの、本当に、これから帰るんですか?」
既に真夜中と言っていい時間だ。
葉子は、これから麓の町まで降りるのだという話であった。
この時間なので、泊まっていってもらおうと提案したのだが、一蹴されてしまったのである。それで、せめて見送りだけでもと思ったのだが、それも断られてしまった。
それでも、この家から麓町まで、歩けばゆうに一時間以上はかかる。しかもこんな夜だ。さすがに危ないのではないだろうか。
唯が、そう声をかけようとしたときのことである。
「ほら」
葉子が、つ、と上を見上げた。
満天の星空。月が細々と輝く。
その奥の、黒々とした山の稜線に、あの巨人が立っていた。
青の巨人。
とても優しい、青い色。降るような星空を背負い、大きな手を広げて。
「だいだら、ほうし……」
喉の奥から、熱いものがこみ上げてくる。耐えきれずに、嗚咽を零す。
葉子も、同じものを見ていた。大きな巨人に、まるで祈りを捧げるように。その瞳に浮かんでいるのは、唯と同じものであった。
「……わたし、あなたのことも、書きます」
口から出た言葉に、唯は自分でも驚いた。
――そうすればな。
「そうすれば」
――ずっと、一緒に。
「ずっと一緒ですから」
記憶が、唯の脳内によみがえる。夏の日。縁側に腰掛けて、祖母はこう言ったのではなかっただろうか。
「もし、ばあちゃんがいんだらな、ゆん。書いてくれんか」
「書く?」
「そう。あのだいだらほうしに、ばあちゃんがいる、って」
「……どうして?」
「そうすれば、ばあちゃんは本当に、だいだらほうしと一緒にいれるんよ。だいだらほうしや、先にいんだみいんなと、ずっと一緒にいられるんよ。だから、な、ゆん」
――書いてくれんか、ゆん……。
葉子は大きく目を見開くと、眉を下げる。
そのまま唯に一礼すると、ゆっくりと踵を返した。
唯の耳に、小さく声が届く。歌だ。葉子が歌っている。
不思議な旋律であった。高く、低く響く旋律。どこかで聞いたことのあるような、懐かしい響き
やがてその姿はゆっくりと、闇に飲まれて消える。
のちの、静寂。
虫の声。
風の音。
見上げれば、そこには青色の巨人。
「ばあちゃん」
唯は天に手を伸ばす。
「見ててね」
書店に並んだ新刊を前に、唯は顔を綻ばせる。
我ながら、よい作品がかけたと思う。
題材は勿論、青の巨人と、そして。
「いやあ、いいですよねえ!」
喜色満面でそういったのは、担当である。
今まで連絡をしなかったことを詫びたときも、彼は朗らかにこう言ったものだ。
「いいんっすよ! 作家にはそういうことがあるって、僕、聞いてましたから!」
あまりにもあっけらかんとした様子に、唯は面食らった。
「でも、迷惑かけたでしょう」
「いいんっす! それも含めての担当っす。それに、あれっすよね。充電ってやつっすよね! それでこういう作品書いてくれるなら、僕的には全然オッケーなんで!」
彼は朗らかに笑った。
「いや、ほんと、いいっすよこれ! この巨人もなんですが。なにより少女の友情物語……。時を越えて再び出会う! 片方は老人で、片方は少女で……いいっすね、くーっ!」
反応が大げさだ。
唯は思わず苦笑する。
「今こう言うの、流行りなんですよ、時をかけちゃって出会っちゃう系! 運命の出会い!しかもあやかしもので! いいっすね、これ、売れますよ!」
その言葉通り、新しい作品の評判は上々であった。それで、サイン会を、と頼まれたのである。
都内の大きな書店のバックヤードに通される。さすがに、緊張した。こんなに大々的なイベントに出るのは初めてだ。
「本郷さん!」
大張り切りであちこちを走り回っていた担当が、嬉しそうに声を挙げた。
「見てください、これ!」
今まさに届いたのであろう大きな花束を抱え、彼は顔を真っ赤にしながら力説する。
「あの、植草先生からですよ! すごい、大御所からこんな花束! 手紙まで! くーっ、すごい! これはもう、イベント大成功間違いなし!」
驚いた。
名前は勿論知っている。超大御所の作家大先生だ。こんなぽっと出の、しかも児童文学作家に個人的に花を贈るような立場の人間ではない。
「今度対談しませんか、ですって! うわーっ! もう本郷さん、これ、来るとこまで来ちゃってます!」
担当の狼狽ぶりに、今度こそ、唯は、破顔した。
見下ろしていたその人は、とても優しい、青い色をしていた。抜けるような青空。雲一つない晴天に、すっくと立っている。
祖母の家は、唯が住むことになった。もともと気楽な自由業だ。書くことさえできれば、それでいい。だったら、もう、ここに住んでしまおうと考えたのである。
今度、くだんの作家先生と対談をすることになった。
先んじて電話をもらった。実際に話してみると、大御所というわりには砕けた話し方で、唯はほっとしたものだ。
「実はね、これ、内緒なんだけれど」
ある程度日程を決めて、それでは、と電話を置こうとした時であった。こっそりと、内緒話という体で、彼はこう言ったのである。
「あの話に出てくる、この、葉子、という少女だけれど。多分、ぼくも知っているよ」
窓の外は晴天。
見上げれば、青の巨人。
緑が煙る山の向こう、その稜線から、唯の頭の上にまで。空に溶けるような色をして、手を四方に広げ覆いかぶさるように。
「ばあちゃん」
唯は、小さく呟いた。
「見ててね」
だいだらほうしが、手を伸ばす。
優しい色をした、青い巨人は。
今も変わらずに、空いっぱいに、広がっている。
見渡す限りの白であった。
古い町並みである。昨晩降った雪は道を覆い隠し、屋根も綿帽子をかぶっているかのようであった。その白とは対照的な、抜けるような蒼天が眩しい。まだ気温も上がりきっていないからだろうか、道のぬかるみが少ないことが幸いである。
降雪の後は、普段よりも音が耳に残りやすい。ほた、ほた、と歩く雪の道。その足音にはた、はた、ともうひとつ、足音が重なり耳に届く。
「八重」
要は妻に声をかける。この妻は、決して夫の前に出ない。それは、普段の生活もそうであるし、こうやって歩いているときもそうだ。必ず三歩下がり、自分の後をついてくる。
「大丈夫か」
立ち止まり、やはり遅れて歩く妻を見る。ただでさえ身重の身体だ。雪の道を歩かせるのは心配であった。
八重は問いには答えなかった。いつものことなので、要は気にせず話しかける。
「体が冷えただろう。もうすぐ家だ、辛抱してくれ」
親戚筋の挨拶回りだ。最初は要一人で向かう予定であったが、八重が頑として引かなかったのである。
薄紫の色無地。海老茶の肩掛けをさらりと着こなす我が妻の、その凛とした立ち姿に要は覚えず感嘆の息をつく。八重は、色素が薄い。こうして雪の中に立っていると、まるで雪女の風情である。
八重は口を閉ざしたまま、つう、と横に視線をずらした。その目が何かを見つけたのを見て、要も視線を向けてみる。
そこにあったのは、藍染めの布であった。
職人の家なのだろうか、軒先に渡された縄に、青が幾重にも重なって流れている。晴天の空の色よりも鮮やかな、目が覚めるような色合いであった。
「綺麗だなあ」
思わず声に出す。
「なあ、八重。見事な青だなあ」
「――本当に」
思いがけず返ってきた答えに、要は首を巡らせ、瞠目した。
八重が、微笑んでいる。まるで、春、ようやく硬い蕾が緩み始めた花のように、柔らかで、かすかではあったが、ほころぶような笑顔であった。
「綺麗な藍染でございますね」
***
「で、私はいつまでその惚気を聞かされているのかな?」
そういって、葉子はことりと首を傾げた。藍鼠色の着物をたすき掛けし、土間に立つ姿は奥様然としているが、この家には彼女一人しか住んでいないことを要は知っている。
「まあ、そういうなよ。聞かせる相手がいないんだ。ほら、大根。隣からいただいたんだが、どうにも量が多くてね」
要は板の間に腰掛け、笊に入れた大根を土間に降ろした。葉子はさっそく大根を手に取ると流し台の前に立つ。
「もうすぐだっけ、子供」
「そうだなあ。そろそろ生まれてもいい頃合いだと、産婆は言っていたかな」
「そっか。楽しみだね」
水を使う音を聞くともなしに聞きながら、要はぼんやりと葉子の後姿を眺めていた。
葉子と要が知り合ってから、じきに半年になる。
その日は友人の松原と酒を飲んでいて、遊びの話になった。要が女を買ったことがないというと、彼は大層嘆き、「とっておき」として葉子を紹介してもらったのである。
――たまには羽目外せよ。嫁があれじゃあ息が詰まるだろう。
そう言ってにやついていた松原には悪いが、要と葉子はまだ一度も体を重ねてはいない。たまに会い、こうして話したり、茶を飲んだり、おすそ分けをしあったりはしているが、良い友人としてのお付き合いに留まっている。
黙認される風潮こそあるものの。一人暮らしの女の家に、妻帯している自分が長居するのは外聞が悪い。しかも、身を売って口に糊する女だ。もし見つかりでもしたら、面倒なことになる。
しかし、要は葉子の持つ独特の気配が気に入っていた。儚げで、どことなく厭世的な香りがするが、話すと意外と朗らかである。居心地がよく、どうにも入り浸ってしまう。
「で、今日はなに」
「あ?」
「まさか、大根を届けに来ただけじゃないんでしょ」
「ああ……」
要は唇を舐める。
「実は、あんたにお願いがあるんだ」
「何」
「買い物に付き合ってもらいたい」
なおも後ろを向いたままの葉子に、要は声を投げかけた。
「八重にな。その……つまり、贈り物をしたいと思っている。その品を一緒に選んでほしい」
葉子からの返事はない。大根を洗う水の音だけが、狭い土間に木霊している。
「目星はつけてある。けど、本当に喜んでもらえるかが不安でな。女のあんたから見て、判断してもらえないだろうか」
大根を洗う音が止まった。流れる水をそのままにして、葉子はぽつりとつぶやいた。
「悪い人」
「え?」
「……鈍いにもほどがある」
「鈍い?」
そう、と葉子は呟く。
水を止め、洗い終わった大根を笊に戻すと、前掛けで手を拭った。その手の白さに、要は柄にもなくどきりとする。
この女も、八重と同じように色素が薄い。
「他の女が選んだものを贈り物にするのは、野暮だと思う」
「なにぃ?」
唐突な言葉に、要は間抜けた声を上げてしまう。
「怒るよ」
「八重が?」
「そう」
「怒るかな」
「きっとね」
それはぜひ見てみたい。八重は怒った顔も美しいだろう。しかし、それは葉子の想い違いである、と要は思う。
八重は、表情が乏しい。
見目麗しい姿なのに、適齢を過ぎて尚、婿を迎えられなかったのは、八重のその特性が原因だと聞いている。なにせあの美しさだ、それこそ見合い話が何件も降ってわいたと聞いているが、その席で男の方がたじろいでしまうのだという話であった。
――いや、たしかにお美しいのですが。
要の知人にも、見合いで断りを入れた者がいる。
――どうにも造り物のようで。私にはとても、とても。
けれど、と要は思い出す。八重に出会ったときのこと。その頃の八重は、今の氷のような冷たさを感じさせない少女であった。
ふたりが初めて会ったのも、冬だ。
その日も、雪が降っていた。
***
「内緒にしてくれる?」
そういって、雪女――八重は目尻にたまった涙を拭った。歳にして齢、十二。要はまだ九つ、八つ。そのくらいの年齢であったはずだ。
要の父は商売がうまく、顔が広いことを自慢にする、そういう男であった。そんな父に連れられて、要は幼い頃からあちこちの屋敷を訪ねて回るのが常であった。
初めて植草家を訪れたのも、そんな頃の話である。
要は大人同士の付き合いなどどこ吹く風で、広い屋敷の庭をてほてほと歩いていた。
雪が降っていた。
植草家は純和風の邸宅で、庭も広く取ってある。母屋を背に、右手に門。左手には倉があり、飛び石がそれらを緩やかに繋ぐ。その飛び石に、雪がさらさらと降っては、消え、降っては積もり、を繰り返しているのである。石灯籠にぽってりと積もった雪。松、紅葉、辛夷の木。
その木の下に、少女が立っていた。
ほっそりとした体を薄青の着物に包み、木にもたれかかるようにして立っている。肌の色は抜けるように白い。炭を刷いたような黒髪が、白一色の景色にぼんやりと浮かび上がっているかのようであった。
――雪女。
先日読んだ読本にそんなばけものが書かれていたことを思い出す。
読本と違ったことは、その雪女がまだ少女であることと――泣いていたことである。切れ長の目尻を赤く染め、少女は雪の中でひそやかに涙を落していた。
「……誰?」
要ははっと目を瞬かせた。
切れ長の瞳がこちらを見ている。寒い場所にいるからなのか、それとも泣きすぎたせいなのか、鼻の頭も薄っすらと赤い。
要は逡巡し、一歩足を踏み出した。
飛び石に積もった雪が、じゃらりと湿った音を立てた。
――内緒にしてくれる?
少女の言葉に、要はことりと首を傾げ、問う。
雪はまだ、さらさらと降り続けている。
「うん。だって……悔しいから」
そういって八重は、口をぎゅっと引き絞った。唇の色も薄い。まるで血が通っていないかのようである。薄青の着物は見るからに薄く、寒そうだ。要は自分の羽織を脱ぎ、背伸びをして、八重の肩にぱさりとかける。
八重は驚いたようである。切れ長の目を見張り、くしゃりと笑った。
「ありがとう」
要は首を振る。風が吹いていないからだろうか、それとも、少なからず興奮していたからであろうか。寒さはほとんど感じなかった。
「――私、来月お見合いだって」
唐突に、八重はそう言った。
「もう決まっていることだからって、お父様が引かないの」
「嫌なの?」
要は訝しく思う。要とて、植草家には叶わないが、それなりの財力のある家の子供である。お見合いも、それによる婚姻も、彼とっては普通の事だ。取り立てて嫌だと思ったこともないし、いずれ自分もそうやって、妻を持つものだと思っている。
要の問いに、八重は首を振った。
「お見合いが嫌なわけじゃない。でも……」
八重はほうと息をつく。白く煙ったため息が、曇天にするすると吸い込まれていった。
「私……まだ恋もしたことがないのに」
要は目を見張り、ややあって吹き出した。今になって思えば、随分と失礼な振る舞いであったと思う。しかし、当時の要は、自分よりも年上の、もうじき女学校に通うような年齢の少女がそんなことで悩み、泣いているのが可笑しく感じられたのだ。
要の態度は少女の勘に触ったようである。八重はじろりと要を睨み、口を尖らせた。
「言わなければよかった」
「……ごめんなさい」
「謝ったって許してあげない」
色白の顔が赤く染まる。ころころと変わる少女の表情を、要は素直に美しいと感じたものだ。
「ねえ、雪女って知ってる?」
「雪女……」
「僕、あなたをさっき見たとき、雪女がいるって思った」
「なにそれ、私がばけものだって言いたいの?」
要は首を振る。どうやったらうまく伝わるだろう。
「それくらい、綺麗だって言いたかったんだ」
言ってしまってから、要は首の後ろが熱くなる自分を自覚した。恥ずかしい。要は俯く。まだ短い彼の人生の中で、初めて女性への誉め言葉を口に出した瞬間であった。
八重は目を見張った。そのまま俯き、手を唇に添えて黙りこくってしまう。
「……そっか、うん、雪女、か……」
八重は顔を上げ、要ににっこりと微笑みかけた。
「ありがとう。私、いいこと考えちゃった」
「いいこと?」
「そう。雪女、ね。任せて頂戴。そういうの、得意なの」
要は首を傾げる。そういうの、とは何のことなのだろう。
「私は、好きな人と――本当に好きな人と、一緒になりたい」
そう言って、八重は要に小指を差し出した。意図が分からず、硬直する要の小指に、八重は自分のそれを絡ませる。
「約束。今日のことは絶対に、他の人には言わないで」
「――え?」
「ね、約束。私とあなただけの……」
少女の瞳に熱を感じ、要は首筋にちりちりとした痛みを感じた。絡めた小指に力が入る。その指越しに伝わる熱や、瞳の温度、吐息の白さを、要は今でも覚えている。思い出すたびにくすぐったくて、甘酸っぱい、大切な思い出だ。
雪の日の約束。それを、要は今でも律義に守っている。いや、正直に言うと、自分に見合い話が来て、その相手が八重だと知るまではすっかり忘れていたのだ。
見合いの席の八重は、少女の頃の面影そのままに、凛とした美しさを湛えていた。しかし、唯一違ったのはその表情である。
造り物のような、美しさ。ただ静かに、静かにそこにいるだけ。八重は、笑わない。泣かない。怒らない。
一緒になってからも、八重の造り物めいた表情が変わることはなかった。どんなものを見ても、何をしていても、感情を見せないのである。
あの雪の日の約束のことを話してみようか、と考えたこともある。自分があの時の約束の主だと知ったら、もしかしたら何かしらの反応を示してくれるのではないか、と。
しかし。
――本当に好きな人。
八重の願いは、叶わなかった願いだ。自分と彼女の婚姻は家同士の思惑であった。もっと正直に言うと、名家の肩書と財力が欲しかったのは、要の家の事情である。八重が適齢をとうに超えており、問題のある女性だったからこそ叶った婚姻だ。そこに本人同士の恋愛感情などあろうはずもない。
だから、要はあえて話さない。
その約束を口にしてしまったら、八重があの日のことを思い出してしまったら……きっと雪女は消えてしまうのだろう。
葉子は軽く腰に手を当てたまま、要を見つめていた。要はぱちりと目を瞬かせて葉子を見やる。
あの雪の日のことを思い出すと、どうにもいけない。自分自身の女々しさに要は苦笑した。
「まあ、八重なら、心配しなくて大丈夫さ」
そういって、要は葉子に肩を竦めてみせる。八重はきっと、自分が誰と出かけようと眉ひとつ動かさない。寂しくもあったが、それが事実だ。
「あんたしか頼れる人がいないんだ。頼むよ」
手を合わせ、頭を垂れる。葉子は肩を竦め、わかった、と苦笑した。
***
今にも泣き出しそうな空の下、要は葉子と共に帰路についていた。手にした風呂敷の中には、求めたばかりの藍染めの肩掛けがきちんと畳まれて包まれている。
「今日は助かった。おかげで良いものを選ぶことができた、と思う」
葉子を伴い呉服店に入ったはいいが、あまりの種類の多さに眩暈を起こしそうになった要である。藍染めだけに絞っても、ざっと十数種類以上はあっただろうか――世の中の女性は、どのようにして自分の欲しいものを選び取っているのだろう、と心底不思議に思ったものだ。
葉子が選んだのは、絞り模様が花のように広がった肩掛けであった。
――雪花絞りと言いましてね。
店の者は愛想よくそう言った。
――西の絞りなんですが。雪の花のような模様になるのが特徴なんですよ。
それはいい、と要は頷く。八重に贈るものだ。雪にちなんだもの、というところが気に入った。
意気揚々と道を歩く。
冷え冷えとした空気に、湿り気が混じる。もうじき、雪が降るに違いない。
「よかった。でも、私が選んだものだってことは、内緒にしておいた方がいいと思う」
「そうか、そうだな」
頷くと、葉子は要を見上げてゆったりと微笑んだ。この女性は、背が高い。八重よりも頭一つほど高いのではないだろうか。色白の肌や黒髪の見事さは八重にも通じるところがあるが、瞳の色だけがやや違う。八重の瞳は薄茶色で、その色の薄さが白い肌によく似合っている――。
そこまで考えて、要は思わず苦笑する。違う女性と道を歩いていても、自分は、八重のことを考えてしまう。それが何を意図するかくらい要にだって分かっている。分かっているからこそ、要は怖い。
八重と一緒になり、子をなしても尚、要には拭いきれない不安があった。
要と彼女の婚姻は、要側に決定権があった。要が八重に否を言えば、取り消すことができた話である。八重の望みを絶ってしまったのは、外ならぬ要自身なのかもしれない。
自分は、八重の『本当に好きな人』ではないのだから。
立ち止まり、黙ってしまった要に何を思ったのであろうか。葉子は首をことりと傾げ、要の顔を覗き込むようにする。
「あのさ」
「――なに」
「ちゃんと言葉にして、言った方がいい」
唐突な言葉に、要は目を瞬かせた。
「伝えようとしないと、伝わらないよ。大切な人なら尚のこと」
この女は、心が読めるのであろうか。瞠目している要に、葉子は言葉を重ねた。
「時間は限られているんだ。後悔しないようにした方がいい」
そういって、葉子は笑った。ふわりと漂う花の香り、沈丁花の匂い。
その時である。
「へえ、随分とよろしくやっているようじゃないか」
ふいに割り込んだその声に、葉子がびくりと体を震わせた。
要は振り返る。
「――松原」
にやにやしながらこちらに近づいてくる友人の、その漂う臭気に要は眉を潜めた。ひどく酔っている。いや、酔っているだけではない。松原の目に浮かんでいるのは明らかな敵愾心だ。
「おい、葉子、あんた話が違うじゃねえか」
松原はそう言って葉子の肩に手をかけた。葉子は顔を背けている。漂う剣呑な雰囲気に、道行く人々が足を止め、遠巻きにこちらを見ていることが分かった。
「植草よお。お前、どうやってこいつを引っ張り出したんだ?」
「何のことだ?」
尋ねると、松原は口の端を歪めて嗤った。嫌な笑い方だ。そのまま要の問いには答えず、ぐい、と葉子の腕を引いた。
「すかしやがって。なにが『もうやめる』だと? こいつの誘いには乗るのに、なんで俺は駄目なんだ。選べる立場じゃねえだろう!」
「やめて」
葉子は身をよじった。黒髪がはらはらと空に舞う。松原は手を緩めない。ぎりぎりと腕を締め上げている。
「やめろよ。痛がってるだろ!」
あまりに乱暴な扱いに、植草は思わず声を荒げた。
「少しくらい痛い目に合った方がいいだろ、こんな女はよ」
「おい、お前」
「同じ穴の貉の癖に、いい人ぶるのはよせよ」
松原は葉子の耳に口を寄せる。
「行こうぜ、葉子。嫌とは言わせねえぞ。ずっとあんたが忘れられなかったんだ」
そう言うと、松原は葉子の腰に手を這わせた。
「やめて!」
「うるせえ! 来いって言ってるだろう!」
逃がさじと腰を抱き留める松原の腕を引きはがし、葉子は体をよじり――どう、と道に倒れこむ。
「ひっ……」
声を漏らしたのは、誰だっただろうか。道行く人だっただろうか、それとも要自身であっただろうか。
葉子が道に倒れている。着物の裾ははだけ、白い襦袢に包まれていた素足が投げ出されている。その足が、赤い。皮膚が爛れた痕だろうか、無事な皮膚がないくらい、あちこち引き攣れ、斑になっている。
葉子は俯いたまま、着物の裾をす、と直した。ぬかるんだ泥と、おそらくどこかを擦ってしまったのであろう血が入り混じり、着物は斑模様に染まっている。
「相変わらずきったねえ足しやがって。かわいがってやろうってんだから、ありがたく思えよ!」
要は瞠目する。この男は、何を言っているのだろう。
「……おい」
口に出した声は、思った以上に怒りを孕んでいた。
「いい加減にしろ。それがご婦人に対する態度か」
「うるせえ! なにがご婦人だ。お前だって俺と同じ癖に、偉そうにご高説か?」
「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「俺はばけもんを抱いてやって、金を恵んでやってるんだ。それの何が悪い!」
顔を赤くして怒鳴る松原を一瞥し、要は葉子の肩に手を回した。細い肩がびくりと震える。
「行こう、葉子。こんなやつ相手にしない方がいい」
立ち上がるように、葉子を促す。おずおずと歩き始めた葉子を松原の視界から隠すように、要は葉子の肩を抱いた。
踵を返したその時、視線の先に――八重が、いた。
八重がこちらを見ている。氷のような冷たい瞳で、要と、葉子をじ、と見つめている。
「八重……」
その言葉に、葉子がはっと顔を上げた。
「八重、違う」
声を上げながら、要はうっすらと期待する。怒るだろうか。八重はその氷の表情を溶かし、どういうことだと自分に詰め寄ってくれるのではないか。
八重はすう、と息を吸い、そのままゆっくりと吐き出した。そして、姿勢を正したまま、ゆっくりと――まるで何もなかったかのようにゆっくりと、二人の横を通り過ぎて行った。
鼓動が激しい。息がうまくできない。目の前が暗くなっていくのを感じて、風呂敷を持つ手で胸を押さえた。
心臓が冷たくなっていく。まるで氷の息を吹きかけられたかのような鋭い痛みが、要の心を貫いた。
大丈夫だ、八重は気にしない、と口ではそう言っていた。そう思ってもいた。しかし、実際にそうであると突き付けられた現実は、要に思った以上の衝撃を与えたのである。
やはり、八重は自分のことなど――。
「要さん!」
葉子だ。何やら緊迫した声で、肩に回された要の手を外そうともがいている。
「早く、逃げて」
「な、なに」
「早く!」
その声と重なるように、幾重の悲鳴が上がった。
要は振り返り――。
衝撃が、走った。何か、ひんやりとした物が――鋭い氷のようなものが――腹から背中にかけて刺さっている。
身体がじわじわと熱くなる。足に力が入らなくなり、もつれるようにして地面に倒れこんだ。熱い。だくだくと熱い液体が流れ出ていく。震える手でそれを触り、理解した。刺された、何かに。刺されたのだ。
体中が引き裂かれるような激痛に、声なき声を挙げた。
痛い。
体が急速に冷えていく。頬の下で、雪交じりの砂利がざらざらと音を立てる。
「まつ、ばら」
「ざまあみろ!」
言い捨て走る後ろ姿が、徐々に霞む。地に落ちた風呂敷がほどけ、藍染めの肩掛けが毒々しい色に染まっていった。
――た、あなた……!
半狂乱の声が耳に届く。あの声は、八重ではないのか。
「や……え」
冷たい手が、頬を撫でた。ひいやりと気持ちいいその感触に要は微笑んだ。目が霞む。もう光も入らない暗い闇の中で、その冷たい掌だけが要をこの場に繋ぎとめている。
――……なないで、死なないで……
八重の声だ。自分のために、必死になっているのか、泣いてくれているのか。
体がゆっくりと沈んでいく。もはや痛みも感じない。ただ、静かな冷たさだけが、要をしんしんと包み込んでいた。
――時間は限られているんだ。後悔しないようにした方がいい。
葉子の声が、脳裏によみがえる。本当にその通りだな、と要はひどく後悔をする。
「やえ」
頬に、ほたりと落ちたのは、涙だろうか、それとも雪か。
死にたくない。まだ伝えられていないのに――。
しらしらと雪が降る。
雪が降る。