ふと。頭の中で、懐かしい声がした。
『雪。――俺は旅立たねばならなくなった。だから、この村に残って、幸せになるんだ』
(これは・・・、龍胆さまの声?)
固く絡み合った糸が解れる。
するすると記憶の糸が紐解かれる。


そうだ、わたしは。
あの人に恋をしていた。
髪が真っ白になった彼は、驚かせてしまうからと目をつぶってしまった。私の前からいなくなった。
出ていく直前、彼はわたしを村人に託して。
わたしが病に冒され、寝込んでいたから。
『ゆき、待ってる。龍胆ちゃんのお嫁さんになるんだから。だから絶対、用事が済んだら迎えに来てね』
そう言って、わたしは。
彼の唇に、泣きながら自分の唇を押し当てたのだ。
(・・・どうして忘れてしまってたんだろう)
あの人は約束を守ってくれていたのだ。
私は、わたしには。
名を呼べるひとが、いる。


「龍胆さまぁ・・・っ!!」
震える声で名前を呼ぶ。うまく呼べたかわからない。
でも。
「――っ!!?」
気がつけば雪を拘束していた腕は解かれていた。倒れ込むようにしてよろめく体を受け止めたのは、約束を守ってくれたひと。
律儀な、鬼さんだ。
おずおずと見上げれば、彼の唇は吐き出した血で真っ赤に汚れていた。
「ああっ!!」
雪は目を見開く。龍胆の胸にはぽっかりと空洞ができている。
「っ! ――はぁ、はぁ・・・!!!」
刀を杖のように地面に突き立て、片膝をついている。そんな状態でもなお、雪を抱きしめて離さない。
「・・・無事か」
落ち着いた声色で龍胆は問う。
顔は血だらけなのに。胸に穴を開けられているのに。
「っ」
雪はもう何も言えない。返事のかわりに抱きつく。深手をおった彼を護らねばならないのに、情けないほど両足はすくんで動けない。この腕の中はこの世で一番安全な気がした。
「また僕を殺しに来たのかい? 人殺しめ」
ぞっとする艶めいた声が響いた。餓鬼がゆらりと立ち上がっている。
龍胆は汚れた唇でふっと笑った。
「それはお互い様だろう。色狂いの殺人鬼」
「人殺し・・・? なんのこと?」
雪は交互に餓鬼と龍胆を見る。
「おや。話していなかったのかい? ――雪。その男は人斬りだ」
雪はひゅっと息を呑んだ。
「・・・え?」
時が、止まった気がした。
「もう何百人も殺してる。その中には女子供も含まれているだろう。幕臣に雇われ、政敵の粛清を行っていた、幕府の犬さ」
――何を言っているのか、わからない・・・。
雪は呆然とした。瞳から、光が失われていく。
まさか・・・。わたしの両親を殺したのは――・・・・・・!?
「まどわされないで。雪おねえちゃん」
あどけない声。雪ははっと我に返った。
菫が、這いつくばりながらこちらへ笑いかけていた。
「菫ちゃん!? どうしたのその傷は!!」
雪は化け猫の正体が菫とは知らない。慌てて、何度もつまずきながら駆け寄る。
膝に抱きかかえると、菫はすり・・・と頬を寄せてきた。
「りんどうさん、ぼくにはなしてくれたよ。むかしわるいことしてたって。それはいいわけしないって」
「――」
「でもね、ちかって、ゆきお姉ちゃんだけは泣かせたりしないよ?」
「う」
雪は口を抑えた。涙がぼろぼろとあふれる。菫の傷ついたほほを濡らす。
「そのとおりだ」
ふと、龍胆の声がした。
彼はぐぐっと、ゆっくり立ち上がる。体からはぼたぼた血が滴り落ちる。
雪に散った椿の花びらと、彼の血が合わさり、残酷なほど美しい。
「俺はかつて人殺しだった。今は人間の死体を喰うバケモノだ。――昔となにも変わってない。・・・変えられなかった」