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 朝、カーテンの隙間から差す陽の光が悪戯をするように僕の顔を照らした。僕は開ききらない瞼を摩りながらもぞもぞと起き上がり、いつものように階段を下りた。昨日のあの時間、すっごく楽しかったな。出来る事ならもう一度あの時間に戻ってほしい。思い出せば思い出すほど昨日のみんなの笑顔が脳裏に蘇ってくる。みんな、とても良い顔をしていたけれど、やっぱり優子の笑顔が一際素敵だったな。彼女の笑顔を思い出すと、僕は途端に恥ずかしくなってきて驚くほど目が冴えてきた。軽くなった足取りで洗面所へ行き、顔を洗い朝食を食べようと皿を並べて準備をしていた。すると、テーブルの上に書置きが置いてあるのに気づいた。僕はその書き置きに目線を向けた。

 『ニケへ

改めて誕生日おめでとう。昨日はいい日になったか? お前の可愛すぎる笑顔が見れてオレも嬉しかったし、めちゃくちゃいい日になったぞ! オレもこの気分のいいまま、お前に言わなきゃいけない事がある! すごく突然なんだが、オレは旅に出る事にした。何も言わずに紙切れ1枚だけをここに置いていってこの家を飛び出すこんなオレをどうか許してくれ。そして、いつの日かここに戻ってくるオレを暖かく迎え入れてくれ。その日を心待ちにして出かけてくるな! 大丈夫。お前はもう立派な大人だ。オレは昨日のお前を見て安心したよ。お前やみんなが一緒ならオレがいなくても絶対にやっていける。オレは確信してる。じゃあなニケ! 行ってくる! 家を任せたぞ!

p.s. ニケっていう名前、オレがお前につけた名前だけど我ながらいい名前だとずっと思っているよ。改めてハッピーバースデー!』

そこには身勝手すぎる文章が師匠らしい乱雑な字で殴り書きされていた。僕は一瞬で血の気が引いていくのが自分で分かった。嫌な汗がじっとりと背中に滲んだ。

 「な、なんだよ、これ……!」

生まれて初めて自分でも驚くほどの大きな声が出た。僕は急いで部屋へと戻り、スマホから師匠へ電話をかけた。僕の不安を煽るように電子音が僕の耳元で鳴り続ける。すると、急にその音が途切れた。

 「あ! もしもし!? 師匠!?」
 『おかけになった電話番号は、現在使われていないか、電源の入っていない……』

時は既に遅かった。楽しすぎた夢のような昨日の時間から一転して、僕には圧倒的な絶望感を現実という悪夢が何の前触れもなく突きつけてきた。僕は体に力が入らなくなり、その場で座り込んでしまった。

 『師匠、どこにいるの?』

返信が来る気がしなかったけれど、僕は突然見えなくなった師匠の背中を必死で追いかけるように、今使える力を必死に振り絞ってメッセージを送った。突然の災害に直面したように僕の脳内は混乱が止まらなかった。1人でいるとどうにかなってしまいそうだった僕は、たまらず優子に電話をかけた。すると優子はすぐに電話に出た。

 『もしもし』
 『優子! 大変だ! 師匠が突然いなくなったんだ!』

僕の荒げた大声は優子には届いているのか、何の反応もなくスマホ越しで沈黙が続き、永遠にも思えた時間が終わりを告げるように僕の声とは正反対の、風鈴のような綺麗で落ち着いた声でニケさんと呼ばれた。

 『師匠の話、知っていました』

僕に追い打ちをかけるように優子の声が届く。知っていました? 師匠の話? 優子は師匠の何を知っているのだろう。どういう事だ。僕の頭は再び混乱し、まともな判断が出来そうになかった。

 『え? そ、それはどういう事?』
 『いつか、私たちの前から師匠がいなくなるという事です』

その冷淡にも聞いて取れる優子の声に対して、僕は初めて優子に怒りを感じた。

 『どうして教えてくれなかったの?』

無意識に大きな声になっている僕の声を彼女は受け取り再び黙っていた。僕も彼女が話し始めるまで耳をすました。また沈黙の時間が続く。時計の秒針を刻む音だけが時間が止まっていない事を僕に教えてくれていた。

 『優子? 聞いてる?』

しびれを切らした僕が優子の返答を待たないまま声を届けた。

 『それが師匠のお願いだったから』

その僕の声と重なって優子の声が再び聞こえた。

 『え?』
 『オレはニケの誕生日会が終わったら1人で世界を回ろうと思う。ニケはもう十分大人になった。オレがいなくてももう大丈夫だ。お前たちもな。だからしばらく店をニケとお前たちに任せたいんだ。世界を見て回ることが琥珀さんの夢だったから。オレはその夢を叶えたい。だから、ニケもお前たちも納得は出来ないだろうけど分かってほしいって』
 『な、何だよそれ……』
 『ニケさん、扉を開けてくれる?』

すると、家のドアをコンコンと叩く音が聞こえた。

 『優子、来てるの?』
 『電話が来るだろうなと思って公園で待っていたの。とりあえず入れてくれる?』

優子はそう言うと同時に電話を切った。おもりを腰にぶら下げられたかのように重くなった腰をゆっくりと上げ、よろよろと1階に下りてドアを開けた。そこには普段の華やかな服とは違う、グレーのパーカーにカーキのロングスカートを穿いた優子がいた。

 「おはよう。ニケさん」

気のせいかもしれないが、優子の目が普段よりも赤くなっているように見えた。そう見えてくると、頬もほんのり赤くなっている気がした。

 「ニケさんの寝起き姿、初めて見た」

優子はそう言って笑うと僕の寝癖を撫でるように優しく触れた。その心地いい手の感触に覚えがあり、それを思い出していると、いつか黒猫になっていた時に優しく撫でられていた優子の笑顔が思い浮かんだ。そういえば最近、僕はずっと黒猫になっていない。黒猫になれる事すら忘れていた。1年以上は黒猫になっていないのではないか。だが、今はそれを考えている余裕なんかあるはずがなかった。

 「師匠がいないんだ」
 「分かってる」

大黒柱を抜かれた建物のように今にも崩れてしまいそうな僕を、正面から優しく包み込んでくれるように優子は僕を抱きしめてくれた。それと同時に金木犀のような優しくて落ち着く香りが僕の鼻に届いた。

 「今は辛いと思います。その気持ちは私だって痛いほど分かる。だから、今日から私があなたの側にいる。師匠の代わりになる自信は無いけれど」

僕の体に重心を預けながら、自分の顔を僕の胸元に埋めたまま優子は僕にそう言ってくれた。師匠と優子はやっぱり同じ匂いがした。

 「ニケさん、去年より身長伸びたね」

僕は優子の背中にそっと手を回し、彼女には気づかれないように僕は静かに泣いた。けれど、それはすぐ彼女に気づかれ、僕を慰めるように背中を優しく撫でてくれた。

 「ニケさん」
 「は、はい」
 「私には弱い所、いっぱい見せて。私もニケさんに助けられた。1人だった私に手を差し伸べてくれた。あなたのおかげで友達ができた。私を変えてくれた。だから、今度は私がニケさんを全力で支える。1人で泣くのはダメ。絶対にダメ」

僕の強がりは優子の言葉で一瞬にしてなくなった。僕は初めて声を上げて泣いた。初めて力いっぱい「人」を抱きしめた。そんな僕の体を、僕の背中を優子はいつまでも優しく撫でてくれた。