「お前は、こんな時でも笑ってるんだな」
 そう言って、浩二は去って行った。


 夏美の朝は、早い。
 都心である。あらゆる路線が集まる駅の、オフィス街にあるカフェが夏美の職場であった。
 夏美は、接客が好きだ。高校生からファミリーレストランでバイトを始め、大学四年間はホテルの宴会場で、卒業してから、このカフェに就職した。勤続五年で、今年店長に昇進したところである。
 フルサービスが売りの店であった。制服はシックな黒と白、ふかふかのソファにジャズが流れる、少し高級志向の店である。
 アイスコーヒー用のグラスを磨きながら、夏美は軽く息を吐く。
 土曜日の朝である。駅前ならいざ知らず、オフィス街にあるこの店には閑古鳥が鳴いている。忙しければ問題ないのだ。こう暇になると、意識の隙間に差し込むように、あの時の言葉が突き刺さっているのが分かる。しっかりしなければならない。もう大人なのだから。プライベートのことで仕事に支障をきたすなど言語道断。ましてや自分は店長だ。他の者にも示しがつかない。
 からころと来店を告げる鐘がなった。
「いらっしゃいませ」
 夏美はにっこりと笑う。
 お客様の前では、夏美は『夏美』であってはいけないのだ。


「え!? 店長振られたんですか! 振った方じゃなくて!?」
 チーズケーキを切り分ける手を止めて、愛子が目を見開いた。
 愛子は夏美の店でアルバイトをしている、大学生である。
 カフェは、見た目のお洒落さや制服の可愛さなどでなかなか優雅だと思われがちだが、スピード感を大いに求められる仕事である。また、重いものを持ったり運んだり、時には理不尽なお客様の対応をしたり、その実体育会系であることも多い。
 夏美の店も例外ではなく、こんな筈ではなかったと、辞める従業員も多いのである。しかし、愛子はめげずに、もう二年も働いてくれている。
 お茶しませんか、と誘ってきたのは愛子からであった。
 彼女は、聡い子である。夏美が何も言わずとも、その様子がおかしいことに気づいたのかもしれなかった。しかし、そんなことはおくびにも出さない彼女の優しさが、今の夏美にはありがたい。それで、お言葉に甘えさせてもらう形になったのである。
 内容が内容だけに、流石に自店では話しづらい。それで、近くの別のカフェに入った。
 初めて入ったその店は、可愛らしい雰囲気の店である。天井には大きなファンが回り、壁には額に入った絵。木目調の机や椅子。床も温かみのあるブラウン。カントリー風というやつであろうか。ただ、壁に掛けられた額には埃が溜まっているし、机にセッティングされた紙ナフキンは残り数枚。あまり目が行き届いていないらしい。
と、そこまで考え嘆息する。職業病も、ここまでくれば深刻だ。
接客業が骨の髄まで沁みついている、そんな自分に浩二が愛想を尽かしても仕方がない。だから夏美は、愛子が笑い飛ばしてくれればいいと思っていたのだが、予想に反して彼女はぷりぷりと怒っている。
 チーズケーキにぐさりとフォークを突き刺して、愛子は獰猛に唸った。
「むかつく! 何それ! ありえない!」
 可愛い顔を歪めて、愛子は自分の事のように憤慨している。その様子に、当事者の夏美は苦笑した。
「まあ、仕方ないよ。向こうがそういうならさ」
 ブルーベリームースケーキをつつきながらそう言うと、愛子はむくれた顔をした。
「仕方なくないです。言い分が酷すぎる! お子ちゃまかよって感じです!」
「……そうかな」
 努めて明るく出した声は、思った以上に乾燥していた。
 誰彼にも笑いかけるな、と言われたのだ。
 その言葉を聞いたとき、夏美は自分が何に対して文句を言われているのか、咄嗟に理解ができなかった。何度か問い返し、浩二が自分の仕事中の態度に怒っているのだと気づいたときは、途方に暮れたものだ。
 笑うな、と彼は言う。
仕方ないでしょう。自分が笑うのは仕事だから。お客様の前では笑っていなければならないの、それが自分の仕事なのだから。
そう言うと、浩二は苛立たし気に舌打ちをしたものだ。
「なるほどな。つまり、お前はそういう女だってことだ」
「……え?」
「媚を売ってるってことだろ。俺もまんまと騙されたって訳か」
「なに言ってるの?」
 夏美は困惑する。
 浩二は元々、自店のお客様であった。何度か会話をし、常連客の一員となり、そしていつの間にか付き合うようになった。笑顔が好きだ、一目惚れだったと言われたときは、舞い上がるような心持ちであったものだ。それなのに。
「あんとき、笑ってたのも、俺が客だからだろ。お芝居だったってことだろ」
「お芝居って何? 私の仕事、接客だよ? 笑うのも、仕事のうちなんだよ?」
「だからって、誰かれ構わずなんて、ただのふしだらな女じゃねえか」
 頭を金槌で殴られたような気がした。
 涙が出そうになるのをぐっとこらえると、口の端から笑みが零れた。戦慄く唇を何とか引き上げると、浩二はふんと鼻を鳴らし、あの台詞を口にしたのだ。
 こんな時でも、笑っている。
 そうなのかもしれない。
 夏美は自分の腕をさするようにする。接客の仕事だから。どんなときでも笑顔でいなければいけないと思っていた。
 だからいつも、唇を引き上げて、目を細めて、頬を上げて――これはお芝居、ということになるのだろうか。初めて浩二に会った時も、そうだったのだろうか。覚えていない。意識して笑いかけたわけでもない。ただ自分はその時確実に、『笑顔』でいたに違いない。
 では、笑顔とは、何だろう。笑うとは、どういう感情だっただろう。
 込み上げる不安を抑え込むように、慌ててケーキを一口、含んだ。
 量販された、インスタントの味がした。ムースの部分は味が薄くて水っぽい。上にコーティングしてあるゼリーは、硬くてまるでゴムのようだ。ブルーベリーの種が舌の上に残る。ざらざらとした食感に、眉を顰めそうになる。
 不味い。
 無理やり珈琲で流し込む。泥のような味がした。うっすらと滲んだ涙をそのせいにして、夏美は唇を引き上げる。
 ほら大丈夫だ。自分はまだ笑えている――本当に?
「……店長、大丈夫ですか?」
「うん」
「でも」
「へーき、へーき。ありがとうね」
 心配そうにこちらを伺う愛子を安心させるように、夏美はにっこりと笑ってみせた。乾燥していたのだろうか、唇の端が引き攣れて、妙に痛かった。

 その帰りの電車の中である。初めてその女を見たのは。
 満員ではないが、そこそこに混んだ電車の中。吊革につかまって、夏美はゆらりと揺れている。その時、微かに聞こえたのである。甲高い嬌声が、幽かに耳に届いた。女の笑い声だ。酔っ払いか。それにしては調子が変だ。
 ――けら、けら。
 おかしい。近づいてやいまいか。
 いや、違う。
 ――けらけら。
 ――けらけら。
 ごう、と音と共に、電車はトンネルに入る。
 ――けら。
 ――けら。
 トンネルの、暗い穴の中。電車の窓ガラスに映る影越しに夏美は、見た。
 女性が、夏美のすぐ後ろにいる。目に鮮やかな山吹色の着物を着て、その袖を口に当て、女はけらけらと笑っていた。細められた目は三日月のようで、心底楽しそうに笑っている。
 女は笑う。誰も女に気づかない。
 恐る恐る振り返る。
 そこに女は、いなかった。


  ***


「けらけら、だね」
 電話越しに、葉子はそう言った。
「けらけら?」
「そう」
 変わらぬハスキーボイスに、夏美はほっとする。
 葉子は夏美の大学時代の友人である。
 なぜ彼女に電話をかけたのか、夏美自身にも分からなかった。誰かに聞いてもらいたくて、スマーフォンの電話帖をぐりぐりいじって、目に留まったのが葉子の名前であったのである。
 すでに真夜中に近かった。十コール目で、葉子は電話に出てくれたのである。荒唐無稽な話だが、葉子は笑わずに話を聞いてくれた。そして、一言、こう述べたのだ。
「大丈夫。悪いことにはならない」
「悪いこと?」
「うん。けらけらは優しいから。君のことが心配なんだ」
 首を傾げる夏美の表情が見えたかのように、葉子は笑いを零した。
「彼女は、君の味方だよ」
 すっと力が抜けた気がした。
 そう言えば、葉子はこういう人だった、と夏美は思い出す。他の人が言うと冗談にしか聞こえないようなことでも、彼女の口から出ると、妙に納得してしまう。不思議な優しさと説得力があって、安心するのである。
「そっか」
「うん」
 聞いてくれてありがとう、と言ったら、ふふ、と電話越しに含み笑いが聞こえた。
 変わっていない。葉子はあの時のままだ。思えば、卒業以来の会話になるのに、不思議なものである。
「葉子は、最近何してるの?」
「あちこちに行ってるよ」
「ああ、出張とか?」
「そんな感じ」
「忙しいんだね」
「まあまあだよ」
 電話先に、少しノイズが混じった。ふつり、ふつり、と途切れがちの音に、夏美はスマートフォンを構え直す。
「ごめん、ちょっと電波が悪いみたい」
 ノイズは徐々に酷くなっていく。昔懐かしいブラウン管の砂嵐のように、ざあざあという音が耳の奥で響いていた。
 その砂嵐の音に混じり、幽かに歌が聞こえた。ネジの切れかけたオルゴールのように、ぷつぷつと途切れがちな旋律。
「ねえ」
 密やかな声が耳に届く。何気なく発せられた呼びかけの言葉のはずなのに、夏美の耳にことりと物が置かれたような、違和のある響きに感じられた。
「……葉子?」
「……ありがとう」
「へ?」
「思い出してくれて、ありがとう」
 そして、電話は、ふつりと切れた。お礼を言うのはこちらの方なのに、と夏美は苦笑する。葉子は、少し変わった子なのだ。相変わらずの様子に夏美は学生時代を思い出す。黒の革ジャン、スキニーのジーパンをさらりと履きこなす麗人。
 葉子の香り、甘くすっきりとした花の香りが、電話越しに漂ってくるようであった。


 この日から、けらけらは、毎日現れるようになった。
 電車の窓に映っていたり、鏡の隅にこっそり入り込んでいたり、テレビを消した後に、画面にちらと映ったり、そういった案配で、夏美の前に姿を現すのである。最初は気味が悪かったが、見慣れてみるとそうでもない。なんとも楽しそうに笑っているものだから、夏美までつい笑顔になってしまう。
 気になったので、ネットで検索をした。けらけらは、遊女のあやかしといわれているのだそうだ。妖怪だと分かっても、夏美は彼女を怖いとは感じなかった。
 今もけらけらは、夏美の隣にいる。着物の袖を口に当て、けらりと笑うその顔に、陰りは一切見えなかった。
 夏美は眉を下げる。
「けらけら」
 囁くように呟くと、けらけらは答えるように目を細めた。遊女は、体を売る仕事だ。辛かったであろう。それなのに、彼女は笑っている。心から楽しそうに、けらりけらりと。
「強いね、けらけらは」
 ――けら、けら。


  ***


「店長、ちょっと……!」
 ふいに愛子に呼ばれ、厨房に引き戻された。
 週末の夕方である。店内も程よく混雑し、夏美は心地よい忙しさに身を置いていた。手が空いたタイミングでお冷をつぎ足しにテーブルを回ろうとした時のことである。
 愛子の顔は、少し青ざめていた。すわクレームか、それとも厨房でトラブルか、と身構えたが、それにしては様子が変だ。
 愛子はどこか憚るような視線である。
「あの、もしかしたらなんですけど、あれ」
 その、目線の先を見て、愕然とした。
 店の入り口に浩二がいた。女を連れて、立っていた。
 ぐるりと回った視界、強烈な吐き気に、夏美は崩れ落ちそうになる。女は浩二の腕に腕をからめて、しきりに話しかけていた。浩二はにやけた顔でそれに答えている。
「サイアク……見せつけに来たんじゃないですか?」
 吐き捨てるように呟く愛子を横目に、夏美は戦慄く唇をきゅっと引き結んだ。
 席に案内しなければ。注文を取りに行かなければ。お店に来た以上、あいつはお客様なのだ。
 そのまま口の両端を引き上げる。
 笑顔になっているだろうか。震えてはいないだろうか。
「あの、店長、私行きますから」
「大丈夫」
 拳を握り締めて、夏美は入口へと向かう。
「いらっしゃいませ」
「二人」
 浩二は唇を歪めて指を二本立てる。夏美は会釈をして席に先導した。後ろで二人の会話が聞こえる。
「ねえ、これが元カノ?」
「な、言ったとおりだろ?」
 くすくす、と耳障りな笑い声が聞こえる。その口調に、明かな揶揄の色を感じた。あることないこと言っているのだろう。夏美はうまく息が吸えず、咳き込みそうになるのを慌てて嚥下した。しっかりしなければ。自分はこの店の店長なのだ。
 笑え。
 笑え。
 ――けら、けら。
 あの声が聞こえた。
 けらけらだ。けらけらがいる。
 すっと気持ちが落ち着いていく。
 大丈夫。
 けらけらが、見ていてくれている。
 席に案内し、お冷を出した。浩二は相変わらずにやにやと笑っている。
「メニューはこちらでございます」
 二つ折りのメニュー表を渡して、夏美が一度戻ろうとした時である。
「ねえ、店員さん」
 浩二は夏美を振り仰いで、口の端を持ち上げるようにして笑った。
「これ、俺の彼女」
「左様でございますか」
「かわいいでしょ。超自慢なんだよね」
「ええ。たいへんかわいらしいと思います」
「結婚したいと思ってるんだよね」
「おめでとうございます」
 ちりちりとした痛みが、夏美を襲う。
 笑え。笑え。
 視界の端に、けらけらがいる。励ますような視線で、けらりと笑っている。
 震えそうになる声をぐっと抑えて、特上の笑顔で、夏美は言った。
「ご注文はお決まりですか?」
「いい加減にしろ!!」
 浩二が、机を蹴った。静まり返った店内に、彼の怒号のみが響き渡る。
「ふざけんなよ!」
 グラスが床へと叩きつけられた。耳を劈く音と共に、みるみる広がる水たまりを、夏美は呆然と見つめていた。
 今、いったい何が起きた?
 きらきら光るグラスの破片を踏みしめて、浩二が夏美に詰め寄った。肩を掴まれても、夏美は動けない。そのまま前後に強く揺すられて、息が止まりそうになる。
「お前、何なんだよ。なんで笑ってんだよ!」
 唾を飛ばして、浩二は怒鳴る。
「結局その程度なんだろ! 俺のこと、その程度の気持ちだったってことだろ!」
「ちょっと、浩二、まずいって」
 隣の女は立ち上がると、浩二の服の裾を引いた。
「うるさい!」
 浩二の手が、女の手を掴んで引きはがす。
「あ……!」
 バランスを崩して、女が体を浮かせる。
 その先に、きらりと光った、グラスの破片が――。
「あぶない!」
 咄嗟に回り込んで、体で受け止める。夏美は女を抱きかかえたまま、背後から床に倒れ込んだ。
 強い衝撃が走った。
 背中が熱を持ったように熱い。じわり、と制服が濡れるのが分かった。
「店長!」
 愛子が厨房から飛び出してくる。
 女が身を起こした。床に流れる血を見て、ひきつった悲鳴を上げる。恐慌状態の彼女を見上げて、夏美は安心させるように笑った。
「お客様、お怪我はありませんか?」
 女は一度体を震わせ、ややあって頷いた。
 良かった、お客様は怪我をされていない。そう思えたことに夏美は安堵した。
 店内の空気が恐る恐る、動き始める。凍っていた物が溶け出したかのように。
「お、おい! 救急車を!」
「ねえ、大丈夫!?」
「ちょっと、あんた何てことするの! 警察、警察を……」
 ざわりとする視界の中で、夏美は浩二を見ていた。
 青ざめた顔であった。がたがたと震えているようでもあった。その後ろに、けらけらがいた。着物の裾を口に当て、けらりと笑っていた。
 そうだね、けらけら、と頷いてみせる。
 自分は、プロだから。お客様の前で、みっともないところを見せてはいけないのだ。
 笑え。
 笑え。
 ゆっくりと立ち上がる。つうと熱い感触が背中を伝う。
「店長、だめです! 動かないで!」
 愛子の制止も聞こえない。痛みすら感じなかった。
 目に力が入る。
 姿勢を正し、手を前で組む。
 唇の両端を引き上げて、目を柔らかく細め。
 笑え。
 そう、それでいい。
「お客様。店内での暴力行為は禁止行為です。他のお客様のご迷惑になりますので、即刻お引き取り下さいませ」
「なっ……」
「お引き取り下さいませ」
 最上級の笑顔で、夏美はかつての恋人に、そう告げたのである。


  ***


「傷が浅くて良かったですね」
 愛子が、嬉しそうに笑った。
 あの事件の後、夏美は意識を失ったようで、気づいたら病院に搬送されていたのである。
 制服の上からだったので、大した怪我ではなかったことが幸いであった。会社に報告をしたところ、結果、減給と賞与カットになってしまったのだが、それは致し方ないことである。
 責任は、取らねばなるまい。
 最悪、クビか、良くて降格かと思っていたのだが、お店の常連と、愛子たちスタッフが庇ってくれたようで、店長の任はそのままであった。
 そのことに、夏美は胸を撫で下ろしたものだ。しかし、愛子などは特にこの処置には不満のようで、今もぷりぷり怒っている。
「でも、本当に酷くないですか!? 体張ってお客さん守ったのに、減給なんてありえない!」
「まあ、それは仕方ないよ。元々トラブルを持ち込んだのは私だし」
 この間と同じカフェであった。夏美の職場復帰を祝う、という名目で、愛子に誘われたのだ。
 愛子はオレンジタルトをつついていた。夏美の前にはブルーベリームースケーキが置かれている。前回失敗したはずなのに、妙においしそうに見えたのだ。
「愛子ちゃん、ありがとうね」
 あの後のフォローをしてくれたのは、愛子だったのだという。
 救急車を呼び、代われるスタッフを探し出して店を任せ、お客様のフォローを完璧にこなした。そして、自ら救急車に同伴して事情の説明をしてくれたのだ。
「いえ、私は何も……。お客様、皆さん良い方ばかりだったので、良かったですよ」
 照れたように笑う愛子に、夏美は頭を下げる。本当に、何度お礼を言っても言い足りないくらいだ。
 思わず目頭が熱くなって、慌ててケーキを口に運び、目を見張った。
 インスタントの味だなんてとんでもない。味が薄いと思っていたムースはさっぱりとしていながらも濃厚で、、ゴムのようだと思っていたゼリーは、瑞々しいベリーの果実感あふれる味である。
 口に含んだ珈琲は、挽きたての香ばしい香りがする。
 嗚咽が漏れた。たまらずにしゃくりあげる。
「恰好良かったですよ、店長!」
 愛子の言葉が、胸に染み入る。
 目尻に溜まった涙を拭い、夏美は破顔した。


 けらけらは、遊女の化け物なのだという。
 着物の袖で口元を隠し、けらりけらりと笑っていた彼女だって、きっと泣きたい時もあったであろう。
 けれど、きっと笑うことが、彼女の誇りなのだ。彼女はそれが仕事だから。どんなときでも笑顔でいるのであろう。
 自分は、誇りを守れただろうか。
 アイスコーヒーのグラスを磨きながら、夏美は笑った。
 からん、と来店を告げる鐘が鳴る。
「いらっしゃいませ」

 その後、夏美がけらけらを見ることは、なくなった。