「なにをしに来たんだよまったく」

「先生が心配だったんですよ。なんだか気持ちは分かります」

「それでも結花を叩いていいってもんじゃない。もう落ち着いたくれたか?」

 あんな状態のままで家に帰したら、今度は原田家が押しかけてきてしまいそうだ。

「もう大丈夫です。でも、許していただけて。先生のおかげです」

「俺は特別なことはしていない。自分の彼女を守るって当然のことをしただけだ」

 それが、傷ついている結花を預けてもらえるために俺へ出されている条件なのだから。

 それどころか、結花の手料理の腕は味にうるさいお袋すらねじ伏せた。

 逆の立場なら、自分にあんな一発勝負の芸当はできない。

「結花、やっぱりおまえは強いよ……」

 玄関の鍵を締めて、暫くは邪魔が入らない時間を作ってやろう。



「お洗濯もの、取り込んじゃいますね」

「いいよ、後は俺がやる」

「先生に任せておいたら、またグチャグチャですもん。片付けてから帰ります。流しのお皿だけお願いできますか?」

 悔しいが否定できない。そんな俺に微笑んで結花はベランダに出ていった。


 テーブルのゴミ処理と、皿洗いをして戻る。奥の部屋では結花が取り込んだ洗濯物を畳んでいた。ワイシャツにいたっては、仕上げのアイロンまで掛けてある。それを一つ一つタンスに収めてくれている。

 向こうを向いているので顔は見えない。黒いヘアゴムで留めてあるポニーテールが細く動いていた。

「結花……」

「先生……」

 後ろから結花を抱きしめる。いつも家で使っているシャンプーの香りがする。

「今日は謝らなくちゃいけない。俺がもっとしっかりしていればあんなことにはならなかった。迷惑をかけてごめんな」

「でも、お母さまから許していただけました。それで十分です」

 こいつは本当に欲がない。どんなに小さくても成果があれば良しとする。学生の頃から変わらない。

「あの……、ひとつ我がままなお願いをしてもいいですか?」

「なんだ?」

「先生の音、もう少し聞かせて欲しいんです。私が落ち着けるリズムはこれだって」

「そんなことか。お安い御用だ」

 マットの上に俺が仰向けになり、結花は正座をして俺の胸の上に顔を乗せた。方耳を下にして、俺と目が合う。

「どうだ、満足か?」

「はい……」

 数分と経たずに小さな寝息をかき始める。

 午後の日差しの中、結花の頭に手を乗せてやると少し笑っているように見えた。このままそっとしてやろう。

 そんなことを考えているうちに俺も眠り込んでいたらしい……。




 気がつけば、外はすっかり茜色に変わった空がレースのカーテンを通して見えている。俺にはタオルケットが掛けられていた。

 部屋の中に結花の姿がない。

 慌てて探すと、炊飯器にご飯、鍋に味噌汁とお皿にはおかずを盛り付けてあり、全て温め直すだけに夕食の支度がしてあった。まだ温かいから時間もそれほど経っていないだろう。それだけでなく、風呂の支度までしてあった。

「どんだけハイスペックなんだおまえは……」



『朝からお疲れ様でした。お休み中でしたので、これで失礼します。
心配しないでくださいね。ちゃんとお家に帰ります。
また次のお休みにお洗濯とお料理に来ます。

鍵は新聞受けに入れておきます。

今日は我がままを聞いていただいてありがとうございました。とても幸せなお昼寝でした。 結花』



 テーブルの上に走り書きのメモを残していった彼女の様子が目に浮かぶ。

 ちゃんと鍵も閉まっていて、新聞受けの中に彼女のハンカチに包んで落としてあった。

 結花……。

 本当なら、もうどこにも帰したくないと何度も思った。

 でもそんなことをしたら……。これまで、今日ですらあんな思いをしてまで手に入れた周りとの信頼関係を裏切ってしまう。

 一時の欲望で結花と歩くこの先の時間を失うことはしたくない。



 スマートフォンのメッセージアプリを立ち上げて夕食の礼を書き込んでやる。

 すぐに返事が返ってきた。

 先ほどまっすぐに帰ってきたこと。起きるのを待っていたかったけれど、疲れていたようなのでそっと帰ったことを許して欲しいと。

 大丈夫だ。また頼むぞ。

 いつもどおり「おやすみ」と打ち込んでから俺は気づいた。

 唇に微かにメントールの味が残っている。結花がいつもつけているリップクリームの味だった。