さかのぼること遙かなる御世に、黄河のほとりに広がる都の大路を一人の青年が歩いていた。
名は玄龍。
涼やかな目に鼻筋の通った二十歳ほどの男だが、背が高い割に線が細く、腰には佩刀ではなく木刀を差している。
よく晴れた昼下がりの大路を行き交う人波をかわしながら歩いていると、路地から子供たちが駆け出してきた。
「やーい、ここまでおいで!」
追いかけてくる連中に向かって小馬鹿にしながら振り返った少年が玄龍に気づかずぶつかってきた。
「おっと、危ないぞ」
転ばないように受け止めてやったにもかかわらず、仲間に追いつかれたのが不満なのか、小僧が口をとがらせる。
「おじさん、邪魔だよ」
「おじさんはないだろ」
今度は玄龍が不満を述べたが、子供たちはそんな抗議など無視して駆けていってしまう。
――賑やかでいいものだ。
街は活気に満ちて、子供たちの笑顔にあふれている。
と、大路から寺院の門前町へ入ったところで、玄龍は騒動に遭遇した。
饅頭屋台の前で、武人三人を相手に若者が啖呵を切っている。
「どういうことだい? 金を払えねえだと?」
さらしを巻いた胸をはだけた若者はまだ十代半ばくらいか、ふかしたての饅頭のようにつるりとした頬が赤く染まっている。
武人たちは屋台に蹴りを入れながら野次馬に向かって食いかけの饅頭を投げつけた。
「おう。こんなまずい物にお代を取るのかよ」
「言ってくれるね。おいらの饅頭は門前一の名物って評判だぞ」
「だからこうして食いに来てみたら、まずいことまずいこと」
様子を見ていた玄龍が間に割って入った。
「せこい旦那方だね。饅頭代ぐらいおとなしく払ってやりなよ」
「なんだと、この野郎」
あっという間に荒くれどもに三方を囲まれて、毛むくじゃらの腕が伸びてきた。
「おい、兄さん。余計な口出しはしないでくれ」
後ろからも肩をつかまれ振り向くと、饅頭屋の若者が迷惑そうな目で見ている。
助けてやろうとしたつもりが前後から挟まれてしまった。
「だとよ」と、胸ぐらをつかんでいた武人が玄龍を脇に投げ飛ばす。「優男はすっこんでな」
よろよろと尻餅をつきそうになるのを、野次馬たちに助けられて玄龍はなんとか踏みとどまった。
卑怯にも荒くれどもが三人揃って饅頭屋に襲いかかる。
しかし、次の瞬間、信じられないことが起きた。
若者が千手観音も驚くほどの早業で相手の顔面や腹に次々と拳を突き出したかと思うと、韋駄天のごとく背後に回り、股間に狙いをすまして脚を振り上げ、あっという間に三人まとめて倒してしまったのだ。
あまりにも見事な立ち回りに拍手や歓声が沸き起こる。
――ほう、おもしろいものだな。
玄龍は腰から木刀を引き抜き、道に落ちていた財布を引っかけて取り上げた。
「ほら、これで足りるか?」
適当に小銭をつかんで差し出すと、若者は笑みを浮かべて受け取った。
「なんだ、あんたまだいたのかい? ありがとよ」
股間を押さえて後ずさる荒くれどもに財布を放ってやると、お決まりの捨て台詞が返ってくる。
「ち、ちくしょう。覚えてやがれよ」
「二度とこんな真似はするなよ」
鼻で笑いながら、倒れていた縁台を起こして玄龍は腰掛けた。
「せっかくだから俺も饅頭をもらおうか」
「あんた何もしてないのに偉そうだね。ちゃんとお代は払ってくれよ」
「あのような馬鹿者どもと一緒にされてはかなわぬな」
ひょいと差し出された皿を受け取って玄龍は小ぶりな饅頭を頬張った。
綿のようにふっくらと蒸し上がった皮の中にごまの風味の効いた餡が詰まっている。
「ほう、なるほど、これは美味だな」
「美味って、気取った言い方するもんだね」と、若者が笑う。「格好は地味だけど、あんた役人かい?」
「まあ、そんなところだ」
若者の表情が曇る。
「食ったら、とっとと行ってくれ」
「なんだ、冷たいな」
「役人は嫌いだ」
「なにゆえだ。恨みでもあるのか?」
「あんたみたいな下っ端に文句言っても始まらないさ」
まともな刀も持たない玄龍の姿を眺め回しながら若者がため息をついた。
「最近、御上が代替わりしたって騒いでただろ」
大帝国を統べる皇帝が崩御し、新帝が即位したのは半年ほど前だった。
即位後に大行列を引き連れて視察がおこなわれたときには、浮浪者は警護の武人たちに追い払われ、商売は役人たちの命令で中止させられた。
そのくせ日銭を稼がなければ死活問題の一般庶民は都の大路に狩り出され、平伏して祝賀の意を表すことを強要されたのである。
良い印象などあるわけがなかった。
「まだ若いんだかなんだか知らないけど、新しい皇帝ってやつが後宮で甘やかされてきた坊ちゃんだから、古株の役人どものやりたい放題でまともな政治がおこなわれていないってみんな困ってるよ」
「そうなのか?」と、玄龍は二つめの饅頭を頬張った。「街は賑やかなようだが」
「さっきみたいなくだらない騒動のせいだろ。風紀が乱れて、正直者が馬鹿を見るだけさ」
「そなたのような……か」
「褒めたっておいらの役人嫌いは変わらねえよ」
「そなたほどの腕なら宮廷の衛士になれるだろうに。給料も良いぞ」
腕組みをした饅頭屋が玄龍の前に立ちはだかる。
「よしてくれよ。頼まれたってごめんだね」
「そなたの腕を世のために役立たせてみてはどうだ?」
「俺一人の腕じゃ、何も変わらないさ」
饅頭屋の顔を見上げて玄龍はふっと笑みを浮かべた。
「なんだよ」と、若者は顔を背けた。「その笑い方、気に入らねえな」
「そなたも逃げておるではないか」
「なんだと」と、今度は間合いを詰めてにらむ。「どういうことだ?」
「世の中に変わってほしいなら、自分から動かねば何も変わるまい」
「俺は饅頭屋だ。俺の饅頭をみんな喜んで食ってくれる。それの何が悪い」
「いや、すまん」と、玄龍は頭を下げた。「たしかにうまかった」
若者は玄龍の態度に勢いをそがれて肩をすくめると、さっさと皿を片付けた。
「ん……、お?」
立ち上がって懐を探っていた玄龍が首をかしげる。
「おかしいな。財布がないぞ」
「おいおい、まさかあんたまで食い逃げしようってんじゃねえだろうな」
呆れた顔で詰め寄る若者に玄龍は両手を突き出して、ちぎれるほどに振った。
「いや、ちょっと待ってくれ」
――あのときか。
路地から駆け出してきた子供たちの姿は思い浮かぶが、顔までは覚えていなかった。
なるほど、世の賑わいもかりそめか。
子供の心まですさんでおるようだな。
「すまん」と、玄龍は若者に頭を下げた。「財布を忘れてきたようだ」
「まったくなんて世の中だよ」と、若者が天を仰ぐ。「役人がこれじゃあ、この先も期待できそうにないな」
「食い逃げをするつもりはない」と、玄龍は手から指輪を抜き取って差し出した。「これを質に置いていく」
金地の指輪には碧玉がならんで象嵌されている。
「よしてくれよ。こんな物もらってもおいらには意味がないぜ」
「必ず後で使いの者をよこす」と、玄龍は若者の手を取って指輪を握らせた。
荒くれどもを倒したとは思えないような柔らかい手と細い指だった。
「困るんだよ」と、若者が肩を落とす。「これじゃあ妹の薬が買えねえんだ」
「妹がおるのか?」
「病気で寝てるんだ。だから薬代を稼がなくちゃならないし、この町を離れるわけにはいかないんだ」
「なるほど、そういうことか」と、玄龍は腕組みをしながらうなずいた。「ならば急がなければならぬな」
そして、笑みを浮かべてたずねた。
「そなた、名は?」
「蘭……」と、言いかけて咳払いをする。「嵐雲」
「いい名前だ。覚えておく」
玄龍は背を向けると、右手を挙げて去っていった。
「おい、あんたは……」
名前を聞きそびれた饅頭屋の若者は左手の中指に指輪をはめながらため息をつくのだった。
◇
もうすぐ日も落ちる頃合いになって、饅頭屋の若者は横町のぬかるんだ裏路地を歩いていた。
屋台は寺院からの借り物で、炭や材料の粉などはその都度買うから手ぶらでいいが、手数料や代金を支払うと、今日の稼ぎも雀の涙だった。
――正直者が馬鹿を見るか。
いくら饅頭が評判でも、うわまえをはねる奴らが儲かる世の中だ。
おまけに、今日などは小銭も払えない小役人に指輪なんかを押しつけられて、まったく困惑するばかりだった。
この若者には隠していることが二つあった。
一つは、今日の立ち回りだ。
饅頭屋の若者に武術の心得などない。
では、なぜ荒くれ者どもを三人も倒せたのか。
実は、ほんの一瞬だけ、時を止めることができるのだ。
殴りかかる相手を止め、身をかわし、拳を突き出しておいて時を進める。
そうすれば、勝手に相手はこちらの拳にぶつかってきてくれるというわけだ。
無防備な背中に回り込むのも簡単だ。
そんな特殊な能力があるとは、まだ誰にも見破られたことはない。
だから今まで、ああした連中に絡まれてもうまく立ち回ってこれたのだ。
中庭に面するように長屋をつなげた四合院の一角に若者の住まいはあった。
ただし、まともな建物ではなく、長屋の脇に放置された家畜小屋に藁を敷いて住まわせてもらっているのだった。
「ただいま」と、戸口に垂らした筵を跳ね上げた若者の声は急に柔和になっていた。
暗がりで横になっていた少女が体を起こした。
「お帰り、お姉ちゃん」
――もう一つの秘密。
若者は男ではなく女だった。
娘姿では客寄せには良くても絡まれると面倒だから、仕事に出かけるときは男装をしているのだ。
それでもやはり今日のような無法者につけ込まれることもあるし、女としての危機にさらされることも多かったが、時を止める能力でなんとかしのいできた。
小役人にはとっさに嵐雲などと名乗ったが、蘭玲が本当の名前だ。
「どう、具合は」
「大丈夫だよ」と、言ったそばから妹は咳き込んでしまう。
「おなかすいたでしょう。お粥を作ってきたからね」
ここに調理器具はないし、薪がもったいないから、商売用の饅頭をふかすついでに作っておいたのだ。
もちろん米の粥ではない。
雑穀にすりつぶした草を混ぜて薄めるだけ薄めた粥とも呼べない代物だ。
せめて売り物の饅頭でも食べさせてやりたいところだが、そんな贅沢を言っている余裕などなかった。
「もうすぐ薬も買えるからね、小鈴」と、背中をさすってやるくらいしかできない。
「お姉ちゃん、お手伝いできなくてごめんね」
「そんなこと言わないの。大丈夫よ。すぐに元気になるから」
と、言ってはいるものの、正直なところ、日に日に不安は増すばかりだった。
青白い顔をこわばらせた妹の手は震えて、もはや粥すらまともに喉を通らない。
姉妹に親はいない。
寒村の農家から人減らしで売られた母は都へ連れてこられ、二人を産んで亡くなった。
父親が誰かは分からない。
おそらく、妹と自分の父は違うのだろう。
妹を人買いに売れば楽になると、四合院の大人たちから言われたこともある。
だが、病気になってからはそんな話もされなくなった。
二人にとってそれが良いことなのかどうかも分からない。
姉妹は穴の空いた筵と藁をかき寄せ、肩を寄せ合って潜り込むと、震えながら眠りにつくのだった。
◇
翌朝、商売に行くためにさらしを巻き直していると、四合院の外が騒がしくなった。
筵を跳ね上げて家畜小屋を出ると、なぜか中庭に豪華な建物ができていた。
――なによ、これ?
丹塗りの柱に、緑や青の梁を幾重にも重ねて装飾瓦の屋根をのせた、まるで宮殿を縮めたかのような建物だ。
よく見ると、土台となる部分は棒でできていて、四方に突き出た長柄を担ぐ人夫がずらりと並んでいる。
それは貴人が乗る輿だった。
――いったいなんなの。
うちの小屋より大きいじゃない。
まったく、よくこんな狭いところに入ってきたものだ。
「嵐雲とはそなたか」
呼ばれて振り向くと、柔らかそうな布地でできた衣服に銀の笄を差した冠をかぶった老人がこちらを見ていた。
どうやらかなり偉い役人らしい。
「門前町で饅頭を売っておるそうだな」
「ああ、まあ、そうだけど」
「昨日、指輪を預けていった者がおったであろう」
「ああ、あの気取った兄ちゃんか」と、蘭玲は中指から指輪をはずそうとした。「お代を持ってきてくれたのかい?」
老人は指輪を受け取らずに押しとどめた。
「いや、そなたたちを迎えに来たのじゃ」
まるで話の筋が分からない。
蘭玲が立ちすくんでいると、家畜小屋から妹の小鈴まで役人に抱え出されてきた。
「おい、何をする。やめろ。妹は病気なんだ」
「さよう。だから医者に診せるように言いつかっておる。早く乗るがいい」
「え、ちょっと……」
背中を押されて妹とともに乗せられたとたん、輿がふわりと浮き上がった。
人夫たちが一斉に肩に担いで立ち上がったのだ。
「お姉ちゃん、空を飛んでるみたいだね」
無邪気に喜ぶ妹を見ていると姉としても嬉しくなるが、どこに連れていかれるのか分からないからまるで落ち着かない。
四合院の中庭から真横にずれるように路地へ出ると、一糸乱れぬ人夫の動作で進行方向が変わる。
仙人の乗る雲もかくやというほどに全く揺れることなく滑らかだ。
輿の中には座布団が敷き詰められていて、家畜小屋の藁よりも居心地が良いせいか小鈴はすやすやと寝息を立てて眠ってしまった。
そんな妹の頭を撫でてやりながら格子の隙間から外を見ると、街の人々が呆けた表情で指を差しながら見上げている。
それはそうだろう。
お祭りですら、こんな立派な輿など見たことがない。
大通りへ出ると、そこには鎧兜に身を固めた武人たちが黄色い旗を掲げて並んでいた。
黄色は皇帝直属軍を象徴する禁色のはずだ。
一般庶民はもちろん、貴族ですら黄色い衣服や建材の使用は禁じられている。
何が起こっているのか分からないまま、兵士に守られた輿は都の中心へと向かって進んでいく。
そしてついに、壮麗な屋根の並ぶ宮城の前までやってくると、空高く屋根がそびえる楼門をくぐって中へと入ってしまうのだった。
まるで蓬莱山の神殿へと導かれているかのようだ。
――どこまで行くのよ?
蘭玲は妹を連れて飛び降りようかと思ったが、今さら逃げようもなかった。
宮城の中は数え切れないほどの門やどこまで続くのか見通せないほどの塀でいくつもの区画に分けられて、迷路のようであった。
と、黄色い瓦屋根がそびえる楼門の前で輿が下ろされた。
少したって格子窓が開けられ、四合院で会った老人が顔を見せる。
「嵐雲殿はここからは歩きじゃ」
「小鈴はどうなるんだ?」
「心配するでない。後宮の医者に診せるだけじゃ」
後宮?
「本当に大丈夫なんだろうな。あんたら、人さらいじゃないのか?」
「無礼者め」と、言葉は厳しいが老人の口元には笑みが浮かんでいた。「まあ、無理もないことよ。安心せい。当代一の名医が診てくださるのだ」
いや、だから心配なんだが。
どれだけの薬料を取られるのか想像もつかない。
治ったのはいいが、奴隷にでもされたのではかなわない。
困惑しながら降りると、輿は再び人夫たちに担がれて宮城の奥へと去っていってしまった。
「嵐雲殿、こちらへ」
老人に導かれるままに徒歩で楼門をくぐった蘭玲は思わず息をのんだ。
――紫雲殿。
そこはこれまで見てきたどの建物よりも大きく高くそびえる皇宮の正殿だった。
丹塗りの太い柱を連ねて支えられた屋根は山のごとくそびえて金色に輝き、長く幅広い石段の中央には龍と鳳凰が刻まれ、その下に広がる石畳の中庭には大勢の役人たちが並んでひざまずいていた。
その中央の通路を老人が歩んでいく。
「お、おい……」
置いていかれても困るので、蘭玲もへこへこと周囲に頭を下げながら仕方なくついていった。
役人たちの先頭まで来たところで老人がひざまずいた。
「これより朝儀である。嵐雲殿も控えられよ」
老人の隣に言われたとおりに膝をついて頭を下げた。
――なんでこんなことをしなくちゃならないのよ。
あたしは饅頭代をもらうだけでいいのに。
遙か頭上で銅鑼が鳴る。
と、空気が変わった。
ぴりりと凍りついたように風すらもやんだ気がする。
役人たちが頭を下げたまま一斉に立ち上がり、石畳を右足で踏みしめて靴音を響かせたかと思うと、またひざまずく。
雰囲気に飲まれた蘭玲も老人の所作を真似してみたものの、どうにも格好がつかない。
「陛下にはご機嫌麗しゅう」
いきなり老人が大きな声を張り上げるので、蘭玲は腰を抜かしそうになった。
どこにそんな肺活量があるのか、銅鑼よりもよく通る声だ。
「陛下にはご機嫌麗しゅう」
背後の役人たちが唱和する。
――何がご機嫌なんだか。
不機嫌な蘭玲は黙っていた。
「本日も天下太平にございます」
――宮廷しか知らないあんたらに何が分かるのよ。
庶民の暮らしは苦しくなるばかりだっていうのに。
「本日も天下太平にございます」
その後も浮世離れした唱和が続き、あくびをこらえていると、急に老人が立ち上がった。
「嵐雲殿も立つがよい」
「はあ」
立ち上がって顔を上げると、龍と鳳凰を隔てた遙か彼方の殿上に金色の椅子に腰掛けた男の姿が見えたが、表情は分からない。
「馬鹿者」と、老人にたしなめられる。「立てとは言ったが、ご尊顔を拝せとは言っておらん」
「どうせ遠くて蟻みたいじゃんか」
「無礼者が。陛下を蟻などとは二度と口にするでないぞ」
「めんどくせえなあ」
と、いきなり槍を構えた兵士が四人やってきて蘭玲を取り囲む。
「おいおい、いきなりなんだよ」
「これより御前試合をおこなう」
老人の言葉に合わせて蘭玲にも身の丈ほどの棒が与えられた。
よく見ると、兵士たちも鎧ではなく稽古で使われるような防具を身につけており、槍も同じく先を丸めた木製だった。
「なんで俺が?」
「そなた相当の腕前と聞いておる。陛下の御前で見事勝ち抜けば、そなたも宮中に仕えることがかなうのじゃ」
「いや、待ってくれよ。俺は饅頭屋だぞ」
「妹御の薬料もすべて下賜されるが?」
ちくしょう。
人質に取りやがったな。
妹のことになると心の声までつい荒くなってしまう。
「やってやるよ。四人でいいんだな」
蘭玲の言葉に兵士たちがいきり立つ。
「なんだと、小僧。我ら禁裏の近衛四天王に向かってそんな口をきいて後悔するなよ」
「うるせえな。さっさとまとめてかかってこいよ」
蘭玲は、わざと挑発しながら棒を構えた。
時を止めて相手の動きの裏をかかなければ倒すことができない。
これも作戦の一つだった。
「生意気な。我らの力、見せつけてやる」と、思惑通り、連中は一度に飛びかかってきた。
力任せの単純なやつらだ。
蘭玲は時を止めて目の前の兵士の脇によけ、股間に棒をあてがって時を戻した。
「うおっ!」
もんどり打った兵士が後ろから襲いかかろうとしていた兵士に突っ込んでしまい、二人とも石畳の上に転がって口から泡を吹いている。
――楽勝じゃん。
右から槍を突き出してくる相手にも、時を止めて背後に回り込み、背中に蹴りを入れて時を戻せば、左から突っかかってきていた相手と呆けた表情でお見合いになり、その隙に棒で脚を払えばまとめて一丁上がりだ。
全然たいしたことのないやつらだ。
「勝負あり! これはお見事!」
老人が手をたたくと、居並ぶ官僚たちも一斉に歓声を上げて蘭玲の腕を褒め称えた。
「さすがは陛下が見込んだだけのことはある」
――ん?
見込まれたって、いつ?
龍と鳳凰が睥睨する石段を見上げると、その向こうで椅子から立ち上がった男がこちらを見下ろしていた。
「さ、こちらへ参られよ」
老人に招かれて蘭玲は石段を上がっていった。
一歩一歩近づくにつれて、男の顔が見えてくる。
涼やかな目に鼻筋の通った二十歳ほどの男。
背が高い割に線が細い。
黄色地に赤い縁取りの式服には金糸の龍と銀糸の鳳凰が刺繍されている。
佩刀は虎の毛皮でしつらえてある。
着ている服は違えども、どこかで見たような……。
「おい、饅頭屋、俺だ」
「あっ! おまえ!」
玉座の前にいたのは、饅頭代も払えなかった小役人の男だった。
――どうしてそんなところに?
しかも、なによ、その偉そうな格好……。
「無礼者が」と、老人に脇腹を突かれてしまう。「陛下になんという口のきき方か」
「だって、あいつ……」
「陛下である」と、今度は頭を押さえつけられてしまった。「恐れ多くも皇帝陛下にあらせられるぞ」
近衛四天王をあっという間に倒した勇者として表彰されているはずが、これではなんとも格好がつかない。
――陛下って……、あいつ皇帝だったの?
「俺は玄龍。間違いなく皇帝だ」
嘘でしょ。
なんか、食い逃げ男だと思ってあれこれ失礼なこと言っちゃったよね。
殿上の男が朗らかに笑いながら手招きする。
「これ、大臣、かまわん。近う寄れ」
「ははっ」
老人は頭を下げながら石段を登って蘭玲を皇帝の面前へ引き出した。
「これ、そなたもひざまずいて頭を下げるのじゃ」
「へいへい」
蘭玲はもはや抵抗する意思もなく従っていた。
空から降ってくるように皇帝の言葉が発せられた。
「嵐雲、そなたを後宮付きの衛士として登用する。妹御とともに後宮に暮らすが良い」
「なんですと!」と、老人が顔を上げる。「おそれながら陛下、言うまでもなく後宮に男子は禁制でございますぞ。衛士としてはともかく、住まわせるなどもってのほか」
「かまわぬ。この者は問題ない」
それはそうだ。
――だって女だもん。
蘭玲は心の中でペロリと舌を出した。
とはいえ、正体がバレたらそれはそれで大問題だろう。
素性を知らない大臣は渋っている。
「なにゆえでございますか。後宮の風紀が乱れれば皇統の維持も危ぶまれまする。歴史をひもとくまでもなく、諸王朝の衰亡はすべて後宮のほころびが発端でございますぞ」
「しかし、妹を一人にしておくのでは承諾せぬであろう」
「それはもちろんだ」と、蘭玲――嵐雲――は横から口を挟んだ。
「これ、勝手に返答いたすな」
また老大臣に頭を押さえつけられてしまったが、黙ってはいられない。
「あた……、お、俺と妹を離ればなれにするなら、今すぐ帰るぞ」
「この者の望むようにいたせ」と、皇帝――玄龍――はあらためて告げた。
ため息まじりにうなっていた老大臣は首を振りながら言上した。
「陛下がそうおっしゃるのであれば仕方がありませぬな。妹御が回復するまで、後宮の衛士として、行動範囲を限定するのであれば、良しといたしましょう」
皇帝は鷹揚にうなずいた。
「すぐに後宮に伝達し、手配させよ」
「かしこまりました」
老大臣が石段の上から振り返り、居並ぶ官僚たちに解散を告げた。
「これにて朝儀は終了。各自おつとめに励まれよ」
ははっと一同がひれ伏し、散会する中で、蘭玲はまさに雲の上のごとき紫雲殿の玉座を今一度見上げた。
そこにいたはずの男はすでに姿が見えなくなっていた。
なぜか背筋が寒くなる。
今になって急に冷や汗が吹き出してきた。
それが皇帝の威厳というものなのか、蘭玲は己の身を抱きしめるようにして、これからのことに思いを巡らせるのだった。
◇
蘭玲の身柄は新人衛士嵐雲として後宮の女官に引き渡され、小鈴とは療養所で再会できた。
「栄養が足りぬゆえ、病も長く居座ったのじゃな」と、瑞紹老師が薬包の束を差し出した。「時間はかかるが回復するであろう。焦らず養生するが良い」
「先生、ありがとうございます」
瑞紹老師は後宮の療養所を束ねる医者である。
当代一の名医に診てもらえるという約束は本当だったようだ。
「ではこちらへ」と、稲妻のように幾重にも折り重なった廊下を侍女に案内されてやってきたのは、後宮の隅にある承和殿という建物の小部屋だった。
北側で日当たりは悪いが、それでも家畜小屋よりは広いし、なによりも柔らかな布団に、かまどの熱を使った床暖房まであって、二人にとっては極楽のようであった。
おまけに食事まで保証されている。
「そんなに豪華な物は出ないけどね」と、丸顔で肌艶の良い侍女が笑う。
それでも薄い粥に比べたらごちそうには違いない。
侍女は妹専属で世話をしてくれるという。
「私は春鈴、あなたは小鈴。私たち姉妹みたいね」
はにかむ妹の頭を撫でながら蘭玲は頭を下げた。
「どうか妹のことをよろしく頼む」
「はい。お兄様のためにも全力でお世話いたします」
蘭玲を見る春鈴の目つきが艶っぽくて気になるが、話し好きで、おとなしい小鈴にはちょうど良い相手のようだった。
茶を一杯味わったところで、蘭玲のもとへ衛士隊長から使いが来た。
「やれやれ、仕事か」
「おね……」と、言いかけた妹の口に指を立てる。
「あ、ええと……、お兄様、行ってらっしゃいませ」
「ああ、ゆっくりと休んでいるんだぞ」
腹の底からわざとらしいほど低い声を絞り出して部屋を出てきたものの、いつ素性が明らかになるかと心配でしょうがない。
承和殿から渡り廊下を通って景旬殿という建物へ行くと、そこの庭は小ぶりな楼門に面していた。
後宮と外部を分ける弘化門だ。
衛士たちは門の周辺に立っているが、一人だけ景旬殿の外縁廊下に立って全体を見回している鎧武者がいた。
「お、新人か」と、声をかけてきたその男は大柄で壁のように横幅も広い。
「はい、呼び出されたので参りました」
「御前試合で良いところを見せたそうだが、ここでは新人だ。調子に乗るんじゃないぞ」
――なんだか面倒くさそうな人だ。
「おい、おまえ、今面倒くさいと思ったな」
「なっ、なんで……」
「べつに異能ではない」と、鎧武者の口元に笑みが浮かぶ。「俺は顔色を読むことに長けているだけだ」
なんだ、それだけか。
「それだけとはなんだ。相手の顔色を読めば次に繰り出してくる技を予想できる。だから俺は一騎打ちでは負け知らずで、こうして衛士長を仰せつかっているのだ」
どうやらこの面倒な男がここの責任者ということらしい。
「なるほどそうですか。新人で至らぬこともあるかと思いますが、よろしくお願いします」
「まあいいだろう。至らぬ時は命を投げ出せ。分かったか」
と、言われても、妹のためにも死ぬわけにはいかない。
だが、そんなことを少しでも思い浮かべれば心を読み取られてしまうのだろう。
蘭玲は余計なことを考えないことに決めた。
「分かりました。命を賭けておつとめいたします」
「よぅし、良い返事だ」
本音と建て前を使い分ければ問題なさそうだった。
衛士長は自分が持っていた三尖両刃刀を蘭玲に差し出した。
「おまえは見込みがあるようだ。気に入ったぞ。これをやろう」
「はあ」
「俺は衛士長の浩然」と、男が勝手に手を握ってきた。「おまえは?」
「はい、嵐雲であります」
じっとりと汗ばんだ男の手が気持ち悪いが、表情を読み取られないように虚無の心でこらえる。
と、そこへ先触れとして二人組の女官がやってきた。
「お妃様のお成りであーる。みなの者ぉーぅ、お控えなされーい」
独特な抑揚に思わず笑いそうになってしまう。
「馬鹿野郎、早く下りろ」と、浩然にそのまま手を引っ張られて、危うく外縁廊下から転げ落ちそうになる。
「何事でございますか」
「俺たち男はお妃様と決して目を合わせてはならないのが後宮の掟だ。それを破れば自分だけでなく一族みな処刑される。だからお妃様がお通りになるときは武器を背中に回して地面にひざまずくのが俺たち衛士の作法だ」
蘭玲は浩然のやり方をまねて湿った土の上にひざまずいた。
頭を下げたまま周囲を見回せば、反対側の楼門にいる兵士までがみな同様にひざまずいていた。
頭の上で衣擦れの音が幾重にも連なって通り過ぎていく。
と、なぜか蘭玲の前で行列が止まった。
「そこの者、面を上げなさい」と、澄んだ声が降りてきた。
目を合わせれば死罪と言われたばかりの蘭玲はどうしたものかと動けずにいた。
「そなたです」と、再び声がする。「構いません、面を上げなさい」
戸惑っている蘭玲のそばにおつきの女官が階段を下りてきてささやく。
「お妃様のご命令です。早く面を上げなさい」
「しかし、その……、死罪では?」
「後宮では身分の高いお方のご命令は絶対です」
「はあ」と、蘭玲は三尖両刃刀を背中に回したまま顔を上げた。
外縁廊下にいるのは、銀糸で鶴の刺繍が施された薄桃色の上衣をまとった女御だった。
体は廊下の先へ向けたまま、切れ長の目だけを投げかけてこちらを見下ろしている。
「その方、見かけない顔ですが、新しい人かしら?」
「はい」
「名は?」
「嵐雲と申します」
「そう」
女御はうなずくと視線を戻した。
と、同時に一同が一斉に動き出す。
何人いるのか分からないほどのお付きの者を従えながらお妃様が去っていき、静かになった景旬殿の庭には衛士たちのため息がこぼれた。
――ああ、やってられないや。
「馬鹿者」と、浩然が立ち上がる。「これが俺たちの仕事だ。誇りを持って任務に当たれ」
「はい、かしこまりました」
「よぅし、良い返事だ」
浩然は蘭玲の尻をはたいて笑いながら去っていった。
――あの野郎。
背中に毛虫を入れられたみたいに気色悪い。
思わず後ろ姿に向かって舌を出したが、衛士長は振り向くことがなかった。
どうやら、顔を見られなければ心を読み取られる心配もないらしい。
案外単純なものかもな。
幸いなことに、衛士としての仕事は難しいものではなかった。
後宮と外部との往来は指定の商人や人夫に限られ、身元のはっきりしない者は排除される。
身元の確認は官僚がおこなうことになっており、衛士はただ怖い表情を崩さずに見張っていれば良いだけだった。
楼門の上を綿雲が流れていく。
――饅頭売りより退屈だな。
蘭玲は早くも後宮のしきたりになじんだようだった。
◇
景旬殿から敬和宮への廊下を渡っていく女御の名は峰華、歳は十七である。
建国の礎となった重臣を祖とする名門貴族を出自とし、正皇后の決まっていない後宮では序列第一位の妃で、後宮内でも一番格式の高い敬和宮に居室を与えられている。
しかし、その序列は名ばかりで、新帝は後宮へ足を運ぶことがほとんどなく、皇太子時代に顔合わせとお手つきのあった者数名が暫定的に妃としての身分を与えられているに過ぎなかった。
そんな峰華はさきほどから胸のときめきを抑えることができずにいた。
景旬殿で見かけたあの若者のせいだ。
無骨で粗野な衛士とは思えぬ優美さをたたえた男が彼女の心を射貫いたのだ。
木漏れ日のようにきらめく髪。
吸い込まれるような深い瞳の色。
堂々と自信に満ちあふれた態度なのに、どこか強がっているようなあのお声。
一目見たその時から体が火照りだし、呼吸が浅く荒くなるほどに動揺してしまった。
――もう一度お会いしたいものだわ。
だが、名ばかりとはいえ妃たる身分ともなると、自らの居館である敬和宮の中ならともかく、他の建物へは大勢のお供を連れていかなければならない。
それはすでに一つの宮廷行事であり、何の用もなく気軽に遊びに行くわけにはいかないのだ。
居室でくつろぐときですら高位の女官以下数名が常に脇に控え、外の廊下にはそんな女官たちから伝えられるどんなお役目にも即応できるように侍女たちが並んでいる。
お忍びで抜け出すことなど、不可能であった。
――籠の鳥じゃあるまいし。
ホント、馬鹿みたい。
幼い頃から妃候補として養育され、皇太子時代の玄龍付きとして十二歳で後宮入りした峰華は、感情を外に出さず心の中で毒づくことに慣れていた。
ああ、今すぐお会いしたいのに……。
皇太子を産むことがかなわぬのなら、禁断の恋に身も心も焼かれてしまいたい。
もちろん、後宮の女が皇帝以外の男と通じるなど、国家を揺るがす一大事であり、たとえ重臣の家系であろうと、一族みな処刑、過去に遡っての名誉剥奪は免れない。
しかし、だからこそ、禁断の恋は西域から伝わる香辛料のように刺激的な匂いを漂わせ、峰華の心を余計に燃え上がらせるのだった。
峰華は気を紛らわせようと、外縁廊下から夕日に映える敬和宮の庭園を眺めていた。
そんなときですら、女官たちが全員廊下へ付き従ってくるのが煩わしい。
昨日までとなんら変わらぬ風景のはずなのに、気持ちはまるで落ち着かない。
風に揺れる枝のざわめきが心を惑わせ、色を失っていく天上の薄闇に希望のはかなさを思い知らされているようで涙をこぼさずにはいられない。
押さえようとしても切なさが顔をのぞかせ、飲み込もうとしても苦い気持ちがこみ上げてくる。
自分の胸の内にもこんな感情が隠れていたなんて、今まで知らずに生きていた。
と、ふと、塀の向こうの承和殿に、幻を見たような気がした。
――まさか、あれは……。
外縁廊下を歩いているのはあの御方では?
思わず笑みが浮かんだものの、むなしく首を振る。
わたくしとしたことが、いやですわ、後宮に殿方などいるわけが……。
だがしかし、思いが強すぎて揺れる灯籠の明かりすらも人影に見えてしまったかと、今一度目をこらしてみれば、松の枝越しに見えたのは間違いなくあの嵐雲という衛士の姿であった。
――そんな……。
まさか、嘘でしょう。
どうしてあの御方が承和殿に……。
男は隅の小部屋の戸を開けて中で待つ誰かに笑顔で声をかけているようだった。
入れ替わりに丸顔の侍女が出てくる。
――まさか、密会!?
わたくしを差し置いて何という破廉恥な。
どうせなら、わたくしと……。
たちまち体が震え出す。
戸が閉まるのを見据えたまま峰華は廊下に控えた女官に命じた。
「あの侍女を呼びなさい」
「ど、どちらでございますか?」と、居並ぶ女官たちがみな一斉に立ち上がる。
「あれよ、承和殿の廊下にいるあの丸顔の女」
かかとを上げて飛び跳ねるように塀の向こうを指さしてみせるうちにも侍女の姿が廊下の角へと隠れてしまう。
「ああ、もう、見えなくなってしまったではありませんか」
「は、はあ……」
「ぼんやりしてないで早く行くのです。誰か分からなければ、承和殿の侍女を全員ここへ呼んできなさい」
峰華に叱られた女官たちは侍女を引き連れて一斉に駆け出していく。
――まったく。
これだけの人数がいて何の役にも立たないんだから。
居室に戻って待っていると、しばらくして丸顔の侍女ばかり十数名が連れてこられた。
みな何事かと縮こまって平伏している。
「その方どもに、たずねたいことがあります」
「はい、なんでございましょうか」と、一番年長の侍女が平伏したまま応じた。
峰華は軽く咳払いをしてたずねた。
「さきほど承和殿にいた衛士は何者ですか」
みなが顔を見合わせる中、一人だけ肩を起こした者がいた。
春鈴である。
「恐れながら、嵐雲様のことでございましょうか」
名前は知っていたから大当たりと小躍りしたいところだったが、そのようなはしたないまねはできない。
峰華は唇を噛んでこらえ、努めて平静を装いながら再度たずねた。
「ああ、おそらくその者かもしれませんね。なにゆえに後宮に男子がいるのですか」
「嵐雲様は病気の妹さんの付き添いとして一緒に滞在することを許可されているのだそうでございます」
密会ではなかったのか。
思わず頬が緩みそうになるのを引き締める。
「妹ですか」と、峰華は声を抑えつつ身を乗り出した。「歳は?」
「存じ上げませぬが、まだ十かそこらかと」
「なるほど。下がってよろしい」
春鈴以下承和殿の侍女が退出するのと入れ替えに、峰華は控えている女官たちに指示を与えた。
「わたくしが実家から持ってきた幼きおりの衣装を持ってきなさい」
唐突な命令に女官たちは露骨に戸惑いの表情を浮かべていた。
すでに日は落ちて、燈火をともした室内ですら暗い。
まして倉庫内は火気厳禁とされている。
気まぐれ娘の無茶ぶりもいいところだ。
「今から、すべてでございますか」と、女官の声も不満の色を隠しきれない。
「聞こえているなら早くなさい」
「申し訳ございません。ただちに」
敬和宮はにわかにあわただしくなった。
夕餉の支度もしなければならず、女官たちは殺気立ち、侍女どもは叱責を恐れてかえって動揺するばかりである。
一人のんびりと夕食を済ませた峰華の前に、保管されていた衣装が並べられていく。
「こちらはいかがでしょうか」
年配の女官が桃の花文様をちりばめた上衣と裳を差し出す。
暗くなった室内ですら昼のように華やぐほどのあでやかさだ。
「ああ、いいわね。これに合う肩掛けはあるのかしら」
「はい、こちらに」と、ふんわりと重ねられたのは若草色の披帛であった。
「あら、懐かしいわね」
後宮入りして間もない頃、敬和宮でおこなわれた花見のおりに身につけたことを思い出す。
あの頃は五年後の自分がこのような境遇になるとは思ってもみなかったものだ。
とっくに皇太子を産んで国の母としてあがめられていたはずなのに。
運命がそれてゆくのなら、自らたぐり寄せるべきなのだ。
うふふ、わたくしもあの御方とお花見をしてみたいものですわ。
「では、これを先ほどの衛士の妹御に下げ渡しなさい」
「な、なにゆえにございますか」
女官たちがみな呆然と峰華を見ている。
「病気見舞いに決まっているでしょう」
そんな理屈が通るわけもないことは分かっている。
後宮は皇帝の家庭である。
妃ともあろう者が末端の一衛士に過ぎない男の家族に衣装を下げ渡すなどありえないことだ。
だが、峰華は有無を言わせず押し通すつもりでいた。
いきなり本人と接点を持つのは難しい。
だから、将を射んと欲すればまず馬からだ。
妹を喜ばせることができれば、兄としてお礼に来ることも考えられる。
遠慮して来なければ、それはそれで呼びつける口実にもなる。
どちらにしろ、会うことがかなうのだ。
――おほほ、なかなかの策士ですわ、わたくし。
峰華は一同に慈愛に満ちた微笑みを振りまいたつもりだったが、燭台の炎に浮かび上がるその表情は妖怪そのもので、居並ぶ女官たちは恐れおののき、顔を上げる者は一人もいないのであった。
◇
翌朝、承和殿の小部屋では、嵐雲姿のまま目覚めた蘭玲と小鈴の兄妹が粥を食べていた。
四合院の家畜小屋ですすっていた薄いものとはまるで違う。
「おね……、お兄ちゃん、おいしいね」
まだそれほどの量は食べられないものの、小鈴まで口のまわりにご飯粒をたくさんつけながら口に運んでいる。
「これならすぐに元気になりそうで良かったな」
「うん、ここはいいところだね」
小鈴の笑顔を見ていると、蘭玲も肩の荷が下りたような気がしていた。
「薬も飲むんだぞ」
「苦いからやだ」
弱気なことを言われるよりも、生意気なくらいがかえって安心だ。
食事を終えて、衛士のお役目に出ようと準備をしていると、廊下が騒がしくなった。
「なんだ?」
格子戸を開けて顔を出すと、角を曲がって先触れの女官が姿を現した。
なにやら薄い箱を掲げ持った女官たちが後に続いてくるようだ。
「お妃様よりのお使い物であーる。みなの者ぉーぅ、お控えなされーい」
前言撤回。
つくづく後宮とは面倒なところだ。
物に向かって頭を下げるなど、ばかばかしい。
おつとめの支度ができたというのに、出られないのでは仕方がない。
蘭玲は格子戸を閉めて関わらないことにした。
「おね……、お兄ちゃん、どうしたの?」
「偉い人のお使いが通るんだってさ。怒られるから引っ込んでいよう」
と、部屋の前で行列が止まった。
――ん?
なんだ、またかよ。
昨日の出来事を思い出す。
「嵐雲とやら、開けませい」
居留守を使うわけにもいかず、蘭玲はひざまずいて頭を下げながら格子戸を開けた。
小鈴も袖で口をぬぐって姉の様子をまねている。
「そなたが嵐雲か」と、しわがれた女官の声が頭上から降りてくる。
「はい、わたくしでございます」
「して、そちらがそなたの妹であるか」
顔を上げようとする小鈴の頭を手で押さえながら蘭玲は答えた。
「はい、さようでございます」
「ならばお邪魔しますよ」
女官たちが狭い部屋の中へぞろぞろと入ってくる。
侍女たちも続いたかと思うと、あっという間に食事の膳を取り下げて座布団まで敷いてしまった。
小鈴がそこに飛び乗ろうとするのを、「違うぞ」と、蘭玲は慌てて抱き寄せた。
女官たちは座布団に座り、飾り台を据えて紫色の布を敷くと、薄い箱を静かに置いた。
「妹とやら、名をなんと申す」
仰々しさに怖じ気づいたのか、今度は頭を上げない小鈴の背中を撫でながら、蘭玲は名前を申し上げるようにうながした。
「小鈴です」
「お妃様からそなたに御着物が下げ渡される。謹んで頂戴するように」
螺鈿細工の施された蓋が取られると、箱の中には見るからに軽そうな生地でできた豪華な衣装が収められていた。
「わあ、おねえちゃ……んごっ」
なりふり構ってなんかいられない。
蘭玲は小鈴に飛びついて口を塞ぎながら周囲に愛想笑いを振りまいた。
「申し訳ございません。あまりのうれしさに動揺してしまいました。本当にこのような物をいただいてもよろしいのでしょうか」
女官たちは醒めた目で二人を見ていた。
「お妃様は慈愛に満ちあふれた御方であるゆえ、そなたたちにも目を掛けてくださったのであろう」
「お礼に伺った方がよろしいでしょうか」
峰華のもくろみ通りになるかと思われたその時だった。
「お妃様にお目通りなど、その方どもに許されることではありませぬ」と、しわがれた声で一喝される。「しかも、その方、本来後宮におることも許されぬ男ではないか。今後ともこのご恩に報いておつとめに励むことが何よりのお礼となるのだと肝に銘じるがよい」
「かしこまりました。全身全霊をかけておつとめに励みます」
峰華のねらいはむなしくも泡となって消え去ってしまった。
女官が廊下へ声を掛ける。
「部屋付きの侍女はおるか」
「はい」と、春鈴がこわばった表情でにじり出た。
「では、そなたが着付けをしてやるが良い」
「かしこまりました」
女官たちは一斉に立ち上がり、侍女たちを引き連れて廊下へ出ると、敬和宮へ去っていった。
あっという間に静かになった小部屋に残された三人は顔を見合わせて、ふうとため息をついた。
「急にどうしたんだろうな」
「私もこんなことは初めてです」と、春鈴が首をかしげながら着物を取り出した。
「そうなのか?」
「実は私、昨日お妃様に呼び出されて嵐雲様のことを聞かれたんです」
「えっ、いったい何を?」
「それが、あちらの敬和宮からたまたま男の姿を見たので気になったとか。それで、小鈴さんのことも話したんです」
いったん話を切って、春鈴が声を潜めた。
「ここだけの話ですけど、敬和宮の峰華様は気難しい御方で、私たちの間ではあそこに配属されるのは嫌だねって言ってたんですよ。おつきの方々も自分たちが偉くなったみたいに勘違いしてますし」
先ほどの女官たちの態度を思い浮かべながら、蘭玲は首をかしげた。
「なんだかおかしな話だな」
それでも、着付けを終えた小鈴の晴れ姿を見ると、そんな疑問はしぼんでしまった。
肩にのせた披帛をひらひらと揺らしながら小鈴がくるりと回ってみせる。
「なんだか私、天女になったみたい。軽くてふわっふわなの」
まだふらふらで倒れそうになる妹を抱き留めながら蘭玲は快活に笑った。
「ははは、ご飯粒をつけないようにしないとな」
――私だって着たことないんだけどな。
生まれたときからつぎはぎだらけの服しか着たことがなかったし、男の格好をしていないと生きていくことも難しかった。
ただ、小鈴にしてもまだ骨と皮ばかりの体で、天女どころか、本当に天に召されるのではないかという気がしてしまう。
こうして元気づけてやれるのはありがたいことなのだ。
夢のような贅沢に対する後ろめたさもあって、蘭玲の胸中は複雑であった。
「じゃあ、俺は仕事に行ってくるから、小鈴はしっかりと養生してるんだぞ」
「うん、おね……、お兄ちゃん、今度、この服を着てお出かけしようね」
妹の口からこの先の希望を聞くことになるとは、つい昨日までは思いもよらぬことであった。
いつになったら行けるのかは分からないが、そうなるときが来れば良いなと思いながら、蘭玲は雲嵐としてお役目に向かうのだった。