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もうすぐ日も落ちる頃合いになって、饅頭屋の若者は横町のぬかるんだ裏路地を歩いていた。
屋台は寺院からの借り物で、炭や材料の粉などはその都度買うから手ぶらでいいが、手数料や代金を支払うと、今日の稼ぎも雀の涙だった。
――正直者が馬鹿を見るか。
いくら饅頭が評判でも、うわまえをはねる奴らが儲かる世の中だ。
おまけに、今日などは小銭も払えない小役人に指輪なんかを押しつけられて、まったく困惑するばかりだった。
この若者には隠していることが二つあった。
一つは、今日の立ち回りだ。
饅頭屋の若者に武術の心得などない。
では、なぜ荒くれ者どもを三人も倒せたのか。
実は、ほんの一瞬だけ、時を止めることができるのだ。
殴りかかる相手を止め、身をかわし、拳を突き出しておいて時を進める。
そうすれば、勝手に相手はこちらの拳にぶつかってきてくれるというわけだ。
無防備な背中に回り込むのも簡単だ。
そんな特殊な能力があるとは、まだ誰にも見破られたことはない。
だから今まで、ああした連中に絡まれてもうまく立ち回ってこれたのだ。
中庭に面するように長屋をつなげた四合院の一角に若者の住まいはあった。
ただし、まともな建物ではなく、長屋の脇に放置された家畜小屋に藁を敷いて住まわせてもらっているのだった。
「ただいま」と、戸口に垂らした筵を跳ね上げた若者の声は急に柔和になっていた。
暗がりで横になっていた少女が体を起こした。
「お帰り、お姉ちゃん」
――もう一つの秘密。
若者は男ではなく女だった。
娘姿では客寄せには良くても絡まれると面倒だから、仕事に出かけるときは男装をしているのだ。
それでもやはり今日のような無法者につけ込まれることもあるし、女としての危機にさらされることも多かったが、時を止める能力でなんとかしのいできた。
小役人にはとっさに嵐雲などと名乗ったが、蘭玲が本当の名前だ。
「どう、具合は」
「大丈夫だよ」と、言ったそばから妹は咳き込んでしまう。
「おなかすいたでしょう。お粥を作ってきたからね」
ここに調理器具はないし、薪がもったいないから、商売用の饅頭をふかすついでに作っておいたのだ。
もちろん米の粥ではない。
雑穀にすりつぶした草を混ぜて薄めるだけ薄めた粥とも呼べない代物だ。
せめて売り物の饅頭でも食べさせてやりたいところだが、そんな贅沢を言っている余裕などなかった。
「もうすぐ薬も買えるからね、小鈴」と、背中をさすってやるくらいしかできない。
「お姉ちゃん、お手伝いできなくてごめんね」
「そんなこと言わないの。大丈夫よ。すぐに元気になるから」
と、言ってはいるものの、正直なところ、日に日に不安は増すばかりだった。
青白い顔をこわばらせた妹の手は震えて、もはや粥すらまともに喉を通らない。
姉妹に親はいない。
寒村の農家から人減らしで売られた母は都へ連れてこられ、二人を産んで亡くなった。
父親が誰かは分からない。
おそらく、妹と自分の父は違うのだろう。
妹を人買いに売れば楽になると、四合院の大人たちから言われたこともある。
だが、病気になってからはそんな話もされなくなった。
二人にとってそれが良いことなのかどうかも分からない。
姉妹は穴の空いた筵と藁をかき寄せ、肩を寄せ合って潜り込むと、震えながら眠りにつくのだった。