つまり、三年前のある日、甘栄祐は止むにやまれぬ事情で宦官になった。しかし、内侍省に入省する前に息絶え、代わりに天佑が一人二役をすることになった。
(意味がわからないわ)
時期的に考えて、死因は宦官になるために男性器を切り落としたことによる感染症だろうか。
考え込む玲燕を見つめ、潤王は意味ありげに笑う。
「十分に諷示(ふうじ)してやった。天嶮学の汚名を晴らすことを目指すならば、あとは自分で考えろ」
潤王はすっくと立ち上がる。
「今宵も楽しかった。次に会うときは、事件を解決したときだといいな」
ひらひらと手を振って背を向けた潤王を、玲燕は呆然と見送る。
「十分に諷示してやった?」
一体どういうことだろう。
しんと静まりかえった部屋でひとり、考える。
はっきりとわかったことはひとつだけ。潤王はこの期に及んで、玲燕の技量を試そうとしているということだ。
(本当に、わからないことだらけ)
玲燕はため息を吐き、後宮に戻ろうと立ち上がる。
殿舎の戸を開けると、冷たい風が体を打つ。
「寒っ!」
潤王の居室は常に快適な状態に整えられているので、こんなに冷え込んでいるとは気づかなかった。
白い息を吐き、階段の下へ視線を移す。
階段の下に人影があった。その背格好に見覚えがあり、玲燕は目を凝らした。
「天佑様?」
そう言ってから、ハッとして口元を押さえる。
幞頭を被って袍服を来た姿は、甘栄祐として宦官のふりをしているときの格好だ。
「こんな寒い中、どうされたのですか?」
「そろそろ、玲燕が戻る頃だと思ったから」
椅子に腰を掛けて空を眺めていた天佑は、玲燕が来たことに気付くと柔らかく微笑んで立ち上がる。
「今宵は冷えますね」
「そうだな。寒の戻りで、明日の朝は井戸が薄く凍っているかもしれない」
「本当に」
「寒いからか、今日は星がよく見えた」
天祐は夜空を見上げる。
「待ちながら、星を見ていたのですか?」
「ああ」
玲燕も夜空を見上げた。
「天球には千五百六十五の星がございますから」
「千五百六十五? そんなにか」
感嘆したように、天佑は目を細める。
「天文図があれば、どこにどの星座があるかわかるのですが」
両親が健在な頃は実家に立派な天文図があった。極星を中心として、放射線状に二十四の宿が広がり、様々な星座が描かれたものだ。
「天文図なら、屋敷にあった気がするな。今度、持ってこよう」
「ありがとうございます」
墨を垂らしたような空に広がる満天の星は、かつて父から星座を学んだときと同じ輝きを放っている。
「今宵も囲碁を?」
「はい。でも、私が勝ちそうになったら陛下が碁石を全て床になぎ落としてしまったのです。とんでもない負けず嫌いです」
「ははっ」
天佑は肩を揺らして笑う。
その横顔を見ていたら、玲燕までなんだかおかしくなった。
菊花殿に戻ると、鈴々が寝ずに待っていてくれた。
「こんなに遅い時間なのに」
「そろそろ玲燕様が戻られると思ったので。予想通りでした」
鈴々は眠さを見せない笑顔で微笑む。その心遣いに気分がほっこりする。
「もう遅いですので、すぐにお休みください」
「うん、ありがとう」
玲燕は素直に頷き、寝台に横になる。灯籠の明かりで、部屋の中はぼんやりと照らされていた。
ふと、まっすぐに見上げた天井に走る梁が見えた。
「梁……。そういえば……」
死んだ菊妃は、寝台の上で事切れていたという。
(刀を引っかけた梁はあれかしら?)
先日書庫で見た、菊花殿で起きた菊妃自害事件。それは、天井に紐で引っかけた刀が寝台に落ちてきて、胸をひとつきしたというものだった。確かに、ちょうどいい場所に梁が一本走っている。
(亡くなった栄祐様はその事件に疑問を持ったって仰っていたかしら?)
その古びた梁を見つめていたら、玲燕の中にもむくむくと疑問が湧いた。
「そもそも、なんで梁に刀を引っかけるなんて面倒くさいことをしたのかしら?」
皇帝の寵愛がないことに悲観した妃。死にたかったら、自分で胸をひと突きすればいいだけなのに。
「玲燕様。お休みなら明かりを消しましょうか?」
寝台で仰向けになっている玲燕に気付き、鈴々が声をかけてきた。
「……ねえ、鈴々」
「はい」
「死にたいけど自分では胸をひと突きせずに、天井から刀を落とすってどういう心理状態かしら?」
「死にたいけど?」
突拍子もない質問に鈴々の目が大きく見開く。
「あ。もちろん、私のことじゃないわよ。ただ、そういう事件があったという文章を見たの」
「もしや、先代の菊妃様でございますか?」
「……事件のことを知っているの?」
「もちろんです。当時、大騒ぎになりましたから」
それはそうだろうな、と玲燕も思う。
後宮で妃のひとりが、胸をひと突きされて息絶えている。
考えただけでも、大混乱するのが容易に想像できた。
「発見した女官の証言では、発見当時菊妃様は既に虫の息で、『愛していると言ったのに、どうして──』と言って息絶えたそうです」
鈴々はその様子を想像したのか、沈痛な面持ちを浮かべる。
『愛していると言ったのに、どうして──』
愛していると言ったのに、どうしてわたくしを夜伽によんでくれないの? という菊妃の悲痛な叫びが聞こえてくる気がした。
「私はその菊妃様ではないので想像でしかありませんが……」
鈴々は視線を宙になげ、物憂げな表情で前置きする。
「自分で刺す勇気がなかった、というところでございましょうか」
「自分で刺す勇気がなかった……」
玲燕は口の中で鈴々の言った言葉を呟く。
たしかに紐を使った方法であれば、紐を持った手を離しさえすれば刀が落ちてくるので恐怖心は幾分か軽減されるかもしれない。
「でも、ここに来て奇妙に思いました。私はその事件の経緯を知っていたので、菊花殿はさぞかし天井が高い特殊な構造をしているのだと思っていたのです。この程度の場所から刀を落とし、胸に突き刺さるものなのでしょうか」
鈴々は天井を見上げ言葉を続ける。
その言葉を聞いた瞬間、ハッとした。
玲燕は天井の梁を見る。高さは一丈(約三・三メートル)程だろうか。
(確かに、低いわ)
物を落とした際に地面に加わる力は、落とした高さとその者の大きさに比例すると天嶮学で習ったことがある。こんな高さから小刀を落とし、胸に突き刺さるのだろうかという鈴々と同じ疑問を覚えた。更に、菊妃は服も着ていたはずだからその分力が分散されるし、まっすぐに突き刺さるとも限らないのに。
(刀が重かった?)
玲燕は、すぐに違うだろうと首を横にする。小刀が重いといっても、限度がある。
(じゃあ、なんで?)
そう考えて、ひとつの想像に至る。
(本当は、お父様が言うとおり他殺だった?)
もしそうだったら?
そして、死んだ栄祐がそのことに気付いて調べていたとしたら?
『十分に諷示してやった。あとは自分で考えろ』
先ほどの潤王の言葉がよみがえる。
(もしかして──)
心臓の音がうるさく鳴り響くのを感じた。
◇ ◇ ◇
眠気を感じて、ふあっとあくびを噛みつぶす。
鈴々が玲燕を見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「昨晩はあまり眠れませんでしたか?」
「うん、ちょっと……」
玲燕は言葉を濁す。
事実、昨晩は色んなことを考えて眠れなかった。けれど、バラバラになっていた部品が少しずつ組み上がってゆくような、確かな手応えを感じていた。
(推測が正しいかを確認するには、やっぱり桃妃様に直接お会いするしかないわね)
現在、桃妃は潤王暗殺事件の重要な容疑者であるとして桃林殿から出ることを許されていない。ならば、こちらから出向くまでだ。
「鈴々、出かけるわ」
「どちらに?」
「散歩よ」
玲燕の言葉を疑問に思うこともなく、鈴々は「かしこまりました」と頷く。
「じゃあ、行きましょう」
玲燕はまっすぐに桃林殿へ向かって歩き始める。目的の場所に近づくにつれて、何やら騒がしいことに気付いた。
「随分と騒がしいですね」
鈴々は喧噪の方向に目を凝らし、怪訝な顔をした。それは、ちょうど桃林殿の方角だった。
「本当ね。どうしたのかしら?」
玲燕も進行方向に目を凝らす。なぜか、胸騒ぎを感じた。
桃林殿の前には、たくさんの人々が集まっていた。女官に宦官、それに、厳つい姿の男達は武官だろうか。
「栄祐様!」
玲燕は見知った人の姿を見つけ、声をかける。
「玲燕か」
こちらを振り返った天佑の表情は、固く強ばっていた。
「何がありました?」
「桃妃付きの女官のひとりが、死んだ」
天佑は強ばった表情のまま、答える。
「桃妃様付きの女官が?」
玲燕は現場を見ようと、人混みをかき分けて前に出た。
目の前に、庭園が広がる。庭園にはたくさんの木が生えていた。桃の木のようで、ピンク色の蕾がたくさん付いている。
その木の下には、真っ青な顔をした女官達がいた。周りを取り囲む宦官や衛士達に状況を説明している。
「だから何度も言うとおり、水を飲んだら突然苦しみだしたのです。今朝のことです」
女官が涙ながらにそう言っているのが聞こえた。
(水を飲んだら苦しみだした? 毒ってこと?)
「その水は、どこの水です?」
玲燕は思わず、横から口を挟む。
「なんだ、お前は?」
衛士のひとりが怪訝な顔をして追い払おうとしてきたが、宦官姿の天佑が「このお方は菊妃様だ」と言うと黙る。
「井戸の水です。そこの」
女官が庭園の一角を指さす。そこには、彼女の言うとおり井戸があった。
「他にこの井戸の水を飲んだ方は?」
「今朝はいません」
「昨日はいた?」
「はい。昨晩は多くの者が飲んでおりました。昨日、輪軸が新しくなったので水を汲み上げるのが楽になったと皆で話しながら飲みました。私もその場にいました」
女官がこくこくと頷く。
「となると、昨晩、桃林殿の者達が寝静まったあとに何者かによって毒が混入されたということか?」
横で一緒に話を聞いていた天佑が唸る。
「昨晩、不審者は?」
天佑は衛士に問う。
「誰もおりませんでした」