天に昇る煙と赤い炎を背にし、私は走る。

「ああっ」

悪路に足を取られ、持っていた道具箱を落としてしまった。

転んだ私はすぐ起き上がり、必死で散らばった箱の中身をかき集める。

「ひとり娘が逃げたぞ!」

「逃がすな! 必ず捕らえろ!」

遠くから男たちの怒号が響き、私は弾かれるように立ち上がった。

片手で箱を持ち、片手で裙の裾をたくし上げて走り出す。

しかし、蹄の音が無情に近づいてきた。蹴られた大地の震動が伝わってくる。

もう終わりだ。

父も母も殺され、住まいは焼かれた。

叔父も弟も、縄で縛られてどこかに連れていかれた。きっと一族丸ごと、この世から抹殺される。

「なにか落ちているぞ!」

すぐ後ろで声がした。

道具のひとつを拾い忘れたのだろう。

竹藪の中、甲冑を着た影が近づいてくる。

拷問を受けて殺されるくらいなら、自分で一思いに……。

立ち止まり、髪にかろうじてぶら下がっていた簪を引き抜いた瞬間、がさりと音がしてひとりの男性が現れた。

上質の墨で書いたような、艶やかな髪。

装飾の多い甲冑を着ているので、身分の高い武人だとわかる。

まだ若いのだろう。滑らかな肌に浮かんだ黒真珠のような瞳がこちらを見つめている。

「……行け」

「えっ」

彼が呟いた。若々しい声だった。

背後を確認するように一瞬振り返り、彼は眉をつり上げてもう一度言った。

「行け。振り返って真っ直ぐ。どこまでも真っ直ぐ行け」

私は息を呑んだ。

彼は、私を逃がそうとしてくれている。

どうして彼がそうしてくれるのかはわからない。

けれど、この機会を逃したら私はみんなのように殺される。

書道具を抱きしめ、私は思い切って彼に背を向けた。

真っ直ぐ進め。

残った力を振り絞り、私は木靴で竹藪の中を駆けた。



時間をかけて磨った墨を、筆にじゅうぶん含ませる。

独特な香りを吸い込んだ私は、目の前の板に筆を降ろした。

筆先からすっと入り、縦線はまっすぐに、曲線は滑らかに、強弱をつけて。

最後のはらいは長く伸びすぎないように気をつける。少し跳ね上がり気味に仕上げると、周りから「おお」と声が上がった。

宇俊(うしゅん)といったか。おぬし、年のわりにしっかりした字を書くのう。まだ十八だったよなあ?」

しわくちゃ顔の太監が、感心したように自分の顎を撫でる。

「達人と言ってもいいくらいですね。一発で決めてしまった」

私の後ろから作品を覗き込むのは、晋耕(しんこう)。私の面倒をよくみてくれる、先輩宦官だ。

二か月前、私は宦官となり、この後宮に仕えることとなった。

後宮の主、つまり案旻(あんみん)国皇帝・黄紫釉(こうしゆう)の後宮が発足したのはつい半年前のこと。

先帝の突然の崩御後、太子であった紫釉が即位したのだ。

彼の治世はまだ始まったばかりで、世の中は落ち着かずに浮足立っている。

そんな世の中で宦官となった私の主な仕事は、書類の作成と物品管理。

試験のときに書いた文字がうまかったという理由で、八処の中の「殿」に配属された。

八つある処の上には、四つの司があり、宦官の組織はこの四司八処から成る。それぞれの部署の責任者が太監、太監の補佐をするのが少監。晋耕は少監にあたる。

今書いたのは、蔵書楼の前に立てる札。ただ「許可のない者立ち入るべからず」と書いただけ。

「こんな芸術的な立札は見たことありませんよ」

晋耕が糸のような目で笑い、墨が渇いた札をひょいと持ち上げる。

「札で褒められても」

私の目的は出世。宦官でも偉くなれば大きな権力を得ることができる。

「もっと大きな仕事がほしいなあ」

「大きなとは、例えば?」

主上(しゅじょう)の代筆、とか」

「それは思い切り大きく出ましたねえ」

声を出して笑った晋耕は片手で札を担ぎ、私の肩をぽんぽんと叩いた。

「そう焦らないことですよ」

太監と晋耕に続き、宦官たちが部屋を出ていく。

ひとりになった私は、残された書道具をじっと見つめた。

両親が幼い私に残してくれた書道具には、蝶の螺鈿細工が施されている。

幼い私は書に熱中して、鮮やかな色の裳や裙をたびたび墨で汚した。重くて邪魔な装飾品が大嫌いだった。

そう、私は女性として生まれ育った。

だけど今は事情があり、男装をして宦官のフリをしている。

男性が宦官になるには、去勢手術をしなくてはならない。

万が一にも、皇帝の所有物である妃嬪を孕ませたりしては一大事。代々受け継がれる皇帝の血が汚れてしまうから。

過酷な手術をし、宦官になるものにはそれなりの理由がある。刑罰で宦官にされる者もいる。

私もまた女性ではあるが、彼らと同じくらいのっぴきならない理由があって宦官のフリをすることにした。

宦官も私も、この世の人の中ではかなり異質である。

「ああ~。書写したい~。蔵書楼に入りたいな~」

早く出世したい。皇帝に気に入られたら蔵書楼の入楼許可が下りる。

書だけが生きがいの私、蔵書楼には何代も前の王朝から残っている資料を見たい。

亀甲に刻まれた文字を指でなぞりたい。木簡にぐるぐる巻きにされたい。

「いや違う。古代文字好きだけど、今は違う」

本来の目的を忘れかけ、私は書道具の蓋を閉じた。

数日後、蔵で書簡を整理しているところに、太監が頬を上気させてやってきた。

「た、大変だ宇俊」

「どうしたのです?」

「主上からおぬしに参内するよう、命が下った」

私は持っている書簡を落としそうになった。

体温が急激に上がっていくのを感じる。逆に頭は冷たく冴えわたる。

「書のお仕事ですか」

「そのようだ。立札の字を見て気に入られたそうで」

この前書いたばかりのあの立札か。

私は内心ほくそ笑む。

ここ二年の血のにじむような努力が報われたのだ。

書はもともと得意だったが、最近は人の心を掴む書の技を研究していた。開けても暮れても、戸板から床板、木の幹まで書けるところに字を書きまくった。

宦官になってからは自由に練習する時間が少なくなったものの、紙が使えるようになったので逆に鍛錬がはかどった。

「ええっ、あの立札が? いったいどのような御用なのでしょう。緊張しちゃうなあ」

驚くフリで返事をすると、蔵の入り口からプッと吹きだす音が聞こえた。

太監の向こう、蔵の入り口にもたれるように晋耕が立っている。