東の果てにあるという凍龍(とうりゅう)国は、季獣(きじゅう)に護られている。一年のほとんどが冬という厳しい気候の地は、季獣に願いを託して季節を得る。花が咲き、作物が実るのは季獣に賜る恵みだ。
 凍龍国の伝承を辿ると不思議な妃の記述がある。
 『贄』という異能を持つ娘は季獣に愛され、皇帝にも愛されたという。娘は後に荊皇后と呼ばれるのだが、その出自は不明である。当時の後宮にいた妃嬪の一覧を見ても娘の名はなく、突如皇后として歴史に現れる。
 娘は何者なのか。
 物語の始まりは、長く続いた夏の季。その時、(けい)瓔良(えいら)は女人の姿をしていた。

 ***

 凍龍国北部にある草原地帯。羊たちが元気に草を食む姿が見られるものの、長く続いた夏の季により牧草は弱々しく、枯れていた。
「そろそろ秋になるはずなのに……」
 荊瓔良は、身を屈めて牧草をひとつまみしては嘆息した。暑い日が続き、牧草は弱っている。冬に向けて用意していた干し草に手をつける日は近いかもしれない。
 影響を受けているのは羊だけではなかった。外にいるだけでじわりと汗をかく高温は、作物にも多大な影響を与えている。農夫は、高温によって作物の茎が萎びたと嘆いていた。収穫量が減っても税収は変わらないため暮らしは厳しくなる。雲ひとつない清々しいほどの青空が憎い。
 凍龍国は冬の国であり、春夏秋といった三季は季獣によってもたらされる恵みだ。だが今年はどうにもおかしい。
「瓔良。来てくれ」
 ぼんやりと空を見上げていれば、父の声がした。その方を見やれば、父の隣に懐かしい者がいる。それは数年前に郷里を離れた(おう)典符(てんふ)だ。可愛らしい顔つきをしているが相変わらずおどおどとし、自信なさげに背を丸めている。
「典符、久しぶりだね。宮城にいると聞いていたのにどうしたの?」
 瓔良が声をかけるも、典符の顔色は暗く、何を躊躇っているようだ。ちらりと瓔良の父に視線を送っている。父の表情が険しいことから、典符から話を聞いているようだ。
 典符は意を決するかのように短く息を吸いこみ、それから言った。
「お願いがあってここに来たんだ」
 嫌な予感がした。だが口を挟む間はなく、典符は続ける。
「どうしても瓔良の力を借りたいんだ。だから、宮城に――()(じゆう)省に来て欲しい」
 季獣省。その名は瓔良も知っている。
 凍龍国を象徴するものといえば、三季の恵みを与える季獣と、国を守護する凍龍である。これらは国の宝であり、国が総力をあげて護るべき存在だ。そのため凍龍国は季獣省を置き、異能を持つ者を集めて、季獣と凍龍の管理を一任している。
 季獣は人の願いを食み、力とする。季獣に対面し、祈りを捧げる者は限られ、それは後宮に住まう妃嬪らの仕事であるとも聞いた。つまり、季獣省は後宮にある。
 瓔良はこれを知っているが故に、顔を顰めた。
「宮城に? 何を言ってるの」
 数年ぶりの再会と思えば、このような頼みごとだ。不快感を露わにする瓔良だったが、それでも典符は折れなかった。
「僕が……いや、この国が困っているんだ」
 急に話が壮大になったが、虚言ではなさそうだ。典符はぐっと拳を握りしめ、俯いたまま語る。
秋虎(しゅうこ)様が大変なんだ」
「秋虎様……秋の恵みを与える季獣ね」
「理由はわからないけど弱って、飢えている。妃嬪の祈りは届かず、ついには季獣省の者を襲ったぐらいに。これに恐れて逃げ出した者もいる。季獣省は人手が足りず、秋虎様を救う手段も見つからない……だから、この国はいつまで経っても秋の恵みが届かないんだ」
 今は夏雀(かじゃく)という季獣によって夏の恵みが与えられているが、その力が失われる前に秋の恵みを配らなければならない。さもなければ、すぐさま本来の季である冬が訪れる。これは瓔良にも関係のある話だ。羊が冬を越すための草は用意してあるものの、冬が長くなればいつまで持つかわからない。里にいるたくさんの農夫たちも苦しむことだろう。
 秋虎を救う必要がある。それを理解しても、瓔良はまだ頷くことができなかった。
「わたしには無理よ。季獣省は後宮にある。その後宮に入れるのは皇帝と妃嬪である女性の他、性を欠いた宦官だけ。そんな場所にわたしが入れるわけない」
「だ、大丈夫!」
 すぐさま典符は頷いた。
「許可は得て、ここに来ている。だから瓔良を季獣省に入れる術も……少し迷惑をかけてしまうけど、用意してある……から」
「歯切れが悪いし、目も合わせてくれないし……怪しい」
「う……で、でも悪い話じゃないはずだ! 瓔良が頷いてくれるなら、その分の恩賞も渡すよ!」
 どうにも怪しい。じっとりとした視線を送るが、典符は「う……」と視線を泳がせるばかりだ。
「……瓔良」
 膠着状態に声をあげたのは父だった。
「この国に秋が来なければ、たくさんの者が苦しむだろう。お前の力が必要だと言うのなら、手を貸すべきだ」
「でも父様、わたしが離れてしまえば羊たちが……」
「構わん。お前を求める者がいるのなら手を貸すべきだ」
 瓔良だって、秋が来ないことは気になっている。汗ばむ夏の季にうんざりとしていたのも事実だ。それを変えることができるのなら。そして典符が語るように算段が整っているのなら。
 瓔良は力強く頷き、典符に答えた。
「わかった。季獣省に行く」

 ***

 数日が経ち、季獣省の回廊を歩く瓔良は沈痛な面持ちをしていた。
(典符の話を鵜呑みにしたのが間違いだった……)
 季獣省がある後宮は、凍龍国皇帝のものであり、ここにいる娘は選ばれて入宮した妃嬪である。男性は入ることができず、唯一許されるのは性を欠いた宦官(かんがん)のみ。それほど閉鎖的な場所に瓔良を送りこもうとしたのだから、良い策があると信じていた。もしくは特例でも出たのかもしれないと甘く考えていた。
「瓔良、似合っているよ!」
 案内として隣についた典符が励ますかのように言う。しかし瓔良は眉根を寄せて睨めつけた。
「……宦官のふりをするなんて、これを知っていたら絶対断った」
「うう……断ると思ったから言えなかったんだよ……」
 今の瓔良は宦官の姿をしている。
 女性であることを偽り、季獣省の宦官のふりをする。これが典符が提示した策だった。
 宦官のふりをした女性を入れるなど荒唐無稽な話だが、驚くほどうまく進んでしまった。季獣省は総出で瓔良を迎え入れようとし、宦官を証明する検査もなぜか瓔良には行われず、今日を迎えている。国の危機管理を疑うほど、つつがなく事は運んだ。
(それほど、国が大変ってことなのかもしれないけど)
 あっさりと季獣省に入れてしまった事実から、危機を感じ取り、憂鬱な心地になる。
「でも、気をつけてね。女性であることを隠すように心がけて。季獣省の者は瓔良のことを知っているけれど、後宮の妃嬪は違う。それに凍龍陛下も――」
 典符がそう話していたところで、前方の扉が開いた。現れたのは季獣省の長官こと(はん)仁耀(じんよう)である。
「お待ちしていましたよ。なかなか似合っていますねえ。これではあなたが女人であると気づく者はいませんよ」
 宦官の姿を似合うと褒められるのは複雑なところだ。牧人の父を手伝っていたことから女らしい装いはしていなかったが、それなりの矜持は持ち合わせている。そんな瓔良の心にざくざくと刺さる言葉だ。
「……褒めているのか貶しているのかわかりませんが、ありがとうございます」
「ふふ。私や典符を始め、あなたの正体を知る者にはあなたを女性扱いしないよう通達してありますからね。安心してください」
 何を安心すればよいのか。初日からうんざりとした気持ちである。
 仁耀の先には、幾重の縄で結ばれた朱門があった。瓔良はそれに気づき、問う。
「あの先に秋虎様がいるんですね?」
「ええ。朱門の先は季獣の祠です。私の異能で封じてありますので、解除しない限り立ち入ることはできません。後であなたにも解除する術を伝えますね」
 季獣省は季獣や凍龍と関わることから、適した異能を持つ者が選ばれる。仁耀、そして典符も異能を持ち、それによって季獣省の宦官となっている。季獣省の奥は、季獣や凍龍が住まう祠と繋がっている。この縄は、それを封印している仁耀の異能だ。
「秋虎様が人を襲ったと聞きましたが」
「大怪我をして治療中です。これに怯えて逃げた者もいますね。季獣省としては頭が痛い話ですよ。それでなくても不人気で、少数精鋭の季獣省ですから、これ以上の人材は失いたくないものです。ああ、ですからあなたもここにいる限りはたくさん働いてもらいますよ」
 こき使われる予感がし、瓔良は典符をじろりと睨む。典符は誤魔化すように俯いて目を合わせてはくれなかった。
 仁耀は朱門に手をかざす。声はしないものの、唇は細かに動き、何かを唱えているようだった。ひとつ、ふたつ、と縄が霧散していく。
 縄が消えると仁耀は朱門の奥へと進んだ。瓔良も後を追う。
 朱門をくぐると空気が一変したように感じる。重たく、湿ったような空気だ。進むのは薄暗い道だが、石壁はほのかな青い光を湛えているため手燭は不要だった。先を進むと開けた場所に出る。石壁の光沢に、緋色の光が反射して眩しい。
「……っ、」
 眩しさに目を細めながらも、瓔良は前方に向けた視線を剥がそうとはしなかった。
 そこに鎮座するは緋色の炎を纏った黄金の虎である。ふわふわとした毛を揺らしながら、巨体を丸めて座していた。しかし寝てはいない。赤々とした瞳はしっかりと開き、こちらを見つめている。尾の先端に灯る緋色の炎は弱々しくゆらめいていた。
「この方こそが凍龍国にて秋を司る秋虎様ですよ」
 仁耀が言った。瓔良は秋虎の顔をじっと見つめながら、歩み寄る。
 秋虎もまた、そこにじっと座していた。瓔良が近づいても逃げるそぶりを見せない。
(わたしの力が通じるのなら……)
 唇は動かさず、心の中で秋虎に語りかける。
(この元気が、あなたに届くかしら。どうかあなたの心が鎮まりますよう。この心が、秋虎様に届きますよう)
 願う。語りかけ、願う。
 すると瓔良の手のひらが熱くなった。見た目には変化がないものの、瓔良だけは手のひらの熱を感じている。その熱を渡すかのように、秋虎に手を伸ばす。
 秋虎は動かず、瓔良を見つめていた。
 やがて、その赤眼は伏せられた。心地よさそうに瞼を下ろし、顎を瓔良の手のひらに乗せる。尾は喜ぶかのように小刻みに揺れ、先端の炎も先ほどよりも元気よく燃えている。
 瓔良もまた瞳を閉じていた。手のひらに意識を集中し、流れ込んでくる秋虎の心を読み解く。
(そっか。お腹が減って、苦しんでいる。だから人を襲ってしまったんだね。でも大丈夫だよ。秋虎様が元気を取り戻すまで、わたしがそばにいる)
 語りかけると、嬉しそうに秋虎が顎をこすりつけた。
(心を開いてくれて、ありがとう)
 そこで手のひらにあった熱が消えた。瓔良の持つ力が秋虎に渡ったのだろう。
 瓔良は心の中で秋虎に礼を伝え、手を下ろす。そして後ろにいるだろう仁耀と典符に向きなおる。瓔良の異能について説明しようとしたのだが――ぱちぱちと乾いた音が響いた。
「見事なものだな」
 祠に響き渡る拍手の音。そこには典符でも仁耀でもない、別の者がいた。
 宦官とは異なる立派な袍には煌めく銀糸の刺繍が施され、傍目に見て高価なものであるとわかる。その立派な袍に負けじと、美しい顔つき。切れ長の瞳は瓔良を捉えていた。
(すごく、綺麗な人……)
 知らずのうちに息を呑んでいた。青みがかった黒髪が揺れる程度の些細な動きさえ、美しきもののように思える。
「おや。凍龍陛下もいらしたんですか」
 仁耀の声は、この綺麗な男に向けられていた。それを聞き取るなり、瓔良は理解する。
 彼こそが凍龍国の皇帝、(とう)凰駕(おうが) だ。この事実は、陶酔しかかっていた瓔良の心を現実に引き戻した。
(そうだった。女人であることを知られてはいけない)
 典符の忠告を思い出して青ざめる。凍龍陛下こと凰駕は瓔良の胸中を知らずに問う。
「見たことのない者だな。季獣省に新しい者をいれたのか?」
「ええ。人手不足ですからね――瓔良、凍龍陛下に挨拶を」
 促され、瓔良はその場に膝をつき、胸の前で手を組んだ。
「荊瓔良と申します」
「……ほう」
 ちらり、とその表情を確かめる。凰駕はなぜか微笑んでいるように見えた。意味深な笑みは気になるものの、瓔良の内心は不安で爆発しそうだった。宦官の装いになれぬ初日から、凍龍陛下と言葉を交わすなど、不安しかない。
「先ほどのはお前の異能か?」
「わたしの異能は『贄』。わたしはこの世にある生き物の糧となることができますが、体を捧げることはさすがに恐ろしいため願うだけに留めています。願うだけでも、力を与えることができるので」
 異能は必ずしも持っているわけではないが、瓔良はこの異能を持って生まれた。羊飼いの娘である瓔良には最高の異能である。力を与えた羊からは良質な羊毛が取れ、子羊も病に罹らず健康だ。良いこと尽くしである。
「なるほど。かつてこの国は、季獣や凍龍に生贄を捧げてきたと聞くからな。時代によっては、そなたは最上の供物となったのかもしれぬな」
 凰駕はくつくつと笑っているが、瓔良は答えなかった。
 実のところ、試したことはある。
 それは昔に山を歩いていた時のことだ。瓔良は不思議な生き物と遭遇した。胴が長いことから蛇のようにも見えたが、それにしては小さな手足が生えていた気がする。幼い瓔良は判断できず、不思議な蛇と結論付けていた。
 弱って死にかけている蛇のために願うも様子は変わらず、そこで腕を噛ませたのだ。腕に傷は残ったものの、蛇は瞬く間に元気になった。その後、山は国が管理することとなり、立ち入ることはできなくなったが、きっと元気にしているだろう。
 凰駕が語るように時代によっては良き生贄となったはずだ。その効果があることは知っているが、迂闊に話して提案されては困る。家に帰れなくなってしまう。
「願うだけで済ませたいですね。人材流出は勘弁したいものです」
 言葉を閉ざす瓔良の代わりに仁耀が苦笑した。凰駕にそのつもりはなく、からかっているだけとわかってはいても、仁耀が空気を変えたことに安堵する。
「それで、瓔良。そなたの異能によって、秋虎はどうなった?」
 凰駕の問いかけに、瓔良は振り返り秋虎の様子を確かめる。
「贄として力を与え、弱っている状態からは改善されましたが、まだ力は足りないようです」
「ならば、秋の恵みはないということか」
 季の恵みを与えれば、季獣は消える。数ヶ月の間姿を消し、凍龍国に姿を現すための力を蓄えるのだ。しかし今の秋虎には秋の恵みを与えるほどの力はない。
 季獣の力とは、人が願うことで得られるもの。妃嬪は交替で祠に通い、季獣に祈りを捧げている。
「記録を見ても妃嬪の動きにおかしなものはないが……なぜだろうな」
 凰駕は首を傾げていた。妃嬪らは祈りを捧げにやってきているというのに、今年だけはなぜか秋虎が弱っている。
「瓔良が来たので恵みを与える前に消滅することは無くなるでしょう。時間を得られたと判断し、季獣省で引き続き調査を行います」
「そうだな。この件はそなたたちにかかっている。頼むぞ」
 典符と仁耀は手を組み、頭を下げた。さらに凰駕は瓔良を見る。
「瓔良。そなたはこちらへ」
「へ?」
 これで話は終わりかと思いきや、凰駕はなぜか瓔良を呼んでいる。どうしたものかと固まっていると、典符が慌てたように助け船を出した。
「と、凍龍陛下。そ、その……瓔良に何か?」
「新しく来たばかりの瓔良に、良いものを見せてやろうかと思ったまでだが」
「で、ですが――」
 瓔良としては、凰駕との接触はなるべく減らしたいところである。それも初日からこうとは聞いていない。典符の助け船をありがたく思うものの、仁耀はにやりと笑みを浮かべて、典符を引止めた。
「典符。私たちは仕事がありますからね、瓔良の案内は凍龍陛下にお任せしましょう」
「仁耀殿、瓔良は……」
「いいから行きますよ」
 典符は仁耀に引きずられて去っていく。去り際、申し訳なさそうに眉根を寄せた表情が見えた。初日から困難に立ち向かう瓔良を哀れんでいるのだろう。
 残されたのは凰駕と瓔良だ。秋虎はその場で身を丸め、心地よさそうに眠りについてしまった。その様子を一瞥した後、凰駕が歩き出す。
「行くぞ」
 拒否は認めないと告げるような背に、瓔良も覚悟を決めるしかなかった。

 来た時と同じ朱門を抜け、季獣省の回廊を行く。季獣省の者たちは凰駕の姿を見るなり道を開け、立ち止まって礼をしていた。凰駕は悠然と彼らの前を通り過ぎる。
 向かったのは別の門。こちらは氷のように透き通った水碧色の氷門である。施されていた封印は凰駕が解除した。
「氷門ということは、この先にも季獣様がいるんですね?」
「いや、季獣ではないぞ」
「となれば凍龍様……! やった! 凍龍様にお会いできる!」
 瓔良が言うと、凰駕はなぜかこちらをじっと見つめた。
 視線が交差している。凰駕の視界にあるのは瓔良の顔だろう。そうわかっているのに頭頂部からつま先までをじっくりと眺められているような心地がする。
(……初日から、気づかれた?)
 その視線は瓔良が女人であると探っているのではないか。初日から知られたとなれば典符に合わせる顔がない。知らずのうち、背筋がぴしりと伸び、体が強張っていた。
「……ふ」
 しかし聞こえてきたのは、笑い声だった。凰駕は笑いを抑えきれぬといった様子で口元に手を当てている。
「そなたは興味深いな。他の宦官と違ってかしこまらずに喋り、臆さず私に問いかけてくる。しかし、私と目を合わせればこのように緊張する」
「す、すみません……」
「気にするな。ここは毎日通う場所だからな、瓔良のような者は新鮮で良い」
 穏やかに話しながら凰駕が氷門を超える。瓔良もそれに続いた。
 秋虎がいた祠と同じくあたりは石壁に変わる。こちらも青い光がぼんやりと灯っている。だが秋虎がいた祠と異なり、奥に近づくにつれ肌寒いものを感じる。そして開けた場所にいたのは――。
「これが凍龍だ」
 国獣である凍龍。渦のように巻いた長い体に、無数のきらきらとしたものが見える。鱗だ。透き通った水碧色は氷のようにも見える。鱗だけでなく長い髭も銀糸を思わせる煌めきをし、体と同じく水碧色の瞳がまばたきをしてこちらを見た。
「綺麗……」
 その美しき姿から目が離せない。気づけば瓔良は歩み寄り、凍龍に手を伸ばしていた。
 凍龍もまた嫌がることなく、すり、と顎を寄せる。その動きに合わせて顎の氷髭がぶつかり、しゃりんと甲高い音を立てた。
「この美しい体が国を護っているのですね。でも可愛らしい。ふふ、くすぐったい」
 手のひらにすり寄る顎がくすぐったく、瓔良は笑った。これに喜んだらしく凍龍がその身を動かし、小さな氷晶が舞う。祠のほのかな光を反射し、きらきら、きらきら、と降り注ぐ。
「まるで光の中にいるみたい。この子は美しい氷を纏っているのですね」
 ほう、と感嘆の息を吐き、舞い降りる光の粒を見上げて呟く。
「……ふむ」
 凍龍に見蕩れていた瓔良はそこではたと気づいた。凰駕の声によって現実に引き戻され、こほんと咳払いをして表情をこわばせる。
「あ……申し訳ありません」
「いや、構わん。凍龍は珍しく、これは誰しもが見られるものではない。しかしほとんどの者は恐れるというのに、そなたは恐れるどころか喜んでいた」
 告げるなり、なぜか凰駕はこちらに寄ってくる。艶めく長い髪がふわりと揺れ、瓔良の頬をかすめた。
 そして、むに、と顎を掴まれる。無理やり上を向かされ、凰駕の切れ長な瞳と視線がぶつかりあう。
「……綺麗な顔をしているな」
「あ、あの、凍龍陛下」
「綺麗というよりも愛らしいと喩えた方がよいか。背も小さく、体も丸っこい」
「と、凍龍陛下!」
 声をあげると、凰駕の指が逃げていった。しかし距離は離れない。まだこちらを見つめている。
「なんだ」
「近すぎるのでは……ないかと」
「そなたの顔を確かめたかっただけだが」
「か、顔など確かめなくとも……そ、それからわたしは宦官です! なので綺麗と言われるのは困ります」
「思ったまでを言っただけだ。それとも顔を赤くするほど気になる言葉だったか?」
 顔が赤いのかはわからないが、言われてみれば頬が熱い気がする。それもこれも凰駕のせいだ。鼓動が逸りそうな整った顔で、こちらをじっと見つめるなど、照れるなという方が難しい。返答に窮する瓔良を見やり、凰駕は笑っていた。
「そなたは宦官なのだろう? ならば照れる必要はあるまい――まあ、これ以上困らせるのはやめておこう」
 それから凰駕は凍龍のもとへと寄っていく。凍龍もまた凰駕に相当懐いているらしく、喜ばしそうにすり寄っていった。
「聞いたことがあると思うが、この国の皇帝は凍龍を従える。ここにいる凍龍は私が幼生から育てたものだ。季獣省にいる間、凍龍の世話を見ることもある。頼むぞ」
「はい。お任せください」
「あのように凍龍がすり寄るのは私以外にいなかった。きっと、そなたは凍龍に好かれているのだろう」
 もう一度、凍龍を見やる。凍龍はじっと瓔良を見つめていた。

 ***

 季獣省の宦官は特例として季獣省に居住が許される。後宮外に出るためには許可を得なければならず、瓔良も他の者と同じように、季獣省にて寝泊まりをすることになった。こういった部分については仁耀や典符が根回しをしてくれたため、女の身であることを考慮して生活できるようにしてもらった。
 とはいえ――うまくいかないのは、通常の業務である。
「……あの」
 氷門を抜けて凍龍の許に向かっていた瓔良は、うんざりとしながら隣を見上げた。瓔良の隣には、当然のように凰駕がいる。
「なんだ? そのような顔をしていれば、愛らしい顔が台無しだぞ」
「凍龍陛下は暇なのかと思いまして」
 瓔良が季獣省に来てからというもの、毎日凰駕がやってくる。凍龍に会いにくるだけでなく、わざわざ部屋を覗いて瓔良がいないかを確認するほど。今日も、既に凍龍に会っていると聞くがなぜかここにいる。
「暇……私にそのようなことを言ったのはそなたが初めてだぞ」
「毎日いらっしゃるではありませんか。凍龍様に会ってお帰りになるのかと思えば、長く滞在する。わたしの後ろをついてきても何もありませんよ」
「そう言われてみるとそうだな。私は暇なのかもしれない」
 気づいていなかった、と言わんばかりに凰駕が頷く。国を背負う身がそのような軽さでいいのかとぼやきたくなるが、それは飲みこんだ。
 祠につくとまず凍龍に挨拶をし、それから周囲の掃除をする。神聖な季獣を預かるこの場所は選ばれた宦官のみしか入れず、祠はもちろん季獣省内部の清掃も大事な仕事だった。
 その間、凰駕は手伝うでもなく、じっと瓔良を見つめていた。瓔良が歩けば後ろをついてくる。立ち止まれば、凰駕も歩みを止める。
「ついてこなくともよいと思うのですが」
「そなたの後ろを歩くのは面白いからな」
「では掃除を手伝っていただければ。手巾をお貸ししましょうか」
 これを聞くなり凰駕は目を丸くし、それから笑いだした。
「ははっ、この私に掃除をしろとは。そのようなことを言うのは瓔良しかいないだろうな」
 瓔良も少しずつ慣れてきた。幸いなことに砕けた口調を使っても凰駕は怒らず、喜んでいる節さえある。凰駕が厄介なほど構ってくることもじゅうぶん学んだ。
 瓔良は凰駕を無視して掃除に集中する。そして凍龍の方を見ようとした時である。
「瓔良」
 耳朶にかかる吐息は距離の近さを示している。鼓膜を揺らす凰駕の声が妙に甘ったるく感じ、瓔良は慌てて振り返った。
「な、な、なにを」
「慌てる必要はないだろう。そなたの名を呼んだだけだぞ」
「耳元で囁く必要はないと思いますが!」
「瓔良とは随分可愛らしく、女人のような名だと思ってな。呼ぶ練習をしてみたのだが」
 凰駕はくつくつと笑っているが瓔良は慌てていた。確信をつくような凰駕の言葉に慌てて、ぴしりと背を伸ばす。
「……わたしは宦官です」
「無論、知っているぞ」
「ならば揶揄うのはおやめください。女人のようと言われても嬉しくありません」
 女人であることを偽っていると知られてはならない。そのため、何度も否定していかなければ。そう思って瓔良は言ったのだが、凰駕はにたりと笑みを浮かべている。躍起になっている瓔良の反応を楽しんでいるのかもしれない。
(本当に! 厄介な人!)
 宦官の姿をしているといえ、瓔良の心には、女人だった時の感情がある。凰駕のように美しく、色気のある男が近づいてくるのはどうも慣れない。
「瓔良」
 思案に耽っていると、再び耳朶に吐息がかかった。瓔良はゆっくりと振り返りながら凰駕を睨めつける。
「ああ、もう! 凍龍陛下!」
「ははっ! 面白いな!」
 回廊に凰駕の笑い声が響く。それが消えると同時に、回廊の向こうから仁耀が歩いてきた。
「賑やかと思ったら、凍龍陛下でしたか。今日も瓔良を追いかけ回しているようで」
「飽きぬからな。反応が面白い」
「すっかり凍龍陛下のお気に入りですね――その瓔良をお借りしたいのですがよろしいでしょうか」
 仁耀が言うと、凰駕はむっと顔を顰めた。仁耀は瓔良に向き直って告げる。
「まもなく(しょう)淑妃(しゅくひ)がいらっしゃいます。これから秋虎様の許に案内しますので、瓔良は私に同行してください。清掃は後ほど続きをお願いしますね」
 妃嬪が祈りを捧げる刻限が迫っていた。昨日までは仁耀や他の宦官が案内をしていたが、瓔良にも仕事を教えようとしている。人手不足を嘆く仁耀は、特例で入省した瓔良もこき使うつもりのようだ。
「ということで私は瓔良と共に行きますが、凍龍陛下はどうされますか?」
「いや、私は戻る。会うつもりはない」
「蒋淑妃がいらっしゃいますよ?」
 念を押すかのように仁耀が問うも、凰駕は強張った顔つきのまま答えなかった。
(蒋淑妃……凍龍陛下の妃の一人)
 距離を詰めてくることやよくからかってくるが、凰駕はこの国の皇帝である。後宮にいる数多の娘たちは凰駕の妃嬪だ。
(自分の妃なんだから、あんなに怖い顔をしなくても良いと思うけど)
 凰駕の様子は気になったものの、瓔良は深く考えないようにした。仁耀と共に朱門へと向かう。

 朱門に着いて待っていると廊下から芳しい花の香りが近づいてきた。妃嬪が纏う香だろう。やがて歩揺の揺れる音と共に、美しい娘が現れた。
 里にいれば一生見ることのできないような華美な召し物に、数々の宝飾品。それに負けじと顔つきは美しい。彼女が蒋淑妃だろう。その後ろには宮女たちを連れている。
(皇帝の妃嬪になれるのは、やっぱり美しい人だけだ)
 蒋淑妃の美貌を前に、改めてそう感じた。同じ女人として憧れるほどに美しく、瓔良が宦官として季獣省に入った理由もこれだと合点がいった。瓔良では、間違っても妃嬪として後宮に入ることはできないだろう。
「お越しいただきありがとうございます」
 仁耀が礼をする。それに倣って、瓔良も礼をした。
 蒋淑妃はあたりを見回した後、仁耀に聞いた。
「凍龍陛下は? 今日は季獣省に来ていないの?」
「ええ、今日は戻られましたよ」
 それを知るなり、蒋淑妃は嫌気たっぷりにため息をついた。
「……はあ。面倒だわ。こんな汚い場所に来なければならないなんて。それも凍龍陛下がいない時ばかり」
「そう仰いますな。これも妃嬪の勤めにございます」
「たかが獣に祈りを捧げるなんて面倒だわ」
 美しい顔を台無しにし、蒋淑妃は悪態をついている。季獣を好んでいないことはじゅうぶんに伝わった。
 蒋淑妃を連れ、祠の奥へと進む。祠のじめじめとした空気も蒋淑妃は好んでいないようだった。「早く出たいわ」とぼやいてばかりいる。
 奥につき、秋虎の前で仁耀は足を止めた。振り返り、蒋淑妃に告げる。
「では祈りを。その場に屈み、手を組んでいただければ」
「嫌よ。裙が汚れてしまうもの」
 これには仁耀も困り顔だったが、蒋淑妃に強く出られないらしい。
 蒋淑妃は身を屈めることなく、手を組んで祈る――しかし心から祈っていないだろう。手を組む形だけで、瞳は開いたまま秋虎を睨みつけたまま。早く終われと願うかのようにおざなりなものだと印象を受けた。
(……あれ?)
 蒋淑妃の態度に呆れながらも秋虎の方を確かめた時である。ほんの一瞬、紫煙のようなものが見えた。秋虎の足元に這い回り、体を覆う。その紫煙が消えるなり、秋虎は苦しげに顔を歪めた。
(今のは……見間違い?)
 あの紫煙は何だろう。凝視するも紫煙は消えてしまった。
「はあ。祈ったわ。これでいいでしょう」
 蒋淑妃の声が聞こえて振り返れば、祈りは終わっていた。祈りと呼べないほどの早さだ。これでは秋虎が力を得ることもできないだろう。そう考えた瞬間、瓔良は動いていた。
「お待ちください!」
 祠に瓔良の声が響く。蒋淑妃は不機嫌そうに振り返った。
「凍龍国にとって秋虎様は聖なるもの。ぞんざいに扱うなんてひどすぎます」
「あなた、見ない顔ね? 新しく入ったのかしら」
 蒋淑妃の眉根がぴくりと動く。それでも瓔良は引かず、堂々と告げる。
「荊瓔良と申します。これは新人かどうかは関係のないことですよ。凍龍陛下の妃だからこそ、このような振る舞いは見過ごせません。秋虎様に祈りを捧げてください。人の祈りや願いは秋虎様の力になるのですから」
「……身の程知らずの宦官だこと」
 そこで仁耀が、ささっと二人の間に割りこんだ。
「申し訳ありません。この者は季獣省に来たばかりでして、後ほど厳しく叱っておきます」
「たかが宦官さえ指導できないとなれば範仁耀の格も下がりますよ。よく躾ておきなさい」
 蒋淑妃の苛立ちは収まっていないのだろう。仁耀に向けた声にもそれが現れている。彼女は秋虎の様子も気にとめず、さっさと背を向けて歩き出した。
「早く戻りましょう。今晩こそ凍龍陛下がいらっしゃるかもしれないわ。宮に戻ったらたくさんの花を浮かべた湯を用意してちょうだい。ここの汚い空気がしみついて嫌だわ」
 宮女たちにそう命じながら去っていく。蒋淑妃を快く思わぬ瓔良はその背が見えなくなるまで睨みつけていた。蒋淑妃が去ると、仁耀がため息をついた。
「君は随分と度胸があるね。いつ首が飛ぶかとひやひやしたよ」
「秋虎様をあのように扱うのが許せなかっただけです」
「それはわかるけど、妃嬪に噛みつくのは勘弁してほしいね。それでなくても後宮の妃嬪たちはひりついているから」
「そのひりつきが蒋淑妃の態度の理由だと? もとから性格の悪そうな方でしたが……」
 仁耀は「確かにね」と苦笑し、ひりついているという後宮事情について話し始めた。
「凍龍陛下は妃宮に通ったことがないんだ。あのように男前な顔をしているから、妃嬪たちは虜になっているけれど、凍龍陛下は誰も選ばない。だから、凍龍陛下のお手つきになるのは自分であるようにと、皆して自分磨きに徹している。季獣様に祈りを捧げる日課さえ後回しにするほどだ」
「……なぜ凍龍陛下は妃嬪の許にいかないのでしょう」
 ううん、と瓔良は考えこむ。蒋淑妃は確かに美人だった。後宮には他にも美しい娘たちがいるのだろう。なぜ凍龍陛下は彼女たちの許に行かないのか。
 そこで瓔良ははたと気づいた。
「はっ、わかりました! 凍龍陛下は女人が苦手なのでは」
「ふ……にょ、女人が苦手……ふふ……」
 思い浮かんだ答えを口にする。すると、仁耀は腹を抱えて笑いだした。
「そんなに笑うことでしたか?」
「く、くく……君の解釈が面白くてね。これを聞かせてみたいね……ああ面白い」
「ということは、仁耀殿は凍龍陛下が妃嬪の許に通わない理由を知っていると?」
 仁耀はまだ笑いが止まらないようで肩がぶるぶると震えている。
「こればかりは私から申し上げられません……ふふ」
 その口ぶりからすると仁耀は理由を知っているようだが、笑いを堪えるのに忙しく語るどころではない。諦めた瓔良は秋虎の側による。
「……秋虎様」
 そっと手を差し伸べる。先ほどの苦しげな表情は和らいでいたが、肩で息をしている。その姿が労しく、瓔良はふわふわと温かい毛を撫でながら瞳を閉じる。
「蒋淑妃の代わりに、わたしが力を贈りますね」
 贄の異能が発動し、手のひらに熱が集う。
(ごめんね、秋虎様……あのような祈りでは、力が足りなくてお腹が減ってしまうよね)
 瓔良は心の中で語りかける。秋虎の首はわずかに動いたような気がする。瓔良の異能によって少しは元気が出れば良いが。
(凍龍国にとって秋は必要なもの。凍龍陛下の愛が欲しいからって季獣様を蔑ろにするのは間違っている)
 力を送り終え、瓔良はそっと秋虎から離れる。見れば、秋虎は先ほどよりも力を取り戻していた。心地よさそうに瞳を細めて、じっと瓔良を見つめている。
(元気が出たならよかった。でも……あの紫煙は何だったの?)
 それについて仁耀に話そうとしたが、うまくいかなかった。踏み出そうとすれば、くらくらと瓔良の視界が揺れる。
 贄の異能を使った後は疲弊する。今日は蒋淑妃のことがあり力を送りすぎてしまったようだ。
 立ち続けることも難しく、膝はかくんと力を失い、体が前のめりに落ちていく。支えにするようなものはなかった。
「危ない!」
 倒れる寸前に体が浮いた。驚いて数度のまばたきをしていると、その者が瓔良の視界に入りこんだ。
「……何もないところで転ぶとは器用だな」
 凰駕だ。その後ろには祠の天井がある。
「凍龍陛下……? 季獣省を出たはずでは」
「気になったから戻ってきただけだ」
 倒れそうになったところを凰駕に助けられたらしい。いつもより凰駕の表情を間近に感じる。青みがかった長い髪が頬にかかってくすぐったい。
 そこで瓔良は気づいた。視点が高すぎる。体に触れている熱。大きな手のひら。数度のまばたきをして状況を理解する。凰駕に、抱き上げられているのだ。
「こ、こ、このように抱えられるのは……! 歩けます!」
「降ろしたらまた倒れるかもしれないだろう」
「ですが! 近すぎるというか、ええと、体が触れているというか……」
「凍龍陛下。そこまでにしてあげてください。瓔良が困っています」
 仁耀が声をかけて、ようやく瓔良は降ろされた。目眩は治まったものの、まだ体に力は入らない。
 そこで凰駕が瓔良に手を差し出した。
「ほら、これを食べろ」
「これは?」
 その手にあったのは、包みに入った焼き菓子だ。甘い香りがする。
「贄の力を使ったら疲れてしまうのだろう? その後は甘いものを食べるのだと聞いているが」
「あ……ありがとうございます」
 贄の異能を使うと疲弊し、そのような時に効くのが甘味だった。甘味を舌にのせれば、体中に力が漲るような気がする。里にいた頃は甘味を持ち歩くようにしていた。
 疲れきっている今は、凰駕の優しさがとても嬉しい。一口食めば、体に力がみなぎっていく。
 目を輝かせて菓子を食べる瓔良を、凰駕は満足げに見つめていた。食べ終えたのを見計らって問う。
「元気はでたか?」
「はい。しっかりと歩けそうです。ありがとうございます」
「よかった。取りに戻ったかいがあったな」
 瓔良の様子を確認し、凰駕は歩いていく。瓔良と仁耀もそれを追い――だが凰駕の背を眺めながら、ぼんやりと考えていた。
(凍龍陛下は季獣省から出て行ったと思ったのに、どうして季獣省に戻ってきたのだろう。それに贄の異能を使った後に甘いものが効くことも話していないけど……)
 季獣省に来てから、このことを誰にも話していない。典符でさえ知らなかったはずだ。疑問は尽きないが、問いかけるような間はなかった。

 ***

 ここに来てわかったことは、季獣省の宦官はすごいということだ。
 朝は季獣と凍龍の様子を確認し、昼は祈りにきた妃嬪を案内する。夕刻も季獣と凍龍の様子を確認し、その合間に生じる隙間時間は雑務が詰めこまれた。つまり、休む間はない。
 回廊から見える季獣省の庭でわずかな休息を取っていると、同じく休息を取りにきたのだろう典符がやってきた。長椅(こしかけ)に座る瓔良の隣に来るなり、彼は開口一番に謝罪をした。
「瓔良、ごめん!」
「思い当たるものが多すぎてどれに謝罪しているのかわからない……」
「全部……です」
 潔く認めたことに、瓔良は苦笑する。
「特例でやってきた瓔良にこんなにも雑務を押しつけると思わなかったし、まさか凍龍陛下のお気に入りになるなんて思っていなかったんだよ」
「そうだね。毎日やることが多いし……あと凍龍陛下も」
「もし嫌だったら、僕から仁耀殿に伝えるけど?」
 凰駕が会いにくるたび、瓔良は嫌そうに相手をしているが、実のところそこまで嫌ってはいない。凰駕に会うことも日課となっている。そのことを思い返し、瓔良は首を横に振った。
「凍龍陛下に会うのは楽しいから大丈夫」
「そうなの?」
「うん。凍龍陛下と話す時間は癒しだよ」
 予想外だ、と言わんばかりに典符は目を見開いている。しかしこれは瓔良の正直な気持ちである。問題は凰駕ではなく、季獣省の忙しさだ。
 それでも瓔良は記録の確認や清掃などの雑務を任されている。それに比べ、他の宦官は仕事量が多く、特に典符は仁耀に可愛がられているようで、朝から晩まで慌ただしく走り回っている。
「ところで……瓔良はどうして泥だらけなの?」
 今の瓔良は体のあちこちに泥がついていた。典符はそのことを気にしている。
「ああ、これ? 季獣省の外に出た時に、宮女とぶつかったの」
「それだけで、そんなに泥まみれになる?」
「相手が泥を運んでいたらしくて」
 これが今日だけの話ではない。昨日は水桶を持っていた宮女が転んで瓔良に水がかかった。その前は階に油が塗られていて滑った。知らぬうちに蜈蚣(むかで)が袍に張り付いていた日もあった。
 心配している典符を安心させるかのように、瓔良は微笑む。
「ちょっと運が悪いだけだよ。泥を落とせば平気」
「ちょっとではすまないと思うけど……待って。首にも泥がついているよ。取ってあげる」
 ぱたぱたと泥を取っていると、典符の手がこちらに伸びた。取りにくい首裏にも泥がついているたしく、取ってくれるようだ。
 指が首裏に触れる。暖かな指先だ。数度なぞり、泥を落としていく。
 泥は取れたのか指が離れていく。瓔良は「ありがとう」とお礼を言いながら典符の方を振り返ろうとし――そこで、ぴしりと固まった。
 瓔良と典符が並んで座っていたはずが、凰駕がいる。その指先に泥がついたことから、瓔良の首に触れていたのは凰駕のようだ。
「凍龍陛下……なぜここに?」
「季獣省に来ただけだが」
「一声かけてくださってもよかったのでは」
「そなたたちが楽しげに話していたから声をかけられなかった」
 凰駕は機嫌が良くないらしい。そのまま典符の方に声をかける。
「典符。先ほど仁耀が捜していたぞ。急ぎの用事でもあるかもしれないな」
「ひええ……教えてくださってありがとうございます! 行ってきます!」
 典符は慌てて立ち上がり、駆けていった。
 そうなると残るのは凰駕と瓔良の二人である。しかし凰駕は顎に手を添え、こちらの方をちらりとも見ようとしない。瓔良には不機嫌の理由がわからず、一方的な気まずい空気が流れていた。どう話しかけようかと思案に暮れていると、凰駕がぼそぼそと呟いた。
「そなたと典符は同郷らしいが、体についた泥を取らせるなど、昔からあのように仲がよかったのか?」
 それが不機嫌の理由だろうか。瓔良は首を傾げながらも、正直に答える。
「典符は親しかったというよりも、弟のような存在でしたね」
「弟?」
「典符は気が弱くて、よく泣かされていました。ひどい時は山に置き去りにされて、わたしも典符を捜しにいったぐらいです」
 その時を思い出し、瓔良は苦笑する。
 よく泣かされていた典符を気にして、姉のようなつもりでいたのだ。典符が山に連れて行かれたと聞いて助け出しにいくも、瓔良まで迷ってしまった。
「結局わたしは典符を見つけられず、それどころか迷って眠りについてしまいましたが……でもその時に蛇みたいな生き物を見て……」
 腕に残った傷を思い出す。蛇に噛まれた後、瓔良は眠りについてしまい、気づけば家に運ばれていた。典符と瓔良を見つけ出したのは父だった。
「ともかく、友人というよりは弟です」
 そう話すと、なぜか凰駕が笑った。
「そうか。変なことを聞いてすまなかった」
 先ほどの不機嫌は消えたような気がする。凰駕は瓔良を見つめて言った。
「安心はしたが、馴れ馴れしく触らせるものではないぞ」
「……凍龍陛下は、すべての宦官にもそのような注意をするのでしょうか?」
「ん? いや、これは――」
 一介の宦官に、馴れ馴れしく触らせるなと注意をするのは普通なのだろうか。瓔良は首を傾げる。宦官は元は男、つまり――いつぞやに思い立ったものが口から零れ出た。
「やはり凍龍陛下は女人が苦手なのですね!」
「は?」
 凰駕にしては珍しく、素っ頓狂な声があがった。
「凍龍陛下は女人が苦手な故に、妃宮に行かず、宦官たちを構うのがお好きと。なるほど」
「待て。何の話をしている」
「凍龍陛下が妃嬪のもとに通わないと、仁耀から聞いたので、理由を考えただけですが……」
 これを聞くなり、凰駕は深く深くため息をついた。手で額を押さえている。
「妙な誤解をするな。女人が苦手なわけではない。妃宮に行かないのには理由がある」
「それにしては宦官たちとの距離が近いというか……」
「違う。先ほどの忠告はそういう意味ではない。あれは瓔良だけに――」
 そこまで言いかけたところで、なぜか凰駕の唇が動きを止めた。何かを言いたそうにしていたが、唇を噛む。そしてゆるゆると、二度目のため息をついた。
「……調子が狂う」
「大丈夫ですか?」
「そなたが言うな」
「なぜ!?」
 そう話していると、遠くの方で人の声が聞こえた。典符や仁耀ではない、女人の声だ。
 これに気づくなり、凰駕は身を屈めて、草葉の陰に隠れた。
「なぜ隠れるんです?」
「いいから来い」
 のんびりとした瓔良の行動に焦れたのだろう。凰駕は、瓔良の腕をぐいと引っ張り、自らの胸元に寄せた。そして身を屈ませる。
(せ、狭い……後ろに凍龍陛下がいる……)
 背にあたるのは凰駕の胸だ。凰駕の体に覆われるような形になり、いつのまにか片腕で抱きしめられているため逃げられない。
「じっとしていろ」
 さらに耳元に息がかかる。近くにいることが、よくわかるぐらいに。
(こんなに近かったら女人だと気づかれてしまう……! 緊張する……)
 凰駕の片腕は瓔良を抱きしめている。そのこともまた、正体が知られてしまいそうで落ちつかない。慌てたように鼓動は急いている。隙を見せれば、うるさく騒ぐ心音が凰駕に聞こえてしまいそうだ。
「随分と体が細いな。ちゃんと食べているのか?」
「そ、そのように抱きしめなくともよいと思うのですが……」
「耳まで赤くなっているぞ。そんなに赤くなる必要はないだろう」
「わたしは宦官です!」
 こみ上げる恥ずかしさに耐えるべく、ぎゅっと目を瞑って主張する。それを聞くなり、凰駕がくすりと笑う声が聞こえた。
「その慌てる様まで、可愛らしいな」
(ああ、もう! この人は!)
 凰駕の体と触れている背が熱く、瓔良を抱きしめた腕にも力が込められている。
 からかっているとわかっている。宦官だから構っている。そうわかっているのに、封じている女人としての感情が疼く。
(この人が妃嬪を抱きしめる時も、こんな風に力強いのかな)
 そう思うと、妙な心地になる。凰駕が近くにいることを恥じらう反面、離れてしまうことが惜しくなる。だから口を引き結んだ。
「瓔良、そなたは――」
 凰駕が何かを言いかけた時だ。
 草葉の向こうに誰かがいる。瓔良の視界は、その人物を捉えていた。
「凍龍陛下。あれを」
「……蒋淑妃だな。もう一人は季獣省の宦官か」
 妃嬪は交替で季獣省に詣ることになっているが、今日は蒋淑妃の番ではないはず。だというのに現れ、さらに宦官と言葉を交わしている。黙りこんで見ていると、彼らの会話が聞こえてきた。
「では、凍龍には会えないと?」
「妃嬪が凍龍様に会うためには凍龍陛下の許可が必要です」
「……困るわ。秋虎では足りなくなってきたから、凍龍から得たかったのだけど」
 これに瓔良は眉を顰めた。
(得る? 何の話をしているのだろう)
 宦官はそれでも首を横に振る。しかし、蒋淑妃の願いを叶える良い策があるらしく、表情は明るい。
「良い話がございます。先日ここに来た荊瓔良が稀少な異能を持っているのですよ」
「ああ、あの厄介な宦官ね。嫌がらせをしているというのにちっとも響かない――その話を聞かせてちょうだい」
「荊瓔良は、贄という異能を持ち、季獣様に力を分け与えるのです。調べたところ、贄の異能は昔の生贄伝承に由来がございます。あの体を食めば、全ての生物に力を与えるのかと」
「つまり、わたくしの美貌にも効くと?」
「推測にございますが、試す価値はあるかと」
 耳を疑いたくなるような話だった。宦官が、瓔良の異能について情報を与えている。さらに宦官が語った推測は当たっている。
(今の話は……つまり、わたしを食べる?)
 嘘だと言ってほしい。しかし無情にも、蒋淑妃は満足げに微笑んでいた。
「では、今度は荊瓔良を使うとしよう」
 恐ろしさに体が震えていた。瓔良の心は、蒋淑妃らの話を聞き取ることもできないほど恐怖に掌握されている。
「大丈夫だ。私がそなたを守る」
 耳元で、凰駕が囁いた。視線を蒋淑妃らに向けたまま、ぎゅっと力強く、瓔良を抱きしめる。凰駕のぬくもりが、瓔良の体に染みこんでいく。彼のそばにいれば恐怖が和らぐような気がした。頭が冷えていく。
(そうだ……蒋淑妃になんか負けちゃだめだ)
 諦めてはいけない、と瓔良は前を向く。
(蒋淑妃が秋虎様に何をしたのかわからない。だけど、止めなきゃ)
 瓔良はぐっと拳を握る。体の震えは止まっていた。
 そのうちに蒋淑妃らは去っていった。人気がなくなったのを見計らって、瓔良と凰駕は茂みから出る。
「……なるほどな」
 凰駕がため息をついた。あの密談を彼なりに整理し、答えを出したらしい。そして瓔良の方に向き直る。
「先ほどの話だがそなたのことは――」
「さっそく蒋淑妃を止めなければいけませんね!」
 胸に秘めたる決意を力強く瓔良が語るも、凰駕は首を傾げていた。
「怖がっていたのではなかったか?」
「確かに怖いとは思いましたが、秋虎様を助ける術がわかったので、やる気がでました」
「あれほど震えていたくせにな」
 やる気じゅうぶんとばかりに拳を握る瓔良に、凰駕は苦く笑っていた。
「今の話を忘れてほしいところだが……そなたは正直すぎるからな、できないのだろう」
「はい。必ずや秋虎様を助けます」
「わかった。だが、くれぐれも無茶はするな。そなたは宦官なのだと胸に刻み、突飛な行動をしないよう。何かあれば私に相談しろ」
 蒋淑妃の企みを見過ごすことはできない。止めたとしても瓔良は動くだろう。そのことを、このわずかな期間で凰駕は学んでいたようだ。瓔良を否定するのではなく信頼して、助言をしているのだと。そのことがひしひしと伝わってくる。
(でも……怖くなくなったのは、凍龍陛下のおかげ)
 前向きに考えることができたのは、凰駕がいるからだ。あの腕の中にいると、守られているのだと強く感じた。守ってくれる人がいるからこそ、立ち上がることができる。
(秋虎様を救えばこの国に秋が来る。この国が危機から免れる――それは凍龍陛下のためにもなる。宦官だからこそできることがあるはず)
 守ると誓っていた凰駕のためにも、瓔良は前を向いた。

***

 翌日のことである。瓔良は内侍省に向かっていた。季獣省詣りをした妃嬪の記録を内侍省に提出するためである。書を渡すだけで簡単なため、瓔良の仕事となっていた。
 宮女たちから泥や水をかけられるのは季獣省を出た時。つまり、内侍省と季獣省の往来が狙われる。これまでは偶然ぶつかるだけで、運が悪いだけだと片付けてきたが、今回は違う。
(わたしに嫌がらせするよう依頼していたのが蒋淑妃なら――)
 蒋淑妃は何らかの理由で秋虎を害し、その標的を瓔良に変えようとしている。となれば嫌がらせは止まるのではないかと考えていた。
 そして蒋淑妃が瓔良の力を狙い、この体を食もうと考えているのなら――内侍省を出て季獣省の近くまでやってきた。ここはそばに池や草木があり、人が隠れるのに最適である
「……っ!」
 草葉の揺れる音がし、瓔良は振り返った。警戒していたからこそ、気づくことができた。
 そこにいたのは宮女が数名。その手には手巾や縄が握られている。彼女たちは瓔良が振り返ったことに驚いていた。
「今日も嫌がらせですか?」
「わ、わたしたちは……別に……」 
 瓔良を食もうと考えるのならば、瓔良を捕まえようとするのではないかと考えていた。ましてや連日の嫌がらせにより、瓔良が内侍省に向かうことや通る道はわかっている。季獣省のあたりは人の往来がないことも狙いやすいことだろう。
(眠り薬を染みこませた手巾を使って縄で縛り上げて捕まえようとした……ってことかな)
 大方想像がつく。しかし宮女たちの狙いに触れず、嫌がらせだけを見抜いたふりをして瓔良は語る。
「わざと水や泥をかけたり、毎日忙しいですね」
「……気づいていたの」
(気づいたのは、蒋淑妃のおかげだけどね)
 ここで嫌がらせを見抜けば、蒋淑妃は別の手段で瓔良を捕えようとするのではないか。瓔良はそう考えていた。
「もうここで待ち伏せをされても通じない」
 瓔良はそう告げ、踵を返そうとした。
 だが、宮女たちは違ったようだ。嫌がらせを見抜かれた恥ずかしさと怒りで肩が震えている。その怒りは自らの内で収めることができなかったらしい。
「この……!」
 うまくいかなかった苛立ちは背を向けた瓔良に向けられる。体をどんと強く押された。
(あ……落ちる)
 均衡を崩し、体が傾く。伸びた草を支えにしようと手を伸ばすも届かない。
 そして、ばしゃりと大きな水音と共に、瓔良は池に落ちた。
「蒋淑妃をばかにしたからよ」
「あんたなんて、ただの宦官なのに蒋淑妃に逆らって――」
 もがく瓔良の鼓膜を揺らすは宮女の罵声だ。見た目以上に池は深く、足がつかない。袍は水を吸いこんで重たく、思うように手足が動かせない。
 だが瓔良は慌てていなかった。
「掴まれ!」
 差し伸べられる大きな手。それを掴むと、一気に体が引き上げられた。
「あ、りがとう……ございます」
「大丈夫か。怪我はないな?」
 宮女たちは言葉を失っていた。突如現れ、瓔良を引き上げた者は凍龍陛下なのだから。
「そなたたち、何をしたのかわかっているな」
「これは、宦官が勝手に転んだだけにございます」
「……後ほど沙汰を下す」
 凰駕は宮女から視線を剥がし、軽々と瓔良を抱き上げた。
「と、凍龍陛下!?」
「黙っていろ。季獣省に運ぶ」
「歩けます!」
 その表情には焦りの色が浮かんでいた。瓔良が池に落ちたことで、相当に慌てたらしい。瓔良を抱き上げたまま季獣省へと歩き出してしまった。
 凰駕には今日のことを伝えてあった。嫌がらせを見抜き、蒋淑妃が繰り出すだろう手をひとつ減らす。そのため近くに隠れていてもらっていたのだ。
「池に落ちるとは聞いていなかったぞ」
「わたしだって想像していませんでしたよ。でもこれで、わたしを狙う場面が季獣省にいる時に限られるはずです」
 蒋淑妃の悪事を曝くために言質では足りない。その現場に乗りこんでもらうのが一番だ。人気のない外よりも季獣省にいる時が良いと考えた作戦である。
「秋虎様でなくわたしを標的としていること。捕えようとしていることも判明しましたね。対策が取りやすくなります」
「それでは瓔良を囮に使うようなものだろう」
「いけませんか?」
 そこで凰駕は足を止めた。俯き、瓔良をじっと見つめ――しかしすぐに、ふいと顔を背けてしまった。こちらを見ることなく、凰駕が言う。
「……隠しておけ」
「隠す……ああっ!?」
 はっとして、瓔良は胸元に手をあてる。水分を含んだ袍が体に張り付いている。胸は布を巻いて隠していたが、それも緩みかかっている。
「こ、ここ、これは違います!」
「見ていない!」
「わたしは宦官です!」
「わかっている! 暴れるな!」
 その問答はしばしの間続いた。


 思い返せば、池の水はじゅうぶんに冷たかった。
 頭が痛んで、ぼうっとする。妙に寒く感じるのは熱が出ているためだ。結局、自室で休むこととなってしまった。
(秋虎様は大丈夫だろうか。それに凍龍様も……)
 凍龍を思うと、なぜか懐かしさを感じる。理由はわからない。そして凍龍も瓔良に懐いている。典符に対しては無反応な凍龍も、瓔良相手になるとすり寄ってくる。
 昼にしっかりと寝ていたからか、日が沈んでもなかなか寝付けない。その上、狭い部屋に一人である。心細く感じ、瓔良はため息をついた。
(元気だったら仕事をして、そうしたらきっと凍龍陛下がちょっかいを出しにきていたんだろうな。わたしが休みだと知って、どうしていたのだろう)
 なぜか思い浮かぶのは凰駕のことだ。普段騒がしくつきまとってくるが故に、寂しく感じてしまう。
「……凍龍陛下、何をしているかな」
 ぼんやりとしながら呟く。これは部屋に一人が故の、ひとり言のはずだった。
「熱に浮かされても私を呼ぶか」
 だから返答など、ないはずであった。驚いて身を起こすと、そこには凰駕がいる。
 ここは季獣省の、宦官たちに与えられる個室だ。そして夜だ。だというのに、なぜ凰駕が悠然と木椅子に腰掛けているのか。
 凰駕がいると、妙に緊張する。狭い部屋に二人きりなのだと思えば、自然と体が強張った。
「あ、あの……ここはわたしの部屋ですが」
「うん? わかっているぞ」
 反応を見るに、慌てているのは瓔良だけのようだ。そのことから、思い出す。
 瓔良が女人であれば、夜に二人きりなどゆゆしきことだが、凰駕には瓔良が女人だと伝えていないのだ。宦官として振る舞わなければ、と改めて認識する。
 寝台横の几に、凰駕は次々と持ってきたものを置く。そこにはあの焼き菓子も含まれていた。
「宮医に用意させた薬と焼き菓子を持ってきた。甘いものなら食べられるかもしれないと思ったが……大丈夫か?」
「ご心配をおかけしてすみません。明日には熱も下がると思います」
「ならばよい。だが明日も良くならぬのなら、休むようにな。仁耀には私から言っておく」
 いつもならばからかってくるはずが、今日は優しく見える。薬や好物を持ってきてくれたこともありがたい。
 優しさがしみるのは、体調が悪いからか、それとも別のものか。凰駕の整った顔立ちを眺めながら考えてみるが、ぼんやりとした頭では結論が出そうにない。
 そのうちに、見つめられていることに気づいたのだろう凰駕が咳払いをした。その頬がわずかに赤いような気もする。
「……じっと見ていられるのは慣れぬ」
「あ、すみません」
「構わないが……むずがゆいものがあるな」
 どういう意味だろう。瓔良は首を傾げる。すると凰駕は柔らかく微笑んで、瓔良の手を撫でた。
「私のせいで、そなたを苦しめてしまったな」
「違いますよ。池に落ちたのは宮女のせいです」
「そうではない。この後宮は私のもの。妃嬪たちのことも……私のせいだ」
 凰駕のまなざしに、いつもと違う温度を感じ、瓔良は口を引き結んだ。凰駕が悔しそうに語り出す。
「妃嬪たちは私が通うことを求めている。それは私を好むのではなく、皇帝という権力や容貌を好むが故だ。私は心から想う者を抱きしめたい。しかし、今の後宮には様々な悪意が巣くう。季獣を貶めても良いと思う者がいるぐらいだ。私が想う者を妃嬪にすれば、きっと傷つけられる。後宮にある膿をすべて出さねば、その者を妃嬪にすることができない」
「凍龍陛下は、心から想う方がいるんですね」
「そなたのよく知る者だ。だから安心しろ。そのように悲しい顔をするな」
 凰駕の手のひらは温かく、心地がよい。狭い部屋に凰駕がいる。それだけで、なぜか安心していくのがわかった。
「今は眠れ。そのうちにそなたに話したいことがある」
「いま、聞きたいです」
「……昔に……そなたが助けた…………龍のことだ……あれは……私の……」
 次第に瞼が重たくなっていく。この話を聞きたい気持ちと裏腹に、意識はまどろみの中に落ちていく。そして凰駕の声すらも聞こえないぐらい深く、眠りについていた。


 瓔良が眠りに落ちた後のこと。瓔良の知らない出来事である。
 しばし寝顔を眺めた後、冬凰駕は部屋を出て行った。出るとすぐに、廊下にもたれかかっている人物がいる。範仁耀だ。
「寝込みを襲うのはどうかと思いますよ」
「私がそのようなことをすると思ったのか」
「いえ、できないでしょう。凍龍陛下は、なかなか奥手でいらっしゃる」
 歩きながら言葉をかわすも、凰駕はばつが悪そうにしていた。奥手と言われたことを気にしているのだろう。
「念願の彼女に会えた時はあれほど喜んでいたというのに。いざ近くにいれば手を出せないのが凍龍陛下らしい」
「私だって、このようになるとは思っていなかった」
「着任前日はそわそわして眠れなかったと聞いていますよ」
 仁耀はその時を思い出しているのか、くつくつと笑う。
「いやあ、私から典符を説得するのは骨が折れましたよ。凍龍陛下が一途に想っているから呼びたいと言えれば楽なのに。ああ、損な立ち回りです」
 典符が季獣省に来た時から、彼女と同郷であることは知っていた。何とかして会えないかと考えていたところで、此度の件が起きたのである。瓔良を呼ぶよう典符に提案したのは仁耀だが、その裏に凰駕がいることを、典符は知らない。
 瓔良が宦官のふりをするなど荒唐無稽な策が成立したのは、凰駕が手を回したが故だ。そうでなければ厳重な警戒の中、女人が宦官のふりなど出来はしない。
「一目会うだけでいいと、思っていたんだがな」
「彼女に会えれば割り切って妃宮に通うと約束していたのに守ってもらえませんでしたねえ。凍龍陛下の一途さに涙が出そうです」
 会えればいい。そう思っていたはずが、いざ手元に来ればもっと欲しくなる。正体を偽ろうと必死に宦官のふりをする瓔良が愛おしくてたまらない。
「さっさと妃嬪にしたらどうです」
「まだ出来ぬ。瓔良を傷つけられたくない」
 瓔良に話したように、後宮には膿が溜まっている。皇后位を目指す娘たちの争いは苛烈だ。そこに羊飼いの娘にすぎない瓔良を妃嬪として迎えれば、娘たちは瓔良を目の敵にするだろう。
「彼女は強いですよ。素直で逞しい。妃嬪として迎えてもくじけなさそうな性格です」
「驚いたな。瓔良を妃嬪にすれば季獣省の人手が減ると思うのだが」
「仰る通り。それに宦官のふりをしようと空回りをする瓔良が見られなくなりますね。ではこのまま宦官にしましょう。それがいい」
 仁耀は黒い笑みを浮かべているが、これは冗談だろう。凰駕がどれほど彼女のことを想ってきたのか、仁耀は知っているはずだ。
「仁耀。蒋淑妃の件だが――」
「調査は進めていますが、なかなか尾は掴めませんね。現場を取り押さえられれば良いのですが」
「……何かあれば、私が瓔良を守る。瓔良を傷つける者は誰であれ許さない」
 凰駕の目は遠く、季獣省を超えて後宮の中心地へと向けられていた。それは凍龍のように冷たい、冷徹な皇帝の顔だった。

***

 目覚めると、熱はすっかり下がっていた。瓔良は季獣省に行き、仕事を進める。
 肌寒い祠に入ると凍龍がいた。瓔良がやってくるなり瞳を開き、こちらにすり寄ってくる。自らの体躯が大きいことを自覚しているのか、慎重に瓔良に頬をすり寄せた。
(凍龍様はいつ見ても可愛らしい)
 凍龍を撫でていると、なぜか心が落ち着く。この冷たさをどこかで知っているような気もする。
 この凍龍は凰駕の守護者だ。皇帝である凰駕が、幼生から育てている。凰駕も、このように凍龍を撫でていたのだろうか。
「私は宦官なのに。どうして気になるのだろう」
 凰駕のことばかり考えてしまう。これが不毛なことだとわかっている。瓔良は宦官としてここにいる。それに凰駕は誰かを心から想っている。
「……凍龍陛下」
 そのことが瓔良を蝕み、凍龍に触れながら凰駕の面影を探してしまう。
 そしてため息をついた時である。
「元気になったと聞いてみれば、落ちこんでいるようだな」
 祠に反響するのは、待ち望んでいた凰駕の声だ。彼の姿を視界に収めると嬉しくなり、表情が緩む。
しかしすぐに気を引き締め、宦官の顔つきに戻した。微笑んだのは一瞬のこと、凰駕が気づいていないのを願うばかりだ。
「……ふ」
「なんです? 人の顔を見るなり笑いだして」
「いや……少々おかしくてな。誰かが『空回りをする瓔良』と話していたのを思い出しただけだ」
 何のことかと首を傾げるも、凰駕はそのことについて話す気はないらしい。こほんと咳払いをひとつし、真剣な顔つきになる。
「蒋淑妃のことだが、そなたに頼みたいことがある」
「はい。何でしょう?」
「蒋淑妃が悪事を働く現場をおさえねばならない。そのためにもう一度、囮になってほしい。そなたを傷つけることがないようしっかりと手はずは整えている。それでも怖いと思うならば言ってほしい。そなたの嫌がることは――」
「お任せください!」
 瓔良はにっこりと笑みを浮かべて、己の胸を軽く叩いた。
「断るはずがありません。囮として頑張ります!」
 力強く答えるも、凰駕のまなざしには迷いが感じられた。瓔良の真意を探るかのように、鋭くこちらを見つめている。
「申し出は助かる。だが、本当に良いのか? そなたは何のために頑張ろうと言うのだ」
「それは凍龍陛下の……」
 口にだしかけて、気づく。
(秋虎様のためではない? いま、どうして凍龍陛下のためと言いそうになった?)
 自らの行動と感情が追いつかない。頭の中で自問自答を繰り返し、もう一度凰駕を見つめる。
 視線を交わすだけで、嬉しくなる。心が温かくなる。この人がいるから、前を向ける。
(わたし……凍龍陛下が好きだ)
 ゆるゆると自覚していく。しかし、好意を口に出すことはできなかった。
(でも、わたしは宦官。女人であることを偽って、ここにいる)
 その負い目が、胸中にある恋心を封じていく。伝えることのできない苦しみを抱え、瓔良は切なく微笑んだ。
「……凍龍陛下のためです」
 好きだから、あなたの国を守りたい。
 短く答えた言葉に隠れる、瓔良の心。
 凰駕は瓔良を見つめていた。瓔良の返答を、凰駕がどのように飲みこんだのかはわからない。けれど、凰駕は慈しむように優しく、笑みを浮かべた。
「瓔良を信じている。必ず傷つけさせない」

***

 数日後。蒋淑妃が季獣省にやってきた。今日は彼女が祈りを捧げる番である。
 蒋淑妃は朱門にて待つ瓔良を見るなり、周囲を見回した。
「仁耀はいないのね」
「今日の案内はわたし一人にございます」
 封印を解き、祠の中に入る。青い光を頼りに、秋虎が待つ祠の奥へと進んでいく。
 そして、奥についた時である。
「……あなた、贄の異能を持つのでしょう?」
 蒋淑妃が言った。瓔良は顔をあげ、正面から彼女と向き合う。
「はい。わたしは贄の異能を持つ宦官。贄は、すべての生物の力となることができます」
「やはり、そうなのね――では」
 蒋淑妃は祈りの形を取る。今日もその場に膝はつかなかった。目は開いたままだが、今日は秋虎ではない。瓔良を見つめている。
 みるみると蒋淑妃の足元から紫煙がのぼった。これは秋虎の体で見たものと同じ紫煙。
「その紫煙は……異能?」
「入宮の時は隠していたけれど、異能があるの。わたくしの異能は『吸』。この紫煙はその生物が持つ力を吸い取る」
 にたり、と蒋淑妃が笑みを浮かべた。紫煙は瞬く間に濃くなり、瓔良の足元に絡みつく。
(紫煙を確かめたら逃げろと言われているけど……蒋淑妃の目的が気になる)
 予定ではここで逃げるはずだった。しかし、瓔良は逃げなかった。どうしても蒋淑妃と話したい。このようなことをした理由が知りたかった。
「これで秋虎様の力を吸い取っていた? 秋の恵みが遅いのは、あなたのせいですね」
「力を借りただけよ、返してはいないけれど。わたくしは秋なんてどうでもいい。それよりも、もっと美しくなって凍龍陛下の目を引かなくちゃ」
「……どうして、そうまでして凍龍陛下に」
「皇后になりたいの。皇后になれば、何でもできるでしょう?」
 蒋淑妃の目的がようやく明らかになった。しかし蒋淑妃は余裕のままだ。
「あなたを連れ去ろうと思ったけれど、残念ね。ここで死んでもらうわ。でも安心して。あなたの生気だけじゃない。その身もちゃんと食べてあげるわ。わたくしの生贄としてね」
「う……」
 紫煙が巻きついたところから、力が抜けていく。吸い取られているのだ。足ががくがくと震え、立っていられなくなる。
「じわじわ嬲るのは好きじゃないの。これで終わりにしましょう」
 蒋淑妃が瞳を見開いた。瞬間、その体から紫煙が溢れ出る。今までのものとは異なり、煙の色は濃く、量も多い。
(あれに触れたら、まずい)
 逃げなければとわかっているが、既に生気を取られている瓔良は座りこんで立ち上がれない。
 ついに、蒋淑妃の体から紫煙が放たれる。
 瓔良はきゅっと強く目を瞑る。恐怖の瞬間、頭に浮かぶのは凰駕の姿だ。
「……っ、凍龍陛下!」
 助けを求めるように叫んでいた。
 強い衝撃が瓔良を襲う。瓔良の体は吹き飛ばされ、床に倒れていた。
 だが、生気が抜けていく感触はなかった。おそるおそる瞳を開き、確かめる。
「え……?」
 瓔良がいたはずの場所に紫煙が渦巻き、瓔良ではない別の者がいる。
 青みがかった長い黒髪。大きな手のひら。抱きしめられた時に間近で見た、龍袍。
「あ、あ、そんな……」
 そこに倒れているのは凰駕だった。瓔良が駆け寄ると、凰駕はゆっくりと瞳を開く。
「守ると、言っただろう」
「でも、こんなのは……わたしが、逃げなかったせいで……」
「……瓔良」
 凰駕の顔が苦しげに歪む。生気を吸い取る紫煙を全身で浴びたのだ。顔は青白く、呼気も弱くなっていく。
「あ、ああ……凍龍陛下に紫煙を向けてしまうなんて」
 その場に膝をつき、放心状態になっているのは蒋淑妃だ。紫煙は一気に消え、髪が白くなっていく。そのことに蒋淑妃も気づいた。
「い、いやよ。異能が、わたくしの異能が消えていく。やめて。返さないで。そのようなことをしたら、いやああああ」
 絶望によって、その体にあった異能の力が失せたのだろう。多くの生気を奪い、美貌に変えてきた代償として、美しい肌はやつれ、髪も細く白くなり抜け落ちる。自慢の美貌はみるみると損なわれていった。
 蒋淑妃の体から失われた美貌は紫煙となって、秋虎と凰駕のもとに向かう。この紫煙を吸いこむなり、秋虎は瞳を開いた。
 秋虎が身を起こす。大きく一鳴きすると、その身に纏っていた緋色の炎がぶわりと燃え上がった。瞳は大きく見開かれ、もう一度、力強く雄叫びをあげる。
 秋虎の雄叫びが祠に響くと同時に、纏っていた炎が黄金色の光の粒となった。それは祠の壁をすり抜け、どこかに消えていく。秋のような、乾いた香りがした。
(秋虎様に力が戻って、秋の恵みが……与えられた)
 この光の粒こそ、秋虎が与える秋の恵み。それがいま凍龍国に配られたのだ。まもなくして葉は赤く染まり、夏の暑さを飛ばす風が吹くのだろう。
 しかし――秋虎が力を取り戻しても、瓔良の膝で眠る凰駕はぴくりとも動かなかった。
「凍龍陛下……どうして……」
 凰駕の顔色は青ざめたままだ。
「典符、急ぎ宮医を呼んでください! 紫煙を浴びすぎたのでしょう……生気を失いすぎてしまった」
 仁耀が叫ぶと、典符は頷き、祠から出て行った。
(凍龍陛下……嫌だ。こんなの)
 脳裏に、これまでの日々が浮かんだ。季獣省にいたわずかな間、いつも凰駕がいた。もっと、そばにいて笑い合いたかった。凰駕をここで失いたくない。
「……凍龍陛下、わたし大事なことを話していないんです」
 瓔良の胸にある感情は、友人や家族に向けるものとは違う。立場を偽ってここにいることを後悔したくなるような、恋しい気持ち。
「本当は、宦官じゃないんです……凍龍陛下に話せる日がきてほしかった……」
 ぽたりと、涙が落ちる。
「守るって凍龍陛下が言ってくれて嬉しかった。だけど、こんなのだめです……」
 手のひらが熱を持つ。瓔良が持つ、贄の異能だ。
「わたし、凍龍陛下が好きです。だから……」
 願うだけでは足りない。贄は、その身を捧げるのが最も効く。
 贄の手のひらが凰駕の頬を優しく撫で、それから影が落ちる。自らの唇を、凰駕の唇と重ね合わせた。
「偽らず、あなたに気持ちを伝えたかった」
 強く、強く、願う。
 体から熱が抜けていくのがわかる。柔らかな唇の感触は少しずつ遠くなっていき、そして――。
「……瓔、良?」
 暗くなっていく視界の端で、凰駕の瞼が動いたのが見えた。
 それが、最後だった。

***

 瓔良が見ているものは、典符を探して山に入り、蛇のような生き物を見つけた時のこと。蛇のように胴体は長く、けれど手足がある。見たことのない生き物だった。
 その生き物は弱っていた。いつものように願ってみるが、届かない。瓔良が送る力以上に弱っているのだ。
『死んではだめ。お願いよ』
 そこでふと、思い出した。
 贄の力は、昔で言うところの生贄に近いのではないかと、父が話していたことを。だとするのなら、この体を食ませてみればどうなるのか。
『蛇さん、わたしを噛んでみて』
 蛇は苦しげにしながらにも、言われるがままに瓔良の腕に噛みついた。
 一噛み。たったそれだけで、蛇の瞳に宿る生気が色濃くなる。弱り、白化していた体が氷のような水碧色を取り戻し、透き通って輝く。蛇が身を捩ると、氷晶が舞った。
 きらきらと光り、落ちていく。
『きれい! 光の中にいるみたい。美しい氷だね』
 その光を眺めているうちに眠くなっていった。力を使いすぎたのだが、この時の瓔良にはわかっていなかった。
 地に横たわり、まどろみに落ちてかけたところで、視界に誰かが入りこんだ。
『ねえ、大丈夫? 起き上がれる?』
 典符でも家族でもない、男子の声。瓔良はぼんやりとしながら告げる。
『甘いもの……食べたい……』
 かぷ、と噛みつく。甘いものだった気がする。だが男子は慌てていた。
『ち、違う! これは僕の腕!』
『甘いもの……元気が出ない……』
『僕の腕を噛むなんて君は何なんだ……』
『瓔良』
『名前じゃなくて! ……でも、』
 そうだ。この男の子には教えた。甘いものが食べないと力が出ないのだと。
『僕の凍龍を助けてくれてありがとう』
 まばたきを数度。力なく眠りに落ちていく瓔良の視界に、あの時の男子が映る。青みがかった黒の髪。切れ長の瞳。それは彼に似ていた。


 ぱちりと目が醒めた。
 あの山は、あれ以降国の管理下に置かれ、入ることができなくなった。だから、あれは古い記憶だろう。夢として見ていただけだ。
 瞼を擦ろうと手を動かそうとしたが、なぜかうまく動かせない。指を掴まれている。それを確かめようとしたところで、声が落ちた。
「瓔良! 目覚めたか」
 視界に入りこむのは凰駕の姿。その後ろには見慣れた季獣省の天井がある。
「わたしは……」
「そなたは私に力を与えた後、眠りについていたのだ。二日も眠っていたのだぞ」
「っ――そうだ、凍龍陛下! 怪我は!?」
 倒れる前のことを思い出し、瓔良は慌てて起き上がった。しかしすぐに凰駕の手に押さえられ寝台に戻されてしまった。
「無理をするな。私なら平気だ。そなたの方がひどいのだから眠っていろ」
「ですが……秋虎様は? 蒋淑妃のことも気になります」
「秋虎は秋の恵みを配り終えて消えた。次の秋まで力を蓄えにいったのだろう」
 それを聞いて安堵する。里もいずれ秋の季を迎えるだろう。そうなれば家族も喜ぶに違いない。
「蒋淑妃は捕えている。此度の罪は重い。その身を以て償うことになるだろう……とはいえ虚ろな様子だった。あれでは、こちらの言葉が届いているかはわからぬな」
 最後に見た蒋淑妃は全ての美貌を欠き、重い代償を背負うかのように老いた姿になっていた。
「あの後に調べたが、蒋淑妃は秋虎以外にも様々なものから生気を奪っていたらしい」
「それで、あんなに美しかったのですね」
「美しい? 心が醜い者にそのような言葉は必要ない。それよりも――」
 凰駕の指が、瓔良の頬を撫でる。その指先は唇で止まった。
「……私に口づけをしていたと聞いたが」
「え!? あ、あの、それは……」
「別に構わない。それによって私は助けられたからな――だが、ずるいな」
 唇の柔らかさを確かめるように指でなぞられる。瓔良の唇は、ふに、と柔らかく歪んで凰駕の指を受け入れていた。
「そのように積極的なことは意識のある時にしてほしいものだ」
「あ、あの、わたしは……隠していることがあって、その話を先に……」
「そう慌てるな。隠し事については知っている」
 予想外の言葉に瓔良の瞳が丸くなる。驚く瓔良に対し、凰駕の微笑みは変わらない。
「私は、幼い頃から一人だけを想っている。まだ妃嬪として迎えられないが、私は我儘だからな。その者に偽りを纏わせてでもそばに置きたい。だがいずれ必ず私の妃嬪にする」
「もしかして……凍龍陛下が想っている方とは……」
「では、唇に問えばいい」
 瞬間、視界が暗くなった。布ずれの音と共に、熱を伴った影が落ちる。それは優しく、瓔良の唇に触れた。
(甘い……)
 いつもそばにいた、凰駕の香り。想いが通じる喜びは、体に染み渡って幸福に変わっていく。
 唇が離れてうすらと瞳を開ければ、凰駕のまなざしがある。瓔良はそれに微笑み、告げる。
「とても甘い……です。元気が出ます」
「だろうな」
「……わたし、凍龍陛下をお慕いしています」
「私もそなたを愛している。何にも傷つけさせないと約束し、私のそばに置きたい。だからもう一度……」
 再び、影が迫ろうとし――しかし凰駕も瓔良も瞳を見開いた。部屋の外がどさどさと騒がしい。
 慌てて二人が身を剥がせば、扉が開いた。
 やってきたのは仁耀と典符である。ずかずかと部屋に入りこむ二人に凰駕は深くため息をついた。
「……後で来ればよかっただろう」
「いえいえ。それはできません。大事な人手を奪われては困りますので」
 凰駕と仁耀が話すものを、典符は理解していないようで「人手を奪われる?」と首を傾げていた。
 そして仁耀がこちらに近づく。
「瓔良は、秋虎の件が解決する間だけ季獣省にいるという話でしたね」
「あ……そう、ですね……」
 それは待ち望んでいた解放の日だが、なぜか胸が痛む。できれば凰駕のそばにいたい。
 その想いが通じたのか、凰駕が口を挟んだ。
「瓔良。そなたの功績は大きい。そして、贄の異能は季獣省に必要なものだ。私としてはもうしばらく、ここに残ってほしいのだが」
「え……」
「凍龍もよく懐いている。瓔良が頷いてくれるのならば、私はここにいてほしい」
 宦官として、ここに残る。そうなれば凰駕に会うことができる。それは喜ばしいことだが、良いのだろうか。瓔良は女人であることを偽ってここにいる。その迷いが、口から零れ出た。
「残りたい、ですが……わたしは――」
「宦官だろう?」
 被せるように凰駕が言い、はっとする。
 瓔良の中で答えが出ていた。瓔良は力強く頷き、凰駕に答える。
「ここに残ります。この身をもって、凍龍陛下を支えます」
「ああ。これからも頼むぞ」
 温かな手のひらに頭を優しく撫でられ、その動きが心地よく瓔良は瞳を細めた。
 宦官だとしても、女人として通じない想いだとしても、凰駕のそばにいたい。瓔良の心には凰駕への想いがある。
 しかし穏やかな時間は簡単に崩れ去った。ぱん、と仁耀が手を叩いた音で我に返る。
「話もまとまったようなので、仕事しましょうか。いつ妃嬪になってしまうかわかりませんからね。その前に、瓔良をこき使わなければ」
「妃嬪? 仁耀殿、その話はいったい――」
「いいから行きますよ。典符はやることがたくさんあるでしょう」
「ひええ……」
 典符の悲鳴が遠ざかっていく。それを聞き、瓔良と凰駕は笑っていた。
「……では、私たちも行こう。これからもそばにいてくれるのだろう?」
「はい、お任せください」
 いつか妃嬪として迎えたい。凰駕のその言葉を胸に、瓔良は立ち上がる。
「わたしは宦官ですから」
 この偽りは、愛する人のために。

 後に、冬凰駕は皇后を迎えることになる。皇后の名は荊瓔良。生涯愛し愛され、二人の間には幸福が満ちていたという。
 その荊瓔良に、宦官として偽っていた時期があることを多くの者は知らない。偽りは愛に変わり、歴史に刻まれている。