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 翌朝、商売に行くためにさらしを巻き直していると、四合院の外が騒がしくなった。
 筵を跳ね上げて家畜小屋を出ると、なぜか中庭に豪華な建物ができていた。
 ――なによ、これ?
 丹塗りの柱に、緑や青の梁を幾重にも重ねて装飾瓦の屋根をのせた、まるで宮殿を縮めたかのような建物だ。
 よく見ると、土台となる部分は棒でできていて、四方に突き出た長柄を担ぐ人夫がずらりと並んでいる。
 それは貴人が乗る輿だった。
 ――いったいなんなの。
 うちの小屋より大きいじゃない。
 まったく、よくこんな狭いところに入ってきたものだ。
「嵐雲とはそなたか」
 呼ばれて振り向くと、柔らかそうな布地でできた衣服に銀の笄を差した冠をかぶった老人がこちらを見ていた。
 どうやらかなり偉い役人らしい。
「門前町で饅頭を売っておるそうだな」
「ああ、まあ、そうだけど」
「昨日、指輪を預けていった者がおったであろう」
「ああ、あの気取った兄ちゃんか」と、蘭玲は中指から指輪をはずそうとした。「お代を持ってきてくれたのかい?」
 老人は指輪を受け取らずに押しとどめた。
「いや、そなたたちを迎えに来たのじゃ」
 まるで話の筋が分からない。
 蘭玲が立ちすくんでいると、家畜小屋から妹の小鈴まで役人に抱え出されてきた。
「おい、何をする。やめろ。妹は病気なんだ」
「さよう。だから医者に診せるように言いつかっておる。早く乗るがいい」
「え、ちょっと……」
 背中を押されて妹とともに乗せられたとたん、輿がふわりと浮き上がった。
 人夫たちが一斉に肩に担いで立ち上がったのだ。
「お姉ちゃん、空を飛んでるみたいだね」
 無邪気に喜ぶ妹を見ていると姉としても嬉しくなるが、どこに連れていかれるのか分からないからまるで落ち着かない。
 四合院の中庭から真横にずれるように路地へ出ると、一糸乱れぬ人夫の動作で進行方向が変わる。
 仙人の乗る雲もかくやというほどに全く揺れることなく滑らかだ。
 輿の中には座布団が敷き詰められていて、家畜小屋の藁よりも居心地が良いせいか小鈴はすやすやと寝息を立てて眠ってしまった。
 そんな妹の頭を撫でてやりながら格子の隙間から外を見ると、街の人々が呆けた表情で指を差しながら見上げている。
 それはそうだろう。
 お祭りですら、こんな立派な輿など見たことがない。
 大通りへ出ると、そこには鎧兜に身を固めた武人たちが黄色い旗を掲げて並んでいた。
 黄色は皇帝直属軍を象徴する禁色のはずだ。
 一般庶民はもちろん、貴族ですら黄色い衣服や建材の使用は禁じられている。
 何が起こっているのか分からないまま、兵士に守られた輿は都の中心へと向かって進んでいく。
 そしてついに、壮麗な屋根の並ぶ宮城の前までやってくると、空高く屋根がそびえる楼門をくぐって中へと入ってしまうのだった。
 まるで蓬莱山の神殿へと導かれているかのようだ。
 ――どこまで行くのよ?
 蘭玲は妹を連れて飛び降りようかと思ったが、今さら逃げようもなかった。
 宮城の中は数え切れないほどの門やどこまで続くのか見通せないほどの塀でいくつもの区画に分けられて、迷路のようであった。
 と、黄色い瓦屋根がそびえる楼門の前で輿が下ろされた。
 少したって格子窓が開けられ、四合院で会った老人が顔を見せる。
「嵐雲殿はここからは歩きじゃ」
「小鈴はどうなるんだ?」
「心配するでない。後宮の医者に診せるだけじゃ」
 後宮?
「本当に大丈夫なんだろうな。あんたら、人さらいじゃないのか?」
「無礼者め」と、言葉は厳しいが老人の口元には笑みが浮かんでいた。「まあ、無理もないことよ。安心せい。当代一の名医が診てくださるのだ」
 いや、だから心配なんだが。
 どれだけの薬料を取られるのか想像もつかない。
 治ったのはいいが、奴隷にでもされたのではかなわない。
 困惑しながら降りると、輿は再び人夫たちに担がれて宮城の奥へと去っていってしまった。
「嵐雲殿、こちらへ」
 老人に導かれるままに徒歩で楼門をくぐった蘭玲は思わず息をのんだ。
 ――紫雲殿。
 そこはこれまで見てきたどの建物よりも大きく高くそびえる皇宮の正殿だった。
 丹塗りの太い柱を連ねて支えられた屋根は山のごとくそびえて金色に輝き、長く幅広い石段の中央には龍と鳳凰が刻まれ、その下に広がる石畳の中庭には大勢の役人たちが並んでひざまずいていた。
 その中央の通路を老人が歩んでいく。
「お、おい……」
 置いていかれても困るので、蘭玲もへこへこと周囲に頭を下げながら仕方なくついていった。
 役人たちの先頭まで来たところで老人がひざまずいた。
「これより朝儀である。嵐雲殿も控えられよ」
 老人の隣に言われたとおりに膝をついて頭を下げた。
 ――なんでこんなことをしなくちゃならないのよ。
 あたしは饅頭代をもらうだけでいいのに。
 遙か頭上で銅鑼が鳴る。
 と、空気が変わった。
 ぴりりと凍りついたように風すらもやんだ気がする。
 役人たちが頭を下げたまま一斉に立ち上がり、石畳を右足で踏みしめて靴音を響かせたかと思うと、またひざまずく。
 雰囲気に飲まれた蘭玲も老人の所作を真似してみたものの、どうにも格好がつかない。
「陛下にはご機嫌麗しゅう」
 いきなり老人が大きな声を張り上げるので、蘭玲は腰を抜かしそうになった。
 どこにそんな肺活量があるのか、銅鑼よりもよく通る声だ。
「陛下にはご機嫌麗しゅう」
 背後の役人たちが唱和する。
 ――何がご機嫌なんだか。
 不機嫌な蘭玲は黙っていた。
「本日も天下太平にございます」
 ――宮廷しか知らないあんたらに何が分かるのよ。
 庶民の暮らしは苦しくなるばかりだっていうのに。
「本日も天下太平にございます」
 その後も浮世離れした唱和が続き、あくびをこらえていると、急に老人が立ち上がった。
「嵐雲殿も立つがよい」
「はあ」
 立ち上がって顔を上げると、龍と鳳凰を隔てた遙か彼方の殿上に金色の椅子に腰掛けた男の姿が見えたが、表情は分からない。
「馬鹿者」と、老人にたしなめられる。「立てとは言ったが、ご尊顔を拝せとは言っておらん」
「どうせ遠くて蟻みたいじゃんか」
「無礼者が。陛下を蟻などとは二度と口にするでないぞ」
「めんどくせえなあ」
 と、いきなり槍を構えた兵士が四人やってきて蘭玲を取り囲む。
「おいおい、いきなりなんだよ」
「これより御前試合をおこなう」
 老人の言葉に合わせて蘭玲にも身の丈ほどの棒が与えられた。
 よく見ると、兵士たちも鎧ではなく稽古で使われるような防具を身につけており、槍も同じく先を丸めた木製だった。
「なんで俺が?」
「そなた相当の腕前と聞いておる。陛下の御前で見事勝ち抜けば、そなたも宮中に仕えることがかなうのじゃ」
「いや、待ってくれよ。俺は饅頭屋だぞ」
「妹御の薬料もすべて下賜されるが?」
 ちくしょう。
 人質に取りやがったな。
 妹のことになると心の声までつい荒くなってしまう。
「やってやるよ。四人でいいんだな」
 蘭玲の言葉に兵士たちがいきり立つ。
「なんだと、小僧。我ら禁裏の近衛四天王に向かってそんな口をきいて後悔するなよ」
「うるせえな。さっさとまとめてかかってこいよ」
 蘭玲は、わざと挑発しながら棒を構えた。
 時を止めて相手の動きの裏をかかなければ倒すことができない。
 これも作戦の一つだった。
「生意気な。我らの力、見せつけてやる」と、思惑通り、連中は一度に飛びかかってきた。
 力任せの単純なやつらだ。
 蘭玲は時を止めて目の前の兵士の脇によけ、股間に棒をあてがって時を戻した。
「うおっ!」
 もんどり打った兵士が後ろから襲いかかろうとしていた兵士に突っ込んでしまい、二人とも石畳の上に転がって口から泡を吹いている。
 ――楽勝じゃん。
 右から槍を突き出してくる相手にも、時を止めて背後に回り込み、背中に蹴りを入れて時を戻せば、左から突っかかってきていた相手と呆けた表情でお見合いになり、その隙に棒で脚を払えばまとめて一丁上がりだ。
 全然たいしたことのないやつらだ。
「勝負あり! これはお見事!」
 老人が手をたたくと、居並ぶ官僚たちも一斉に歓声を上げて蘭玲の腕を褒め称えた。
「さすがは陛下が見込んだだけのことはある」
 ――ん?
 見込まれたって、いつ?
 龍と鳳凰が睥睨する石段を見上げると、その向こうで椅子から立ち上がった男がこちらを見下ろしていた。
「さ、こちらへ参られよ」
 老人に招かれて蘭玲は石段を上がっていった。
 一歩一歩近づくにつれて、男の顔が見えてくる。
 涼やかな目に鼻筋の通った二十歳ほどの男。
 背が高い割に線が細い。
 黄色地に赤い縁取りの式服には金糸の龍と銀糸の鳳凰が刺繍されている。
 佩刀は虎の毛皮でしつらえてある。
 着ている服は違えども、どこかで見たような……。
「おい、饅頭屋、俺だ」
「あっ! おまえ!」
 玉座の前にいたのは、饅頭代も払えなかった小役人の男だった。
 ――どうしてそんなところに?
 しかも、なによ、その偉そうな格好……。
「無礼者が」と、老人に脇腹を突かれてしまう。「陛下になんという口のきき方か」
「だって、あいつ……」
「陛下である」と、今度は頭を押さえつけられてしまった。「恐れ多くも皇帝陛下にあらせられるぞ」
 近衛四天王をあっという間に倒した勇者として表彰されているはずが、これではなんとも格好がつかない。
 ――陛下って……、あいつ皇帝だったの?
「俺は玄龍。間違いなく皇帝だ」
 嘘でしょ。
 なんか、食い逃げ男だと思ってあれこれ失礼なこと言っちゃったよね。
 殿上の男が朗らかに笑いながら手招きする。
「これ、大臣、かまわん。近う寄れ」
「ははっ」
 老人は頭を下げながら石段を登って蘭玲を皇帝の面前へ引き出した。
「これ、そなたもひざまずいて頭を下げるのじゃ」
「へいへい」
 蘭玲はもはや抵抗する意思もなく従っていた。
 空から降ってくるように皇帝の言葉が発せられた。
「嵐雲、そなたを後宮付きの衛士として登用する。妹御とともに後宮に暮らすが良い」
「なんですと!」と、老人が顔を上げる。「おそれながら陛下、言うまでもなく後宮に男子は禁制でございますぞ。衛士としてはともかく、住まわせるなどもってのほか」
「かまわぬ。この者は問題ない」
 それはそうだ。
 ――だって女だもん。
 蘭玲は心の中でペロリと舌を出した。
 とはいえ、正体がバレたらそれはそれで大問題だろう。
 素性を知らない大臣は渋っている。
「なにゆえでございますか。後宮の風紀が乱れれば皇統の維持も危ぶまれまする。歴史をひもとくまでもなく、諸王朝の衰亡はすべて後宮のほころびが発端でございますぞ」
「しかし、妹を一人にしておくのでは承諾せぬであろう」
「それはもちろんだ」と、蘭玲――嵐雲――は横から口を挟んだ。
「これ、勝手に返答いたすな」
 また老大臣に頭を押さえつけられてしまったが、黙ってはいられない。
「あた……、お、俺と妹を離ればなれにするなら、今すぐ帰るぞ」
「この者の望むようにいたせ」と、皇帝――玄龍――はあらためて告げた。
 ため息まじりにうなっていた老大臣は首を振りながら言上した。
「陛下がそうおっしゃるのであれば仕方がありませぬな。妹御が回復するまで、後宮の衛士として、行動範囲を限定するのであれば、良しといたしましょう」
 皇帝は鷹揚にうなずいた。
「すぐに後宮に伝達し、手配させよ」
「かしこまりました」
 老大臣が石段の上から振り返り、居並ぶ官僚たちに解散を告げた。
「これにて朝儀は終了。各自おつとめに励まれよ」
 ははっと一同がひれ伏し、散会する中で、蘭玲はまさに雲の上のごとき紫雲殿の玉座を今一度見上げた。
 そこにいたはずの男はすでに姿が見えなくなっていた。
 なぜか背筋が寒くなる。
 今になって急に冷や汗が吹き出してきた。
 それが皇帝の威厳というものなのか、蘭玲は己の身を抱きしめるようにして、これからのことに思いを巡らせるのだった。