「結花ちゃん、結花ちゃん?」

 どこか聞き慣れた声をかけられて、恐る恐る顔を上げる。

「やっぱり結花ちゃんだね。よかった」

 私の顔をのぞき込んで呼びかけてくれていた声の主はやはり菜都実さんだった。

「さっき、旦那が結花ちゃんが泣きながら走ってたって教えてくれた。きっとあそこに戻ったんだって思ってね」

 菜都実さんは何も言わず、まず私を抱きしめてくれた。

「恥ずかしいです……」

 堤防に設置されている薄明かりで見ても、浴衣は破けてしかも砂だらけ。髪の毛もボサボサに乱れて、手足は血まみれの私……。

 誰にも見せられるようなものではない酷い姿だよ。

「それじゃもう歩けないね。ほら、乗って」

 以前は先生の背中だったけど、今度は菜都実さんの背中に乗せられて、ユーフォリアに向かう。

「お客さんは……? こんな私を入れたら……」

「お客さん? 一人だけ残ってるわ。でも大丈夫。本当に軽いわね……。ちゃんと食べてる?」

「お仕事をしているときは……。家ではおなかが空かないときも多いです」

「食欲の波が大きいって佳織も心配してたからね。結花ちゃんは痩せる必要ない。今でも十分スレンダーなんだから」

 そんなことを話してくれながらお店の前に来る。もう外側の照明は消されていた。

 臨時売店営業だったから、いつもの閉店時間を待たずに閉めたんだ。

 菜都実さんの背中に乗せられたまま、お店のドアを開けて中に入る。

「ほら、お姫様を今度こそ悲しませちゃいけないよ。あたしたちが許さないからね」

 薄暗い店内に入ったとき、菜都実さんの声の先を見る。

「せん……せい……」

 私は菜都実さんの背中から降りた。

 降りたなんてもんじゃない。ドスンと音がしたほど、滑り落ちたといった方が正しいと思う。

「あぅ……」

 立ち上がろうと思ったけれど、走り続けた足は傷と疲れでもう力が入らない。

 いつもならほんの数歩の距離。それなのに、今の私の体には遠すぎる距離だった。

 お願い。あそこまで行かなきゃならないの……。

 足が立たないなら這ってでも。最後は腕の力だけで体を引きずって、その人の足下に辿り着いて再び泣き崩れた。

「ごめんなさい! 先生! 二度と嫌いなんて言わない。また原田って呼んでください……。バカな私を……叱ってください……!」

 もうかすれ声しか出せなかった。

 きっと、普段の半分も出ていないと思う。

「お願いです……。今度……また……ひとりぼっちは……もう嫌……。先生の言葉……信じてる……から、頑張って待つよ……。半年頑張るから……ちゃんと……迎えに来てよ……」

 もはや、自分でもなにを言っているのか分からない。

 小さな子のように、床に座り込んで泣きじゃくる私の頭の上に、そっと大きな手が乗せられた。

「結花の気持ちをもっと理解してから話の順番を変えて丁寧に説明するべきだった。俺が悪かったんだ。ごめんな」

「ううん。話を最後まで聞かなかった私が完全に悪いの……。嫌いだなんて、もう二度と言わない。だから……」

 先生は床に腰を下ろして、私を抱きしめてくれた。私の全身から力が抜けて体重を全てその人に預けていく。

「次は無いぞ? いいな原田……?」

「うん……。もう次はない。約束します……」

 もうこんな寂しい気持ちは二度と経験したくない。

 やっと辿り着いた腕の中の温もりに私は顔を埋めた。