職員室での会話を振り切るのに予想以上に時間を食ってしまい、腕時計を見ると予定よりも少し遅れ気味だ。
俺は学校を飛び出して、まず自分のマンションに向かった。
そして、今度は自分の車を運転して市内の病院に向かう。
さっき誘いをはぐらかすために使った「学生時代の連中」というのが真実かと言えば、真っ赤な嘘ではないものの微妙なものだ。
今から会いに行くのは現役の学生、しかも自分の担当する生徒なのだから。
事前に打ち合わせていたとおり、病院の車寄せに停めさせてもらい、正面の自動ドアを開けて中に入ると、彼女は既に外来の待合室で車椅子に座り、看護師に付き添われて待っていてくれた。
「ごめんな原田。遅くなってしまった」
「いいんです。先生、本当にいいんですか?」
「クラスの他の奴らは、もう授業にならないほど浮き足立ってる。原田だけ何もしないで病室にいろというのは不公平だろう?」
そう、今日の予定の相手というのはこの原田だ。きっかけは、あの手術を終えて療養をしている彼女に、授業のプリントを持っていったときに交わした何気ない会話からだった。
毎年、一人で近所のイルミネーションを見に行っていたのが、今年は行くことができなくて残念だというもの。
「そうか……。ご両親と一緒にでも見に行けないのか?」
「そうですね……。今年はイブも平日ですし、土日も年末の仕事納めに向けて二人とも出社すると聞いているので、両親にお願いすることも出来ませんし……」
「そうか……」
淋しそうに俯いてしまった原田の顔を見て思い出したことがある。
この年の初夏、俺たちは高校の修学旅行で沖縄に向かった。
学級委員として、このときも朝の集合時間から添乗員顔負けの仕事ぶりで雑用をこなしてくれていた。
夕食も終え、全ての仕事から解放されている休憩時間にクラスの奴から心ない言葉が飛んだとき、雨の中に飛び出していった彼女。
「私はどこまですればいいんですか!」
土砂降りの雨の中、俺の腕の中で初めて感情をむき出しにし、大きな声で泣いていた原田を忘れてはいない。
いつも誰かのため、役に立てるならと自分の感情を押し殺して生きる原田。そんな彼女にだって修学旅行を楽しむ権利は他の生徒と平等にあるはずだ。
「原田、明日はおまえの休日にしてやる。だから、明日の学級委員の仕事は忘れろ!」
その時は翌朝に熱を出したと彼女に小芝居をさせ、他の生徒には内緒で、事前に提出させた行動計画書に書かれていた国内でも有数の水族館に連れ出して時間の許す限り自由に羽を伸ばさせてやった。
これまで、俺は特定の生徒を贔屓しないという原則を持っていたし、「小島先生にはクリスマスもバレンタインデーもイベント仕掛けが通じない」という噂も気にしていない。
むしろ、教師としてはそれが当然というポリシーだった。
しかし、原田結花という生徒には、それが通用しなかった。
いや、気が付けば自分から彼女に手を差し出していたと言う方が正しいかもしれない。
そこまでして一人の生徒を支えたいと思ったのは彼女が初めてだった。それなのに、現実はなぜ彼女にだけ病気という試練を与えたのか。
一週間前の帰りがけ、俺はダメもとだと思いながら声をかけてみることにした。
「原田、もし病院からの許可が出たらの話だが……。相手が俺でよければ、修学旅行の時と同じように好きなところに連れて行ってやるが、どうだ?」
「先生、いいんですか?」
「どうせ俺も独り身だ。その日の予定なんか最初から無い。生徒を元気にしてやるなら、担任冥利というもんだろう?」
原田には俺が独り身でいる理由をあえて説明する必要はないだろう。
去年まで、俺はこの日は外出もせず、テレビもつけず、息を潜めて時が過ぎるのをやり過ごしていた。
でも、もし隣にいるのが、この原田という不思議な魅力を持った少女であるなら……。
解っている。仮に絶対に関係を持つことが許されない相手だとしても、何か一つの転機になるかも知れない。
だから、本当にこの時の会話が俺たちの人生の1ページに繋がるとは思ってもいなかった。
翌日、いつもどおりの補習授業が終わった帰りがけに彼女は告げてきた。
「お薬の関係もあるので、6時間。お天気が良くて無理をしないという約束なら、外に出てもいいそうです」
「本当か?」
「はいっ!」
その時、満面の笑みで返事をしてきた原田を見て、誰が責めることが出来ただろうか。
天気予報も問題なさそうだ。
クリスマスイブの夕方、原田を八景島の水族館とイルミネーションに連れて行く。
これがこの年の俺のスケジュールに決まった。