お袋はいつの間にか顔つきが変わっていた。

「初めてね。楓さんの時には、あんたはここまで必死じゃなかった。いつの間に大人になったのかしら」

 そうなのだ。お袋の中では俺は楓という将来のパートナーを失ったままだった。

 新しい出会いも探そうとしない俺のことを心配して手を焼いていたんだろう。

「さっきはごめんなさいね。大人げなく」

「いえ、私に責任はあります」

 結花は正座のまま、お袋に向かって両手をついて頭を床まで下げた。

「先生の人生を狂わせてしまったのは私のせいです。申し訳ありません」

「結花!」

「必ず、その償いはこの命あるかぎりさせていただきます。どんな扱いをされても構いません。ただ……、先生のそばに居させてください。先生にお(つか)えさせてさせてください。それ以上は望みません。お願いします……」

 涙声の結花。

 髪の毛は黒いヘアゴムで留めただけ。白いブラウスと紺色のジャンパースカート、白いソックスと学生みたいな出で立ちだが、作業服を着て主に懇願しているメイドに見えなくもない。

「結花……、おまえそこまで自分を卑下するな……」

 正座をしている足下を見てハッとした。

 血の気もなく青白い。そして小さく震えている。足でこんなだから顔はもっと酷いだろう。

 こんな時間をこれ以上続けたら、結花が壊れてしまう。

 フローリングの床に水滴が流れた。静まりかえった部屋にそれが落ちる音がする。結花の目からこぼれた涙だと気づいた。

「結花、もういい。顔を上げろ!」

 首筋も、耳だって真っ青。これが授業中なら間違いなく保健室行きだ。

「陽人、この方はあんたにはもったいなさ過ぎます」

「お袋! まだ言ってんのか……え?」

 まだ結花を拒否しているのかと思ったが、頭の中で繰り返してみると、その言葉はこれまでと違う?

「結花さん、顔を上げてください」

 お袋が結花の頭にそっと手を載せる。

 恐る恐る顔を上げる。

 やはり酷い顔だ。瞼と叩かれた頬は腫れて、血の気が引いてしまった顔は青白い。

 そこに涙と見られたもんじゃない。

「陽人、タオルを冷やして持ってきなさい」

 当たり前だ。フェイスタオルを水で浸し、結花に握らせようとする。

「しっかりしろ」

「はぃ……」

 自分で握れないなら仕方ない。いつもどおりメイクもほとんどしていないから、まず結花の顔を拭きあげてやった。

 顔から表情が消えている。こんな能面のような結花をこれ以上見るのはごめんだ。

「結花、しっかりするんだ」

 やむを得ない。お袋の前ではあるが、俺は結花を両腕で抱きしめた。

 少し強引にだけど、彼女の片耳を俺の左胸に押し当てて背中をさする。

「結花、俺の音を聞け。おまえのいる場所はここだ。おまえが一番落ち着くと言ってくれた場所だ。分かるか結花?」

 虚ろに開いていた目が閉じられる。

 大丈夫だ、聞こえている。

 落ち着け結花、おまえは一人じゃない。

「結花、どこにも行くな。俺のそばにいろ。いてくれるだけでいい。おまえの声を聞かせてくれ。それだけでいいんだ!」

 大粒の涙が再び結花の瞼に浮かんだ。

「ここに……いても……、いい……?」

 頼む結花、戻ってきてくれ。必死で体をさすり続けた。

「大丈夫だ。おまえの居場所はちゃんとある。今のおまえはあの教室じゃないんだ」

 これまでの経験で分かっている。結花が一番恐れるのは、自分の居場所を失うことなのだと。

 だからどんなに面倒な学級委員という役職を押しつけられても、それが彼女の存在意義と思っていたから受け入れていたんだ。

 その反対に、あの教室だけでなく学校の中に自分の居場所が無いと悟った彼女は、自ら進路を閉ざしてしまった。

 結花が熱を出した翌日、夕食を一緒に食べるため部屋に案内された時、窓が全開しないようになっているのに気づいた。普通の個人宅の窓にそんなことはしない。しかもロックは新しい。

 口には出さなかったが、それはつまり……。彼女は自ら終わりを選択をしかけたのだと悟った。

 そこまで傷ついてしまった心をみんなの力で支えてきた。

 結花の両親からも頼まれた。

 二度とそんな思いをさせるまいとここまでやってきたのに。


 結花を支えている手の指先に、かすかに温度が戻った。

「結花、頑張れ。大丈夫だ。ゆっくり息をしろ」

 青白かった耳たぶに桃色が戻り始めている。

「そうだ、いいぞ結花。上手だ。俺の声が聞こえるか?」

 少しずつ顔色が戻りつつある。ゆっくりと頷いた。

 正座をして固まっていた足を伸ばさせて、背中から抱えてやる。

「先生……」

 ようやく再び目を開けてくれた。

「結花! よく戻ってくれた。偉いぞ」

 まだ脅えているような表情だけど、顔に肌色が戻ってきている。

「わた……し、恥ずかしいことを……」

「大丈夫だ。おまえが悪いんじゃない」

 もう一度濡れタオルを目の下に当ててやる。

「お袋、これが俺と結花の絆だ。他人にどうこう言われる筋合いはない」

 もう誰に何を言われても、抱きしめた結花を放すつもりはなかった。